昼: 昇武祭予選、前日 [須佐政一郎]

 土下座とは何か。地面に両膝と両足をついて座し、両手と額を地につける礼のことだ。

 古の時代、武士は人に頭を下げることを良しとしなかった。そこに誇りがあったからだ。我があった、意地があった。

 その頭を下げぬ男が、地に伏し、額を擦り付けんばかりに頭を下げる——旧史の文献曰く、『ギャップえ』と呼ばれる一種の錯覚だ。それを礼する相手、周囲に与えるのだ。それが土下座である。余人はいざ知らず、私はそう思う。

 しかし、頭を下げることが日常となっている私が土下座をしたとて、果たしてどのような効果があるのか——これはいささか疑問であろう。

「だから、何で、お前ごときが、僕の前で偉そうなこと、言って、ん、だよ!!」

 鍛治宗家当主代行殿の言葉が強くなるたびに、私の頭を踏む彼の足に入る力が強くなる。

「お話したとおり、この島は抜き差し——」

「喋っていいなんて、誰が、言ったんだよ!?」

 させられた土下座も、こうして頭を木の床へと踏まれるのも、多少の肉体的苦痛を伴うものだ。しかし、私の心は痛みとは真逆に、よそ風に吹かれる大木の如く揺らぎが無い。

「昇武祭を、中止とか、あり得る訳ないだろ! この劣等のクズ野郎! 須佐の家にいるのに、昇武祭のやる意味、忘れたのかよ、ハッ!」

 私の顔を斜めに押し付け、顔の側面が今度は床と激突する。

 痛いは痛いが、普段の頭痛の方が痛いな。部下達にみっともない姿を見せているが、この場、この際で恥を感じる程私の心は繊細ではない。

 鳥上学園の一室にて、一部教員達、生徒会と昇武祭実行委員、各学級の長、そして鳥上島政庁の人間が一堂に会する中、私の発言は代行殿の逆鱗に触れたようだ。

『本年度の昇武祭は中止にして下さい』と。

 出現数が増加し続けるヒトガタ、破られてゆく封印、死んでいなかった黒騎士達(壱係が『確かに殺した』と強硬に主張するため伍係配属の学生からの報告は誤報とされているが)——

 警戒レベルは再び肆となった。それも住民の島からの強制退去のレベル伍への移行を内々に進めているのだ。

 今朝から島民を外町へ移動させている(鍛治職人達は動こうともしないが)。それに合わせて学生の退避を速やかにするため、今すぐにでも学園生は島外へ退避させたい。それゆえ、昇武祭の中止を打診しに来てみたのだが……。

 呼ばれてもいないこの人が会議室へ来てしまった。

「おい! 聞こえたんのか! 何とか言えよ!」

 上からの強い衝撃が何度もやってくる。意識が朦朧とする中、こんなに蹴られていては喋れないだろうに、と正論を考える程、私は冷静だった。

「チッ!」

 代行殿の足が弧を描き、私の頭に大音量をたてて突き刺さり、鞠のように吹き飛ばす。

 口の中ににゅるりとしたものを感じる。口内を切り血でも出たか。

「代行殿、お怒りごもっともですが——」

「うるさいんだよ、お前!」

 今度は蹴り上げられ、私は背中から床に倒れる。

 やれやれ、言っても蹴られ、言わずも蹴られか。

「昇武祭はさ、やんなきゃいけないんだよ! お前バカだろ、バカだよな、大バカだよ! 劣等すぎるぞ、お前の頭! 昇武祭で、刀を作」

 代行殿がこの場にいる私以外の人間へ不必要な情報を口から滑らせそうになった時、

「のぅ、お主。さかしいのぅ。若いのに怒りに身を任せては体に毒じゃぞ、ん?」

 今まで沈黙を貫いてきた鳳珠が口を開く。

「あ——? 何だよ、てか、誰だよお前?」

 この島で代行殿に逆らおうとする者など存在しない。中央からの国家公務員たる教員も彼の蛮行、奇行には目を瞑る。この島の鍛治職人の長であり、皇室から印を授かった者だ。厳密には公務についている訳ではないが、格が違うのだ。

