▼第二章  『インナースペース』

♯1

 ―――その約4時間前―――。

 


「UV弾頭ミサイル第二射、起動エレベーター・ピラー内への突入を確認!」

「超ダウンバースト第二派、本艦到達まであと20秒デス」


 カオルコ、そしてルジーナの報告がブリッジに響いた。


「連中、別れの挨拶も無しに行ってしまったな……」

「そりゃそうよ、これはあくまで一時的な別行動なんだもの」


 去りゆくクィンティルラとキルスティを思い心配気に呟くカオルコに、ユリノはそう言ってから心の中で付け加えた。


 ――そんなフラグを立てるような縁起の悪いこと言えない――と。


 「さよなら」と口にしてしまえば、それが現実になりそうで怖い……そういう気持ちは、ユリノにも痛い程理解できた。

 ともあれ滅茶苦茶乱暴な手段ではあるが、これで手筈通り昇電の木星脱出に打てる手は全て打った。

 あとは二人の健闘を祈るしかない。


 ――昇電軌道エレベーター・ピラー内突入から30秒経過――。

 ――木星・大赤斑直下より東へ約1000キロ・深度約2300キロの深深度雲海内――。


 〈じんりゅう〉のクルー達に、送り出したクィンティルラとキルスティの心配を、いつまでもしている猶予は無かった。

 ここから先は、自分らのサバイバルに集中せねばならない。


「よし、みんな……行くわよ! 各セクション、用意は良い!?」


 やや上ずった声のユリノの問いに、サヲリ達クルーの返答が次々と返って来た。

 ユリノは艦長帽を一旦脱ぎ、髪を書き上げると再び被り直した。

 次は自分らが頑張る番であった、さもなければ全員があの世行きなのだから……。

 ……だが、今の自分らに与えられた選択肢は一つだけだった。

 自分らに許された自由は事は、それを精一杯やる事だけだ。

 ユリノはどうしても艦長帽を掴んだ手が震えるのを感じつつ、大きく息を吸うと、指示を開始した。


「フィニィ、カウント3でスマートアンカー切断、自由落下しつつ艦首解回頭180、艦首を真下に向け次第、全速降下!」

「了解、カウント3でスマートアンカー切断します。みんな、いちおう踏ん張っておいて」


 フィニィがユリノの指示に答えると、まず〈じんりゅう〉を軌道エレベーターのピラーへと繋ぎとめているスマートアンカーを切り離す準備に入った。

 出来る事なら再回収したいところだが、高温高圧大気下でスマートアンカー内の機構が損壊しており、ピラーから離れるには、アンカーから伸びるワイヤーを艦首内部で切断するしかない。

