エリクソンの監獄

@dikky7

第1話 エリクソンの世界

「一体全体これはどういうことか」

 満城大学総務部の一室で、俺はその身を縮ませて溜息をついた。

 この件に関して俺は無関係だ。何度もそのセリフを口にしても、目の前に連なった10人もの大学職員は聞く耳を持たない。彼らの間では学生の非の所在よりも物事におけるけじめの議論が先決のようだ。

 厳しい顔で話し込む職員達に見かねて、窓の外を見やる。階上から望む我らが満城大学のキャンパスには、いたるところで桜の樹がその最盛を極めていた。その樹の下を多くの学生が三三五五連れ立って歩いている。一人で歩いている学生はまばらだ。新入生の多くは新たな友を早々に見つけ、これから始まるキャンパスライフへの夢を語り合っているのだろう。

 そういえば男子寮はここからだとどう見えるのだろう。あの中には俺の部屋、一国にして一城の6畳間がある。

 ああ、あそこだ。すぐ目に入った。一目で木造と分かるほどの古びた建物なので、コンクリートやレンガで出来た学舎が乱立する中よく目立っていた。しかし刻下、さらに目立っていたのはそこから伸びるどす黒い一条の煙だった。



      *



 文学部第一講義室の一番後ろの席で、俺は一人片肘をつきながらぼけっと前を見ていた。壇上では文学部学部長、鶴見教授が熱弁を振るっている最中だ。

「――事に4ヶ月前に発覚した違法行為は、学問を追究する身にある学生としての本分を弁えない低劣な行為である。諸君らは今一度、今後の身の振り方についてきちんと塾考した上で、学生生活を謳歌していただきたいと思う」

 かなりの老体であろうにも関わらず、20分近くこの調子で弁舌を続けた鶴見教授は、司会に促された学生の拍手に包まれようやく壇上を後にした。

 鶴見教授の演説が長かったのか、司会は間髪入れず次のプログラムを読み上げた。

「鶴見教授、ありがとうございました。ではこれより新入生へのガイダンスを始めたいと思います」

 


 ガイダンスは1時間ほどで終わった。内容は履修方法や学生生活全般に終始した。が、話はほとんど聞いていなかった。だが違法行為は厳罰に処す、という点を総務課の職員が強調していたのは記憶に残っている。ガイダンス自体、欠席しても後から結城に内容を聞けば問題なかった。学部ごとにあまり違いはないだろう。だがそういう訳にもいかなかった。

 ガイダンスの最後の方に『入寮者への説明・資料配布』というプログラムが入っていたからだ。その時に知ったのだが資料を受け取るのに壇上まで行ったのは俺一人だけだった。やはり今時、入寮者は少数派か。

 

 文学部棟を出て、手に持った鞄から先ほどの資料を取り出す。表紙には『男子寮の利用と規約』と記載されているのみで、イラストや装飾もないただの冊子だ。

 ページを開くと満城大学キャンパス全体の見取り図が目にはいる。そこから男子寮を探し出す。

 探し出すのにはしばらく時間がかかった。寮という事でキャンパスの端っこにあるものと思っていたら、予想を外れてキャンパスの中心近くに建っているのだ。北西の端にある文学部棟からは歩いて10分も掛からないだろう。


 今時、寮住まいは珍しい部類に入るかもしれない。俺も入学前は普通の学生用アパートに入居するつもりだった。だが所謂『家庭の事情』により当分は家賃の安い寮暮らしをすることとなった。

 なにぶん入学を前にいきなり寮暮らしが決まったわけで、俺は自分がこれから住む寮をまだ見ていない。家具は備え付けのものがあるらしく、服や貴重品などは既に大学が手配した業者が部屋に運び入れているはずなので問題はないはずだが。


「よう」

 突如後ろから声をかけられる。この声を聞くのは1ヶ月ぶりだ。

 後ろを振り返ると、そこにはやはり見覚えのある顔があった。目線は俺より顔半分上にあり、細い顔には整った目鼻立ちがのぞく。

「結城、そっちもガイダンス終わりか?丁度よかった。履修方法なんだけど、ちょっと教えてくれ」

 今まで通りの調子で話す。しかしすぐさま相手の様子がいつもと違う事に気がついた。

「どうした?」

「いや……ちょっとな」

 よく見ると、結城の物柔らかで優美な顔はなりを潜め、今は半ば強張っているようだった。それに目も合わせることなく、足元を見つめているばかりだ。

「実は、ちょっと話があるんだ」

 そう言うと結城はようやく俺と目を合わせた。その瞳には、まるで臍を固めたかのような強い意志が見えた。

 

 入学初日で、多くの人間がキャンパスを埋めている中、人気のない場所を探すのは少し手間だった。

 だが口を一文字に閉ざし、黙々と歩く結城の背中に、俺は底知れぬ不安感を見出さずにはいられなかった。

 ようやく歩みを止めたのは地域連携センターという建物の裏手にある寂れた花壇に突き当たった時だった。

   


「俺の後追いは止めろ」

 振り返ったと同時に、結城はぴしゃりと言い放つ。 

「えと……意味がわからないんだが」

 そのままの感想を述べる。結城は大きく溜息をつき、表情を変えずに続ける。

「俺と爽平、知り合ってから随分経つよな」

「ああ、中学からだから……今年で7年目だな」

 いったいそれがどうしたというのだ。

「爽平、お前は何かを自分で決めたことがないだろう」

 俺の心にわずかに衝撃が走る。

「爽平はいつも俺の真似ばかりじゃないか!高校選びも、部活も、そしてこの大学に来たことだって!」

 結城の勢いに、思わず後ずさる。

「そ、それは俺がお前と居たいからで、お前と一緒にいれば失敗はないし……」

 言葉尻が弱くなる。自信がない証拠だ。

 結城の言っている事は正しい。秀逸な親友を持つ、という事は生きていく上で何かと役に立った。平凡な家庭に生まれた、同じく平凡な俺が地元ではそこそこの進学高に進めたのも、中学時代に結城と出会ったからだ。勉強を教わり、多くの時間をともに過ごした。そして今、この満城大学のキャンパスで会話できているのも、結城のおかげだ。学部が異なっているのは、単純に前期試験で俺が結城の第一志望である経済学部に落ちたからだ。

