クレモンとトラブール-フランス・リヨンの中世物語

ふじりじん

クロワルッス

一、ガストンおじさん

リヨン市の北に、通称働く丘と呼ばれるクロワルッス地区がある。そもそもリヨンはローマ帝国の時代から栄えた歴史ある都市だが、クロワルッスはその中でも、十八世紀から十九世紀にかけて集中的に絹織物の職人が住んでいたという点で異彩いさいを放つ場所だ。織物職人が数多く住んだこの場所は、今ではリヨン市民がこぞって住みたがる人気地区に変貌へんぼうした。クレモンは会社員の父と母、妹の四人家族でその一角に住んでいる。


「おい!そこで何してる?子供の遊ぶ場所じゃないって何度言ったら分かるんだ!」


このだみ声はいつものガストンおじさんだ。


「見えないと思って好き勝手するんじゃない!」


チボーとアレックスは、学校が終わるとだいたい小学校から同じ学校に通う幼ななじみのクレモンの家に遊びにやってくる。宿題もせずに。


クレモンの家はサンジャン要塞と呼ばれる、丘の上のものものしい城壁の近くにある。かのナポレオン・ボナパルトが、馬上の人となってこの要塞の側道を駆けあがったこともある。

要塞をあがりきったところに今は使われていない入口がある。少しくぼんでいるから人目に付かない。そこから城壁跡をよじ登っていくと、国立国庫財政学校の敷地内に入ることができる。こっそりと校内に忍び込んで、バスケットコートや矢倉に上って遊ぶのはスリリングでワクワクする。しかもそこからはソーヌ川を見下ろす絶景が広がるのだ。

東向きの城壁に開けられた穴から、ナポレオン三世が開通させた大きなクロワルッス通りが見える。その銃口は、十九世紀に反乱を起こしたシルクの職人を打ちのめすために使われた。そこから覗いていた時に、ガストンおじさんと目が合ってしまったのだ。すごすごと壁を降りざるを得なかった。


「次こそは学校に侵入者がいると通報するからな。今まで散々目をつぶってやったのに。」


チボーは家では食べさせてもらえない毒々しい色のキャンディーを、人目につかない城壁に隠れてこそこそと食べるのが何よりの楽しみだ。どうりでずんぐりむっくりな体型をしている。おやつを楽しむチボーを横目に、壁を見つめるのはアレックスだ。アレックスは壁を見るとよじ登りたくなる。背が高くて、友達が届かない所まで手が届くし、なによりスポーツ万能で力もあるから、かなり難しい壁もクライミングできる。見つからないためには、スピードも必要だ。チボーとクレモンが上がるのをすばやく手伝えるのも、運動神経抜群のアレックスだからこそこなせる技だ。


「その壁は安全じゃないんだ。城塞じょうさいだからがっしりしているように見えるが、いつ崩れ落ちるかわかったもんじゃない。」


生えぎわだけ黒い口ひげが八の字に伸びたガストンおじさんはリヨンのことなら何でも知っている。そして、リヨンの話をする時はいつも右手でその口ひげをでる。


「そもそもお前たち、この要塞がいつできたと思ってるんだ。二百年も前だぞ。老朽ろうきゅう化してるに決まってるんだ。古いところは十六世紀だぞ。何年前だと思ってやがる。危ないったらありゃしない。お前たちは知らんだろうが、このサンジャン要塞の下にソーヌ川があるだろう。そこを攻めあがってくる敵から町を守るために作られたんだ。聖ヨハネサンジャンなんて聖人の名前がついてるが、いかめしいもんだ。昔は市民を守った要塞が、今じゃ俺たちの金を監視するやつを育てる養成所になっちまってる。まぁ国や役所の不正をあばいてくれるなら、ある意味俺らを守ってくれてんだがな。」


口ひげをでながら話すガストンおじさんは思い込みが激しい上に、何回も同じことを繰り返す。この話も既に五回は聞いている。特に歴史が好きだ。


だがクレモンは、そんなガストンおじさんのことが好きだ。クレモンもガストンおじさんも、同じクロワルッス地区に住んでいる。おじさんと言っても、クレモンのお父さんとは腹違いの兄弟で、歳が二十も違う。ガストンおじさんの髪の毛の色は今こそロマンスグレーだが昔はもっと金髪に近かった。クレモンの髪の毛はクリのジャムのような栗毛くりげ色だ。