 そしてそれは、スマートアンカー切断と同時に、〈じんりゅう〉が木星の2.5Gの重力に引かれ落下することを意味していた。

 いくら艦内が人工重力下にあるとしても、それはクルー達にとって、きっと良い気分では無いに違いない。

 艦内の人工重力システムは、クルーに艦の置かれた状況を知らせるべく、完全にはGの変化を消してはくれないのだ。

 ユリノは思わず「ああ、やっぱりちょっとたんま!」と言いそうになる唇を噛んだ。


「3……2……1……アンカー切断!」

「!」


 フィニィの宣言と同時に、バチンという金属効果音がブリッジに響き、〈じんりゅう〉はスマートアンカーによって木星重力に抗うことを止めた。

 一瞬、内臓がふわりと浮かぶような極めて不快で不安な感覚と共に、ブリッジ正面のメインビュワーの彼方に打つピラー壁面に空いた裂け目が遠ざかっていく。


「おおおおお……」


 ユリノは肱掛けを握りしめながら、悲鳴を堪えた。


「艦首回頭180、ダウントリム90へ!」


 メインビュワーに映る〈じんりゅう〉の姿勢を示すインジケータが猛烈な速度で移動するのと同時に、ピラーが画面下方に消えていく。


 ――だからなんでいつもピッチで向きを変えたがるのっ!? ――


 ユリノは何かというと艦首を上下に振ることで向きを変えたがるフィニィを呪いながら、必死で目を瞑りたくなるのを耐えた。

 ユリノは急いで回頭し過ぎて、オリジナルUVDが連結部分で折れてしまうのではないかと気が気で無かった。

 が、全長350メートル+オリジナルUVDの長さが加わった〈じんりゅう〉は、自由落下しつつも高圧の木星大気を掻きわけるようにして、艦首を直下に向けた。

 メインビュワーの彼方に、木星雲海の底が、位置情報視覚化LDVプログラムによって赤黒い闇となって広がっているのが見えた。


「超ダウンバースト、本艦への接触5秒前デス! 5……4……」


 ルジーナの報告。

 同時に今や背後となった木星雲海の上方から、ゴゴゴゴという合成効果音では無い生の風音が、座席を揺さぶるようにして聞こえてきた。

 それが超ダウンバーストがもたらす音と振動でありことは、誰かに尋ねるまでも無い。


「全速降下開始します!」


 フィニィが宣言すると同時に、スロットルレバーを上げた。


「超ダウンバースト接触しますデス!」


 ルジーナが叫んだ。

 一瞬遅れてきた超ダウンバースト接触による衝撃が、〈じんりゅう〉自身の加速Gに加わり、背中がどすんとばかりに座席に押し付けられ、ユリノは否応も無く肺の空気を吐き出した。

 ブリッジ内に、クルー達の悲鳴が響く。

 この半日で分かったことであったが、大気圏内で速度をだすことは、真空宇宙空間でその何百、何千倍の速度を出している時よりも遥かに怖い。

 それはきっと、己の移動速度を知る為の視覚情報が多いからだろう。

 ついさっきまで澱んでいた〈じんりゅう〉を包む雲のディティールが、位置情報視覚化LDVプログラムにより、徐々に紅くし染まっていくと同時に、艦首から艦尾へと流れ始めたかと思うと、みるみる内に目にもとまらぬ速度へとなっていった。

 〈じんりゅう〉メインスラスター先端にオリジナルUVDを連結しているが故に、本来の推力を封じられていたが、それに艦尾から襲いかかって来た超ダウンバーストが加われば、話は別であった。

 その速度に、ユリノは戦慄せずにはいられなかった。

 しかも今の〈じんりゅう〉は、水平移動ではなく降下しているのだ。

 あるかどうかも分からない低気圧空間を目指し、真っ逆さまに……。

 この普段の宇宙戦闘では味合わない恐怖は、もしかしたら地上で進化してきた生物としての、高所からの落下に対する本能的な恐怖なのかもしれない。

 もし、気休めになる事実があるとしたら、10キロ下にあるという低気圧空間があるにしろ、無いにしろ、答はすぐに出るということであった。

 ユリノの睨むメインビュワーの隅で、マイナス高度計と気圧計の数値が、嘘のような数値へと目にもとまらぬ速さで跳ね上がっていく。

 それに呼応するかのように、バトルブリッジ内にUVシールド・コンバーターが限界を迎えたという警告音がけたたましく響いた。


「UVシールド・コンバーター間も無く限界に達します! 損壊までもってあと30秒!」


 キルスティから機関部担当を引き継いだ副長サヲリが、席で身体を突っ張らせながら報告した。

 直下への潜航開始と同時に猛烈に増していく木星大気の圧力に、とうとうコンバーターの耐久力が屈しようとしているのだ。

 むしろ今まで良くぞ持ったというべきなのだろう。

 外付けコンバーターが限界を迎え損壊してしまえば、〈じんりゅう〉は自前のUVシールドジェネレイターのみで高温高圧に耐えねばならない。

 いかにオリジナルUVDがほぼ無限の出力があっても、ヒトが作ったUVシールド発生機ジェネレイターの耐久性には限界がある。この環境下では、〈じんりゅう〉が自前のUVシールドでその船体を維持できる時間は僅かだろう。