 学生ならば、この人物を怒らせるとどんな目にあうか良く分かっているだろう。良く知っているからこそ、生徒でいられているのだ。

 そして、この島の秘密を知る人間ならば、この人間に好き勝手をさせなければならないと知っている。それが当主本人を知る者ならば尚更のことだ。

 私が連れてきた政庁の人間とて同じことだ。鍛治宗家の持つ意味を真に知る由もないが、上司である私から命令を受けているのだ。『何も発言せず、何もするな』と。命令を実行しているのか、私に呆れているのか、火の粉降りかかるところに行きたくないだけなのか、さて、心の中を分かる恩寵を持たない私にはどうとでも推測できる話か。

 代行殿の頭の中に、この島において自分のしたいようにできないと言う言葉はない。注釈がつくとしても『お父様の意思に背かない限り』だろうか。

 そう、全ては<八岐大蛇>がいるからだ。あの怪異をずっと縛り付けている必要があり、それをするに足る力を代行殿が持っている限り、この人物の勝手は許される。代行殿が恩寵を行使しない限り、大蛇おろちは野に放たれて幾万もの人の血をすするのだから。

 何人たりとも止められないはずの者を、鳳珠は制したのだ。

「妾か? 妾はその祭りとやらの見物人よ。若い者から英気を貰おうとしたのにのぅ。主と同じく残念じゃよ」

「おい、ババア。キモい顔しやがって。お前は誰だってこの僕が聞いてんだよ」

「ほほほ、威勢のいい餓鬼じゃのぅ」

 彼女の正体を知らないのか。知っていて自分は上だと思っているのか。

 確信があるのは政庁側の人間だけだろう。学生や教員はまさかとしか思わないだろう。勘付いても良く似た他人としか思うまい。

「おい、このアホ、外に連れ出せよ。話の邪魔をするバカとかいらないんだけど、マジで」

 さて、この状況、どうするか。

 学園側は動かない。会長以下、学生達は代行殿と目を合わせようともしないが、昇武祭を中止にと言う私の発言に対する失望と代行殿への嫌悪が混ざり合っている。

 学生諸君とて意志はあるだろう。命令に従う者が誰一人いないのは代行殿の人徳が成せる技か。

 教員達も動かねば、私の部下達も動かない。

 弥生君達には何もするなと厳命しておいた。代行殿の首が胴と離れたら拍手の一つでもするだろうか。

 力づくで追い出そうにも、代行殿ならともかく、鳳珠に力で勝てる人間などこの場にはいない。

 鳳珠は腕を組み笑う。おかしくて仕方がないのだろう。この御仁は代行殿の立場を知っていよう。私達が止めようともしない訳も。

 でもそれはこのお方からすれば、代行殿は所詮は代行と言うことだ。首を落として当主本人に仕事をさせれば良い——そう考えているのだろう。

 だから私は気が気でない。あの当主が出張るなどとはあってはならないことだ。あいつと比べれば代行殿は聖人君主より勝る。

 私以外、鳳珠の抜刀術をこの目でしかと見た者はいない。私は知っている、鳳珠がその気になれば気付いた時には既に代行殿は死んでいる。ことがおきてからでは非常に困る。

「こう言うのは、どうでしょうか——」

 場の空気が変化しつつあるのを感じてか、生徒会長の宝影院君が口を開く。

「学生側としては、毎年恒例の行事、しかもこの学園で一番大切な昇武祭を中止と言うのはそう容易に首を縦に振れるものではありません」

 お、ようやく建設的な話が始まるか。

「昇武祭は、この地に<八岐大蛇>を倒した八人の英霊の御霊を静める重要な祭典なのですから。この島で生活する者として、いえ、この国に生きる者として例え今がどんなに困難な状況であろうとも止める訳にはいかないはずです。怪異が溢れようとも、いえ、<原初の十種>に立ち向かい命を落とされた英霊を祀るからこそ、どんな困難であろうとも止める訳にはいきません、決して」

 流石は生徒会長、弁が立つな。

 彼の言葉に鳳珠が嬉しそうに目を細める。

「チッ」

 自分の話が無視された代行殿は憎々しげに舌を打つ。しかし、会長が自分と同じく中止に反対しているせいかそれ以上のことは口にしない。

「この祭りに参加するために親元を離れ、学園に来た私のような立場の学生は大勢います。ですが、昨晩のヒトガタの大出現と大破壊を考慮すれば、政庁の皆さんが私達の命を尊重し中止の決断を選ぶのも分かります」

