♯5
〈じんりゅう〉船体中央両舷の膨らみ、その艦尾方向を向いた無人機格納庫のハッチが開くと、二機の無人機〈セーピアー改・耐圧使用〉が射出された。
ガニメデ基地にて、有人艦載機〈昇電〉と共にノォバ・チーフ主導で改造されたセーピアーは、木星ガス雲深部の高圧に耐えられるよう、同基地にある
二機発艦したセーピアー改は、クィンティルラが操る一機が進路前方へ、フォムフォムが操るもう一機がナマコ・グォイドがいる後方へと向かっていった。
無人機を用いることでプローブ以上の索敵情報を得る為だ。
当然、この高圧ガス雲深部では遠隔コントロールには不安が残るが、無人艦ほどとまでいかずとも、プローブに比べればはるかに耐久性があり、搭載AIにより〈じんりゅう〉との通信がたとえ途絶えたとしても自律行動ができる。
無人艦〈ラパナス改〉ほどでは無いが、今の〈じんりゅう〉手札のなかで、使わない手は無いカードだ。
残念ながら〈じんりゅう〉への再回収は望めない。
が、ナマコ・グォイドとの決戦が迫るなか、セーピアーを使い捨てにしてでも状況の正確な把握が必要であると、ユリノは判断したのだった。
幸い、セーピアーのコントロールを任せられたパイロット二人は、この決定を素直に認めてくれた。
二つのうち最初のカウントダウンが0を迎えるまであと3分弱。
バトルブリッジ・メインビュワーには、前方に飛び去ったたセーピアーからの情報によって、再び遠くまで見えるようになった
ユリノはビュワーの映像と、ブリッジ中央のホロ
今〈じんりゅう〉は、後方に迫る二隻のナマコ・グォイドに対し、オリジナルUVDを艦尾に連結している為に、推力と機動性が落ちてしまった上に、数とガス潮流内での地の利でも不利に立たされていた。
だが、一つだけ、たった一つだけ、〈じんりゅう〉が敵に対して有意に立っているポイントがあった。
あまりにも当然といえば当然のことだが、〈じんりゅう〉は二隻のグォイドの前方を航行している分だけ、グォイドよりも先に進路前方の状況を把握することが出来る。
【ANESYS】が考え出した
現在のグォイドとの距離と速度から言って、その情報時差は一分も無い微々たるものであったが、戦の勝敗を決するには充分なものであった。
ここ、木星大赤斑はもちろん、木星そのものを形作っているのは、無数のガス潮流だ。
それらは無理に例えるならば、木星全体では西から東へ流れるガス潮流でできた毛糸玉のようであり、大赤斑でいえは反時計回りに回転する潮流ででき輪ゴムの束のようであった。
しかしながら、個々のガス潮流のガス成分ヤ太さや速度はまちまちであり、一方のガス潮流にとっては、追い風の潮流もあれば、向かい風の潮流もある。
そしてその速度差は時に絶大だ。
その速度差は各潮流の気圧差をも生み出し、一つ一つのガス潮流に様々な個性をあたえている。
なぜ、木星の無数のガス潮流が一様に混ざり切り、一つの巨大なガス潮流にならないのかは、宇宙と流体力学の神秘とでも言う他無い。
今航行しているガス潮流内〈仮称・ガス潮流α〉は、〈じんりゅう〉にとって、直径数キロはある巨大なチューブの中のようであった。
【ANESYS】はプローブで得た情報から、これから行う戦術に必要な条件を満たすガス潮流が、
前方に先行させたセーピアーの任務は、そのガス潮流の存在を確認し、リアルタイムでその状態を〈じんりゅう〉に伝えることであった。
〈じんりゅう〉艦首からは、前方に飛ばしたセーピアーとの遠隔コントロールを維持する為の中継ブイとして、さらに数発のプローブが射出され、セーピアーと〈じんりゅう〉とを繋げていた。
戦術の可否は、そうやって確保してきた位置情報とタイミングにかかっていると言っても過言ではない。
ユリノは
αとβ、その二つの潮流が、進路前方のはるか彼方で接触しているポイントがあった。
そのポイントへ〈じんりゅう〉が到達した瞬間が、戦術スタートのタイミングなのだ。
「ルジーナ、前方の潮流状況に変化は無い?」
ユリノは自分でも
「前方ガス潮流β、現在〈じんりゅう〉が航行中のガス潮流αとの位置関係、速度差、共に変化なしデス。全て【ANESYS】の残したシミュレーション通り!」
ルジーナが心なしかいつもより頼もしさを感じる声音で返答した。
「艦尾方向のナマコ・モドキ二隻は未だ発見されずデス。セーピアーに釣り上げてもらうことを期待するしかない模様デス」