 しかし当の結城は、今俺の生き方を否定した。一体なぜだ。俺の何がいけないのだ。

 結城は呆然としている俺にさらに一歩近付き、宣告する。

「楽だから、だろ」

 脆くなった自恃がぐらりと傾く。その一言で、今までそっと隠し、見ないようにしていたものが具現化する。

「で、でもそれで結城が損をするわけじゃないだろう。っていうか、そんなケチケチした事……」

「お前の為に言ってるんだ!」

 その一声に、俺はたじろぐ。この6年間、結城がここまで声を荒げることは皆無だった。

「6年間、俺以外にほとんど友達も作らず、決断は全て俺任せ、その生き方はお前の人生に恩恵を与えない。卒業したらどうするんだ!もう俺は近くにはいないんだぞ?信頼してくれる友人もいなければどうやって生きていくんだよ」

 確かにそうだ。就職先まで同じ、というのはほとんど不可能かもしれない。

「俺は自分の人生を生きる。それはお前の人生じゃない。頼むから、自分の生き方を見つけてくれ」

 そう一息に言い、結城は背を向ける。そして最後に振り返り、

「でも、俺と爽平が親友なのは変わらない。履修登録は来週教えるよ。じゃあな」

 そう言い残したまま、結城はその場を去った。



     *



 10分後、俺は当初の目的通り男子寮へと向かっていた。憎々しげな目で足早に歩く様は、いよいよ通行人に肩をぶつけ因縁をふっ掛ける勢いであっただろう。

「なにが俺の為、だ。友達ぐらい、俺にだってすぐ出来るし、周りに話を合わせることもできる。確かに、結城以外の奴らからは素っ気ない、とか情が無いとか言われたりもするが……」

 足元を見ながらそう独り言つ。そしていかんいかん、と頭を振って苛立ちを頭から追いやる。今の俺は花の大学生なのだ。結城以外に友人の1人や2人くらいできるだろう。

 手に持った『男子寮の利用と規約』を再度開く。相変わらず見取り図以外に写真や絵は無い。しかしなんといっても寮である。隣部屋の奴と酒を酌み交わしたり、彼女の一人でも連れ込んで周りから羨望の眼差しを受けたり――。そんなキャンパスライフが待っているに違い無い。これならあの堅物な結城も納得するだろう。俺は一点の曇りもない薔薇色の未来に胸を膨らませた。

 しかし5分後、俺は自らの願望が幻想に終わったことを知るとともに、なぜ『男子寮の利用と規約』にも大学のHPやパンフレットにも寮の写真が載ってい無いのかを理解した。


 「ボロすぎる」

 男子寮を一言で表すのなら、その言葉が最も適当であった。

 工学部棟の日陰にそっと隠れる様にして建っている男子寮は、まるで継母に虐げられ日の届かない屋根裏に追いやられたシンデレラのようだった。いや、シンデレラは適切ではない。彼女は魔法のドレスでその美貌を王子に見せることができた。あまりのショックで無用な考えが頭をよぎるほどだ。 

 だが目の前にそびえる男子寮は紛うことなき現実であり、仮に魔女の魔法を用いても到底誤魔化すことはできないほど老朽化が進んでいた。

 恐る恐る寮の中へと足を踏み入れる。

 意外なことに、寮の内部は外観ほどひどくはなかった。おそらく過去に何回かリフォームが行われたのだろう。外観が世紀末の様相を呈している一方で内装は古き良き昭和臭さみたいな雰囲気を残していた。

「君、1年生かい」

 玄関で立ちすくんでいると、左側の壁から呼び声がかかった。見ると小さなガラス窓の向こうに人の影が見えた。そこが管理人室なのだろう。

「はい、そうです。幸田爽平と言います」 

 齢80は超えてそうな管理人は、皺だらけの顔をちらりと向けただけで何の返事もせず、ぺらぺらと名簿のようなものをめくる。

「ああ、あったあった。幸田くんね。もう荷物は搬入してあるから。あと部屋番号は……」

 そこで管理人は言葉を躊躇う。眉間にさらに皺が増える。

「122号室か……」

 哀しみと苦渋が合わさったような声で管理人が呟く。

「え、どうかしましたか?」

 すかさず問いただすも、管理人は一向にこちらを見ない。そして「はいよ」と小窓の隙から『122号』のタグがついた鍵を投げて寄越す。

「何かあってもわしじゃのうて総務課の奴らに訊けよ」

 管理人はそれだけ言い放つと、さっと小窓のカーテンを閉め、一方的に話を打ち切った。一体どうなっているのか、俺には全く理解できなかった。

 

 玄関からは左右に廊下が伸びており、122号室はそこを右に向かった先にある。気掛かりな点が多すぎるほどあったが、兎にも角にも部屋に向かう。床を進むたびに、ギィギィと木が軋む。

 いくつかの部屋を通り過ぎた時、いきなり部屋のドアがわずかに開き、中から男が出てきた。扉を確認する。120号室だ。

 扉の向こう側から、面長い顔がじっとこちらを見つめる。見た目から察するにここの先住民だ。

「どうも、これからお世話になります、122号室の幸田と申します」

 出会いは第一印象が大事。すかさず丁寧に挨拶をする。

「ああ、どうもね。僕3年の山田。よろしく」

 向こうもこちらに合わせてきた。とりあえず一安心という所だろうか、悪い人間ではなさそうだ。

 しかし「ではこれで」と辞去しようとしたところ、いきなり山田先輩に肩を掴まれる。何事かと振り返ると、自身は部屋に戻って行ってしまった。だがやにわに戻ってきたかと思うと「これ使いな」と俺の手に何かを握らせてくる。