 そしてそのUVシールドさえ限界に達してしまったならば……そこから先は考えたくなかった。

 元からこの状況からさらに潜航降下するなど、正気の沙汰では無かったのかもしれない。


「目標地点到達までは!?」

「予想地点にあるならば、あと約40びょ……うわぁあ!」


 ユリノの問いに、叫ぶように答えたフィニィの声が悲鳴に変った。

 その瞬間、〈じんりゅう〉に横から殴られたかのような衝撃が加わったからだ。


「超ダウンバースト内のガス潮流の流れデス! 本艦は西から東に流れるガス潮流の中に入った模様!」


 ルジーナが叫んだ。

 考えれば当たり前のことだが、超ダウンバーストもまたガス潮流の一部であり、程度の差はあれ西から東へと流れている。

 〈じんりゅう〉は艦尾から襲いかかってその潮流に呑まれたのだ。


「艦が……流される……」


 フィニィが操縦桿を必死で捻りながら呻いた。

 〈じんりゅう〉は否応も無く、東へと流されていった。それはセーピアーからのシグナルが届いた目標地点に、そのままではたどり着けないことを意味していた。

 セーピアーが無事でいられた低気圧エリアの全容は不明だが、そこまで伸びているかは定かでは無い……。


「それだけじゃありませんデスよ艦長! 左舷前方、西方向に恐ろしく巨大物体を感知しましたデス!」

「な! ……巨大物体って何!?」


 ユリノはヒステリックになりそうなのを抑えながら、報告してきたルジーナに尋ねたが、彼女は「分かりまセン!」とキッパリ言いきった。


「ただ艦長、その物体もゆっくりとですが東に流されています とっても大きい! そして南北に超長いです!」


 ルジーナは電側コンソールを向いたまま、叫ぶように告げた。


 ――今度は超巨大物体ですってぇ!?


 ユリノはなんで今まで気づかなかったの? と問うとして、すぐに高温高圧ガス大気中のここでは、それは仕方が無いことだったと思いつつ、慌てて西方向にあたるメインビュワーの左端に目をこらした。

 それは、すぐに画面にも現れた。


「……」


 それは正しく超巨大な何かであった。

 最初ユリノは、位置情報視覚化LDVプログラムによって黒く描かれたそれが、黒いカーテンがメインビュワーの左側からかぶさって来ているのかと思ったほどであった。

 メインビュワーでは全貌を収めきれない程の、少なくとも南北で数十キロ、あるいは数百キロはある何かが、降下する〈じんりゅう〉の左前方から迫ってきていた。


[ゆりのヨ、何カハ分カランガ、トリアエズ前方ノ物体ハ硬質ナ存在デアル事ハ間違イ無イゾ]


 エクスプリカが気休めにもならない報告をして来る。


 ――それってぶつかったらお終いってことじゃない!


 ユリノは天を仰いだ。

 ユリノは最初ルジーナの報告を聞いた時、それが高濃度のガス塊か何かを誤認したものではないかと期待した……というかそうあってくれと祈ったのだが、その望みは儚くも即砕かれた。

 現状の〈じんりゅう〉が、硬質の巨大物体に衝突してしまったら、その結末は考えるまでも無い。

 木星の……それも深度2300キロ付近に、そのような巨大物体が何故存在するというのか? 〈じんりゅう〉が目指している低気圧空間とこれに、何か関係があるのだろうか?

 新たな情報に、当然の帰結と新たな疑問が沸いてくる。

 そして、いくら人類未踏の場所だからといって何でも出て気すぎだ! とも思った。

 印象だけで言えば、それは巨大な島の海岸部が迫って来ているように思えた。

 確かに人類が木星のこの深度を訪れるのは初めてなのだから、このような巨大な物体が雲海の底に存在していても、今まで気づかなかったのは仕方ないのかもしれない……が、それにしても少しばかり荒唐無稽過ぎしゃしないだろうか!?

 ユリノは憤りを覚えたが、今、それに付いて詳しく考察する余裕は無かった。


「艦長! UVシールド・コンバーター限界に達します!」


 さらに副長の報告の直後、至近距離……というより艦体それ自体からガツンという骨に響く衝撃が数度加わり、UVシールドコンバーターの限界を示す警告音が嘘のように消え去った。

 それがUVシールド・コンバーターが圧力の負荷に耐えきれず、自壊した際の衝撃であることは尋ねるまでも無かった。

 ノォバ・チーフがSSDFガニメデで取りつけ、木星雲海へ潜航してい以来〈じんりゅう〉を守り続けてきてくれていた増加ユニットの加護が、今消え去ったのだ。

 言い知れぬ心細さが、ユリノを襲った。

 そしてほんの一瞬だけ訪れた沈黙は、一秒も経たずに新たな警告音によってかき消された。


「本艦のUVシールドジェネレイターに加負荷警報! 限界まであと15秒! ……艦長!」


 サヲリがそこで言葉を途切らせ、無言で問うてきた。

 今すぐユリノは、どちらかを選ばねばならなかった。

 ガス潮流に流されるまま目標地点より東へと降下するか、潮流に抗い目標地点を目指すかだ。

 前者を選んだ場合、目標地点たるセーピアーが無事だった低気圧空間を通り過ぎてしまう可能性があった。その場合はもちろん〈じんりゅう〉はクルー共々オダブツだ。

 後者を選んだ場合、潮流に逆らった分だけ、目標地点への到着に時間がかかり、今や〈じんりゅう〉自前のもののみとなったUVシールド発生機ジェネレイターが限界を迎えてしまうかもしれない。