 ふむ。大出現はそうだが、大破壊は違う。あれはシャルロッテ嬢のしたことだ。国司隊の報告書は目にしたが、御手口隊のものは未だ提出されていないな。怪異に責任をおっかぶせるようで嫌だが、何もかも怪異のせいとした方が政庁側としては都合が良い。

「こうするのは、如何でしょうか? 学生達は基本、本日夕刻をもって島外退避するものとします」

「おい」

「待て、緋呂金、こっからだ。ただし、島に残る決意を固め、自分の命の危険を理解した上で島に残る誓約書を提出した者に限り、島に残り昇武祭への参加を認める」

 ほう。

「悪く言えば、この身死すとも自己責任で、と言うことです。それを了承しない者は速やかに立ち去るのです」

「ほほほ、眼鏡をかける者は言うことが一味違うの」

 その言葉には同意できかねますが。

「須佐政務官さん、生徒会へ報告が来てる限りでは夜間警備に参加しヒトガタと戦いこれを討ち取る戦果を挙げている学生は少なくないはずです。皆さんから見れば未成年の未熟者かもしれませんが、ヒトガタと戦う上で足手まといにはなっていない。そうですよね?」

 悪くない提案だ。<思い出す>——学生を参加させている隊の活動記録と報告書を。

 会長君の言う通りだ。多少下駄を履かせてあったとしても(もしくはその逆でも)、学生達はよくやっている。いや、あてにできる確かな戦力だ。

 一昨日の巣型ヒトガタの群れの殲滅に参加し活躍したのは十名はくだらない。

「ふむ……」

 口から垂れる血を拭いながら考えをまとめる間を取る。

 どちらにせよ夜間警備に参加している学生には、意思確認してから残るようお願いするつもりではいた。それほど学生諸君は役に立っている。

 実際、この島に限らず、戦闘に有効な恩寵を持つ者は、子供であっても戦場に駆り出されたりするのだ。

 夜間警備参加者諸君達は、そう言った類の恩寵を持ち、武人としての研鑽を他ならぬこの学園で積んでいるのだ。経験不足、年齢不足を考えても足手まといになろうはずがない。

 誓約書提出をあくまで任意とするならば、手ではある、か。

「仰る通りですね。考えが到らなかったのは私共のようです、ご無礼お詫びします」

「ハッ! 僕の言った通りなんだよ!」

「ただ——島にいる人命を預かる身としては頷きかねる部分もあります」

「では、どうすれば?」

「誓約書ですが、あくまで自分の意思で書かれたもののみを有効とさせて下さい」

 どう言うことかと、学生達が互いに顔を合わせる。

「昇武祭は一人で参加する種目もありますが、友人と組んで出場するものもありますよね? ええ、二対二ツーオンツー三対三スリーオンです。友人のために出場を強行する——聞こえは美談ですがそのために望まぬに命を捨てることになれば悲劇です。誓約書の作成は公平な第三者、そうですね、教員の見ている前で署名され、その場ですぐ教員に提出し、これを認めたもののみを受理する、と。これで如何ですか? 無論、変更は撤回のみ受け付けるとします」

「ならば、私達学生は本日夕暮れまでに提出すれば良いですか?」

「そうですね、もっと早くして頂きたいと思いますが、それならば学生の退避と昇武祭の決行を両立させることができるでしょう」

「ハッ! やっぱりできんじゃんか。中止とかバカぬかすなよ、劣等」

 代行が醜く笑う。

 ふぅ、これで良し。本当に中止になったらどうしたことか——

「ほほ、万事解決かの。のぅ、お主自身が喜んでおるようじゃがの?」

 見抜かれたか。あそこまで醜態を晒せば手心を加えて貰えるかと思ったが、甘かったか。

「それは、私個人としては昇武祭を観戦するのも立派な職務の一つですから。さてそれでは細かいところを互いに詰めておきましょうか」

 授業開始の振鈴が聞こえる中、私達の議論は熱を増していく。

 そうそう、

「じゃ、僕忙しいから。おい、決まったら後で教えろよな」

 と代行殿はさっさと出て行ったのを付け加えねば……。


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「——良し。数としてはもう十分ではありませんか?」

 私は作業の手を止め、皆に聞く。

「そうかなぁ。いっつも余るくらい作ってるけど」

「足りなければあそこに元々あるものを使えばよいのでは?」

「無理無理。リズさん、あれ、壱組専用だから」

「あそこにいる竹下たけした、そこらへんチョーうるさいし」

「学級長が質問しただけでいきなし殴んだもんなぁ〜」

「そいや遅いね、学級長。会議長引いてんのかな?」

「昨日の夜もそーとー出たらしいしなぁ。家の周りも深夜までドンパチしてたし」

 む? 志水の家はこの島の旧家だったな。神社をしているとのことだが……もしや封印の一つがあるのか?