「……耳栓、ですか?」

 それは100円ショップで売っていそうな、白い発泡材で出来た1対の耳栓だった。

「それ余りだから。とりあえず今日はそれで凌いで」

 よく見ると山田先輩の右耳には同じ耳栓が付けられていた。

 話は以上なのだろう、山田先輩はポケットからもう一つの耳栓を取り出し、左耳につける。そして一弾指にばたん、と扉を閉めた。

 握らされた1対の耳栓を見つめる。

 なるほど、これで大体事情は察することができた。問題はその「程度」である。


 122号室は廊下の突き当たり、奥から2番目の部屋だった。もらった鍵で扉を開ける。ほんの2足ほどで埋まってしまいそうなほどの小さな三和土があり、目の前はトイレの個室が置かれていた。よって玄関を開けただけでは部屋全体を見取ることは出来ず、トイレの向こう側の6畳間に達するには靴を脱いでトイレの前を左に折れる必要があった。玄関を開けてトイレの個室が目の前、というのは少々興醒めだが、他人に玄関口から部屋を見られずに済む、というのは利点かもしれない。  

 部屋自体は予想通り。壁紙が破れていたり畳が腐食していたりもしたが、あまり驚くほどの事でもなかった。問題はここからである。扉を閉め、静かに耳をすます。するとやはり予想は当たっていた。わずかな低音が、部屋全体に響いていた。ほんの少し振動も感じられる。これで先ほどの管理人の不自然な態度に合点がいった。この部屋には騒音問題が存在している。 

 だが部屋にどよむ音は耳を澄ませると分かる、という程度で、そこまで気にすべき程でもなかった。これで耳栓が要るだろうか。

 さらに耳を澄ませていると音の発生源が分かった。玄関から見て左側の部屋、一階東側の最奥の部屋だった。するとおそらく123号室ということか。ずいぶん語呂がいい。

 しかしいったい何をすればこんな音が出るのだろう。すぐに立ち上がって部屋を飛び出し、その疑わしき隣室の扉を眺める。するとどうだろう、謎が解けた。

 その部屋の扉には『123号室』の代わりに『機械室』の表札がかけられていた。

 試しにドアノブに手をかけてみる。「がちゃり」と音を立てて扉は開いた。中は様々な配管類が床や天井を這っており、部屋の右側――俺の部屋に隣接している部分には『受水槽』と書かれた大きなタンクが轟轟と音を立てて座を占めていた。受水槽からは太いパイプが天井や床下に伸びており、配管の群れに埋没していた。

 なるほど、部屋に響く音は床下の上水道から水を引き上げている音だったのだ。

 なんだなんだ驚かせやがって、まさか隣室が機械室だとは思いもしなかった、と旺然たる心持で機械室を後にした。が、そこであることに気が付いた。なぜ山田先輩は耳栓をつけていたのだろう。機械室と120号室は間に俺の部屋と121号室の2部屋を挟んでいる。隣室で耳をすませば聞こえる、という程度の音が響くはずがない。一体なぜ耳栓が必要だったのだろうか――。

 

 考えながら自室のドアノブに手をかけた瞬間、横から声をかけられた。

「よう、お前、隣に新しく入ってきたやつ?」

 その男は俺よりも頭一つ分背が高く、身体も一回り大きかった。

「は、はい。幸田爽平といいます。よろしくお願いします」

 男は黒い瞳でこちらをじっと見つめる。

「俺は文道優斗。お近づきの印だ。先に見せてやるよ」

 いきなり右手に持っていた冊子を投げやる。思わず受けとってしまう。

「なんですか、これ……」

 みなまで言う前に気がついた。肌色の肢体に「超ド級」のキャッチコピ――。まぁ、もらうのはやぶさかではないが……。

「俺もまだ見てないんだ、明日には返してくれ」

「はぁ、どうも……」

 グラビアが載った週刊誌を、小脇に抱える。なぜだかこの文道という男には逆らえない気がした。

「あぁ、あとついでだからこれやるよ」

 そう言ってふと何か思い出したようにズボンのポケットをまさぐる。文道が取り出したのは数本の煙草だった。さも「お前も吸うだろ」とでも言わんばかりに俺の手元にそれを押し付けてくる。

 それを俺は何の考え無しに受け取ってから、

「いや、僕煙草は……」

 と驚きの中で拒否の声を絞り出す。

 が、「吸わない」とまで言う前に文道先輩は早々に自室であろう121号室に姿を消した。男子寮の廊下には、エロ本と煙草を手に持った俺一人が残った。

「なぜこの寮の人間は人の話を聞かないのだろう」

 薔薇色の妄想が闇に消えてから、俺の頭にはそんなことが浮かんでいた。

    




 ようやく一人になった。畳に横になってシミだらけの天井を眺めてみながらふと考える。

「どうして結城はいきなりあんなことを言ったのだろうか」

 あそこまで鬼気迫る親友の姿を、俺はほとんど見たことがなかった。だが最後の捨て台詞からして別に友人関係を終わらせる、という訳ではないのだろう。

 友人故の忠告――。そういうことなのだろうか。

 意識を思惟に委ねていると、徐々に眠気が脳を侵し始めた。今日はいろいろと疲れた。

 しかしその6畳間の長閑やかさは、突如にして響き渡る轟音によって打ち破られた。

 なんだ、と身を起こす。弦と電子の音が共鳴した耳障りな音が耳に入る。

 音楽だ!詳しくは解らないがロック系の激しい音色だ。音は機械室の反対側、先ほどの文道とやらの部屋である121号室から流れてくる。音は鳴り止む気配を見せず、足元からは地鳴りのような響きが全身に伝わる。

 これで先ほどの耳栓の謎は解けた。山田先輩は受水槽の音ではなく、121号室のこの轟音に備えて耳栓を渡したのだ。

「くそぅ、文句言ってやる」

 気弱そうな山田先輩はおそらく言い出せなかったのだろう。だが俺は違う。ちょうど腹の居所が悪い、言ってやるさ。

 決起の覚悟を決めると、勢いよく玄関まで駆け出し、ドアを開ける。

 