 さらに左舷から迫る謎の物体に激突してしまう可能性もある。

 その場合もやはり〈じんりゅう〉はクルー共々オダブツだ。

 考える猶予は10秒も無かった。


「フィニィ! 無理に目標に向かわなくていい! 潮流に逆らわず全速降下! 目標地点では無く、目標深度への降下を優先!」


 ユリノは自分で何故そちらを選んだのかを、自覚する間さえ惜しんで叫んだ。


「了解! このまま降下します!」


 ただちに〈じんりゅう〉が潮流の風上に向かおうとするのを止め、その分の推力を降下速度に回す。

 メインビュワーの左側から迫る超巨大物体の影が、その速度を僅かに緩めた。だが、そうは見え無くとも〈じんりゅう〉は猛烈な速度でその謎に物体に接近しているはずであった。

 黒い影は、メインビュワーの左半分を覆うと同時に、左舷外形ビュワーにまで影を伸ばし始めた。


「〈じんりゅう〉、間も無く超巨大物体の右側面を通過しますデス!」


 ルジーナが告げる。

 〈じんりゅう〉は〈じんりゅう〉から見て右方向、東へと移動する超巨大物体の真横をすり抜けようとしているのであった。


[ゆりのヨ、ドウヤラコノ超巨大物体ハ、相当ニ厚ミ・・モアルヨウダゾ!]


 エクスプリカが感心したように言ってきた。

 どうやら接近したことで、謎の超巨大物体を〈じんりゅう〉のこの環境下でもセンサー・レンジ内に納めることができたらしい。

 ブリッジ中央に〈じんりゅう〉を中心としたホロ総合位置情報図スィロムが投影されると、その左舷前方に巨大物体の分析結果が立体となって投影された。

 それによれば、どうやら謎の超巨大物体は、南北へと伸びる巨大な太さ10キロはある円柱状をしているらしい。


 ――何なのこれは!?


 それはどう考えても、木星の自然環境下には相応しく無い存在に見えた。

 しかし、ユリノ達にはそれについて深く考察している場合では無かった。

 セーピアーがいた目標地点の深度までは、まだ時間にして10秒以上の距離があったのだ。

 ユリノはメインビュワーに視線を戻した。

 左半分の巨大物体の黒に対し、向かい風の赤色で示された右半分のメインビュワーに映る景色が、心なしか薄ピンク色へと白み始めているように見えた。

 ユリノはそれが位置情報視覚化LDVプログラムが低気圧空間を捉えた結果だと思いたかった。


「艦長、ジェネレイター限界まであと10秒」


 サヲリの報告と同時に、警告音のサイクルが切羽詰まったかのように転調していく。

 ユリノは自分に目を瞑る事を許した。

 〈じんりゅう〉が安全地帯である低気圧空間に到達するのが早いか、UVシールド発生機ジェネレイターが限界を迎え、高温高圧に抗えなくなった〈じんりゅう〉が圧壊するのが早いか……。

 ユリノにできるのは、もう祈ることだけだった。


「あと、5…………4…………」


 ガス大気を斬り裂き降下する猛烈な風音を背景に、サヲリの声だけが響く。

 ユリノは自分とクルー達の人生に結末が訪れるか否かの瞬間が、永遠に引き伸ばされたような感覚を覚えた。

 こんなに一秒一秒が長く感じられるとは、緊張による心拍数の上昇が、思考速度を引き上げ時間間隔を狂わせたのかもしれない。


 ――嗚呼、ケイジ君……お姉ちゃん……!


 ユリノは両の拳を合わせて祈った。


「3……………………に」

「艦長! 前方にUV反応デス!」


 それはまったく予想外の言葉であった。

 UV反応!? どのUV反応? UVシールドの反応か、UVキャノンの反応? それともUV推進の反応? なぜ、ここまで来て前方からUV反応なんてあるの!?