「それよかよ、聞けよお前ら。何と、ウチの島にあの鳳珠が来てるらしいぜ?」

「え〜、またそのガセ〜」

「志水よ〜、その話はマユツバすぎんよぉ」

「何時ものキレがないぞ、志水っち」

「ね、鳳珠様がこの島なんかに来る訳ないじゃん」

「ま〜ま〜、聞けって。それはだな、黒騎士の討伐に来たんだとよ、わざわざ」

 私と、遠くにいる萌の手が止まる。

 今、私達は『刀剣』の授業中だ。本日は実際の日本刀を用いて『試斬』をすると言う。

 真剣の日本刀を扱えるとは……私は身の震える思いがした。

 たが私達がしているのはその準備、試斬用の『巻藁』を作っている最中だ。運動着に帯を巻いている者もいれば、和装の道着袴に帯を巻いている者もいる。

 巻藁だが藁を使うのではなく、畳にも使われるいぐさを束にして糸で結んだものをクラス皆で手作りしている。

 大豪寺は中心に竹を用意し、それにいぐさを巻いている。なるほど、巻藁に芯を入れているのか。ふむ、仮想骨か。斬る難度は上がるが、より実戦的な剣の使い方が学べるだろう。

「またぁ〜? 黒騎士なんて二、三日前に死んだんだろ?」

「鍛冶科肆年の先輩の親父さんが倒したんでしょ?」

「俺は警備が十人がかりで特攻隊組んで倒したって聞いたぞ」

「聞け、聞けって! 実はよ、その黒騎士は死んでねーんだよ!」

「はぁ〜?」

「は〜?」

 私と萌と静を除く全員から疑問の声が上がる。シャルロッテは皆に同調しているだけのようだ。静は普段通りなだけだろう。

「ほら、この島、天下六箇伝だろ? そこが荒らされちゃまずいってんで皇室から直々に鳳珠へ命令が下ったんだって!」

「え〜?」

「え〜ー?」

「見たってヤツいるぜ? この、左目のとこに凄え傷がある白鞘の女剣士」

「そんなの格好模写こすぷれっしょ〜?」

「外見似せてる応援者ファンの人なんでしょ〜? 志水さー、それは浅すぎだって」

「こんな辺鄙な島に皇国護鬼の鳳珠様が来る訳ないってば」

 萌と図書室で調べ物をしていた際に出会ったあの女性か。得体の知れぬ剣気と惚れ惚れする程に無駄のない所作をしていた。なるほど、合点がいった。

「あのあの、その人ってどんな方なんですか?」

「えー! 知らないのシャルちゃん!?」

「あー、知らなくても当然かぁ」

「あのね! シャルロッテちゃん! 皇国の——もががが!」

「いや俺が教えてあげるから!」

「いやいやいや俺が俺が!」

「がっつくなって。ここは俺だろぉ?」

「シャルロッテ、先の<赤き馬に乗った騎士>との大戦において活躍した『島津海兵隊シマズかいへいたい』の話はしましたよね?」

「はい! その人達のことならリズさんから教えて貰いました!」

 あれはインド洋の船上のことでしたか。

「あの方達が皇国護鬼こうこくのまもりおにと謳われる日本が有するこの国最強の武力集団なのですよ」

「まぁまぁ」

「うんうん」

「そうそう」

「ですが、私もシャルロッテと同じくその鳳珠と言う女性を詳しくは知りませんが……。有名なのですか?」

 私の言葉にクラスのほとんどがギョッとした目で私を見る。おお、静、貴女もか。

「ええーーーーー! リズさん知らないの〜!?」

「何でよ! 島津海兵隊ってどっちかて言うと玄人好みって言うか、何て言うか」

「女の子だったら鳳珠様から入っていくもんなんだぞー!!」


 そこから私とシャルロッテは作業をしながら、皆が皇国護鬼について教えてくれるのを聞いた。

 簡潔に言ってしまえば、日本版異端執行官、と言うことらしい。

 人個人だけでなく、一族や集団単位で選ばれることもあるようだ。

 私の知る島津海兵隊は、この国の軍部に属する第十海兵隊師団にして軍単位で皇国護鬼とされている集団なのだそうだ。

 異端執行官と違うのは、この国に住む人達の投票によって信任が決まることと、公にされている活動が多いこと、そして時として超法規的手段を取ることが認められている——と言うものだった。


