3
「ただいま」
俺は自分の部屋の扉を開けて、そう言った。
「……やっちまった」
俺の帰宅の言葉に対する返事はなかった。俺は少し嫌な気分になりながらも扉を閉めて靴を脱ぐと、すぐさまリビングに向かおうとした。
その時だった。
「ん?」
ふと、俺は床に置かれているある物に目がついた。それを拾い上げてみると、どうやらそれはビニールに包まれた、何かのパンフレットのようだった。
「なんだこれ……不見蛇羅教?」
ビニールの上から透けて見えるパンフレットの表紙に仰々しく「不見蛇羅教」の文字が印刷されてあった。よくよく見てみるとそれはどうやら不見蛇羅教という新興宗教勧誘のためのパンフレットらしい。
ちなみに不見陀羅教といったら今や知らない人はいないと思われる程に有名な宗教だ。例の予言者の事件以降に有名になり、今や誰もが知る宗教となっている。一体何をどうしているのかは知らないが、そういったことに関心がない俺でさえこんな風に名前は知っているのだから、余程大きな宗教なのだろう。だからわざわざこうやって勧誘する必要はないと思うのに、何で勧誘のパンフレットがこんな学生寮の一室まで来ているのだろうか。
「まったく、迷惑だな」
俺はパンフレットのビニールも破かずに廊下のゴミ箱に放り投げる。パンフレットは綺麗な放物線を描き、ゴミ箱の中に吸い込まれるように入った。
「よし、成功成功」
満足げにそう言ってリビングに向かう。ああいうのって、成功するとスカッとするよな。
そして俺は廊下からリビングへの扉を開いた。
すると、俺の視界の中にとんでもないものが映った。
「あ、帰ってきたんだね。お帰りなさい」
予言者(仮)が、いた。
具体的にはエプロンを着て左手にフライパンを持った予言者(仮)が俺のリビングの真ん中を陣取っている円形のガラステーブルの上に並べられたお皿に何やら丸々とした黒いナニかを盛り付けている姿が
「駄目だ! これは駄目だ! 俺の頭が処理落ちする!」
「え?どうしたの?」
どうしたのじゃねえよ。
「何で何故(なぜ)何故(なにゆえ)ここにいるんだよお前はっ!」
「?」
……可愛く首を傾げられてしまった。いや、不思議なのはこっちの方だよバカヤロウ。
「私の名前は『お前』じゃないよ?」
「違う! 俺が問題にしているのはそこじゃない!」
「私の名前はミコトっていうんだよ」
「だからそこは聞いていないんだって!」
「あ、もしかしてお腹空いた? もうお昼だもんね。今クッキー焼いたからお皿に乗せ終わるまで待ってね」
「ヒトの話を聞けよ! ……って、クッキィ⁉ その真っ黒いナニかがか⁉」
「クッキーだよ? 知らないの?」
「知ってるよ! 知ってるから理解できないんだよ!」
俺が知識として知っているクッキーはそんな真っ黒い暗黒物質じゃない!
「第一、何でそんな丸コゲなんだよ! 焼き過ぎだろ! 原型を留めていない!」
俺は更に盛り付けてある(盛り付けてあるという表現に聊か疑問を感じるが)黒い物質に指を指してそう言った。皿に乗せられてあるものは最早クッキーというより炭に近かった。原型を留めておらず、ばらばらに砕けてもう粉と言っても差し支えがないほど細かくなっていた。
しかし、この暗黒物質を練成した当の本人ミコトは特に気にする様もない。
「当たらないようにちゃんと中まで火を通したんだよ?」
「生の小麦粉食って腹下す奴はそうそういないぜ⁉」
第一火を通すにも加減があるだろ。加減が。
「だって、クッキーは『焼く』って言うから……」
「フライパンで焼くなよ!オーブンで焼けよ!」
誰も「(フライパンで)クッキーを焼く」って言わねえよ!
「……」
と、そこまで俺が言ったところでミコトは俯いて何も言わなくなってしまった。……え? なに? この気まずい空気。コレって俺が悪いの?
