第二話(4)
教室のドアは、自動で閉じる仕組みのついた少し大きな引き戸。
なので、ウサギは力を入れて引き開けようとしたのだろう。
ドアがいきなり開いたせいで、アルミパイプ製の取っ手をつかみそこね、ウサギはつまずくように前によろけた。
「あっ、
ウサギの視線の先にいたのは、ハル君。
ぶつかった衝撃が強かったのか顔をしかめながら胸のあたりを押さえ、そしてようやく相手に気づいて驚きの表情を見せた。
不似合いなほど動揺した顔色を見せたハル君は、三人を見て、そしてわたしに数秒ほど視線を向けてしまう。そのあとでようやく驚きの色を消し、ドアのすぐ近くの席へ歩み寄っていった。
その場にいる全員、何の言葉も発せなかった。
ハル君は黙ったまま席の下に落ちていたヘッドホンを拾い、なにごともなかったように、またドアへと歩き出した――そのときだった。
「……ちょ、ちょっと待って」
進路を妨害するように、ドアの前に立ちふさがったウサギ。
その表情には、なぜだろうか、さっきのハル君以上の動揺が浮かんでいた。
「どういうことよ、ねえ」
ウサギが震えた声を発してハル君を指さす。
「あなた、もしかして……女、なの?」
「あっ!」
「へ?」
驚きに目を開く蒼さんと、首をかしげるシャノちゃん。
その横でわたしは、ただ言葉を失った。
「な、なんとか言ったらどうなのよっ!」
強く言葉を向けられた先、ハル君はただじっと無表情のままで。
寒気が身体を包む。
ハル君は今、どう思っているんだろう。
ウサギの力強い眼差しを受けたまま、じっと冷たい目で見返し、
「……どいて」
抑揚を押さえた小さな声でつぶやいた。
その声に、一瞬ウサギはたじろいだが、すぐに両手を左右に大きく広げる。
「どかないわ! なに? なんなのよ、これ? ちゃんと説明しなさいよ!」
にらみ合う二人の姿に、イヤな汗と吐き気が止められない。
呼吸がまともにできず、必死で喉へ空気を送りこむ。
「う、ウサギ、もうやめ――」
「――うらら、あなたは知ってたの?」
その突き刺すような一言に、わたしはとっさの嘘が出せず、ただ唇を噛みしめる。
「……そうなのね。いいわ、うららは黙ってて。私が聞きたいのはあなたからよ!」
怒りに満ちた瞳でハル君を見すえるウサギ。
「女、なのよね? だったら、うららがさっきした告白って、いったい何なの?」
「だから、どいて」
平然とした響きの声で短く言うハル君。
「どかないわッ! ね、応えなさいよ。さっきのって、まさか、二人で仕組んだ、嘘ってことなの……?」
強く投げられたウサギの言葉が、最後は弱く震えて消える。
なんで、なんで、こんなことになってしまったのか。
――ああ、考えるまでもないか。
これは、ヘタな嘘でごまかそうとした報いだ。
わたしを思いやってくれる三人をダマした。
一人ではムリだからとハル君を巻きこんだ。
そんな未熟でバカなわたしへの報い。
自分自身が情けなくて、どうしようもなく情けなくて、涙がこぼれてしまった。
最初からもっとうまくごまかせば、ウサギも気にしなかっただろう。
逃げ出すなんて子供みたいなマネをしなければ、今日の告白は必要なかっただろう。
わたしがひとりで立ち向かっていれば、ハル君を巻きこまずにすんだだろう。
そして今わたしは――また何もできずにいる。
ウサギがどかなくても、ハル君ならそれに構わず別のドアからでも去って行くだろう。
問題は、そのあと。
ダマされたと知ったウサギたちは、もう一緒にいてくれない、かな。
ハル君は……ハル君は、どうなのだろう。
避けていた
だから、もう――
そこで、やっとそれが目に入った。
ハル君は、さえぎるウサギを無視し、そのまま教室を出て行けばいいだけなのだ。
だけど、表情を一つも変えず、じっとウサギと向き合っている。
その手を――ぎゅっと固く握りしめたまま。
「もう、やめてくださいッ!」
痛くなるほど心臓が打って、声がみっともなく裏返る。
気づくのが遅すぎた。
ハル君は、この苦手な状況に、今までずっと立ち向かってくれていたのだ。
それは、こんなわたしなんかのためだ。
――だったら、ハル君を守るのは、わたしじゃないか!