 一転、俺はその向こう側に驚愕する。扉の先には杉の木だけで組まれた床や壁、それに採光用の窓しか見えないはずだった。しかし、摩訶不思議なことに目下そこには可憐な少女が笑みを浮かべて立っているではないか。

「こんにちは。もしかしてお出かけですか?」

 その少女は微笑を崩すことなく、一筋にこちらをを見据えて聞いてきた。

「いや、これから風紀を正しにでかけようかと……」

 意外な展開だったので、変な返し方をしてしまう。

「ふふ、おもしろそうですね。それにしてもすごい大音量で音楽を聴かれるんですね」

「いや、これは隣の部屋からだ」

 そう言いながら自分の目的に立ち返る。そうだ、これから一発ガツンと言いに行くのだ。だが待てよ。

「君はどうしたの?何かこの部屋に用でも?」

 そう訊きながらちょっと不埒な考えが頭をよぎる。まさか、人目惚れにでもあってしまったか。薔薇色の妄想が顔を見せたかと思ったが、彼女の返答はまったくの的外れであった。

「ええ。出前をお持ちしました。特製醤油ラーメン1人前です」

 そう言って彼女は岡持ちを俺の前に突き出す。なるほど、少女の容姿ばかりに目が行って気が付かなかった。出前とは。

「いや、僕はそんなの頼んでないよ」

 しかし出前の電話なぞ全く記憶にない。すると彼女は今までずっと維持していた微笑を崩し、困惑顔を露わにした。

「あれ?おかしいですね、私は確かに聞きました。男子寮の122号室に至急醤油ラーメンを届けてくれ、と」

「そんなこと言われたって……君の名前は?」

「ああ、ハナと言います。近くの定食屋さんで働いています」

 やはりピンと来ない。なんてったて今日は入学初日なのだ。

 答えに窮していると、部屋に響く音楽がさらに大きくなった。あの男が音量を上げたのだろう。これではまともに会話もできない。まず最初に苦情を言いに行くか?いや、それはまずいかもしれない。なんせ自分より一回り大きく、筋肉もありそうだった。話がこじれて殴られるようなことでもあったら一発KO間違いなしだ。そうなったら警察に通報すればいいが、この美少女にそんな醜態を晒すのは情けなさすぎる。

「ちょっと中庭にでも行って話し合わないか?ここじゃ煩わしすぎる」

 廊下でもいいが他の住人どもに冷やかされそうで気が進まない。

「そうですね」と、彼女も同意した。部屋に鍵をかけそのまま2人でその場を後にする。


 話の片はすぐに着いた。ヒメが承った電話は「満場大学男子寮の122号室に醤油ラーメンを1つ」それだけだ。

 注文した誰かは名前も言わないまますぐに電話を切ってしまったらしい。よって俺の注文である、という確証は無くなった。誰かのいたずらか間違い電話だろうという結論になった。よってそのまま突っぱねてしまってもよかった。

 のだが、「では私が作ったこのラーメンは無駄になってしまうのですね……」という涙声に同情を誘われたのか男としての体裁が瞬時に構築されたのかは分からないが、俺はこう言ってしまった。

「まあ、腹も減ったし、食べてもいいかな」と。

 そして目下俺とその少女は連れ立って122号室の前に立っていた。

「本当にいいんですか?」

「いいって、それに届け先が分からないんじゃそのラーメンも無駄になちゃうしね」

 ヒメは破顔したかと思うと、深く頭を下げる。不埒な考えでも人助けは善なのだろうな、と俺は一人結論を得る。

「お代はいくら?」

「600円になります」

 ポケットには何の重みもない。財布は部屋の中だ。

「じゃあ、今から財布取ってくるから」

 そう言って鍵をさし扉を開ける。その瞬間、猛烈な熱波が顔を打つ。 辛うじて開けた細目で、扉の先を見渡せた。

 目の前は、蠢く炎の波に覆われていた。



    *



「なんだこれ!」

 あまりの熱さに熱さに身を引き、叫ぶ。背後ではヒメの怯む声が聞こえる。玄関から六畳間の方は見えない。もしここだけなら鎮火できるかもしれない。でも火の手が部屋全体にまで及んでいたら……。あまりの光景に、身体が反応しない。何か、早く何とかしなければ。

「誰か!来てください!」

 ヒメの声に、はっと意識が覚める。すかさず右隣の洗面台に手を伸ばし、蛇口をひねろうとする。だがあまりの熱さに近づけない。

「おい!どうした!」

 背後からヒメではない、野太い男の声が聞こえた。

 顧みると、そこには文道先輩が立っていた。

「火事だ」という前に部屋の中が見えたのだろう、血相が変わるのが見える。が、文道先輩の発した言葉はてんで予想外のものだった。

「俺の明菜ちゃんは!?」

「え!?」

 開け放たれた文道先輩の部屋からは依然大音量のBGMが流れているため、必然的に大声の会話になる。

「俺が貸した週刊誌どこにやった!?」

 なるほど、明菜とはあの週刊誌の表紙を飾っていたアイドルのことか。

「なんで今そんなこと気にするんだ!」

「あの子は俺の命だ!まだきちんと見てないんだぞ!」

 文道が苦悶の表情を浮かべる。

「じゃあ人に貸すなよ!まだ部屋の中だよ!」

 途端、文道は血相を変えたかと思うとすぐに踵を返し、自室の121号室へ戻った。直後、その部屋から文道の野太い声が響く。

「ここの壁は薄い!壁を破ってでも明菜ちゃんを救い出してやる!」

 まさか、とは思った。が、間もなく文道の部屋から流れる大きなBGMにノイズが走ったと思うと、漆喰が崩れ、木材が折れるようなばりばりぃという音が6畳間の方から轟いた。本当に壁を壊したのか!