 ルジーナから発したと思われるその声の意味をユリノが理解に至る前に、〈じんりゅう〉はどうすることもできずに前方にあるというUV反応へと突っ込み、新たな、それも凄まじい衝撃が襲いかかり、ユリノの思考は一瞬ホワイトアウトした。

 最後に目を見開いた瞬間、ユリノの目に映っていたのは、位置情報視覚化LDVプログラムがUVエネルギーであることを示す眩い蛍光緑の光であった。










 ユリノは一瞬、ここが俗に言うあの世なのかと一瞬思ったが、だとしたならばシートベルトで胸が押しつぶされるような痛みも、首がもげそうになるような横からのGも感じるはずが無いと思い至り叫んだ。


「各セクション状況報告!」と。


 そして次に思ったのは、――だとしたならば何故無事なのか? ということだ。

 一瞬前の記憶が確かならば、〈じんりゅう〉自前のUVシールド発生機ジェネレイターも限界を迎えようとしていた正にその瞬間、前方に存在した何がしかのUVエネルギーに衝突したはずなのだから。


「艦長、UVシールド維持されています! ジェネレイターへの負荷が急に現象しました!」


 必死でGに耐えながらサヲリの報告が返って来た。とりあえずどうやら〈じんりゅう〉はまだ沈んではいないらしい。

 そして副長の言葉が本当ならば、UVシールド発生機ジェネレイターが限界に達する前に、負荷をかけている気圧の方が低くなったことにより〈じんりゅう〉は潰れずにすんだようだ。

 このランダムに襲いかかるGは、おそらくUVエネルギーに衝突した際に受けた回転モーメントによるものだろう。


 ――……だけど……!


 ユリノは自由落下にピッチとヨーとロールが混ざったGに耐えながら、何とか首を捻り、視線を再びメインビュワーに向けた。

 位置情報視覚化LDVプログラムが効いているはずのメインビュワーは、真っ白に染まっていた。

 いや、よく見れば薄灰色の筋が、ランダムに画面を横切っている。

 ユリノはその光景に見覚えがあった。

 幼い頃、そして半年前の休暇で地球を訪れた際に、往還用シャトルから見た地球大気の雲間から見た景色に似ている……。


 ――ここが、セーピアーがいた低気圧空間だというの!?


 ユリノはそう結論に至った。

 そうで無ければ今頃生きていないし、位置情報視覚化LDVプログラムは気圧が高い程、色を濃く表示する傾向がある。つまり今メインビュワーが真っ白なのは、〈じんりゅう〉の外の空間の気圧が低くなったからだと考えれば筋が通る。

 メインビュワーの隅の気圧計の数値も、それまでが幻であったかのように低い数字へと低下を続けていた。

 だが、今この瞬間〈じんりゅう〉が無事でも、ユリノは安心など出来なかった。

 今〈じんりゅう〉はランダム回転しているだけでなく、低気圧空間に向かって降下した際の勢いのまま、落下し続けているのだから。

 総合位置情報図スィロムを見て低気圧空間の全貌を確認しようにも、〈じんりゅう〉のランダム回転に合わせてホロ総合位置情報図スィロムもまた猛烈に回転している為、とても目では追いきれない。

 まず〈じんりゅう〉の態勢を整える必要があった。


「フィニィ~!」

「クソぉ! 艦尾が重くって…………今……安定させます!」


 ユリノに呼ばれ、指示を聞くまでも無くフィニイが、毒づきながらもランダム回転する〈じんりゅう〉の安定を試みた。


[ゆりのヨ、〈じんりゅう〉ハ無事ニ低気圧空間ニ突入デキタヨウダガ、早ク止マラナイト、ソノママ低気圧空間ヲ突ッ切ッテ、今度ハ木星中心核ニ突入ステシマウゾ]

「ああ、そうでしょうとも!」


 ユリノはのんびりと語りかけるエクスプリカに言い返した。


「艦長! 〈じんりゅう〉降下方向に物体多数! コリジョン衝突コース!」


 唐突に響く悲鳴のようなルジーナの報告と同時に、ブリッジに今度は衝突警報が鳴り響いた。ユリノはほとんど本能で再度「フィニィ!」と叫んだ。

 ユリノは総合位置情報図スィロムに映る〈じんりゅう〉の進行方向に、〈じんりゅう〉と同等のサイズの物体が多数、川の流れのように西から東へ流れているのを辛うじて目視した。