「悪いのはわたしなんです。二人がにらみあう必要なんてな――」
「だから、黙ってて!」
ウサギは強く叫んで、くやしげに唇を噛みしめる。
「うららにも、聞きたいこと、いっぱいあるわ……。でもね、今はあなたから聞かないと、私、納得できないのよ!」
「で、でも、わたしっ!」
必死に声を振りしぼり、けれど、そこから言葉が続かなかった。
何を言えばいいのだろう。
わたしが悪かったなんて当たり前だ。
じゃあ、ハル君のことを隠さず話す? それで守れたっていうのか。
それならいっそのこと、ハル君とここから逃げ出して、三人とはもう――
ああ、また逃げ出すのか。なんの成長もないじゃないか。
――だけど、もう、それしかないのかな。
服で強く涙をぬぐって、視線だけは前を向いてみせる。
見事な嘘がつければいいのに。
視線をぶつけ合うハル君とウサギ、一歩後ろで見守る蒼さんとシャノちゃん。
なにか、なにかないんだろうか。
この場をすべて丸く収めてしまえるような、奇跡みたいな嘘は。
「わっ、わたしは、その……」
嘘なんて思いつかず、また言葉が途切れる。
わたしは泣くだけしかできない、未熟な子供だ。
だけど、黙っているだけじゃダメなんだ。
考えて、考えて、考えなきゃ。
「お願いです。もう、やめてください。わたし――」
ごまかす方法なんて、何も思い浮かばない。
でも、もういい。
やっぱり、もう嘘はいい。
「……わたし、ここにいるみんなが、大好きなんです」
こんなこと言って、なんになるんだろう。
子供みたいにボロボロ泣いて。
「ハル君も、ウサギも、蒼さんもシャノちゃんも、みんな大好きなんです。だから、どうかお願いです。わたし、が悪いからっ。もう、やめて、くれませんか!」
息がつまって言葉がとぎれる。
だけど、伝えないとダメなんだ。
理屈もなにもないけれど、これがわたしの本心なんだ。
「――うらら」
投げかけられた声に、ハッと視線を向ける。
その声音は、演技抜きの女の子らしい、本当のハル君の声。
「ありがとう、うらら。もう、大丈夫だよ」
そう言ってハル君は、まるで悪役みたいな片頬をつり上げた笑みを見せた。
それはやっぱり、本当にヘタな作り笑顔。
でも、なぜか心をふわっと包みこんでくれて。
「……あのさ、私、隠してたけど女なんだ」
視線をウサギたちに投げて言うハル君。
「それから、今回のこと、悪いのは私だから。うららに私が女だってことを隠してもらっていたせい。そのせいでうららにもあなたたちにも、すごく迷惑を掛けてしまったんだ。だから、本当にごめん」
「ごめんって、あなた、嘘の告白とかしておいて――」
「それは、全部うららだよ」
ハル君はいつもの素っ気ない表情のまま視線を向ける。
わたしはそれに、大きくうなずいて応えた。
「考えたの、わたしです。ハル君は協力してくれただけです」
「……な、なによ、それ」
「うららがさ、この嘘の嫌いなうららが、必死になって考えたんだ。みんなと仲直りしたいからってさ」
その言葉にウサギはハッと目を開き、「なにそれ」とつぶやいてうつむく。
「私たち二人が嘘をついたこと、本当に申し訳なかったと思う。でも、うららはどうか許してやってくれないかな。うららは、本当にみんなのこと大好きだからさ」
ハル君の言葉に、わたしは涙をぬぐって深く頭を下げる。
「ウサギ、蒼さん、シャノちゃん、黙ってて本当にごめんなさい。うそついて本当にごめんなさい! でも、やっぱりわたし、みんなとずっと一緒がいいんです!」
そう言ってからさらに頭を下げ、ゆっくり顔を上げる。
そこには、優しく笑うシャノちゃん、うなずいてくれる蒼さん、そして――
「もーっ、謝らなくても、許すに決まってるじゃないの!」
うっすらと涙を浮かべながら、それでもすべてを受け止めてくれるような、まっすぐな目をしたウサギがいた。
「というか、あなたね、男か女か
「あー、そんなん
「事情は
シャノちゃんに後頭部をチョップされ、蒼さんにじっと目を向けられたウサギは、ハル君に目線を合わせないよう横を向きながらうなずく。
「そりゃ、私だって、人の秘密を探る趣味はないわよ」
「本当にありがとう。助かるよ」
三人のやりとりにハル君は自然な笑顔を見せ、頭を下げる。
「じゃあ、私は行くよ。うららのこと、これからもよろしくな」