 傍観していたヒメが、ここで我に帰る。

「わ、私、上の階の人たちに知らせてきます」

 言うが早く、ヒメは階段を駆け足で登っていった。

 その直後、121号室から文道が飛び出してくる。

「ダメだ!火の手が速すぎる!これじゃ寮ごと燃えちまうぞ!」

「そんな……」

 炎は目の前のトイレの扉一面に広がり、火の手は俺の足元にまで迫り、熱波が顔を襲う。目の前が真っ白になっていく。

 入寮初日に自室から出火――。俺の大学生活の幕開けはこんなものなのだろうか。つい数十分前の光景が目に浮かぶ。結城の叱責する姿だ。あいつは何て言ったんだっけ。

 「自分で考えろ」確か結城はそう言った。頭に広がるもやを振り払い、眼前に広がる炎を見つめ、心の中で憤る。そんなこと、言われるまでもない!俺だってこんな不条理をそのまま「はいそうですか」と受け入れるつもりは無い。考えろ、考えろ――。

 頭の中で、大量の水が流れる音が再生される。


「そうだ!受水槽だ!」

 すぐさま隣の機械室の扉を開ける。部屋の中はうっすらと煙が立ち込めていた。早く済まさなければ。

 右側の壁に向かい、大きく背をそらし、肩から壁にぶつかる。わずかだが壁にへこみができた。機械室は壁が補強されているのだろうか、文道のように一発で穴は開かなかった。が、これなら数回で壁が抜けるだろう。

「爽平さん、何やっているんですか!早く逃げましょう!」

 息を切らせたヒメが鋭く叫ぶ。その後ろには、騒ぎを聞きつけたであろう寮生が何人もこちらを見ている。

「丁度よかった。誰か手伝ってくれ!そこの受水槽のパイプを外すんだ!」

 受水槽という単語に意味を察したのか、人だかりから何人かの男が飛び出し、パイプに取り付いた。

「くそっ、固いぞ!」

「あきらめるな!頑張れ!」

 叫びながら壁に肩を打ち付ける。漆喰が音を立てて崩れ落ちる。あと一発で壁が抜ける!

「外れるぞ!」

 後ろから大声が飛ぶ。身を固くし、渾身の力を以って壁に肩をぶつける。

 壁のベニヤ板が破れ、漆喰が炎の勢いに煽られ舞った。同時に背後にある受水槽のパイプが外れ、水が大きく吹き出す。大きく穿たれた壁の穴に、水が勢いよく飛び込んでいく。

 頬に当たる熱気が、次第に弱くなっていく。どうやら火勢はおさまっているようだ。

 一部だけ残った壁を背に座り込むと、目の前にはヒメの安堵した顔があった。小さな手で、岡持ちを強く握りしめている。

「大丈夫か」

 文道が近くに駆け寄る。

「はい、なんとか」

「まさか鎮火しちまうとは思わなかったぜ。それにしても埃まみれだな」

 そう言われて、自分の腕や肩を確認する。確かに汚れきっていた。

「何にしてもお前はすごいさ。ほら」

 文道は手を差し出す。埃まみれの手で汚してしまうと思ったが、相手は気にしていないようだ。

 差し出された手を掴み、立ち上がる。今一度周囲を確認すると、周りには何十人もの野次馬が押しかけており、何人かが消火器片手に消え残りの火柱を消火していた。

 さて、これからどうなるのか。



        *



 満城大学総務部の一室で、俺はその身を縮ませて溜息をついた。

 この件に関して俺は無関係だ。何度もそのセリフを口にしても、目の前に連なった10人もの大学職員は聞く耳を持たない。彼らの間では学生の非の所在よりも物事におけるけじめの議論が先決のようだ。


 身内での話し合いがひと段落したのか、現実逃避に窓の外を眺めていた俺に、職員の一人が問うた。

「では幸田爽平さん、もう一度尋ねますが、これまでのご自身の証言に偽りや間違いはありませんね?」

「はい。ありません」

 火災を無事に鎮火させた後、安堵するのも束の間に俺は満城大学総務課に事情の聴取として身柄を押さえられた。それがつい2時間前だ。この2時間の間、俺は大学の門をくぐってから自分の部屋が燃えているのを認知するまでの経緯を何度も、かつ事細かに陳述させられていた。

「では今回の男子寮火災において、幸田爽平への処罰を言い渡します」

「処罰!?」

 身を乗り出そうとしたが、それを制するかのように職員の言が突き刺さる。

「今回の火災の原因は当該学生によるタバコの不始末であると考えられる。よって――」

「ちょっと待ってくれ!俺はタバコなんか吸わない!」

「火災発生直前、当該学生がタバコを所持していたという目撃情報もあります」

「そんな……」

 職員は咳払いをし、続ける。

「ただ、まだ消防による鑑識が済んでいないため、タバコによる出火は可能性として処理します。」

「よって今回の事件を、大学側は当該学生の倫理観、罪意識、防火意識の甚だしい欠如が見られる可能性があると判断し、仮処分の決定を行います」

「はぁ!?」

 俺はいよいよ声を荒げた。が、その声はまたも食い気味な職員の発言によって無視された。

「火災が発生した寮に関して、当大学は火事によって生じた被害の補填を求めます。普段の学生生活に付随した損害は大学側が担うのが普通ですが、今回の火災は大学の保障の範疇を超えています」

 ……つまり?

