三、人文主義(ユマニスム)
中世のリヨンは、市場と印刷で栄えたことは既に述べた。ここでいう中世とは、厳密な歴史的区分からいえば正確ではない。西洋では一四五三年、イスタンブール(コンスタンチノープル)陥落をもって中世が終わったと
印刷術は思想の伝達に大いに役立った。十六世紀、
ペトラルカが古典への
そのような思想家の中でも、エチエンヌ・ドレは突出した存在だった。才色兼備、とは言い難い
「やぁ、グリフさん、今日もラテン語の校正ですか?」
エチエンヌ・ドレはトマサン通りにあるセバスチャン・グリフの印刷所に顔を出した。グリフのお蔭で出版物を刊行し、印刷界に人脈ができたドレは、こうして彼のために印刷物のラテン語チェックに来ることがある。
「おー、エチエンヌ、来てくれたか。いつも助かるよ。お前のようなラテン語の権威はなかなかいないから。それにしても、良かったな。王様から十年間の印刷特権をもらったんだってな。」
「そうなんです、グリフさん。ラテン語の詩集なんかも出す予定なんですよ。その時にはグリフさんの印刷機をお借りしたいと思って。私も近いうちに自分の印刷所を持とうかと思っているんですが。」
ドレは一五四〇年ごろに自身の印刷所を持つまではグリフの印刷所を借りることが多かった。彼の最初の本である『トゥールーズに対する二つの演説』はグリフのところから出版された。彼はイタリアのパドヴァで勉学を
「おー、使いたいだけ使いな。王様もラテン語の出版物に力を入れたいんだろう。大衆向けの作品が増えてきて、文化レベルが下がるのを恐れているのかねぇ。」
「そうなのでしょうか。フランソワ一世はどうやらフランス語を公用語として採用したいと思っている、という話も聞きますが。ラテン語もフランス語もともに発展させたいということかもしれませんね。まだまだフランス語を話さない地域も多いですしね。」
実際、フランソワ一世は一五三九年にヴィレ・コトレ
「それにしても、ラブレーの『ガルガンチュア』と『パンタグリュエル』は素晴らしいですね。検閲に余念がないソルボンヌ大学への風刺がたまらなく面白いですよ。」
もともとノートルダムのパリ司教座教会付属神学校を起源とするソルボンヌは神学校として名高かった。かのスコラ学の大家でドミニコ会の修道士であるトマス・アクィナスも
ラブレーはモンペリエで医学を修め、ギリシャ式
ドレはラブレーを評価していた。特に医師としての能力を高く評価した。ドレは自分のラテン語の詩集の中で、
フランソワ・ラブレー、アポロンに授けられた名誉と栄光、
と絶賛している。
ドレとラブレーは、グリフを通じて友好な関係を築いていた。ラブレーは医者でありながら、知識人との交流も多く、顔の広い人物だった。しかし、一五四二年にある事件が起こる。ラブレーは『ガルガンチュア』と『パンタグリュエル』に何度も手を加えていたが、一五四二年、フランソワ・ジュストの印刷所で、ソルボンヌ派への批判的表現を
ドレは物腰の柔らかで、言葉遣いの丁寧な男だが、一風変わった、気難しい頑固者でもあった。この出版に悪気がなかったかどうかはわからない。
ラブレーは慎重だからか、人付き合いがうまいからか、あるいはその医師としての腕前を評価されていたからか、王様にも気に入られ、ソルボンヌ大学神学部の禁書リストに載りながらも、王の出版特権を獲得し、同書の『第三の書』を一五四六年に出版している。
ドレが話題を変えた。
「それにしても、グリフさん。最近、ノストラダムスさんという人の予言がはやっているそうですね。」
「あぁ、彼ね。かなり多才な人らしいな。リヨンでもいろんな本が出版されているんだが、まだ予言書は出てないな。未来が見えるなんてすばらしい能力だな。自分の将来が知りたい奴なんか山のようにいるだろう。なんだかまた近いうちにリヨンにくるそうだ。今度こそ予言書を出してほしいもんだ。」
「そうですか、彼が来た時にはぜひ知らせてください。一度お会いしたものです。この国の未来がどうなっているのか、ご教示ねがいたいので。」
人文主義の流行したこの時期、思想だけが発展したわけではない。ルネッサンスに続いて宗教改革が大きなうねりをもってヨーロッパを
ドレはグリフの印刷物に一通り目を通し、
「グリフさん、さすがです。
グリフは多言語を話す、言語能力にも
「そうか、ありがとう。助かったよ。これで印刷にかけて、今度の市場で売りに出せる。そういえば、ルイーズもエチエンヌに会いたがっていたぞ。詩を出してくれって来たんだが、ちょっと今は忙しすぎる、って断ったんだ。ワシの弟子のジャン・ド=トゥルヌのところで聞いてみな、って言ったんだが。その時にお前のことを尋ねられてな。」
「ああ、ルイーズですか!そういえば、しばらく彼女に会っていないな。今もクロワルッスの丘のところにいるのでしょう?」
「あぁ、そのはずだ。ちょっとのぞいてきてやったらどうだ?」
「そうですね、行ってみます。」
ドレはグリフの印刷所を出てトマサン通りを西に進み、ソーヌ川沿いに出た。
この辺りは現在サンニジエ教会が建つところだ。この地区は、今でもチーズ屋通り、
この地区はカトリックとはいえ、権威を嫌う進歩的な信者も多く、ドレは
「そうだ、仔牛でも買って行ってやろう。」
と思いついた。川岸の船着き場で着船している
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