「別に、あなたにお願いされなくても――あ
シャノちゃんにまた頭をチョップされ、ウサギはハル君に向き直って言う。
「いいわっ。うららのことは任せなさい。お姉さんとして面倒見るわ」
ウサギの言葉に、「頼んだよ」と応え、そうしてひとり部屋を出て行くハル君。
ドアの向こうに消える間際、その瞳がわたしをとらえる。
ハル君は、相変わらずの素っ気ない表情で、無言のままやさしくうなずいた。
――よかったね。
そんな風に聞こえた気がして、また心があたたかな気持ちで包まれる。
ドアの向こう、もう見えないはずのハル君。
その姿に、わたしは呼吸を忘れたまま、ずっと見とれてしまっていた。
残された部屋で、不意に頭をポンとなでられた。
「……大変だったな、うらら。しかし、あー、なるほどなあ」
わたしの頭に手をのせながら、蒼さんはうんうん何度もうなずいた。
「七尾が女だってことを隠すなら、そうだな、うららが逃げたのも分かるな」
「もーっ、私の知らないとこでいろいろ抱えこまないでよ、うらら。ちゃんとお姉さんに言いなさいってば」
「言えなかったから困ってたんだろ。あー、板挟みだよな、これ。大変だったな」
「あ、ありがとうございます、蒼さん」
「でも、少しは私に話してくれたって――
「うららんに謝るべきキック」
純粋無垢で邪悪な笑顔を浮かべつつ、格闘家みたいに構えるシャノちゃん。
「そう……。うん、そうよね。ごめん、うらら」
「い、いえ! いいんです、そんな!」
「ううん、ちゃんと謝らせて。本当にごめんなさい。私、気づかないうちにいっぱいうららを追い詰めてたのよね」
「それは私もだ。ごめんな、うらら」
「ウチは、まあ、もっと早く気づけたらよかったな」
「みなさん、そんな。わたしの方こそ、本当にごめんなさい」
「もーっ、うららはもう謝らなくていいの! よし、これでみんなおしまい。仲直りよ!」
ウサギが赤い髪を大きく揺らし、パンと手を高く鳴らす。
「じゃあ、仲直りのしるしに、またレッスンでもしようかしら」
「ホントですか! それなら、一つお願いがあります」
「いいわよっ、なんでも聞いてあげるわ」
「わたし、また服を買いに行きたいです」
その言葉に、ウサギが目を丸くする。
「えっ、服って、いいの……?」
不安げに震える声。
表情を曇らせたウサギに、わたしは強くうなずく。
「はい、ウサギに連れて行ってほしいんです。でも、今度は着せ替え人形みたいじゃなくて、ちゃんと選び方とか、教えてほしいんです」
「うんっ! うんっ! いいわ、私に任せてよね!」
明るく笑顔を弾けさせたウサギは、「そうだ」と手を打つ。
「うらら、ちょっと後ろを向いてて」
「えっ、はい。なんですか……ほぁっ! な、なに?」
後ろ髪を不思議な動きで触っていくウサギの手。
「いいから、ちょっと待つのよ。振り向いたらダメ!」
この感触は、たぶん髪を編んでくれているんだろう。
しばらくむずむず触られて、「できあがり」とポンポン頭をなでられる。
「は、はい。でも、何を……えっ!」
すばやい動きでいきなりわたしの前に立つ笑顔のシャノンちゃん。
その手には折りたたみ式の手鏡。
それを
「こ、これって、あの……!」
合わせ鏡の向こうに映る後ろ髪には、真っ白で大きなリボン。
「プレゼントよ。私たちだってさ、仲直りしたくていろいろ考えてたんだから。渡すタイミング、逃し続けちゃったけどね」
ありがとうが、言えなかった。
うれしくて、ありがたくて、涙が止まらなかった。
「もーっ、今日は泣きすぎよ、うらら! やめてよ、こっちまで、泣けてくるじゃないっ」
「こっ、これ、ほんとにっ、うれっ、うれしくってっ!」
「話すのは落ち着いてからな。でも、そのリボン似合ってるよ」
「せやで。めちゃくちゃロリカワや」
「ロリは、余計です……」
涙まみれでにらんだけれど、シャノちゃんは近距離からじろじろ見つめてくる。
「うん、やっぱええな。これで、ハルるんもうららんのこと
ハルるん……ハル君のことでしょうかね。
話題にハル君のことが出てきたので、必死に涙をぬぐって呼吸を整える。
「惚れ直すって、元から惚れられてませんけど」
「えっ、付き合ってるんちゃうの?」
「なんでですか。ハル君もわたしも女同士ですよ」
「別にええやん。二人めっちゃええ感じやったで」
えっ、ええやん?