「122号室の修繕費を全額支払っていただきます。部屋の両壁に空いた穴は消火活動に伴う正当な行動の結果として、今回の補償には含めません」

 あまりの決定に、言葉を失ってしまう。が、一言だけ、どうにか絞り出す。

「額は?」

「120万円です」 

 120万円!俺はとうとう立ち上がる。

「俺は無実だと何回言えば分かるんですか!僕はタバコに火をつけてすらいないし、無関係の火災を鎮火したんですよ!?」

 言葉を遮るように、職員はぴしゃりと言い放つ。

「それはあなたの言い訳に過ぎない、というのが公の意見です。しばらくすれば消防によって火災の原因が明らかになるでしょう。その原因がもしもタバコによるものであれば、大学側は当該学生、すなわちあなたを即刻、退学処分に処することを決定しました」

「た、退学……」

 その瞬間、俺の頭はいよいよ思考能力を失い、視界には真っ白な世界が広がった。



   *



 気がついた時、空は夕焼けのオレンジに彩られていた。

 俺はというとキャンパスを行くあてもなく彷徨っていた。宿は燃え、それに伴い財布や着替え、携帯電話までも6畳間と運命を共にした。おまけに事務局棟で修繕費の支払いについての手続きを行い、今後毎月10万円ずつ返済していくこととなった。これは親からの仕送りを全額ローンに回すということだ。俺の生活費は正真正銘、0となった。

 人もまばらになったキャンパスを見渡す。この大学で唯一の友人であった結城はこの事件すら知らないだろう。今の俺には帰るべき場所も、希望すらも無かった。

 これからどうすべきか。人目を避けて、どこかの校舎の裏に足を向ける。

「君、どうかしたのかい?」

 いきなり声をかけられる。見ると声の主は校舎の横に敷設された花壇の側に腰を下ろしていた。えらく顔が整っているためか、年齢はよくわからなかった。にやにやとした顔で男はこう言った。

「君、新入生だよね?なにか気に入らないことでもあったかい?」

 まさかの言葉にいささか動揺したが、すぐに平静を装う。

「くだらない」

「あれ、図星かな?」

 軽い言葉を背に、その場を去ろうとする。しかし間が悪いことに「ぐぅ」と急に腹が鳴ってしまう。陳腐な音が腹の周りに響いた。無理もない。朝からイベント尽くしで何も食べていないのだ。

「ニヒルを気取るのも悪くはないがな、腹が減ってちゃ何も出来やしない。お、まさかそれが虚無の境地だとでも言うつもりかい?」

 何を言ってるのかさっぱりわからない。俺は悪態をついて去ろうとしたが、なぜか男は立ち上がり、俺に近づく。

「まぁどうかそこで待っていなよ!すぐに食料にありつけるからさ!」

 確かに腹が減っている。直面する現実に顔をしかめてしまう。男はくるりと背を向けると再び花壇の側に腰を下ろす。

「で、そんな所で何をしようってんだ?花を見て腹は膨れるか?」

 皮肉な発言にも、一切態度を崩さない。

「ああ、そうだね。花は綺麗だけれど君の状況を助けることはできない」

 すると男はいきなり手を花壇の土の中に潜り込ませた。

「おい、何してる?」

「確かに花ばっかり見ていては駄目だ。そこに実益なんてものは無い。そんなようだから大学生活に幻想を抱く輩が多い。ただそこに居るだけで幻想の世界に浸れると勘違いをする」

 その言葉にぎくりとする。前日に雨が降ったため、土は水分を含み、男の手は土まみれだ。

「じゃあ何が正解なんだ?」

「今まさに僕がやっていることさ!汚い土の中に自らの手を突っ込む!綺麗な花には目もくれずにね」 

「土をいじくったって何にもならないじゃないか」

「自分の手を汚してこそ、それは自らの糧となる。しかし最近はその土も見かけなくなった。キャンパスのいたるところに学舎が建ってしまってね」

 そこで男は口を噤み、ようやく土の中から手を取り出す。

 その手にはサツマイモが握られていた。

「なんで!?」

「はいよ」

 そして土がついたままのサツマイモをこちらに投げて寄越す。

「花は摘みとればいいだけだが、サツマイモは自ら土を掻き分けてこそ手に入るんだ」

 男は喋りながら、黙々と土中からサツマイモを掘り出す。

「あんたの言ってることがさっぱり解らないんだが……」

 男は立ち上がり、俺を見る。手に山盛りのサツマイモを抱えて。

「自分から飛び込まないと、いつまでも他人に恵んでもらう乞食同然、ってことさ。いや、エリクソンの言を借りるならモラトリアムってことだね」

 そう言って男は静かに立ち去っていった。

 

「なんだったんだ」

 またまた一人取り残された。サツマイモをそのままもらっても部屋が焼失していては調理しようがない。

 一人、夕焼けを眺めながら先ほどの言葉を反芻する。後半は何を言っていたのかはさっぱりだ。しかし前半部分、幻想世界に浸るだけ、というのは胸に響いた。

 ぼんやりした考えで結城についてきたが、ここで大失態を演じてしまった。何も考えず文道からタバコを受け取ったがために、冤罪を着せられたのだ。俺が、自分の行動に責任を持っていれば、こんな事にはならなかった。