「要はさ、ってのは、と、そこに住むと、その国民が持つの三つっしょ? それを象徴するってのが天皇陛下であらせられる訳じゃん? でも天皇陛下御自身が一つ一つの事件に出張る訳にはいかねーべ。だから、その代わりに怪異と戦ったり、国を守ったり、事件を解決したり、汚いことしてるお偉い連中を検挙して日本を守る訳よ」

「うんうん」

「そーそー」

「まぁまぁ」

 ふむふむ。

「だから、『すめらぎ』に仕えて『国』を『護』る、人にして人ならざる『オニ』達——それが皇国護鬼なの。その中でも鳳珠は一番の人気かなぁ〜。女性剣士で一人だけ選ばれてるってのもあるし、すんげえ居合の使い手ってのもあるかも知んねえけど、あの人の汚職役員の検挙率、実は半端じゃねぇのよ」

「居合ってのもカッコいいけど、生涯一回しか負けてないってのがねー」

「そうそう。しかも自分で傷をつけてその負けをバネにしてるとことか。そこがかっこいいのよ、これがまた!」

「西田さー、アンタやっぱり活動記録とか読んじゃってる系なの?」

「やっぱ西田はすげーなー」

「西田君、やるじゃん」

「それでこそ俺達の西田だよなぁ」

「スゴいスゴい! ニシダさん、スゴいです!」

「!?」

 一同に衝撃、走る。

「テメー西田このやろー!」

「シャルちゃんから褒められるとかいい度胸してるじゃん、この西田!」

「西田のくせにそれはないでしょ!」

「このやろこのやろ! おい大豪寺! お前もこっち来て手伝え!」

「ななな、何で俺ががががだ、カバヤロウ!!」

「いやいや、ごめんごめん! 痛ぇ! 俺が悪かったって、いてててて!」

 皆もこうして騒ぎながらも手を止めてはいない。巻藁を作り続けている。

 なかなかに凄いことをしているではないか、なぁ——

 萌と目が合った。彼は少し自慢げに私に微笑んで見せた。

 ふふ、君もそう思うか。


 材料が揃った。残すは道具と場所だけだ。

 大豪寺が本授業受け持ちの竹下教諭より真剣二振りを借り受け、残る私達は試斬場——第二校庭から縄を張られた向こう側へと移動する。

 土が盛ってあり、そこへ先ほど作った巻藁を突き立てて、刀による試し斬りをする。

 男女二列に分かれて各々、斬る順番が来たら前の者より授業用の刀と自分の持っている刀とを交換し、これを抜いて、巻藁を斬る。順番を持つ者が斬られた巻藁を回収して新しいもののセッティングをする——これが一連の流れのようだ。

 この時代に唯の刀剣による戦闘授業か。私達各人が学園に持ち込んでいるのはほとんどが抜刀禁止の物だ。己の技量のみで斬るべし、と言うことか。

 しかし——

「何度言ったら分かんだ! 槍は引き手で突けってあれほど言ってんだろ!!」

 当の竹下教諭は、第二校庭で行われている別学年の槍術の授業にご執心だ。私達のことなど見向きもしない。

「先生ー、それじゃ初めてま〜す!」

「おら早くしろや! 去年みてえに本戦残れなかったら承知しねえぞ!!」

 無論、私達に向けたの言葉ではない。

「そんじゃ許可下りたってことで始めっか〜」

 男子、女子、共に試斬を開始する。

 ふむふむ。皆、刀を受け取り腰を下ろして正座する。鞘についている突起物に帯をかませ、刀の鞘の紐を帯に巻きつけてから、一気に抜刀する。立ち上がり、刀を青眼の構えに取り、巻藁まで静かに歩き、刀を振りかぶり——一気に斬り下ろす。