「……もしかして、私、間違ってたの…?」
ぽつりと、ミコトはそう呟いた。
……今そこに気付いたのか。
まったく、予言者なんてものは、未来は視えてもクッキーの製造方法までは視えないみたいだな。呆れたものだ。俺は、テーブルから少し離れたキッチンの端にある四角い箱に指を指した。
「……いいか、クッキーというものはオーブンで焼くんだ。ほら、そこにあるだろう? あれだよ。あの四角い箱。あの中に形を整えた小麦粉とか、卵とかを混ぜたものを入れて焼くんだよ。俺はあんまりこう言った菓子類が好きじゃないから、ちゃんとした作り方とか焼き方とかは知らないけど、少なくともお前よりかは知っている筈だ」
そう、少なくとも、俺はクッキーをそんな真っ黒い物質にはしない。
「え?」
「だからさ。今度からクッキーを焼く時は、ちゃんと俺の言うことを聞いて、あのオーブンを使えということだ」
できれば、もう二度と作ってはほしくないのだけれど、まあ、仕方が無い。
「……いいの?」
「良いも悪いもないさ。そんな変なクッキーもどきを作られるよりかは、質問されて、手を借りられて、美味しいクッキーを一緒に作らされて、美味しく頂かされる方が、百倍マシだ」
俺は溜息をついてそう言った。
「……!」
すると、ミコトは突然顔を上げた。目が瞬く星の様に輝いている。いや、輝いてしまった。失策った。俺は先程言った言葉を訂正しようかと思った。
だって、あの言い方じゃ、あの言い方では、あの言い方をしてしまうと、まるで、俺がミコトをまた自分の部屋に来るように誘っているように聞こえるじゃないか。
「俺って、つくづくブレないというか、なんというか……馬鹿だよなあ」
とりあえず自分が寂しい男だということははっきりとわかった。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない。ところで、すっかりクッキーの話の所為で有耶無耶になってしまった話をしよう。お前は何でまた俺の部屋にいるんだ?」
「え? 私の名前はお前じゃくてミコ……」
「ミ・コ・トさん! 何故貴女様は私の部屋にまた性懲りもなくいらっしゃったのですか⁉」
いちいち面倒臭いなお前!
「……どうしても、」
ミコトはまた俯いて、とても言いにくそうに、呟くように、言った。
「……どうしても、駄目、かな
」
「……その件については、きちんと断った筈だ」
丁重に、あくまでも丁重に、断った筈だ。
「どうしても、どうしても、駄目かな?」
「どうしても、どうしても、駄目だな」
世界を滅ぼせ、なんて、俺には荷が重すぎる。
「第一にさ。何で俺じゃないと駄目なんだ? 俺みたいな奴程度だったら、他に幾らでも替えはいるだろう?」
「君じゃないと駄目なの! 世界は、君じゃないと滅ぼせない……」
「よくそこまで決め付けられるな……」
ナニ? 俺の中には不思議なパワーでも隠されているのか? こう、命の危機を味わう度に強くなっていく戦闘民族的なナニかが。
と、そこまで考えたところで、ミコトはゆっくりと顔を上げた。
そして、俺と目が合う。
「……じゃあ、ここにいる」
「……は?」
「じゃあ、世界を滅ぼすと約束してくれるまで私、ここに居るね!」
「はああ⁉」
「だって、言ってくれたよね! 一緒にクッキーを作ってくれるって! そこのオーブンを使って!」
「……え、そんなこと言ったけな」
実を言うと俺は十分も記憶が保たない病に侵されているのである。そう、先程そんな病に犯されたに違いない。変だな、もう何も覚えていない。ここは何処で私は誰であろう。さっぱりわからんな。
「誤魔化しても無駄だよ。これは約束だからね!」
「約束したつもりはないぞ⁉ きちんとオーブンを使って焼けと言っただけだ!」
「……ほら、ちゃんと覚えてる」
「……あ」
もしかして俺、今揚げ足を取られた?
「というわけでよろしくねっ」
「……くそう」
嵌められた。まあ、殆ど自分が原因ではあるのだが。
「……仕方ない。あと三十何日の辛抱だ。きちんとクッキーが作れるようになるまで、面倒をみてやる」
俺がそう言うと、ミコトは嬉しそうに笑って、ありがとうと頭を下げた。悪い気分ではない。俺はそう思った。
というかさ、俺ってつくづくブレないというか、なんというか……馬鹿だよなあ、本当に。
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