「ふんが~!」


 フィニィが普段の彼女からは想像できないような獣染みた雄叫びと共に、操縦桿を捻った。

 直後、ブリッジの前方左右の外形ビュワーを、やたらと丸っこいジャガイモのような物体が数個擦過したような気がした。


[ドウヤラ岩……トイウカ小惑星ノりんぐヲ通過シタヨウダナ]


 エクスプリカが変らぬテンションで説明した。

 なんでそんなものが木星の中にあるの! という疑問はさておき、唐突にやってきた衝突の危機は回避できたらしい。

 数秒ほど遅れて、ようやくフィニィが艦のランダム回転からの復帰に成功していった。

 不規則な回転が、ヨーイング、ピッチ、ローリングに分けて制御されていくと、最後に〈じんりゅう〉艦首を木星上空に向け、スラスター前回で今まで行って来た潜航降下の慣性を打ち消していく。

 〈じんりゅう〉は落下から上昇へと転じていった。

 ブリッジを襲うランダムな回転Gが収まり、ユリノ達が首にかかる負荷からようやく開放されていった。

 クルー達の安堵の溜息が、ブリッジのあちらこちらから聞こえてくる。

「艦長、高圧ガス雲を抜けたことにより、本艦のセンサーレンジが大幅に拡大しましたデス! 今、低気圧空間の範囲を総合位置情報図スィロムに反映させまス!」

 ルジーナがそう告げると同時に、ブリッジ中央のホロ〈じんりゅう〉を中心とした総合位置情報図スィロムの投影範囲が一気に広くなった。


「……これって……」


 ユリノは自分らが低気圧空間と呼び飛び込んだ空間の全容の一部を知り、絶句した。


「……ニェット」

「これってホントなのか? だって……こんなの……ありえるのか」


 普段感情をあまり表に出さないサヲリさえもが呻き、カオルコが思ったままを呟いた。

 ユリノが見つめる中、総合位置情報図スィロム内に太さが4000キロは優にある横倒しの円筒状の空間が、〈じんりゅう〉を中心に東西へと際限無く伸び続けていった。

 そしてその投影範囲は、センサーレンジの限界まで達しても途切れる気配が無かった。


「どうやら本艦は、木星赤道直下の東西に横たわる円筒状の空間に飛びこんだようデス!」


 ルジーナはそう報告してくれるが、「はいそうですか」と納得できる事では無かった。

 ユリノが当初想像していた”低気圧空間”とは、せいぜい今まで〈じんりゅう〉が航行してきたようなガス潮流の内の、気圧がおそろしく低いバージョンであった。

 しかし今、総合位置情報図スィロム内で示された低気圧空間は、直径だけで1万キロはあるという……その数値は、地球が直径約1万2千キロ、月が直径約3千キロであることから考えれば、いかに驚くべき数字であるかがわかるだろう。


 ――ここは木星の中のはずなのに……。


 ユリノは続けて思った。


 ――木星の底に潜ったらまた宇宙スペースだったみたいじゃない……。


 ユリノは総合位置情報図スィロム内に、今しがたニアミスした小惑星らしき物体を確認した。

 それはエクスプリカが言ったように、円筒状低気圧空間の木星上空側……いわば低気圧空間の”天井”を、西から東へと川のように流れる小惑星の帯であった。

 それを見る限り、今そこを通過できたのは単なる幸運としか思えなかった。

 そんな中、〈じんりゅう〉を操舵するフィニィは、未だ苦しげな呻き声を漏ら続けていた。


「艦長、良く分からないんだけれど……艦がやっぱり東に流されているよ!」


 フィニイがようやくそう声を絞り出した。

 なんで……? ユリノは彼女の言っている意味がすぐには理解できなかった。

 高圧大気の中ならば、〈じんりゅう〉が西から東へ流れるガス潮流で流されるのは理解できる。だが、低気圧空間に入った今、もうガス潮流の影響など受けないはずではないのか?


