215豚 ――不敗神話の崩壊⑩
焔剣の重さがやけにずっしりと感じられた。
遠くには太陽が顔を僅かに出している、朝の到来だ。けれど闇の大精霊さんの背後に見える太陽に彼女は気付いていないだろうな、あんなに綺麗なのに少しだけ勿体なく感じてしまう。
まだまだ怖い顔をしているけれど、もう攻撃される心配はしなくてよさそうだ。
ただ帝国に、ひいては北方に関与しない。
それこそが闇の大精霊さんの懸念事項なのだから、後は彼女が俺の言葉を信じるか否かだけど。
「はぁ……
太陽に照らされて彼女の頬が僅かに照らされる。
よく見れば黒絹のような長い髪も随分と汚れていた。
「アンタあの化け猫のこと。ほんとは何の当てもしてないでしょ」
「……よく分かったね」
「分かるわよ。この場に
俺の中で風の大精霊さんはシャーロットの保護者。
それ以上でも、それ以下でもない。
でも信頼はしている、あいつは何があってもシャーロットを守る。もし俺がシャーロットの命を脅かす存在になれば、あいつは迷い無く俺を殺しにくるだろう。
俺でさえ躊躇無く捨て去る気まぐれさ、これ以上信頼出来る相方は他にいない。
「あんな規格外の力が傍にあれば、つい頼りたくなるのが人間としての本能なのよ。ドストル帝国がアタシの力に、騎士国家ダリスが光の大精霊に、水霊都市サーキスタが水の大精霊に縋るように」
それに世界を平和にしようと決めたのは俺の勝手だ、未来を知った俺の事情に風の大精霊さんは一切関係がない。あいつはシャーロットの傍でごろごろにゃああんしてるのが一番似合ってるんだ。
「アンタと
そんなよく分からないことを言って、闇の大精霊さんは大きな大きな息を吐き出した。
一つの納得出来る答えを自分の中で得たようだった。
「アタシの周りにはそんな奴いままでいなかったし、作る気にならなかった。でもちょっと気が変わりそう。
「やっぱり闇の大精霊さんはアルトアンジュのことが嫌いなんだね」
「ええ、大嫌いよ。でも風の大精霊だけじゃないわ。火の大精霊だって、水の大精霊だって大嫌い。まぁ一番嫌いなのは光の大精霊だけど。同族を嫌うアタシの気持ち、ずっと風の大精霊の傍にいたアンタなら分かると思うけど。あの化け猫、あれだけの力がありながら自分では何もしなかったでしょう? ふざけんなって思ったことない?」
「ノーコメントってことで」
「でもそう考えると可笑しいわね。アンタと風の大精霊はずっとダリスにいた。光の大精霊がどうしてちょっかいを掛けてこなかったのかしら。あら、何よその顔は」
「意外だった、闇の大精霊さんは結構なお喋りなんだね」
「……理解出来てないのね。この次元で対等にお喋り出来る人間がどれだけ珍しいのか。アンタは風の大精霊、火の大精霊、そしてアタシ。六大精霊の半分と繋がりを持っている、そんな人間。今この世界にアンタだけなのよ」
「そうか、だから君はそんなに楽しそうな顔をしてるのか」
その瞬間、張り付いた空気が霧散する。
憑き物が取れたかのような、無防備な子供のような、きょとんとした顔。
「アタシ。楽しそうな顔してた?」
「してたよ、喋るのが楽しくてしょうがないって感じの。だから正直戸惑った」
「戸惑う? 何で?」
「君は帝国の親玉だ。そんな君にそんな顔をされると正直やり辛い……。悪の親玉ってのはいつだって悪らしくあってくれって思う俺の気持ち、分からないことはないだろ?」
「……随分と勝手なことを言うのね。それに何でアタシが悪なのよ」
彼女は大精霊となった瞬間から歳を取らなくなった、外見は実際よりも幼く見えるアリシアよりもずっと子供だ。
精神というものは外見に引きずられるのだろうか。思わずそんなことを考えてしまうぐらいにアニメの中で闇の大精霊さんが行ったことは子供じみていた。
「はぁ……アタシも考えを整理したいし。色んなことがありすぎた。幸いなことに、アンタはバカじゃない。夢で見たことを悪用する気はなさそうだし……今回は見逃してあげるわ。これ以上のお喋りは、アタシらしくない。行きなさい」
こうして、実際に彼女と対話して俺は理解した。
――きっと苛立ちが限界を超えたんだろう、思い通りにならない現実を前にして、大陸南方という目の上のたんこぶをいっそのこと壊してしまおうと思うぐらい。
それにしても本当に驚いたな。
今の彼女はあの闇の大精霊とは思えない、随分と晴れやかな顔をしている。
朝の光に感謝しとこう。
それはきっと、夜の闇の中では分からなかったであろう些細な変化だから。
俺は背を向けて、彼女の言う通り歩き出す。
ダリスに戻ろう。
まずはアリシアとシューヤの元に。
その後はシャーロットと風の大精霊さんの所に。
そこからは――その時、考えればいいさ。
「でも、これだけは言っておくわよ」
俺は止まらない。
もう、止まる必要なんて感じられない。
「アタシが夢を見ていれば、アンタの百倍はうまくやれていた」
大層な自信だけどごもっとも。
俺はたった一人、シャーロットを守ることで精一杯。とてもじゃないが北方を背負っている闇の大精霊さんには勝ち目が無い。背負ってるものが違いすぎる。闇の大精霊さんが未来を知れば、もっと俺よりも上手くやれただろう。
でも、ごめんね。
未来を見たのはこの俺で、今の俺にはこれが限界なんだ。
「それにアンタはレディへのエスコートがなってないわ。あんな無粋な呼び掛け、最低の最低よ。送り主の品位が知れるってもの。マナーを一から教えてあげる必要があるわ。だから今度はアタシが教えてあげる」
そんな恐ろしい呟きが風に乗って聞こえてきて。
「
悪魔の囁きに、身が震えた。
● ● ●
大陸の上半分を支配する、巨大な帝国を築き上げた少女はただその後ろ姿をずっと見つめていた。
あっさりと、この内面に渦巻く欲望を消してみせた少年の背中を。
もう一度、頭の中で彼の言葉を反芻する。
そして気づいた。
――俺たちとは一体、どこまでを指すのだろうか、と。
こうして「シューヤ・マリオネット」の全てを知った少年の戦いは終わった。
戦争の起こらない未来、そんな少年の願いは確かに果たされたのだから。
浮かび上がる太陽の下。
巨大な剣を携えて、一人の少年がモンスターの行進に向かいゆく。
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