「了解したわルジーナ。フィニィ、操艦は上手く行きそう?」
「乗り心地さえ期待してもらわなければ……ボクに任せて艦長!」
〈じんりゅう〉操舵士は、〈ワンダービート〉での握手会で女性ファンを虜にしたという、中性的な頬笑みを浮かべながら、座席越しにサムズアップしてみせた。
彼女がそういうなら大丈夫だろう。乗り心地には覚悟が必要なようだが……。
「カオルコ、頼むわよ」
「おう、腕が鳴るというものだユリノよ」
〈じんりゅう〉火器管制官は、ポニーテールを揺らしながら、不敵な笑みを浮かべた。
ナマコ・グォイドへ攻撃は、〈じんりゅう〉主砲のUVキャノンが使われることになっていた。もちろん木星ガス雲深部下での使用など想定されていない為、当然この環境専用FCSプログラムなど用意されていない。
故に射撃は殆どマニュアル操作で行うしかなかった。しかしユリノは信じていた。
グォイド共を沈めることに関しては、彼女に任せれば間違い無いだろう、と。
「エクスプリカはカオルコの照準を補助して」
[了解ダ、ゆりのヨ]
「おシズちゃんは、メインコンピュータの
『こちら電算室シズ、了解なのです』
「クィンティルラ、フォムフォム、無人機は任せたわ」
「おうとも艦長」「フォムフォム……」
「ミユミちゃんはセーピアーとの通信ラインの確保に注力、前方に飛ばしたセーピアーとはこれから距離が離れるから、プローブで中継してコントロールするけど、通信ラインが途切れないようがんばって!」
「はい艦長、がんばります!」
「キルスティちゃんは機関出力をUVシールドと主砲に集中!」
「り……了解しました!」
ユリノは思いつく限りの指示を下すと、隣の副長席に座るサヲリを向いた。
「艦長、全ヒューボットはダメコン態勢での配置完了です」
サヲリはいつも通り、クルー達でなければ無表情にしか見えない顔でユリノに告げた。
だがユリノには、その表情が皆に不安をあたえないようにあえて普段のままを演じているように見えた。それが彼女の優しさなのだ。
ユリノは副長に頷き返すと、艦長帽を一旦脱ぎ、髪を書き上げると、艦長帽の裏に挟んでおいた写真を一瞬見つめてから被り直した。
「…………よし、じゃ、はじめるか!」
クルー達の頼もしい返事がブリッジに響く。
「フィニィ、フォムフォム、〈じんりゅう〉とセーピアーの減速開始!」
ユリノは努めてクールに命じた……つもりだった。
人類がナマコ型潜雲グォイドと名付けた存在は、オリジナルUVDを奪い去った敵艦の追跡の手を緩める気は無かった。
オリジナルUVDの希少価値を、グォイドもまた重々承知していたからだ。
敵の手にオリジナルUⅤDが渡ることは、絶対に阻止せねばならない。
深々度高圧ガス潮流の中では、敵を発見する手段は極端に限られていたが、人類製UVDが放つUV推進時のUVエネルギーは、この環境下では航跡となって敵艦後方にいるナマコ・グォイドにまで届き、追跡を可能にしていた。
敵は付近一帯で最も高速なガス潮流に乗って、木星大気圏からの脱出を図っていた。故にナマコ・グォイドは同じ潮流に乗って追跡を続けていた。
ナマコ・グォイドは敵艦との少しずつ距離を詰めながら、ミサイル攻撃を繰り返した。
ミサイルによってオリジナルUVDが破壊される心配は無い。今はともかく敵に木星の外までオリジナルUVDを運び出されることを阻止すべきだという判断からだ。
これから超ダウンバーストが発生するという事実は、とくに関知してはいなかった。だからただひたすらに敵を追いかけることに、少しの躊躇いも感じていなかった。
追跡を開始してから約一〇分が過ぎた頃、敵の船足が遅くなってきたのを感じた。
UV航跡のUVエネルギー濃度が増してきたからだ。
ナマコ・グォイドはここぞとばかりに有りったけのミサイルを放ち、敵の殲滅を図った。
放ったミサイルは見事に命中し、敵を粉々に破壊した。
しかしその時、ナマコ・グォイドは釈然としない何かを感じた。
敵を破壊して発生した虹色のUV爆発の輝きが、想定していたよりもはるかに小規模だったからだ。
ナマコ・グォイドを襲った衝撃は、その直後に右舷側よりやって来た。
その数十秒ほど前――。
〈じんりゅう〉は艦尾方向に射出したセーピアーと、コントロール可能なギリギリの距離を保ちつつ、共にゆっくりと減速を続けていた。