『艦長、〈じんりゅう〉の船体に、強力な磁力の作用を検知。それが原因かもなのです』


 戸惑うユリノに答えるかのごとく、電算室からシズの声が響いた。


総合位置情報図スィロムを見て下さい。センサーが検知した〈じんりゅう〉周辺の磁場をビジュアライズしたのです』


 シズの声に合わせ、〈じんりゅう〉を中心とした総合位置情報図スィロムの円筒状空間の周囲に、磁石に振りかけた砂鉄のごとく、磁場の様子が視覚化投影された。

 視覚化された低気圧空間は、やはり全貌のほんの一部でしか無い。

 そしてそのごく一部しか映されていない、円筒状低気圧空間の周りに発生している磁場を見ただけで、ユリノはそれがあるものと酷似していることを感じた。


「これって……」

『〈じんりゅう〉の船体にいわゆるローレンツ力の一種がかかっていると思われるのです。この計測結果を見る限り、この磁場のパターンは、磁力を利用した一種の加速装置と酷似していると言わざるおえないのです』


 ユリノの考えをシズが代弁した。

 ユリノは総合位置情報図スィロムに映る磁場のパターンを見て、〈じんりゅう〉の主砲UVキャノンの基部バーベットリング内にある。UVエネルギー加速用リングを連想していた。

 UVキャノンは磁場を利用して封印したUVエネルギーを加速する砲だ。

 今、〈じんりゅう〉がフィニィの言う通り東へ向かって引っ張られているのは、UVキャノンの加速リング内のUVエネルギーのごとく、〈じんりゅう〉が磁場によって引きずりまわされているからに違いない。


「フィニィ、無理に逆らわなくて良いから艦を東へ向けて安定させて」

「了解!」


 そんな巨大な力に逆らうだけ無駄だと判断したユリノの指示に、フィニィが直ちに従うと、それまでが嘘のように〈じんりゅう〉の船体が安定し、さらに東へ加速しつつ一旦は降下した高度から上昇しはじめた。

 どうやら〈じんりゅう〉がGキャンセラーを効かせるまでもなく、加速したことで遠心力が働いたらしい。

 〈じんりゅう〉は艦底部を木星中心部に、艦首を東へ向け、木星の赤道直下を周回するコースへと乗った。


「ふ~……」


 フィニィが操舵席のシート越しに、大きく溜息を洩らすと同時に、額の汗を拭うのが、ユリノの位置からも見えた。

 彼女が安堵しているということは、とりあえず艦の危機は脱したと見て良いのかもしれない。

 ユリノは、ようやく自分も艦長帽を一旦脱ぎ、額の汗を拭った。

 〈じんりゅう〉はようやく最大の危機から、一時とはいえ脱したのだ。

 ――それにしても……数分の間に色々なことが起こり過ぎだ。 


「各セクション、状況報告をお願い」


 ユリノは指示を下すと、クルーからの返答を聞きつつ、降下開始からの出来事を反芻してみた。

 高温高圧環境で〈じんりゅう〉の外付けUVシールドコンバーターが損壊し、と自前のUVシールド発生機ジェネレイターまでもが限界に達しかけたのは、不本意とはいえ想定の範囲内であった。

 副長の報告では、自前のUVシールド発生機ジェネレイターの方は、危うかったものの機能に問題は無いらしい。

 問題はその直後、突然現れた超巨大物体と、ニアミスした小惑星群、想定を超える程の円筒状低気圧空間、そして否応も無く〈じんりゅう〉を加速させる強力な磁場だ。

 これらは全て、何かしらの相関関係にあり、今回のグォイドの動きとも繋がりがあるに違いない。


「艦長、艦首上方に感ありデス! これを見て下さい!」


 ルジーナが、切羽詰まったというより、驚いたといった方がいいような声音で告げた。

 ユリノは最初にメインビュワー上方を見て、まだ見えないと分かると、総合位置情報図スィロムの方に目を向けた。

 〈じんりゅう〉が前進するにつれ、際限無く投影され続けていく円筒状低気圧空間の上方に、アーチ状の物体の影が、小惑星群越しに新たに投影されていた。

 それが、ついっき〈じんりゅう〉がその横を通過した南北に延びる謎の超巨大物体と同一のものであることは、一目見れば分かった。


「……一つじゃ無かったっていうの……?」


 思わずユリノは呟いた。


『間も無く、位置情報視覚化LDVプログラムがこの低気圧空間に対応します。実寸での目視確認が可能になるはずなのです』


 そう電算室からシズが伝えて来る間に、〈じんりゅう〉が前進したことにより巨大アーチが白い雲を透かしてメインビュワーにも映りこんできた。

 ユリノはクルー達と共に、〈じんりゅう〉の上方を通過するアーチをあんぐりと見上げた。

 総合位置情報図スィロムに目を戻せば、低気圧故に広がったセンサーレンジにより、今潜ったその超巨大アーチ状物体の全容が、先ほどよりも明白に知ることができた。

 目測でも太さ数十キロを優に超える円柱を弧にしたアーチ状物体は、際限なく左右へと伸び続け、やがて〈じんりゅう〉の下方で総合位置情報図スィロム投影範囲から消えていた。