 これは自分の責任だ。誰に助けを求めても仕方がない。


「あ、爽平さ~ん」

 後ろから呼び声がする。聞き覚えのある声。ヒメの声だ。

「どうした、店に戻ったんじゃないのか?」

「はい、大学職員の方々にいくつか質問された後は一旦店に戻りましたが、心配になって戻ってきたんです」

 心配。あまりいい意味ではないが、どこか安心する響きだ。ヒメの顔はわずかに赤くなっており、汗が滲んでいた。今までキャンパスを探し回っていたのか。

「爽平さん、これからどうするんですか?どこか泊まる当てはあるんですか?」

 驚いた、果たして赤の他人に対してそこまで気が回るものなのか。だがそれで今の事態が好転する訳ではない。

「いや、無い。だが別に心配することはないさ。どうせ俺は1ヶ月後に退学処分だ」

「え!どうしてですか!?爽平さんは悪くないんじゃ……」

 彼女に非は無いが、どうしても感情的に返してしまう。

「君も見てただろ。俺の部屋から火が出た。原因はタバコの不始末らしい。俺は今まで一度もタバコなんか吸ったことないのにな!」

 そう。俺は言い訳の出来ない状況にいた。不運が重なり俺の手足はがんじがらめになっていた。

「住むところも失い、おまけに携帯も財布も燃えてしまった!」

 怒りと落胆の中で声を荒げる。

「冤罪を被せられ、さらには俺の生活費もかっさらわれた!それにも関わらず誰も俺を信じてくれない。こんな始まりってアリか!?」

「私は信じます」

「え?」

 迷いのない一言に思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

「どうしてそう言い切れるんだ!お前は巻き込まれただけの人間だろう!」

「いえ、確かにそうですけど……断言できます。だって私が出前を届けた時、爽平さんからはタバコの匂いがしませんでした」

 虚を突かれる。

「もちろん玄関からも特別匂いは感じられませんでした。それに……」

 ヒメは少し躊躇って言った。

「それに、私たちが部屋を離れたのはほんの数分です。タバコの火だけで部屋全体に火が回るのはおかしいと思います」

 はっきりと、ヒメはそう言い切った。そうだ。事件に巻き込まれたという事は同時に事件の目撃者となるではないか!つまり俺の無実の証言者ともなり得るわけだ!

「今君が言った事、総務課の人にも……」

「無駄でした」

「え」

 ヒメは悲しい目をして言う。

「定食屋の娘の話なぞ信用ならん、と。そして第一に、あの部屋は密室でした。爽平さん以外に犯人はあり得ないと」

「そんな……」

 そうだ。ヒメと中庭に出る時、俺は部屋の鍵を閉めた。すなわちあの時俺以外に部屋に入れる人間はいなかったのだ。諮問会議でも何度もそう言われた。

 やはり駄目か。俺はここを去る以外に未来がないのか。

「あの、うちに住みますか?」

「え」

「住む場所がないのでしたら、うちに来ませんか?古くて狭い家ですが昔下宿屋を営んでいた事もあって部屋は余っています。もちろん、食費も込みで」

「金はないぞ!全部大学にかっさらわれたんだ」

「大丈夫です。爽平さんが無罪になればそのお金は返ってくるんですよね?その時にまとめて宿代を支払ってくれれば大丈夫です」

 赤の他人に、そこまで信用を持てるのだろうか。

「もちろん、その分金利をいただきますよ!……えぇと、20%でどうでしょう」

 ずいぶん暴利だぞ!と思ったが、ヒメは満面の笑みを崩さない。さすが料理屋の娘だ。だがもう一度身を顧みてみる。そうだ、こんな俺に対して金を融通する人間、他にはいない。こいつは親切で言ってるのだ。つい最近、俺にも親切を示してくれた人間がいた。その時、俺はその声に耳を傾けることはなかった。

 満面の笑みを浮かべるヒメに対し、俺の鼓動が高鳴るのを感じる。感動しているのかもしれない。この大学に来てから初めて、いや、2回目の親切に。

 

「おーい!爽平!」

 ヒメの背中から見慣れた顔が走ってくる。

「結城。帰ったんじゃないのか」

「サークルが終わって帰ろうとしたら寮で火事があったって聞いて、そしたらお前の部屋だって言うじゃんかよ!心配になって探し回ってたんだ」

 結城の顔には幾筋かの汗が流れていた。結城はなおも言葉を続ける。

「大丈夫か?怪我はないか?今日はうちに泊まれよ。伯父さんには俺から事情を話すから。まったくお前が火事なんか起こすはずがないじゃないか、タバコなんて吸わないんだから!誤解は俺がなんとか解いてやる!」

 ここでようやく俺は気づいた。なぜ自分が結城に頼りっぱなしの人生を送ってきたのか。それは結城が自分に対して持つ異常なほどの庇護欲が原因なのだ。

 俺はにじり寄る結城を手で押しとどめる。

「宿はもう見つけた。それに、この誤解は俺が必ず自分でケリをつける」

 堂々と言い切ることができた。胸を張る俺に、結城は一瞬たじろいだように見えたが、次の瞬間にはその顔には深い安堵の表情が浮かんでいた。

「よかった。自分で決めたんだね。これで爽平も心配ナシ、俺もお役御免だ」

 結城はまるで子供が親離れしたような気でいるようだが、逆だろう。お前が子離れできたんだ。と、思う。だがそんなことどうでもいい。あの時の、初めて2人が友人となった時の感情が俺と結城の間を飛び回っているように感じた。

「さ、帰って夕飯にしましょう」

 ヒメが朗らかに俺を促す。確かに腹が減った。ふと、右手に持っているものを思い出す。

「サツマイモならあるぞ」

 ヒメはその瞳を大きく開けてから慈愛に満ちた表情をして言った。

「今日はハンバーグなんですよ。お芋はまた後日ですね」

「そうか」

 そうだ。これから数日、同じ屋根の下で生活するわけだ。何もあせる必要はない。

「随分余裕がありそうだな。俺はもう帰るが大丈夫か?」

 結城が顔を覗き込んでくる。

「ま、なんとかなるだろ」

 決して強がりを言ってるわけでもない。両隣を見て、本心からそう思えた。




 「定食屋」

 それがヒメが働いている店の名前だった。「来々軒」のような中華風味でもなければ、「定食処 わしょくや」といった丸い雰囲気も無い。奇を衒う様子の無い、そのままの店名だ。

加えてこの店は同時にヒメの生家でもあり、単なるアルバイトではなかったようだ。大学の正門から歩いてすぐのところに建っており、立地はすこぶる良かった。だがそこに客の影はなく、代わりに『本日休業』と書かれた札が入り口の扉にかかっていた。

「金曜なのに休みなのか」

 なんの考えなしに呟いてみる。

「いえ、爽平さんの事が気になってましたので、店を閉めて探していたんです」

「な、そこまでして心配してたのか。というか、親に店番を頼んでおけばいい話じゃないのか?」

 お人好しも度がすぎると思い、感謝の礼もせず一般論で返す。しかしヒメはそれに俯いて答えた。

「父と母は、数年前に亡くなってしまいました。妹も去年から全寮制の中学に通っていて土日にしか帰ってこれなくて。今は近所の親戚のおばさんが手伝ってくれますが、一人で店を任せてしまうのは申し訳なくて……」