この環境下では、同じ人類製UVDの放つUV航跡は、グォイドにとって〈じんりゅう〉とセーピアーの識別は不可能であったことだろう。
一方で、艦首方向に放ったセーピアーは、プローブを中継ブイ替わりにして向かった遥か前方で、進路上のガス潮流αと並行するガス潮流βの情報を〈じんりゅう〉に送り続けていた。
そして最初のカウントダウンがゼロになる寸前……。
ユリノが睨むホロ
「今よフィニィ!」
「よいしょお~いっ!」
ユリノの叫びに、フィニィは掛け声と共に操舵堪を捻って答えた。
同時にメインビュワーの彼方の景色が反転、スラスター推進をカットした〈じんりゅう〉は、前方のセーピアーが送り続けてきた情報を元に、潮流αとβが接触する絶妙のタイミングで右舷側に並走するガス潮流βへと乗り移った。
「ひぃぃぃぃ~」
さらにフィニィは、すかさず
「ナマコモドキ二隻、前方のセーピアーにミサイル発射!、命中しますデス!」
ルジーナの報告、その直後に〈じんりゅう〉左前方の彼方でUV爆発光が瞬き、一瞬遅れて衝撃破が〈じんりゅう〉を襲った。
「ルジーナ、敵艦の位置は!?」
「発見しました! 位置情報、本艦FCSに伝達しましたデス」
減速させることで、釣り餌としてナマコ・グォイドの鼻先に近づけた後方セーピアーは、索敵圏内で敵に攻撃させることで見事に獲物を釣り上げ、居場所を突き止めた。
バトル・ブリッジの左舷ビュワーに、後方セーピアーが最後に送った情報を元に、敵の予測現在位置を示すアイコンが浮かび上がった。
[目標位置、主砲自動追尾装置ニ連動良シ]
エクスプリカが告げた。
〈じんりゅう〉は右隣を並走するガス潮流βに乗り移り、さらに減速をかけることで、追跡してきていたナマコ・グォイド二隻の真横につけることに成功したのだ。
「カオルコ! 全主砲左旋回九〇度、左砲戦用意!」
「もう出来てる!」
「全主砲、撃ち方用意……」
ユリノはそこでまだ発砲を許可は出さなかった。
この深々度高圧ガス雲内部では、UVキャノンは発砲した瞬間、砲口前方のガス大気が瞬時に爆発的に膨張し、衝撃破となって艦に襲いかかってくるからだ。
すでにUVシールドが限界ギリギリの状態である〈じんりゅう〉にとっては、それは致命傷になりかねない。
だが、【ANESYS】はその状況下でもUVキャノンを撃てるよう、木星環境を味方につけていた。
「ガス潮流β、間も無くαから離れますデス!」
ルジーナの報告を聞きながら、ユリノは睨み続けていたホロ
「カオルコ! 撃ち方はじめぃッ!!」
ユリノ叫んだ。
艦首側上下各二基、艦尾側上下各一基搭載された主砲二連装UVキャノン系十二門を、〈じんりゅう〉は左舷九〇度、伏仰角0度――つまり真左に向けたまま、航行中のガス潮流β内の左壁面に押し付けるようにして発砲を開始した。
〈じんりゅう〉左舷に瞬く計十二の虹色のマズルフラッシュリング。
史上初めて行われたガス雲内部でのUVキャノンの発砲は、バトルブリッジにいる者にとっては、ズヴァァァンッツッという耳をつんざくような轟音として伝わった。
本来の真空宇宙での発砲であれば、艦のコンピュータが作った合成効果音として聞こえてくるだけのはずの音が、今、この瞬間は木星大気内でUVキャノンを放つという現象そのものが起こした自然の音の波となって、〈じんりゅう〉の船体そのものを揺さぶったのだ。
クルー達の悲鳴すらかき消す程の轟音に、両手の空いていたクルーは全員両耳を塞がずにはいられなかった。
しかし、その轟音の最中、カオルコはUVキャノンを撃ち続けた。
〈じんりゅう〉のUVシールドは、艦の左舷側直近の大気が爆発的に膨張しても何とか持ちこたえていた。
潮流αとβの間に挟まった第三の潮流γが、UVキャノン発砲による大気の爆発を、ほぼ全て受け止め、向かい風であるが故に〈じんりゅう〉の左舷から後方へと、瞬時に運び去ってしまったからだ。
さらに言えば、第三のガス潮流γは、α・βに比べてはるかに気圧の低い潮流であった。
低い気圧内で起きたUVキャノンによるガスの爆発的膨張エネルギーは、気圧の高い両隣のガス潮流に押し返され、〈じんりゅう〉船体への到達を妨げたのだ。
そして、ガス大気の爆発的膨張をくぐり抜けたUVキャノンのエネルギーの束は、今だガス潮流αを航行中のナマコ・グォイド二隻の右舷に殺到した。
