第10話 癒えない傷
彼からすれば私は大切な弟子を
気付いてしまった瞬間から感情が急速に醒めていく。説明するのも言い訳するのも、何もかもが面倒になる。
「何も。ただ帰りたいだけ」
自分でもわかるほど声が無機質だ。
「それだけか?」
アレクセイの言葉がささくれる心に容赦なく突き刺さる。
「他に何があるの?」
もう話したくない。顔を思い切り背けた。
「弟子の不始末の責任は俺も取る。だがあいつを傷つけることは許さない」
「そっちが勝手に呼び出しておいて随分な理屈よね」
理不尽とも思える言い分に睨むように見上げた。けれどアレクセイは顔色一つ変えない。
「ハル君を傷つけたり裏切ったりはしない」
「言葉だけで信用しろと?」
アレクセイは不信の籠った瞳で見下ろしている。
その視線に張りつめていた何かが切れた。
「そんなに信用できないなら、今貴方が責任を取って処分してよ!」
信用されないなら、召喚獣として知らない誰かに処分されるくらいなら、ここで死んだほうがいい。リアニークス召喚の事実がばれていない今ならハル君は罰せられない。
アレクセイは一歩下がると何かを素早く呟く。彼の掌に光が収束していき、それは熱を帯びて徐々に大きくなっていく。
ここで終わりか。
その光を見ていたら頭の中が真っ白になり、何故かハル君の顔が浮かんできた。
短い間だったけど今まで見た色々な表情が浮かんできた。笑った顔や泣いた顔、困った顔――まぁ、ほとんど困ったような顔だったけれど。
元の世界に帰すって約束してくれたのに、ごめんね。
真剣な瞳を思い出し、目頭が熱くなった。
「ハル君には無事に帰れたって言っておいてよ」
アレクセイの動きが一瞬止まった。
ハル君は間違って召喚してしまったことに責任を感じている。もし私がアレクセイに処分されたと知ったら、少なくとも傷付くと思う。
そう、自分のせいで誰かが死ねば――。
『お前のせいだよ』
耳元で低い声が囁く。涙で視界がぼやけ歪むアレクセイの姿が『兄』になった。身長も髪の色も全然違うのに、現れた兄は高校生の、あの日の姿のままだった。兄の顔は影が差し込んでいるように真っ黒で表情はわからない。
『夏樹』
でも私の名を呼ぶその声に愛しさや優しさはない。あるのは憎しみと恨みだけだ。
『お前のせいで死んだ』
両手で耳を塞ぐ。けれど声はより鮮明に聞こえてくる。まるで私の体の中から話かけてくるみたいに。
『お前がワガママを言わなければ死ななかった!』
怒号のような声が心を深く抉る。
「ご――ごめんなさい! 私が、私のせいで」
どんなに言葉を重ねても兄は帰ってこない。そんなことはわかっている。でも私にできるのは謝ることだけだ。
『お前が代わりに死ねばよかったのに!』
目の前の『兄』が大きくなった光の玉を勢いよく掲げた。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
今まで何百回、何千回と繰り返した言葉を叫びながら、固く目をつぶった。
いつまで経っても衝撃や痛みを感じない。恐る恐る目を開けると兄の姿はなく、雰囲気を一変させた、呆れ顔のアレクセイがいた。
「何をしている?」
その声は確かにアレクセイのものだった。
「な、何って――」
私の視線が光の玉に向くとアレクセイはわざとらしく「あぁ、これか」と呟き、壁に掛けてあったランプの中にそれを入れた。
薄暗くなっていた部屋が急に明るくなる。アレクセイは呆然としている私の顔を見て「間抜け面」と口の端をつり上げた。
さっきのは、何だったのだろう?
思い切ってアレクセイに尋ねてみた。
「あの、私、変なこと言ってなかった?」
「――何も」
少しの間の後、アレクセイは表情を変えずに素っ気なく答えた。
この前はこの素っ気なさに苛立っていたけれど、今は何故かほっとした。
「ナツキ」
初めて呼ばれた名前に驚く私を見て彼はふと表情を緩めた。さっきまで容赦なく突き刺さっていた同じ声が、ささくれている心を今度は優しく撫でていく。
「とりあえず信用してやろう」
試されたと気付いたけど、こういう時でも上からの物言いが何だかアレクセイらしくて、安心と喜びと腹立ちの入り交ざった複雑な心境になった。だから口を突いてでた言葉は「ありがとう」でも「嬉しい」でもなく「最低」だった。
「こんなことの為にわざわざ来たの」
「それほど暇じゃない。これはついでだ」
「隠居生活ですることがない癖に?」
「お前な――」
そこでアレクセイの視線が横に逸れた。つられて顔を向けるといつの間にかこの部屋の主が立っていた。
ハル君の表情は暗く沈んでいる。ついアレクセイと顔を見合わせた。
「召喚試合を申し込まれました」
ハル君はまるで死刑宣告を告げるように呟いた。
「いつだ」
召喚試合というものが何だかわからないけれど、アレクセイの真剣な声音に緊張感を覚えた。
そして、やっぱり嫌な予感がしていた。
「明日です」
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