キエスタ ケダン地方

第45話 授業

 ケダン教会の中の一室には長方形をした六つの机といくつかの椅子が並べられていた。

 かなり昔にここにいた修道士の手作りの作品だと思われる。

 傷んでいた部位は先日、キャンデロロ修道士が修理してくれた。

 いま、その椅子に足をぶらぶらさせながら座っているのは、ナシェ、アキド、二人の兄弟、女の子二人の六人の子供たちだった。

 子供たちの前にはローブを着てこの地方の帽子をかぶったヴィンセントが椅子に座って本を読んでいた。

 ナシェはむずがゆいような恥ずかしいような気持にどきどきして、落ち着かなかった。


 はやく始まらないかな。

 先生、うまくできるかな。

 みんな、先生のことどう思うのかな。


 自分以外の子供らに目を配ると、女の子二人は自分たちの会話に花を咲かせ、兄弟二人は軽く小突きあっており、隣に座っているアキドに関してはもう頬杖をついてこっくりこっくり舟を漕いでいた。


 自分ではなく、パウル修道士がつく教会の鐘が鳴った。


 アキドがはっとして目覚め目をこする。


「時間ですね。始めましょう」


 ヴィンセントが言い、椅子から立ち上がった。

 彼の大きさにびっくりし、女の子が感嘆の声をもらし、兄弟二人が、わあ、たっけえ、と声を出した。


「こんにちは。初日に、こんなに皆さんに来てもらえるとは思いませんでした」


 ヴィンセントは微笑んで子供たちの顔を眺め渡す。

 彼が身に着けているこの地方の帽子は良く似合っていた。

 彼がかぶると、この地方の帽子ではなくてどこか別の国の帽子のように見える。


「私はヴィンセント=エバンズです。よろしく」


 彼は軽く頭を下げてから、一番前の席に座っているアキドに目をやった。


「皆さんにも自己紹介をお願いします。……ではアキド君から」

「うえっ!」


 いきなり名指しされてアキドは面くらった。

 しぶしぶ立ち上がり彼は名前を告げる。


「ナフマーンの息子、アキドです。よろしくお願いします」

「……アキド」


 その時ヴィンセントが言った言葉に違和感を感じて、アキドを見ていたナシェはヴィンセントに視線を戻した。


「キエスタ東部のアキドという名前は、こう呼びます。……アキド」


 微妙にイントネーションが違う名前の響きに、女の子たちがくすっと笑った。


「キエスタ南部では、こう呼びます。……アキド」


 ナシェを含めて子供たち全員が声を出して笑った。


「変なの。別の名前みたい」


 兄弟のうちの下の男の子が前歯の抜けた顔で笑って言った。


「では、君の名前は? 何というのですか」


 ヴィンセントが彼に尋ねる。


「僕? アリの息子、カリフだよ」


 ヴィンセントが東部、南部の訛りで彼の名前を告げると、彼は体を折って机の上に寝そべるような格好で笑った。


「先生、僕の名前は?」


 隣の兄が待ち切れず聞いた。


 子供たち順々に三種類の名前を告げ終わると、ヴィンセントは全員の顔を確認して言った。


「皆さんも知ってると思いますが、キエスタ語は、場所によって全然違う言葉になります。……しかし」


 ヴィンセントが前の黒板にカツカツと音を立てて、チョークで子供たち全員の名前を書いていく。


「文字は共通です。字を覚えれば、東部、南部の人とも話せることは可能です」


 振り返り、ヴィンセントはまたアキドを見た。


「アキド君。……何故きみは文字を覚えようとするのですか」

「いいっ ?!」


 またくると予想してなかったアキドは、鼻をほじっていた指を奥に突っ込んでしまった。


「……ええと……本が読んでみたいから?」


 隣のナシェの視線を感じて、アキドはしどろもどろに答える。


「本が読めるようになることは素晴らしいですね。では他の皆さんは何故ですか」


 ヴィンセントは頷き、アキドの後ろに座っている子供たちに聞いた。


「父ちゃんがとりあえず行ってみろって」


 歯抜けの少年が高い声で答えた。

 少女二人が顔を見合わせた後、続け様に言った。


「行商の人が持ってくる雑誌を読んでみたいの」

「私たち、俳優のラマーンのファンなんです。彼の記事を読みたいんです」


「ラマーンはキエスタの名俳優ですね。わたしも彼がキエスタで一番のハンサムだと思います」


 ヴィンセントの答えに、少女たちはお互いの肩をぶつけ合って微笑み合う。


「私が思う、文字を覚えることで皆さんにとって一番良いことは、あなたたちが大人になった時です。大きくなって働きに出た時です」


 ヴィンセントは一人一人の顔を見る。


「出稼ぎに出たとき、出来る仕事の種類が一気に増えるからです。高いお給料が貰えるからです。……特に女性は」


 ヴィンセントは少女二人を見た。


「読み書き出来る女性というのは大変貴重です」

「でも先生。女の人でそんな大した仕事につく人なんていないでしょ」


 少女の一人が言った。


「そうですね。まだ、そんなにいません。これから増えていくはずです。……しかし今現在でも、女性にしかできない大切な職業があるのは知っていますか?」


 少女は首を傾げた。


「ここ北部ではそんなに厳しくはありませんが、特にキエスタ西部、南部の女性は、夫や家族以外の男性に身体を触られることは駄目だとされます。それはお医者様でも駄目なのです。だから女性のお医者様、看護師が必要です。……彼女たちの存在は本当に貴重で、お給金は男性の三倍になります」


 少女たちは顔を見合わせて、無声音で驚いた声をあげた。


「もちろん、うんと勉強しなければいけませんが」


 ヴィンセントは付け加えて


「今日はとりあえず、自分の名前を綺麗に書くことを覚えましょう。おそらく自分の名前は、皆さん書くことは出来ると思いますが。一番、使う文字ですから。誰もが読める字で書かないといけません」


 と皆に促がす。

 子供たちは前に置いてある石板にとりかかる。


「では、自分の名前を十個書けたら私を呼んでください」


 ヴィンセントの声を聞きながら、ナシェは唇の端をじんわりと上げた。





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