「喰らえ! 喰らえ! 喰らえ~!!」
かつて無い轟音が響くなか、カオルコが叫びながらUVキャノンを撃ち続けた。
いかにセーピアーから位置情報を受けとったとはいえ、〈じんりゅう〉からはガス大気に阻まれ直接観測できるわけでもなく、セーピアーが破壊された今、敵の位置は予測されたものでしか無い。
ならば〈じんりゅう〉に残された最良の手段は、ひたすら撃ちまくることだけだったのだ。
実際に敵にUVキャノンが目標に命中し沈められたかは、すぐに分かった。
〈じんりゅう〉バトルブリッジ左舷側ビュワーに、ガス大気越しに、グォイド製UVDの爆発による虹色の光が二つ瞬き、一瞬遅れて遠雷のような爆発音が〈じんりゅう〉バトルブリッジを襲ったからだ。
「フィニィ加速最大!」
ユリノはナマコ・グォイドの撃破を確認する間も惜しんで、〈じんりゅう〉が今出しうる最大速度での加速を命じた。
左舷方向から襲いかからんとするナマコ・グォイド二隻の爆発衝撃破を、なんとか艦尾方向へと交わし、爆発衝撃破を背に受けるようにして〈じんりゅう〉は一目散にその場から脱出を再開した。
最初の危機は去った。だがまだ安心は出来ない。
まだ【ANESYS】の残したカウントダウンはもう一つ残っているのだ。
超ダウンバースト到達予想時間まで、あと二分と少し……。
その同時刻。
木星赤道上空・低軌道上――。
「姫様、はじまりました」
――〈ナガラジャ〉バトルブリッジ――。
リバイアサンを含む第三次グォイド木星侵攻艦隊との迎撃戦闘を終えた〈ナガラジャ〉は、〈ヘファイストス〉〈リグ=ヴェーダ〉との合流に向かう途中であった。
アイシュワリアはデボォザ副長の声に、彼女が示した左舷側ビュワーに目を向けた。
視界一杯を覆う、ありとあらゆる濃度の白から茶褐色にかけての、永遠に混ざりきらない横縞模様……。いい加減見なれてきたような気がしていたその景色が、副長の言う通り変化を始めていた。
赤道部分を覆う赤褐色のガスの帯が、ゆっくりと、だが目で見て分かる速度で細くなっていくのが分かったのだ。
その速度は、見守っていくうちに徐々にその速度を増しているように感じられた。
赤道を周回する潮流だけでは無い。その上下にある各濃度のガスの帯もまた、徐々にだが細くなりながら赤道にむかって引き寄せられていくのが見てとれた。
さらに目を凝らせば、細くなっていく帯の上下の境界が、巨大なガスの波になっているのが分かった。
ここからでは僅かな段差にしか見えないが、その波の高さは最低でも十数キロはあるだろう。
その大波が上下から赤道にむかって殺到し、激しく衝突しては、その直下にあった赤道部のガス帯を、下へ下へと呑みこんでいるのだ。
「赤道が……沈んでいるっていうの…………?」
「そのようです姫様」
デボォザは、まるで教師が生徒の正解を褒めるかのように答えた。
木星軌道上からは、発生が予測されていた超ダウンバーストがそのように見えるらしい。
同時に、木星の南北上下の半球の縁が、まるで見ている眼のピントがずれてしまったかのようにボヤやけているのに気づいた。
「ガス雲が弾けてる? 膨らんでいるから?」
「そのようです姫様」
デボォザは先ほどと寸分たがわぬ声音で答えた。
「どうやら、ノォバ・チーフが予言した通りに事は進んでいるようです。
UVエネルギーの頚木が外れたことで、木星は本来の姿を取り戻そうしています。
今見えているのはその過程でおきる反動なのでしょう。人口重力で抑え込まれていた南北の半球が弾けるように膨れ上がり、その分、赤道周辺のガス雲が沈み込んでいっているようです」
デボォザは淡々と告げた。
南北半球と赤道部との境界で、横倒しの渦が発生し、その沈みゆく部分が、超ダウンバーストとなっている。
アイシュワリアは、自分の乗る艦がその中にいるところを想像し、僅かに身を震わせた。
ここから見る分には、その変化の速度はおそろしくゆっくりであったが、実際の速度は最低でも秒速数十キロはあるだろう。アイシュワリアにもそれくらいは分かった。
はたして、その最中にいて無事ですむことなの可能なのだろうか……。
「〈じんりゅう〉は……ユリノ姉さま達は大丈夫なの!?」
「………………………………………………分かりません姫様……」
デボゥザは彼女にしては珍しく、感情の片鱗らしきものを覗かせてから答えた。
