Prg-a Page.01

 夜空。

 星のない夜空。

 意を決して外に飛び出して、初めて目にしたのは、いつもガラス越しに見ていたそんな空だった。明るくなっても、太陽が昇ることもない。それはあくまでも、地上に抜けた穴の導き入れる太陽の光だ。反射と増幅を繰り返していくたびに、どんどん紛い物になっていく。まるで、遺伝子を組み替えられてしまった家畜餌かちくえさのような光と、自らを卑下ひげしながらそこに住む者は言う。

 しかし彼女はそうは思わない。それは、いつか届くと言われているのだと思っている。

 天界から下げられた蜘蛛くもの糸。

 いつか必ず登ってその先に行く、と決めていて、そしてそれは、今日登らなければならないという意思を作り出した。

「…ごめんなさい」

 非常口を抜け出して、音が出ないように扉を閉める。そっとドアノブを元の位置に戻してからそう告げると、それ以降裸足は危険と判断して、施設に入っているショップで購入し部屋に隠し持っていたシューズを履く。行く先を見据えたときに、反射的に視線が上を向いた。大丈夫。そう思えると同時に、夜空が目に入った。

 ふう、と一息吐いて、何かを振り切るように走り出す彼女。背中のバッグが、上下する動作に振られて跳ねたのも、自分の背中を押しているように思われてならなかった。

 すぐに息が上がり始めるが、一番近くのルートは知っている。

 いつも絵画のように眺めていた風景の中を自分が走っているのだと思うと、まるでアニメかマンガの主人公にでもなったかのような気分だった。

 不思議。

 と、思考する。

 不安だらけだった心と頭が、自然と、なんの根拠も自信もない希望に少しずつ塗り替えられていく気がする。

 どこにも出かけることなどないのに、誰か普段会わないような人物に会うわけでもないのに、仲の良い看護師が見繕ってくれた新しい洋服を着て鏡の前に立ったときは、楽しかった。それを身に纏って何処かに出かけるいつかを思うたびに切ないまでの絶望と、何か温かいものがこみ上げてきた。それに似ている気がした。

 希望?ではないかもしれない。

 絶望?かもしれない。

 不安?配れる位ある。

 自信?欠片もない。

 そこは、ひどく住みにくいのかもしれない。入った途端に帰りたくなるのかもしれない。けれどそれでも、行かずして諦めるのだけは、自分で自分が絶対に許せなかった。

 死んでも死にきれないって、こういうことなのかな。

 そう独り言をつぶやいた次の夜空が広がったそのときに、彼女は走り出すことを決めてしまった。

 そんなことをフラッシュバックのように思い出しながら、息もからがらにその入り口にたどり着く。

 ここから先は公式にレールの走っているルートを使って、身分確認の必要なゲートはスルー。崩壊の恐れがある古いルートの話を、同じ施設に住んでいる人から聞いていた。しかし実際そこは、補修され、安全に活用することができているのだという。

 なぜ公式に管理されていないのかといえば、それにはこの街の行く末を左右するだろう、人々の意向があってのことだという。政治っていうのはそういうことらしいよ、とその人は冗談めかしていた。

 それは信用に足るかどうか、わからない情報ではあった。しかしそれも蜘蛛の糸のうちの一本。溺れる者は、わらをも掴むのだ。

 事件現場を警察が封鎖するようなテープで、出入り口を閉鎖した気になっている、まるで地下鉄の入り口のような少し古ぼけた建物がその入り口だ。夜空の下でまともな明かりもない、深淵しんえんの闇のようだったが、彼女には光が見えそうだった。

 四重五重に貼られたテープをくぐって、その奥に進み始める。

 少し下って奥に進む。なぜか、奥に行けば少し明かりが戻っていた。ランタンの形を模した電気スタンドが、付けっ放しで置かれている。やはり、ここを利用する人は一定数いるらしい。

 階段を4回ほど折り返した深さのところだろうか。下りきったあたりから見るに左手奥、別の色の明かりがあるのが見て取れた。ぼんやり白い。それはすぐ隣の公式のルートに出られるということを指していた。これで身分確認はクリア。入る方は厳重極まりないらしいが、出る方は若干緩い、というのは、どうやら本当らしかった。

 入ってきた縦穴は、そのままレールを走るメトロにつながるホームになっていた。しかし、今やこのホームに車両は止まらない。

 彼女はレールに降りて、隣の現在も稼働しているホームまで走る。人のいないあたりを見計らってこっそりレールからホームに登る。あとは、知らんふりして次に来る列車に乗れば、事の半分をクリアしたようなものだ。

 夜空と、鏡が届ける屈折した光の先の世界は、すぐそこに迫っていた。

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