 だが、見えないからといってそれが途中で途切れているわけなど無く、恐ろしく巨大なリング状の物体であろうことは、確認するまでも無いことだった。


『艦上方の当該物体は、太さ20キロの円柱を輪にした直径4000キロのリング状物体と思われるのです』


 シズの報告にユリノはまともに反応することができなかった。

 4000キロと言えば、月がすっぽりと通過できるサイズではないか!

 この超巨大低気圧空間に対応した位置情報視覚化LDVプログラムにより、メインビュワーに投影された景色に、ユリノ達はしばしの間、声もなく見入ることしか出来なかった。


『艦長、この空間を満たしている磁場は、どうやらこの超巨大リング状物体から発しているようなのです』


 電算室で解析したらしいシズが告げた。

 その事実を前に、ユリノは目を反らし続けていた仮設に向き合わねばならなくなった。



 ――今〈じんりゅう〉がいる低気圧空間は、木星赤道直下を、木星中心部をぐるりと円環状囲むようにして存在しているに違い無い。

 まだ〈じんりゅう〉は大赤斑直下から東方向に移動し始めてから間もないが、このような巨大空間が、円環となる途中でブツリと途切れているはずもなく、巨大な輪となっていると考える方が自然だからだ。

 ユリノは木星の赤道の下に、自転車のタイヤチューブか、フラフープが埋まっているところを想像してみた……が、上手くはいかなかったが。


 ――そして件の超リング状巨大物体は、その円環状低気圧空間を内側から支えるようにして、等間隔で存在してるようだ。

 既に二つ存在を確認したこの巨大リングが、二つだけということは無さそうだからだ。


 ――というよりこの巨大リング群が、木星赤道直下の円環状低気圧空間を生み出していると考えたほうが良さそうだ。

 低気圧空間突入時、〈じんりゅう〉が接触し、ランダム回転の原因となった謎のUV反応は、このリング状巨大物体が低気圧空間を形成維持する為の発しているUVフィールドだったのではなかろうか?


 ――以上のことから、この低気圧空間は、木星直下深度約2300キロを内径4千キロのパイプを円環状にした空間として存在している。

 この円環状低気圧空間内には、直径4千キロのリング状超巨大物体が等間隔に存在し、UVエネルギーを発することで形成維持している。

 円環状低気圧空間内も最外周部〈木星上空面〉には、小惑星の帯が周回している……ということになる。




 そしてさらに恐ろしいのは、この超巨大円環状低気圧空間は、等間隔で中から支えるリング状巨大物体によって、中にいる〈じんりゅう〉や、ついさっき〈じんりゅう〉がニアミスした小惑星群を西から東方向へ加速させる機能があるらしい。

 当然、UVフィールドを発し、物体を加速させる磁場を発生させているこのリング状巨大物体が、自然に生まれたものであるわけがなかった。

 これらの事象と仮設から、ユリノは背中に寒気が走るのを感じつつ結論を下した。




 ――〈じんりゅう〉は今、木星サイズの超巨大シンクロトロン円環状加速装置の中にいる!!




[ゆりのヨ、コノりんぐ状巨大物体ノ分析結果ガ出タゾ]

「なに?」

[信ジル事ニ多少ノ抵抗ヲ感ジルコトガアルカモシレナイガ、ドウカ落チツイテ聞イテクレ]

「いいから話しなさい」


 珍しく遠慮がちなエクスプリカに、ユリノは軽く苛立ちを覚えながら尋ねた。


[コノりんぐ状巨大物体ハ、現状デキウル如何ナルせんしんぐデモその構成物質ハ解析不可能デアッタ。シカシ、解析不可能デアッタガ故ニ出タ結論ガアル]


 エクスプリカは、そこでもったいぶるかの様に一旦間をとると続けた。


[コノりんぐ状巨大物体ハ、おりじなるUVDト同質ノものデ形成サレテイルト言ワザルヲエナイ]


 エクスプリカは告げた。

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