11.冬から春へ

 冬が過ぎて巷の木々にも彩りが芽吹き、いよいよ桜の季節がやってきた。泰宏は高校生活二度目の春を迎え、程良い陽気にそれとなく身の引き締まる思いを抱いていた。

 今日は始業式の日だ。その退屈な式も既に終わり、簡単なホームルームだけで今日はおしまい。

「よぉ、泰宏!」

「あ、勇之助」

 帰り道、友人の勇之助が後ろから駆け寄ってくる。相変わらず人好きのする快活さだ。


 ――俺は一体、何を。


 あの『事件』の日、引いてはその日までの数日の記憶が、彼には曖昧だった。ねねの言う通りであれば、あのギターによる呪縛が解けたためだという。

 氷緒に酷いことをしたのも、無論、彼の自由意思による行為ではない。

 だが――小さな執着は、たしかにあった。彼は氷緒が好きだったのだ。たとえ彼女に憑いたギターが彼女の周囲の執着心を奪っていたとしても、完全には消せないほどに。その純粋な懸想を利用されたのだ。

 そんな事情を、当人は皆目まるで知る由もない。どこかぼんやりとした霧中のようだった日々に対する違和感も、春の訪れと共にやがて薄れてしてしまったようだ。消せない十字架を背負っている本人は、それを知らず、今日も友と笑い合う。

「元気にしてるかな」

「ん? ……あぁ。だと、いいな」

 氷緒は――彼らと共に、この桜並木を歩くことはない。

 あのギターを失ってから、ウソのように、彼女の両親はかつての温かい関係をみるみる回復させたらしい。それは氷緒が切望していた、『夏のツグミ』でなくてもいい家。それが、心の支えとなっていたギターを失うことで得られたのだ。あのギターのために家庭は冷え、しかし支えでもあり手放せず、それゆえに孤独は増し――怪奇の円環は、開放された。

 そのことが契機となって彼女の家庭環境は大きく動き、進級を待たずに引っ越しすることになったのだ。彼女の込み入ったプライベートな家庭事情にまで耳目は及ばないにせよ、なんとも急な変化だったとは察せられる。寝耳に水もいいところだ。

「手紙とか送ってみようか。メールとかラインじゃ味気ないしね。……っても、ラインはしてないんだっけ」

「はは。まぁ、いいんじゃねぇか。俺も協力するぜ」

 黒峰一家が引っ越した理由はもう一つある。もっとも、これは泰宏の推測も混じっている。

 氷緒は――あの一件で、軽度ながら男性恐怖症を患ってしまったのだ。原因は決して話さなかったが、事態を重く見た両親は娘の精神面への配慮も兼ね、のどかで落ち着いた郊外の土地へ、という選択をした。今回の慌しい引っ越しは、そんな風にも取れる。

「むしろ、会いに行きたいね。いやもちろん、治ってからだけどね」

「早く治るといいな。なぜかあんまり覚えてねぇんだけど……三人でメシ食ってる時、すげぇ楽しかった記憶があるんだよな」

「……ははは」



 それから泰宏は自宅に戻り、新学年・登校一日目の余韻とともにベッドへダイブした。桜の花びら舞い散る清新な春の朝に、黒髪をなびかせる少女の朗らかな笑顔――そんな取り合わせが見られないことは、やはり寂しかった。

「これ、若人がお天道様の上っとる内から惰眠をむさぼるか」

「……いいじゃんか。なんか疲れたんだよ、なぜかさ」

 ぶーたれる泰宏を、かたわらで和服姿の少女――ねねはクスリと笑ってからかう。

「氷緒と一緒に通いたかったよ。叶うことならさ」

「またそれか。お前様も懲りぬやつよ。あれは不運な事故じゃ」

 あの日のことは、さすがのねねもあまり自分から口に出して触れることは少なかった。

「……事故ね。ねねは、ああはならないよね?」

「我が? 馬鹿を言うでない。諧謔はもっと上手に弄さぬか」

 僅かに口角を上げ、しとやかに彼女は微笑む。御年九十四歳。新たな年を迎えても、あまり彼女は変わらないようだ。

 すると突然、彼女はふわりと浮かんだかと思えば、泰宏の隣に寄り添うように寝転んだ。

「うわ!」

「何を驚く。我とお前様の仲じゃろて」

「そんな仲なった覚えないよ……」

 愚痴りつつも、泰宏は退かなかった。そのままの態勢で、ねねは続けた。

「忘れろ、などとは言えぬ。じゃが、もし我がお前様の傷心を慰められるなら――我はこの身朽ちるまで、お前様に全てを捧げる所存じゃ。我を見初めてくれた主に対して、それが付喪神の本望というものよ」

「また調子のいいことを」

「……本音じゃ、ばか者め。こんなに愛らしい蓄音機に寝屋で囁かれて、何が不満じゃ。こんな果報者、世界に二人とおらんわ」

「はいはい」

 柳に風とばかりに受け止め、それでも泰宏は、ねねを無理にどかすようなこともしなかった。彼女のやや朱が差した頬を見ずとも、声色で分かることもある。

 そして、泰宏は小さく口を開いて。

「……ありがとう、ねね」

 明らかに照れ混じりな声で、万感の思いを伝えるのだった。

 途端に、隣でぱぁっと顔を輝かせるねね。

「聞いたぞ聞いたぞ、いやいや。お前様、やっぱり愛いところもあるではないか」

「うるさいな、忘れちゃえよ」

「忘れるものか。くふふ……」

 幸せそうに微笑む付喪神を傍らに、泰宏は窓から空を見た。冬から春へ。冬鳥の渡る寒空は遥かへ去り、今は暖かい青空が広がっている。

 過去を胸に刻み、新たな明日を。

 そんな決意を、胸中で強く抱くのだった。

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