老人

 陽が西に傾き、赤い光がオデッサの街並みに影を長く伸ばしたころ、ドーニスは徒歩で自宅に着いた。

 マンション前の道で、子供たちがチョークで道に円を描き陣取り合戦をして遊んでいた。

 この前のように老人が煙管を手に持ち、階段横の壁に背をもたれて座り、門から入ってくるドーニスを見た。

 老人のそばにいた猫たちがドーニスの姿を見るなり駆けてきた。

 にゃあにゃあと鳴いてドーニスの脚にじゃれつきながら、歩くドーニスを追いかける。


「ははは。相変わらず、旦那は猫たちに好かれてるねえ」


 老人は近づいてくるドーニスに笑いかける。

 まとわりついてくる猫を蹴とばそうとしたドーニスに老人は声をかけた。


「無理はおやめんなさい。後で、心を痛めんのは猫じゃなくていつも旦那の方だ」


 歩みを止めてドーニスが老人を見ると、老人は煙管をもったまま自分の顔をまっすぐに見つめ返していた。


「わかってるよ。旦那はやさしいお人だ。猫もだから、旦那さんに懐くのさ。旦那は認めたくないみたいだがねえ」


「……俺のなにが分かる」


 ドーニスは低い声で言った。老人は皺の中で微笑んだ。


「何年、ここで一緒に暮らしてると思ってんだい。……てえしたお人なのに、こんなとこに一人で住んで、自分で飯まで作りなさる。囲うような女も持ってらっしゃらない。隣の女の誘いを断る。……着てる服だって少ないもんだ。清貧、禁欲生活を絵で描いたようなお人だ。隣のテス教徒ってのは、旦那みたいなやつらじゃねえのかい」


「言葉に気を付けろ。テス教徒なんて言葉を吐くな。……俺は、南部人だぞ。ここが、オデッサだからいいものの、南部だったら老人といえども袋叩きだ」


 足元に座る老人を見下ろし、ドーニスは鋭く言った。


「……旦那はそんなことしねえよ」


 老人は夕日を背に立つドーニスの顔をまぶしそうに見上げた。


「旦那は、かわいそうなお人だ」


 胸が粟立ち、激しい感情のまま、ドーニスは老人の顔の真横の壁を勢いよく蹴った。

 老人は怯える様子もなく、煙管を口に運んで煙をゆっくりと吸った。


「……逃げないのか」


 壁に足を置いたまま、ドーニスは老人に言った。


「ほら。旦那は優しいお人だ。実際、手を出しやしねえのさ」


 煙を吐きながら、老人は答えて小さく笑った。

 老人の濁りかけて青く変化しはじめた瞳が、ドーニスを静かに見つめた。


「旦那はかわいそうな星の下に生まれなすったね。そういうやつがこの世には何人かいるのさ。すべては神のおぼしめしだろうけど、気の毒なこった。生まれた本人には、まったく罪がねえってのに」


 老人は続けた。


「旦那みたいなやつは、逃げようとしないのさ。あえて、その中に飛び込むんだよ。避ける選択だってできるのに。わしにはさっぱりわからんがね。旦那みたいなやつはそれをしない。哀れなお人だ」


 ドーニスは壁から足を離すと、身を翻して階段を駆け上がった。

 階段下で、猫たちがにゃあにゃあと鳴く声が聞こえた。


 いつものとおり、待ち構えていた隣人中年女のわきを素早く通り過ぎると、ドーニスは自分の部屋へと飛び込む。

 そのまま、洗面所へ直行した。

 蛇口をひねり、ほとばしる水に顔を音を立てて洗う。

 見上げた鏡の先にターバンをつけたままの男の顔が映った。

 ドーニスはターバンを力任せに頭から外すと床へ投げつけた。


 父も母も西部人だ。


 ターバンから目を外し再び鏡を見やると、南部の特徴を備えた褐色の男が自分を見つめ返していた。


 母の最初の嫁ぎ先は、西部の家だった。


 一夜妻、という風習がある。

 適齢期を過ぎて婚期を逃した母を、母の父は自分よりも年上の男の家に嫁にやった。

 男としての役割をすでに終えていた夫は、古い因習を昔ながらに行っていた男だった。

 手に入れた一番若い嫁である母にその役目を与えた。

 家に来る客人の相手を強制させられた母は、そのうちに子を宿した。

 生まれた赤子は、生まれながらに褐色の肌をしていた。

 南部人の客が父親であることは歴然だった。


 外聞の悪さから、夫は褐色の子供を産んだ母をあっさりと手離し、南部の家に嫁がせた。

 二度目の嫁ぎ先の家は、裕福な家でまだ良かったものの、第八夫人である母の立場は使用人同然だった。

 母と二人で身を寄せ合うようにして南部で生きてきた。

 血のつながらない子供だった自分が、虐待もされず、学校に通うことができたのは不思議だった。

 が、それは実の父親の存在が関係していたのだと、後に知ることとなった。


 鏡の端のヒビに視線を移す。

 あの時の感情が蘇る。


 ――彼(・)に、憧れていた。

 彼(・)のような男になりたかった。


 いや、この国が、|彼の国(ゼルダ)のようであったなら……!――



 ドーニスは額を鏡に当てて、目を閉じた。

 激しい感情を抑えようと息を吐く。


 閣下のことを敬愛している。

 あれほどの存在に仕えることができた幸運と、閣下のこの国への深い愛情をそばで感じることができる奇跡に、神に感謝している。

 あの方に仕えることができるならばと自分はここに来た。


 だが、閣下が|自分を選んだ(・・・・・・)のは、自分が|南部の人間(・・・・・)だからだ。

 自分の能力を買ったわけではない。


 ゆっくりとドーニスは目を開け、鏡から額を離した。

 どこからどうみても、生粋の南部人の男の姿。


 それでもいい。

 自分に課せられた役目を果たすだけだ。


 南部の民の鬱憤のはけ口。怒りを抑える楔となろう。

 閣下に言われずとも、自分の役割は理解している。

 したがって、ゼルダの終戦記念パーティーに自分は出席せず、グレートルイスの国事にも自分は参加しない。

 それは、この自分にしかできないことだからだ。

 閣下の役に立つのならば構わない。


『……悪い下僕は、主人の命令に従う。普通の下僕は、主人が命令する前に働く……』


 外からマンション前の道で遊ぶ子供たちのわらべ歌が聞こえてきた。


『良い下僕は、主人が望む前に仕事を終えている』


 ドーニスは再び目を閉じて、その歌に聞き入った。



















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