「ですが姫様」
「なに?」
「姫様と同じように私もまた信じています。〈じんりゅう〉という艦と、それを駆るクルー達を」
アイシュワリアは信頼する人物のその言葉に、ようやく笑顔を取り戻すと、大きく頷いた。
「ルジーナ、前方のセーピアーは何か見つけた?」
「いいえ艦長、【ANESYS】が示した矢印の彼方には、今だ何も発見できませんデス」
超ダウンバースト・発生予測時間までのカウントダウンは、残り一分を切っていた。
ユリノはルジーナに何度も確認せずにはいられなかった。
心なしか、〈じんりゅう〉が今航行しているガス潮流のチューブがうなりはじめているような気がした。
それが、超ダウンバーストの影響であろうことは想像に難くない。
ユリノはメインビュワーの画面下部に投影された矢印を睨んだ。
今〈じんりゅう〉が持ちうる唯一の希望はそれだけであった。
もし、その矢印がただの勘違いであり、その向く先に進んでも何もなかったとしたら……ユリノがもっとも懸念していたことはそれだった。
だが、同時にユリノは想像できなかった。
すでに現在の〈じんりゅう〉の位置から、カウント0までの残り時間で、木星ガス雲海からの浮上は物理的に不可能なことが分かっている。
実はとんでもなく都合の良いガス潮流があって、〈じんりゅう〉を木星の外まで運んでくれるのではないか……と最初は甘い幻想を抱きもしていたのだが、もうその可能性はありえなくなってしまった。
……ならば【ANESYS】のアヴィティラは、ビュワーに映る矢印の向こうに何があると言いたいのだろうか?
その発想のきっかけに、あのスネークイドが関係していることを、ユリノは微かにだが覚えていた。
一体なぜスネークイドが!?
木星内部での戦いは、今もなお分からないことだらけだ。
そして、自分らに出来うる選択肢はあまりにも少ない。
だからユリノは、自分に何も出来ない分だけ、祈ることにした。
ケレス沖会戦を乗り越え、〈斗南〉で生まれ変わった〈じんりゅう〉を手に入れたことで、多少の慢心を抱いてしまっていたのかもしれない……とさえ思った。
今の状況がその罰であるなどという非科学的なことは思わないが、だが自分とクルー達の死が現実的な可能性として目の前に迫ってきた時、ユリノは祈らずにはいられなかったのだ。
ユリノは基本的にこれといった宗教は信仰していなかったが、だがこれまでの人生経験から、何かしらの祈る対象が必要な時があることは、嫌というほど分かっていた。
『勝ち目のない戦いなんて無い!』『勝算ゼロなんて信じない』
自然とそのフレーズが浮かんできた。
ただしそのフレーズを言っていたのは彼の声だった。
ケレス沖会戦直前、折れそうになっていたユリノの心を奮い立たせてくれたのは、彼のこの言葉だったのだ。
そしてユリノの知る限り、彼ほどこの言葉を実戦した男子はいない。
初めて〈じんりゅう〉に収容した時も、ケレス沖会戦の直前に人造UVDに足を挟まれた状態から脱出した時も、ワイヤーガンをセーピアーに打ち込んで難を逃れている。
なんて無茶をする少年なんだ!
……にしてもワイヤーガンの好きな子だ……他に手段が無かったとはいえ……。
「!!」
その瞬間、ユリノは電撃のような閃きが脳に走り、思わず艦長席から立ち上がった。
「どうした? ……ユリノよ」
「キルスティちゃん! ここで〈じんりゅう〉のスマート・アンカーって使うことはできる!?」
気遣ってくれたカオルコを無視して、ユリノは機関長に尋ねていた。
「あ、あの、えと、え~っと……」
突然、大声で聞かれたキルスティは目を泳がせながら考えると、なんとか答えをだした。
「か、可能です艦長。
アンカー先端もそれと船体を繋ぐワイヤーも、基本的にムクの塊ですので、ここの深々度ガス大気の圧力の中でも圧壊はしません」
「よし!」
ユリノは機関長の答えに小さく拳を固めた。
理屈の上では、スマート・アンカーはここでもちゃんと使えそうだ。
それに現在〈じんりゅう〉に搭載されているスマート・アンカーは、〈斗南〉での大改修時に装備された新品だ。経年劣化もまだしておらず、最大限の耐久性があるはずだ。
「ででで、ですが艦長、射出してUVシールド圏外から出た瞬間に、ここの深々度ガス大気の圧力によってスマート・アンカー内部の精密機構部は破壊されてしまいます!