クレモンの祖父、ピエール爺さんはシルクの街リヨンで育ったことを誇りに思っているのか、いつも色鮮やかなシルクのスカーフを首に巻いている。今ではじいさんらしく白髪になったが、昔は少しグレーがかった黒髪と派手な色のスカーフというスタイルがよく人目を引いた。


両親が再婚のチボーには半分兄弟-ドゥミフレール-がいる。アレックスの家はもう少し複雑で、両親は二人とも女の人で、はやりの同性婚どうせいこんというやつだ。


ガストンおじさんは、長くリヨンの郊外で仕事をしていた。ルノートラック社の本社がリヨンの東郊外、サンプリエスト市にあり、そこで長らく技師として勤めていた。去年そこを定年退職し、ピエール爺さんの世話をするために、故郷のクロワルッスに帰ってきた。クレモンの家もガストンおじさんの家も、そしてピエール爺さんの家も、みんな天井の高いアパルトマンだ。


シルクの職人はカニュと呼ばれていて、カニュのアパルトマンは天井が高い。


ジャカードという人が既存の技術を組み合わせた画期的な織機おりきを発明して、絹織物業が大きく変化した。織る人と糸を手繰たぐる人の二人で作っていた絹織物が、たった一人で織れるようになった。パンチカードという、針を通して模様を作る穴の開いた板のおかげだ。ヴォーカンソンが発明していた水力自動織機すいりょくじどうしょっき、時計に使われていた針の運動原理も応用した。三つの技術を組み合わせて一大発明を成し遂げた、ジャカードの織機おりきは日本でも飛ぶように売れた。


この織機おりきは背が高く、三メートルを超える。だからその織機おりきを入れるために、背の高いアパルトマンを、昔は果樹園だったというクロワルッス地区に集中的に作った。天井が高いから、今でいうロフトのような仕組みになっていて、二階部分は住居、一階は作業場になっていた。天井が高いから、生活空間が広い。それが現代になって人気が出ている理由だ。


クレモンとガストンおじさんの家も、つまりはかつて、そうしたカニュ達が住んでいたところだ。ピエール爺さんにいたっては、代々続くカニュの家系に生まれ、戦争に行くまでは自分もカニュとして働いていた。そして今も、何代にも渡って受け継がれてきた職人の工房に暮らしている。


「そこのクロワルッス大通りに毎日市場が出るだろう。俺の母ちゃんは毎日そこで新鮮な食べ物を買ってきてくれたんだ。口癖だったよ。市場じゃなきゃダメだって。スーパーのもんなんか食うんじゃねえ、ってな。」


ガストンおじさんは、お母さんがそうしていたように、ピエール爺さんに毎日市場の野菜を食べさせている。


「チボー、そんな色のもんばっかり食ってると、どこぞの国の肥満児みたいになるぞ。さてはお前、ハンバーガーも好きなんだろう!」


そう言われるのがイヤで、チボーは人前で真っ青や真っ赤の細長いボンボン菓子を食べたくないのだ。


「でもおじさん、食べたことないんでしょ?食べてみたらおいしいんだから、ちょっと試してよ。ホラ!」


チボーはお調子者特有の愛嬌あいきょうを持っている。が、ガストンおじさんに通用したことはない。


「ノン!何度言ったら分かるんだ!いらんと言ったらいらん!」


「もうそろそろ帰るよ、おじさん。まだ明るいけど六時過ぎちゃったしね。」


「そうだな、クレモン。どうせ宿題もまだやってないんだろう。たまにゃお隣のクロエちゃんを見習いな。学校から帰ったらすぐに宿題するらしいじゃないか。あの子は可愛いのに勉強もできる。それに比べてお前たちはどうしようもないな!」


クロエも幼なじみだが、彼女は中学から近くの優秀な私学、シャルトルー校に通っている。幼稚園から高校まであって、全校生徒二五〇〇人というマンモス校だ。カトリックの学校でチャペルがあるのだが、パリのサントシャペルを彷彿ほうふつとさせる美しいステンドグラスで飾られている。敷地内も、かつて修道院であったゆえか、今でもどこか勤勉な人が行き交うような雰囲気がある。


「あいつはエライんじゃないよ!ただ学校が厳しいだけだよ!」


優等生のクロエの話をされるとなぜか腹立たしい。本人に対して恨みはないのだが、比べられると良い気がしない。夕日に向かって先に歩き始めていたチボーは、自分に言い聞かせるように答えた。先に進んだチボーの背が低く見えるのは遠近法のせいではなく、クレモンとアレックスよりも十センチ以上低いからだ。特にアレックスは中学生離れした立派な体格をしている。

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