 真剣を扱う緊張感が伝わって来る。固唾を飲んで一人一人、静かに試斬を見守っている。

 掛け声と共に刃が振り下ろされ、巻藁が斬り落ちる。

 失敗する者もいるが、再度繰り返し、成功している。ふむ、流石だ。

 斬られた巻藁は傍へと片付けられ、新たなものが盛られた土へ差し込まれる。あの斬られた巻藁はどうするのだろう? 火種として使われるのだろうか? 冬ならば暖を取るに用いられそうではあるが、今は夏だ。刀を鍛える炉に入れられるのだろうか? うーむむ。後で聞いてみよう。

「じゃ、いっけーシャルちー!」

「はい! トウコさん!」

 シャルロッテの番か。

 透子から刀を受け取り、シャルロッテが正座の姿勢のまま刀を抜こうとする。

 皆、その様子を見守っている。

「えい! えい!」

 抜けない。刀が鞘から。

「ん〜? ん〜?」

 しかし、シャルロッテはそのまま立って一人巻藁の前に歩き——

「えい! えい!」

 刀を鞘に収めたまま、斬ろうとする。ダメである。

「……。……」

 皆、無言だ。彼女が冗談でやっているのか、本気なのか分かりかねているのだろう。

 残念ながら本気だ。私の知る限り、彼女は武芸に関してはからきし駄目である。

 彼女に武器は必要ないが、名家の令嬢ならば武芸の一つでも習っていると思っていた。しかしそれは間違いだと彼女との旅で気付いてしまった。

「あっ!」

 シャルロッテが男子の列に気付いた。なるほど、男子の真似をしようというのか。賢明な判断である。さて、男子の次の番は、

「おらよ、萌」

「——」

 男子の次の番は萌だった。

 萌が志水に<獄焔茶釜>を渡し、志水から授業用の刀を受け取る。萌はやや顔をこわばらせながら腰を落とし、正座の姿勢になる。シャルロッテに見られ、皆から見られているのだ。

 体操着の腰に巻かれた帯に刀を差し、刀の下緒を帯に巻きつけ、これを結ぶ。

 左手を鍔と接する鞘の部分、鯉口にかけ、右手を柄に運ぶ。

 左腕をそのまま前へ出し、体をやや右側にひねる。なるほど、シャルロッテに抜刀を見せるつもりか。

 左の人差し指を折り曲げて鍔にかけ、親指を鍔のやや内側に置き、押し込む。

 小さな金属音が聞こえ、刀が少し前へと押し出される。

 日本刀の刀身は厳密には鞘と接していない。鞘内部の空洞に浮かんでいる状態だ。ならば何故抜け落ちないのか。それは刀身の手元にある『はばき』と呼ばれる金具が鞘と密着して固定しているからだ。

 故に、刀を抜くのであれば、刀のはばきを押し上げて鞘との密着を外し、刀身が鞘に触れぬように一気に抜き放たなければならない。

 萌がしゃらんと刀を抜く。鞘を持っていた左手を柄頭に添える。そこから立ち上がり、刀を青眼へと構える。

「わぁ〜。んしょ、んしょ」

 シャルロッテも見よう見まねで抜刀に挑戦し、悪戦苦闘していたが、見事に刀を抜く。

「よしっと!」

 抜いた勢いで体が流されていたが、彼女は小さな掛け声を入れて再度巻藁に近づく。

「えぃ!」

 可愛らしい甘い声と一緒に振り下ろされた刀は、無情にも巻藁に跳ね返される。

「ん? ん〜ん〜? ——えい、えい!」

 もう二度、刀を振るが同じ結果だ。

 彼女は自分の手の内にある刀と斬れていない巻藁の間で視線を行ったり来たりさせていたが、どうやら自分では斬れないと納得したのか、おっかなびっくりという様子で納刀する。

「…………」

 皆が押し黙り、沈痛の表情となる。

 無理もない。上半身は刀に重さに流され腰が浮いた。下半身は大地を踏みしめず、体の軸はそもそも斜めであり、上下でバラバラだ。両腕は脇を締めておらず、ただ投げ出しただけだ。

 が、私としてはシャルロッテによく頑張ったと褒めてあげたい。シャルロッテは、今回が生まれて初めて刃物を振るったのだろう。抜刀し、目標に当て、鞘に収めたのだ。自分も、誰一人怪我をせずに。立派、実に立派ではないか。