女同士なんですが、それはどういう……?
疑問が思考の限界を超えて渦巻き、わたしは宙を見上げる。
「ちょ、ちょっと! 口を閉じなさいっ!」
少しだらしない顔をしていたようで、表情をただす。
「もーっ、しっかりしなさいよ。よし、じゃあお姉さんが教えるわ」
「おいおい、またかよ。経験もないんだからさ、うららを振り回すなよ」
「うらら、なにも難しく考えなくていいの。大事なのはあなたの気持ちよ」
「わたしの、気持ち……?」
「ええ。好きなら好きで、それでいいじゃないの」
ハル君のことをどう思っているか。
そんなこと、考えるまでもなく大好きで――そう。大好きで。
いつも思っていて、普通に口にもしていた一言に、心臓が強く打った。
あ、あれ、なんだこれ。なんだこれ、わたし。
ハル君のこと思うだけで、首筋も頬も耳も熱くなってきて。
「で、聞くまでもないけど、うららは七尾ハルのこと好きなんでしょ?」
なんだこれ、なんだこれ、すごく恥ずかしい!
「ん、どうしたのよ?」
ドンドン高鳴る胸の鼓動に、ドクドク体中をめぐる血液に、もう頭が真っ白に。
「は、はいっ! わたしっ、ハル君のこと、大好きなんです、すごくっ!」
冷静に思考する回路が壊れたまま、わたしは力強く言う。
恥ずかしさで、ああっ、もうどうにかなりそうで!
「あのですね、外見は地味に見えるんですけど気づくと、うへっ、すっごくかわいくてですね、こう近寄るとなんだかよだれが出てくるいい香りがしてですねそれで」
「う、うらら? ね、うらら……?」
*
ハル君は、なんて言ってくれるだろう。
後ろにつけたリボンをそっとなでて、思わず顔がにやけた。
待ち合わせの場所に向かうため、ゲームセンターの階段を上がる。
さっきは少し舞い上がってしまったけど、もうだいぶ冷静になれた。
それでもやっぱり、胸は高鳴ってしまって。
あちこちから聞こえるにぎやかなゲームの音に背中を押され、二段飛ばしで進む。
そして最後の一段に足を掛け、フロアに顔を向けると――
わたしの大好きな特別の友達、ハル君がやっぱりいてくれた。
「お待たせしました!」
手を振って言ったが、不意に横から響いた音楽に飲まれ、声は届かなかった。
よく見るとハル君は目の前の女の子に話しかけられているようで、わたしには気づいていないようだ。
あれは前にも見たメガネの女の子。
ひそやかにエールを送りながら、ゆっくりと近づく。
がんばれ、ちっちゃなハル君少女。無視されても負けないで!
がんばれ、ハル君。自然に笑うのはムリでも、なにか応えてあげて!
にこにこ笑顔で、こそこそ忍び足で近づき、二人の様子をそっと見守る。
「聞いてほしいんです」
メガネ少女は意を決してハル君に言う。
おお、がんばれ。がんばるのです!
「一目惚れしました。私、あなたが好きです」
ほぁっ?
「……うん。ありがとう、うれしいよ」
ほああッ!?
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