 なんてこったい。さすがに今のは自分でも馬鹿だと分かった。

「すまん、出すぎた事を言ってしまった。好意に甘えて、無遠慮だった」

 ヒメは非難の目を向けるでもなく、ただはにかんで話を締めた。

「いいんですよ」

 ナイーブな問題だ。同じ家に住んでも線引きはしっかりしなければ。


 店の中はその名の通り「定食屋」であった。可もなく不可もなく、といったところだろう。4人掛けの机が8つほど並び、奥にはカウンターで仕切られた調理場が見えた。その横には2階へ上がる階段も見える。一見すると街の中華料理屋という印象だが柱やカウンターは味わいある木製であり、折衷式料理屋のような雰囲気もある。

「調理場の奥は居間やお風呂、洗面所があります。寝起きする個室は2階で、爽平さんのお部屋は一番奥になります……あ、いけませんっ、部屋のお掃除が先ですね。10分くらいで終わるので爽平さんはここで待っていてください」

 そう言うとヒメは階段前でスリッパに履き替えぱたぱたと2階へ上がっていった。俺はというと家主の命令どうり適当な椅子に座って大人しくしていた。

 そこでもう一度店を見回してみると、カウンター脇に半畳ほどの小さな個室があるのに気が付いた。それも普通の個室ではなく外に突き出した格好だ。その個室にはガラスの小窓とカウンターが備え付けられており、その下には小さな冷蔵庫や菓子類が詰め込まれていた。この建物を鳥瞰したとすると、長方形の建物の、道路に面している部分の一部がが嘴のように突き出ている感じだ。

 どうも奇妙な造りだな思っていると、掃除を終えたのかヒメがゴミ袋を手に提げ降りてきた。

「なあ、あれは一体なんだ?」

 指で示してみると、ヒメはまた笑顔で答えた。

「ああ、お持ち帰り用の窓口ですよ。お酒や軽いおつまみなんかをお持ち帰りする際、わざわざお店に入らなくてもいい様に父が設置したんですよ」

 なるほど、考えたものだ。


 夕飯はすぐに準備ができるということなので、一旦部屋に上がることもなくそのままカウンター席で出来上がりを待っていた。長髪を後ろで縛り上げカウンター越しに手早く調理をするヒメを見て、料理屋の娘だなぁ、と当たり前の印象を受ける。

 ヒメの言った通り夕餉の準備はすぐにでき、目の前にはワンプレートのハンバーグ定食が置かれた。わざわざパセリまで添えられ、彩りある見た目に加え漂う匂いが空きっ腹を刺激する。「いただきます」と料理に手をつけようとした時、ヒメが肩をとん、と叩いた。

「あの、爽平さん……ちょっとお願いがあるのですが……」

 先ほどまでの装いのない表情から一変、ヒメの顔は多少赤みを帯び、目線は下を向いていた。

「先ほども言ったように私には日常的に夕食を一緒に摂る人が居なくて、土日以外は一人で夕食を食べているんです。ですから……その……」

「飯の準備が1人分しか無かったのか?だったら……」

「違います!」

 今度はきっぱりと言い放つ。

「うちは料理屋ですから食事の心配はありません。ただ……せっかく爽平さんが居るということなので……」

 話がさっぱり見えてこない。何も言わない俺を見て意を決したのか、ヒメは俺に近づいた。

「一緒にご飯を食べて欲しいんです!」

 ヒメの顔は火がついたように真っ赤だった。

「わ、分かった。そのぐらい、お安い御用だ」

「では、これからは毎日一緒に朝夕の食事をしてくれますか!?」 

「お、おう、大丈夫だ」

 ヒメの顔は一気に緩み、その瞳がわずかに潤んでいるのが見えた。なぜそんなことにこだわるのだろう。食事ぐらい、一人で食べても変わらないと思うのだが……まぁいいだろう。

 

 結局夕食は居間で食べることになった。今では珍しく畳がそのまま敷いてあり、ここに一家団欒が加われば「古き良き日本の家庭」になるのかもしれない。

 確かに、誰もいないこの家で一人食べる食事は寂しいだろうな。

「ハンバーグ、お口に合いますか?」

 ニコニコ顔のヒメが聞いてくる。ご飯の炊き具合から味噌汁の塩加減に続き、質問攻めが続く。妹以外との食事が楽しいのだろうか。

「おいしいよ」

 実際に料理は完璧だった。さすがと言う他ない。当分母の味に飢えることはないだろう。


「ふ~、食った食った」

 ヒメの質問攻めを迎撃しつつ、なんとか食べきることができた。やはり学生用なのだろうか量が多かった。「ごちそうさま」と手を合わせようとした時、

「あれ、まだ残ってますよ?」

「え?」

 ヒメの指摘が飛ぶがそんなことはない。茶碗には米粒一つ付いていないし皿にはパセリぐらいしか残っていな……

「パセリが残っています」

「ええ!?」

 冗談だろ、と言おうとしたがヒメの表情は真剣だった。

「パセリは栄養満点なんですよ。それを苦いからといって好き嫌いしてはいけません。うちのお客さんには必ず付け合わせまで食べていただきます」

 自分は好き嫌いしない方だと思っていたが、どうやら「定食屋」の基準ではそうではないらしい。

「さぁ、パセリを食べるまでが食事ですよ」

 まるで遠足時の先生のようなセリフを吐きながら、ヒメは自分の箸でパセリを食べさせようとしてくる。仕方がない。郷に入っては郷に従え、だ。

 「あーん」のような形で、パセリを食べる。独特の香りが鼻をつくが、まあ食べられないわけでもなかった。

「はい、よくできました」

 ヒメは満面の笑みを顔に讃える。俺は生徒か。 

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