……ですから、精密誘導その他の機能は全て使えなくなります。つまり
「それで構わないわ! フィニィ、スマート・アンカー発射の用意!」
あわてて付け加えたキルスティにユリノはあっさり答えると、操舵士に命じた。
ユリノはこの瞬間確信した、【ANESYS】のアヴィティラの思惑を。
彼女がメインビュワーに残した矢印の意味は、ここからの脱出では無い。
ここに留まる為の手段なのだ、と。
今、超ダウンバーストを恐れているのは、それによって〈じんりゅう〉が帯耐圧限界を超えて沈降させられ、圧壊してしまうからだ。
言い方を変えれば、超ダウンバーストから脱出できなくても、沈降さえしなければ、とりあえず生き延びることはできるということだ。
「艦長、見つけたぞ!」
その直後、
「どこに!? なにを!?」
「分からん、一瞬だけ見えたんだ。だがすぐにまた見える!」
ユリノの問いにクィンティルラがすげなく答えた。だ、知りたいことはすぐに分かった。
「艦長、こっちでも見つけましたデス!」
ルジーナの叫び声と共に、バトル・ブリッジ中央のホロ
「これって…………まさかあれか?」
カオルコが目の前に映る物体の予想外の正体に、言葉が出てこなかった。
それは数々のガス潮流の流れを無視して、進路の彼方で横たわるようにして待ち受けていた。
「そうよ、木星軌道エレベーター・ファウンテンの一部よ」
ユリノは告げた。
メインビュワーに顔を向けると、前方の遥か彼方に、黒い糸のようなものが、画面の右上から左下にかけて斜めに伸びているのが見えた。
“
人類は二十一世紀の終わりに、地球や月で、この軌道エレベーターの実用化に成功したことで、グォイドとの初遭遇時に、UVテクノロジー無しでの宇宙開発に成功し、なんとかこれを退けるだけの宇宙関連技術を得る事ができていた。
しかし、木星では事情が違った。
軌道エレベーターを建設するには、惑星の重力と遠心力との釣り合いととらねばならない関係上、ある程度の高さが必要なのだが、木星の場合、衛星イオの軌道が邪魔してしまい、地球や月で行われた建設方法が使えないのだ。
そこで〈ユピテルOEVコーポ〉が建設した木星軌道エレベーター・ファウンテンでは、有る程度短くともエレベーターを形作る
木星
しかし、この建設方式は人類初であることもあり脆弱となってしまい、今はこうして倒壊し、木星の雲海の底を漂っている。
ユリノが……いや【ANESYS】のアヴィティラが着目したのは、このハイパー・ナノ・カーボン製のピラーが長く軽く柔らかく、そして頑丈であることであった。
約4万キロある大赤飯に対し、ピラーの長さは約10万キロもあり、その大半は大赤斑からも赤道からもはみ出ている。
このことから超ダウンバーストが起きたとしても、その影響を受けるのはピラーのごく一部であり、ピラー全体が沈降することはあり得ないと考えられた。
そして、その発想の過程にスネークイドの存在があることはさておき、アヴィティラは考えたのだろう。
〈じんりゅう〉の前方にあるあの
「〈じんりゅう〉の推力全カット、以降は慣性でピラーに向かいます!」
「前方ファウンテン・ピラーまであと三〇秒! ダウンバースト本艦到達もほぼ同じデス!」
フィニィ、そしてルジーナの報告。
ついさっき発見したばかりのピラーは、あっという間に目前に迫っていた。
ガス潮流内の〈じんりゅう〉の船足は落ちていたが、ガス潮流自体が猛烈な速度で西から東へと流れているからだ。
メイン・ビュワーに、先ほどまで黒い糸にしか見えなかった軌道エレベーターのピラーが、真っ黒な直径200メートルの柱となって迫っているのが見えた。
「フィニィ、アンカー射出用意! 目標、前方木星OEVピラー!」
ユリノは命じた。チャンスは当然ながら一度しかない。
「あ、あのユリノ艦長、〈じんりゅう〉とピラーの相対速度差って、かなりあると思うのですが……」
キルスティが恐る恐る進言した。
「そこいらへんは、〈じんりゅう〉の艦内慣性相殺装置で対処する。キルスティちゃんは全UVエネルギーをシールドと生命維持に回して!」
「りょ、了解!」
ユリノは言外に減速はしないことを告げると、メイン・ビュワーを睨んだ。
キルスティの言う通り、相対速度さは時速千キロ近くあるが、下手に減速する余裕は無かった。今はなによりもまず、ピラーに辿り着かねばならないのだ。
「総員、耐衝撃態勢!」
ユリノの指示と同時にクルーの座る各座席では、【ANESYS】時に使う固定パッドが展開し、クルー達を衝撃とGから守る態勢に入った。
「フィニィ! アンカー発射!」
