美織じゃなければ

@toshi

第1話

 雨の音が一層強くなった。

 エアコンも止まった室内は気密性の高いマンション特有の熱気が漂っていた。降り止みそうに無い窓の外を見て、しょうがないと思っていたのは少し前の話しだ。

 今はこの蒸し暑さを忘れてしまうほど、ドアを一枚隔てた向こう側の女性と対峙している。首筋を流れるものが熱気のせいなのかは定かではない。


 雷の閃光は、薄暗がりの荒れたリビングをより印象的にさせた。恐らく無地であろう象牙色の壁には、巨大な筆を墨汁に滴るほど浸した後、力任せに壁に打ち付けたような跡を残している。

 その下に、ワインボトルが横に寝ているのはワインが壁に掛かった事を意味しているのだろう。

 荒れたリビングを出て左に伸びる廊下を進むと、更に左に曲がる事が出来る。奥から浴室、そして手前に外開きのトイレがある。突き当たりには、ベランダに繋がる窓があり、雷の閃光が漏れて入ってきている。


 その音は、北浜順也が鳴らしていた。

 正座したまま身を乗り出すように、トイレの前で構えている。ドアを挟んだトイレの中には一枚のメモが落ちている。

 メモには、「美織じゃなければこんな事しないよ? 音の鳴る所へ頬を」と稚拙な文字で書かれている。北浜は、首筋に流れる汗をシャツで拭った後、ひんやりとしたドアに口づけをした。


 家から一番近い駅までは自転車で5分ほど掛かる。片側一車線の道路の反対側に駅のホームがあり、その少し手前に、横断歩道がある。

 北浜は横断歩道が赤信号になったのを視界の隅で確認すると、信号待ちをしている人たちを通り過ぎた。少し進んだ所で車道を横切り、駅のホーム側に移動した。

 駅のホームに着いたのは朝の6時40分だった。今年で入社して7年目を迎えたその体は、早朝に起きる事を容易くしていた。何年か前に新しく発行した電子マネーを駅の改札にかざし、颯爽とエスカレーターを階段の様に下る。

 駅のホームで電車の到着アナウンスが流れると、列は前に進み、その流れに身をまかせる様に電車内に吸い込まれた。


 2駅ほど進むと、電車内に乗り込む人が増えてくる。北浜は椅子から立ち上がり扉の側に立った。以前、人混みを掻き分ける事が出来ず、一駅乗り過ごしてしまった事がある。

 何よりも、降りようとしたのに降りられない自分を見られるのが嫌だった。

 蒸し暑い電車内は、不快指数が高くなる。温度も湿度も高い電車内で、人でごった返すとなると尚更だ。

 唯一、隣に女子高生が3人いる事で空気が軽くなるのを北浜は、窓に反射する3人を見て思っていた。

 暫くして、電車が横に揺れた。北浜はつり革を強く握って体勢を立て直したが、隣にいた女子高生の足が北浜の足を勢い良く踏んだ。

「痛っ」

 反射的にその女を睨みつけた。

「すみません」と大人っぽい女性は小さく言った。

 不意に目が合ってしまった為、目を逸らして、すみませんと北浜も返した。

 それは何に対して謝ったのか北浜も分かっていない。


 駅を降りてから北浜は、先ほどの不快感が拭えていなかった。

 それは足を踏まれた後、背中の後ろから女子高生達の声が聞こえてきたからだ。童貞やら、高校生やら、駅から降りるまでの話しの肥えにされていた。

 確かに、この季節になると半袖の白のシャツで仕事の日は過ごしている。華奢な腕が見えてしまうのと、髪型も目に前髪が掛かるほど長くしているのも相まって社会人には見えないのかもしれない。

 そして駅を降りればどうせ自分という存在を忘れてしまう。一過性の物だって事を北浜は身に沁みて知っている。


 マンション街の一角にある駿河酒店は北浜が勤めている会社である。

 シャッターを閉じている駿河酒店の前を出勤中のサラリーマンらが通過した頃、店の裏側には1台のトラックが止まっていた。

「それで50ケース目やな。残り20ケースや。ファイト」

 たくましい腕っぷしを胸の前に組んでいるのは柳田亮は、北浜の2年上の先輩社員で、主任という役職も付いている。半年前くらいに関西地区から転勤してきた。

「はい」

 首に白いタオルを巻いた北浜は傍観しているだけの柳田に最小限の言葉で返す。

「なんや。怒ってるんか」

「怒ってないですよ」

 こんな事でしか自分の態度を表せないのだなと改めて思った。昔から怒ると口を噤んでしまう癖だ。

「北浜、女は出来たんか?」

 後輩の機嫌を取りにきているのを感じながらも北浜は答える。

「いや、別に。そんなに興味ないですし」

「そんな事あらへんやろ。俺なんて幼稚園の頃から興味有りやで」  

 本気なのか冗談なのか、初心うぶな北浜はよく分からなかった。

「あの女はどうなんや」

 北浜は体の中が急激に熱くなるのを感じた。

「誰ですか」

 柳田と目を合わせず言った。

「分かってるやろ? よう来るあの女や。同い年くらいやないか?」

 北浜はやっぱりと思った。それと同時にこの男はよく見ているなと思った。

「ああ、あの人ですか。ただの同級生ですよ」

 首に巻いていたタオルで汗を拭う。

 平然を装ったつもりだったが、それが自然かどうかは分からなかった。

「同級生? えっ、知ってんの?」

「高校の頃の同級生です。でも僕は目立つ方じゃなかったから、一方的に知っているだけです」

 嘘偽りない事を言った。目立つ方じゃなかった頃のコンプレックスはもう解消していた。

「なんや。つまらん男やな」

 そう言うと、柳田は北浜に近づいた。

「あの女に手を出したらあかんで。痛い目みるから」

 なんだと思った。そして柳田は続けた。

「うちの取引先の武元飲料があるやろ? あそこの御曹司と結婚してるっちゅう話しや」

 耳を疑う話しだった。

 

 武元飲料は30年前に創業した大手飲料メーカーだ。昭和62年にヒットしたビールが武元飲料をトップ企業に押し上げた。

 今では従業員1500名。グループ会社を含めた連結売り上げは200億を超える勢いだ。

 武元飲料の社長の武元吾郎は経営者のインタビュー雑誌や、テレビにも出演していたが、最近は見ないようになった。しかし、前期決算も増収増益とその経営手腕は衰えていない様子だ。


「うちの部長から聞いた話しや。最近見るんも女関係で色々問題を起こしたみたいで此処らに越してきたらしい」

 確かに、ここ最近で見かける様になったので北浜は合点がいった。

「あの歳だから社長の金で豪遊してるんやろな。俺もどっかの御

曹司に生まれたかったな」

 北浜は、そうですかと、しょうもない先輩の戯言を躱した後、残りのケースを持ち上げた。

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