 私が初めて剣を抜いた時なぞは、鞘から抜いた拍子に転び、納める時には手を切ったものだ。それと比較すれ何と立派なことか。

 彼女はちょこんと礼をしてから次の番を待つ私に振り返る。私は<氷の貴婦人>を、シャルロッテは先程まで使っていた刀をそれぞれ差し出し交換する。

「はい、リズさん! どうぞ!」

「ありがとう、シャルロッテ」

 私は彼女から刀を受け取ると、これから試斬を行う萌を見た。

「——!」

 上段からの一刀が巻藁を斜めに切断する。やはり構えが違う。

 彼が見せる『蜻蛉トンボ』ではない。下半身を膝が設置する程に落とし、刀を天高く掲げるあの構えではない。いや、萌は構えではないと言っていたか。むむ? とにかく違うのだ。右後方に振りかぶって斜めに斬る——皆と同じ方法だ。

 彼は慣れた手つきで鞘に収めると一礼し、帯に結んだ紐をほどく。彼は次の番の大豪寺と刀を交換してから、志水より自分の刀を受け取る。

「——!?」

 私の投げかけた怪訝な表情に気付いてか、こちらを見ないように見ないようにと視線をあちらこちらに泳がせている。

 彼は隠すものでもひからかすものでもないと言っていた。うむ、あの特異な構えを取れば目立つのは間違いない。

「ふぅ——」

 私は息を深く吐き、黙礼する。

 皆と同じように座したまま、鞘を帯にかませ、巻かれている下緒をほどいて鞘と帯をしっかりと固定する。

 少し気負いがあるか。欧州の剣士を代表するつもりはないが、そう見られもしよう。武器の形状の違いこそあれど、何百回とした稽古だ。間違える訳にもいくまい。

 静から動へ。

 試斬とは敵を斬るための練習だ。つまりあそこにあるのは唯の巻藁ではない。あくまで敵と想定し動かねばならない。

 左の親指で鍔を押し上げ、刀を一気に抜く。

 立ち上がり、左足を前に踏み出し、左手を柄頭に添え、刀を一直線に巻藁に向ける『雄牛』の構えを取る。

 薬指と小指に力を入れ、牛の角の如く手と柄を一体化させる。

 その名の通り、腰を浮かせずに怒れる雄牛のように目標へと突進し、

「セイッ!」

 右足で大きく踏み込むと共に、右上空へと回した刀を振りかぶり、腰、体軸、肩の回転運動を刀に乗せて、刀の軌道をブラさずに刃筋を通し、引きながら一気に斬る!

「お!」

「お〜!」

 軽い手応えがあり、巻藁を皆と同じように斜めに斬り、

「シッ!」

「えぇ!?」

「うぉ!?」

 返す刀で、今度は左側から水平に刃を走らせ、再度巻藁を両断する。

 皆の感嘆の声が僅かに聞こえる中、私は刃を収め、次の舞衣へと渡すべく下緒をほどく。

「やるじゃねえか、ヴォルフハルト」

「いきなし二段斬りか、かますな〜」

 やはり、斬れる。祖国の長剣ロングソードの時より手応えがやや軽く感じられたように思う。旅を通して多少なりとも筋力がつき、技術と経験を積んだとしても、単純な切れ味は欧州圏の剣より日本刀の方が上かも知れない。