「了解、アンカー射出します!」
ユリノはフィニィの復唱を聞きながら、〈じんりゅう〉艦首からスマートアンカーが伸びるのを祈るようにして見守った。
このガス雲深部の高温高圧下で、アンカーがその機能を充分にはたしてくれるだろうか、アンカーが無事ピラーに命中してくれるだろうか、と。
答えはすぐに分かった。
スマート・アンカーの先端が、無事にピラーに命中し、〈じんりゅう〉艦首から二〇〇〇メートル分のワイヤーが伸びきり、バトルブリッジに凄まじい衝撃が襲って来たからだ。
「ふんぐっつ……」
悲鳴も上げられぬ程のGが、一瞬彼女たちを襲った。
〈じんりゅう〉はアンカーがピラーに命中した直後に、そのピラーを追い越した。
アンカーを繋ぐ二〇〇〇メートのワイヤーが延び切ったところで、〈じんりゅう〉は運動ベクトルを強制変更され、アンカーのピラー命中地点を中心に、鉄棒の大車輪のごとく斜めに横たわるピラーに巻きつこうとし始めた。
バトルブリッジに慣性相殺装置では消しきれなかった遠心力が、艦首から艦尾方向に襲いかかり、クルーは座席の背もたれに肉体を押し付けられた。
「……急制動かけます!」
フィニィがピラーとの激突を防ごうと船体各部のスラスターで船体を制御した。
「超ダウンバースト、到達しますデス!」
その直後、ルジーナが叫んだ。
ユリノは何か叫ぼうとしたが、その後さらに襲いかかって来たGに、何も言えはしなかった。
低く鈍いズゥ~ンという重低音として、超ダウンバースト現象はバトルブリッジのクルーに伝わって来た。
もっとド派手な現象かと思っていたクルー達にとっては、拍子抜けにも等しかった。
が、前方に目を向ければ、メインビュワーの隅に映る各種インジケーターのうち、深度計と圧力計の数値が猛烈な勢いで跳ね上がったのが見えた。
〈じんりゅう〉周辺一帯の空間が丸ごと沈降しているのだ。
さらに、なんとかとりつく事に成功したピラーが、急激に斜めから垂直へと角度を変え、上昇を開始しはじめた。
実際にはピラーがその場に残り、それ以外の周辺空間全体が下がっているのだ。
〈じんりゅう〉の船体はたちまちピラーにアンカーでぶら下がるようにして、艦首を上方に向けピラーに引っ張り上げられ始めた。
ユリノは真上を向いたメインビュワーの彼方で、ピラーの壁面に突き刺さったアンカーが、上昇Gに耐えきれすポロリと壁面から外れるのを目撃した。
「あ……」
間抜けな声が漏れる。
背中に感じていた重力が一瞬消え、ブリッジ内が〇G状態になった気がした。
この状況の意味するところは、つまりは【死】だ。
なる程、死ぬ時というのはこんな呆気ないものなのか……。
ユリノが辛うじて思えたことはそんな感想だった。
アンカーが外れてしまっては、超ダウンバーストによる沈降に抗う術は無い。〈じんりゅう〉はたちまち耐圧限界深度まで落下し、そして…………。
…………そこから先の運命について考えようとしたところで、メインビュワーの彼方から何かが〈じんりゅう〉に向け降下してきたかと思うと、外れてしまったスマートアンカーの先端を、その長大な触手で絡め取った。
「スネークイドォ!?」
クルーの誰もが、ただ驚くしか無かった。
ヘビ形態から触手を展開したイカ形態へと姿を変えたスネークイドが、ピラーに身体を巻きつかせながら、一方の触手で艦首から伸びたアンカーを掴み、〈じんりゅう〉の沈降を妨げていた。
「な、なんでぇ……」
ユリノは呟くことしか出来なかった。
その時、ユリノをはじめ、クルー達にできることは他に何もありはしなかった。
――超ダウンバースト発生から九〇分――。
「クソッ! 〈じんりゅう〉からの連絡、もしくは発見の報告はまだ無いのか!?」
テューラの怒鳴り声が五分おきに〈ヘファイストス〉
ノォバはそれを聞きながら、ビュワーに映る木星をただひたすら睨み続けていた。
今だ〈じんりゅう〉は発見されていなかった。
ノォバの視線の先で、木星はそれまでと見違う程の変貌を遂げていた。
木星の赤道一帯が、まるで虫に食べらて削られた果物のように凹んでいた。
大赤斑の直径の半分ほどの幅のその溝の上に、大赤斑はすでに半分以上重なっていた。
その姿を、ノォバは昔映画か何かで見たものとと、とても似ているような気がしたのだが、どうしても思いだせなかった。
超ダウンバーストは、木星をそこまで変貌させる程に激しいものだったのか……。
その驚きと共に、もう一つの可能性を否応も無く考えてしまう。
〈じんりゅう〉は沈んでしまったのだろうか、と。
――そんな結末あってたまるか!
ノォバは人知れず決意を固めると、自分に出来うることを探しに戻った。
「ひょっとしたら……」
またしても背後から、クロヴチのわざとらしい呟きが聞こえた。
「なんだ? 〈じんりゅう〉を発見したのか!?」
「いえいえいえ、違います! 違いますう!」
ノォバとテューラに殺意のこもった視線で睨まれ、クロヴチはホールドアップしながら弁解するように答えた。
「あの、私はただ思っただけなんですよ……そのグォイドの目的について……」
ノォバとテューラは、ただ無言で話の続きを即した。
「ですから、グォイドの目的が、木星の恒星化じゃ無いとしたら、ひょっとしたら木星を今の姿に変えること……だったりする可能性はありはしないかとですねぇ……」
ノォバ、クロヴチの意見に、自分でも意外なほどに拒否感が沸かないことに驚いた。
グォイドの目的が木星の恒星化では無い……としたならば、あのリバイアサン・グォイドが飛来してきたことにも納得ができる。
だが、木星の赤道にぐるりと溝を設けて、グォイドは何がしたいというのか?
「クロヴチさん、木星をこんな姿に変えるのがグォイドの目的だとして、その変えた木星でグォイドが何をしたいのかについては……もちろん~……」
「わかりません」
「やっぱり……」
クロヴチの予想通りの答えに、どっと疲れを感じたその時、
『VS‐805〈ナガラジャ〉より入電! 〈じんりゅう〉艦載機・昇電を発見、収容したとのことです!』
「なにぃ!」
〈ヘファイストス〉クルーの報告に、ノォバ達は驚きの声を漏らさずにはいられなかった。
――同時刻――。
〈ナガラジャ〉艦載機格納庫では、アイシュワリアとデボォザが、収容した昇電に駆け寄るところであった。
大赤斑と赤道とが接触する地点に、突如浮上して来た昇電は、一切通信に答えなかった。
それは中のパイロットが答える気が無いのか、答えられないのか……?
その疑問の答えはすぐに分かった。
深々度高圧ガス大気から浮上してきた昇電は、耐圧改修が施されていたにも関わらず、潰れる寸前といって良い程にボロボロだったからだ。
アイシュワリアは、昇電のコックピットハッチを開けることに、一瞬恐怖を覚えた。
中の人間の状態が、見て耐えられるものだという保証は無い。
だが、アイシュワリアはその恐怖を打ち払い、救命士担当クルーに命じてコックピットハッチを強制解除させた。
中の人間は、少なくとも見ただけでは無事だった。
救命士担当クルーが、すぐに前後の席のパイロット二人のヘルメットを外した。
そしてアイシュワリアは驚いた。
〈じんりゅう〉艦載機・昇電のパイロットと言えば、クィンティルラとフォムフォムのはずだ。
だが、前席に座るクィンティルラの後に収まっていたのは、自分が〈ナガラジャ〉クルーにスカウトしようとしていた〈じんりゅう〉機関長のキルスティだったのだ。
「ちょ、ちょっと! 無事なら返事しなさい」
ぐったりとしたまま、コックピットから動かない二人に、アイシュワリアは必死で呼びかけた。
キルスティの方は消耗しているが無事らしく、呼吸しているのが見てとれたが、クィンティルラはまったく動いていない。
「ちょ、ちょっとぉ~!|!」
一瞬、最悪の事態が脳裏を過る。
しかし、アイシュワリアの手を掴み、突然目を覚ましたのはクィンティルラの方だった。
「た……頼む! 〈じんりゅう〉を……フォムフォムを……みんなを助けてくれ!」
突然目を覚ましたクィンティルラは、疲れ切った表情であらい呼吸をしつつも、見た事も無い真剣な眼差しでアイシュワリアに訴えた。
「お願いします! あの人をよんで下さい!」
いつの間にかに後席のキルスティも目覚め、同じく真剣な眼差しで訴えてきた。
アイシュワリアは安堵すると同時に、尋ねずにはいられなかった。
「あの人って……誰?」
「ケイジ……三鷹ケイジ技術三曹という人です!」
キルスティはアイシュワリアはの問いに、叫ぶように答えた。
「……って誰?」
アイシュワリアは傍らのデボォザに訊いたが、彼女は答えてはくれなかった。
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