 斬る基本原理は変わらない。物体に当たる衝撃に負けぬように剣をしっかりと持ち、刃筋と剣線を一致させ、肩を中心とする円運動による遠心力を利用して刃を通す。

 日本刀は反りがある分、斬撃に適しているが、直線である欧州圏の剣は刺突により適正がある。どちらも斬る、突くが両立できる形状ではある。

 どちらが優れているか単純に決め付けられない自分がいる。どちらも優れているのだ。

 何より大事なのは前に立つ敵を倒し、後ろにいる人々を守ることだ。それができるのならば劣っている刃だろうと私はためらいなく振るわねばならない。

「お待たせしましたね、舞衣。貴女の番ですよ」

「…………」

「舞衣? どうし——た!?」

 突如、彼女が鼻血を出しながら地面に倒れる。

「おい舞衣!? しっかりしろ!」

 彼女を抱きとめ、眼鏡を外し急ぎ容態を確認する。血が頭に上りすぎた一時的なのぼせと分かる。

「あ〜、リズさんの勇姿を間近で見れて、頭の回線がショートしちゃったか〜」

「柏木〜? 生きてっか〜?」

「とりあえず保健室運ぼうぜ。保険委員は——て、柏木じゃねーか!」

「こんな時、どうすればいい訳? 西田〜?」

「いや、そりゃまー、学級長が代わりに運ぶんじゃね? まだいないけど」

「いや、ここにいるぞ」

「うお! 何時戻ってきたんだよ、学級長!?」

「ついさっきだ。シャルロッテ君が試し斬りをしたあたりからだな。ふむ、柏木君は暫くそのままにしておいた方がいいだろう」

「え?」

「見たまえ、彼女のあの顔を」

 一同の視線が集まる。

 鼻血で汚れた舞衣の表情は、出血中とは思えぬほど恍惚としたものだった。

 一先ず彼女の顔を下向きにし、鼻の下部を指で強く押さえて止血を試みよう。

「私はこう思うのだ——彼女はあのままリズ君に看取られていた方が幸せではないか、とな」

「おぉ〜」

「さっすが学級長」

「あー! ちゃっかりリズさんに抱かれてるなんてズルい奴ー!」

「舞衣的には本望なんだからさ……しばらくそのままでいてくれない、リズさん……?」

「いえ、そんな真剣な顔をされても困りますが……?」

「じゃ次アタシー!」

「その次私予約ねー!」

「お〜。俺もぶっ倒れたらシャルロッテちゃんが看病してくんねえかなあ」

「バッカ、大豪寺に頭蹴られてそのまま永眠すっぞ」

「だから何で俺が出てくんだ!!」

「認めろよぉ〜。認めちまえよぉ〜。こっち側の世界はスンバラシィぞぉ〜?」

「うううるせぇ! こっち来んじゃねぇ!」

 やれやれ、また始まってしまったか。

「う〜ん、リズさぁん、アタシもう死んじゃってもいい」

 こうなってしまうと何をすれば良いのやら。萌、君はどう思う?

 彼は致し方ないと言った表情で私に頷いてみせる。時には諦めも肝心か。

「ほら、突いて引け! 引き手を忘れんな! そうだ、違うだろ!? ——何やってんだ! 明日の予選勝つ気あんのか!!」

 監督すべき教諭はこの事態を見ておらず、あちらの校庭で行われている他の授業にご執心のようだ。

 そうか、これが日本の『どつぼにはまる』と言う現象か……!!

 いや、私を見る萌のリアクションから判断するに違うのか? むむむ、後で透子に確認するとしよう。


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「ほれ、茶でも飲んでおれ」

「これは沢庵先生、痛み入ります」

「権力に卑屈なのはかわっとらんとはのう。儂が性根を叩き直すべきじゃったか」

「現実主義と言って下さいよ」

「ほう、主ら顔見知りかえ?」

「ええ、私が学園生時代にこの学園でお世話になった先生です」

「フン、聞いたぞ、あの醜聞を。止めぬ教頭らもそうじゃが、お前もお前じゃ。なっとらんわ」

「ハハハ、でしたら何十年ぶりかに先生の生の喝を聞けたかも知れなかった訳ですね」

「ぬかしよるわい」

 話し合いが終わった会議室に穏やかな空気が流れ始めていた。

 後は学生達が誓約書を提出するのを待って、読んで、退避する学生を今日中に外に出すようにするのが第一の課題だ。いわば待ちである。

 部屋には四人、一風変わった面子が集まった。

「ほぅれ、主も湿った面しとらぬて。つぶあんでも食べて機嫌を直すが良い」

「もひゅ。ありにゃひょうごひゃいまふ」

 上官の無様を見た弥生君の機嫌は鳳珠印の饅頭とて容易には治せぬようだ。顔をしかめたまま饅頭を頬張っている。これが代行殿のご乱行に憤っているだけならば嬉しいものだが。

「時にご老人、東雲萌なる人物の入学を推挙したのはお主かえ?」

 鳳珠の思わぬ問いかけに、沢庵先生はギョロリと目をむいて答える。

「それをご存知ならば、東雲の実技を試験したのも儂じゃとお分かりじゃろう」

 政庁には島員の入出記録が保管されている。それは学園生のものとて例外ではない。どんな理由か、それが妥当か、妥当ならばその判断は誰が下し、誰が最終的に認めたのか、等だ。

 私や弥生君のもあるし、この沢庵先生のもエリザベートさんのもある(二人とも何十年も前のものだが)。そう尋ねる鳳珠のものについては私が作成した。

 一方で、学園は学園として『日本皇国に住む学生の成長記録』をつけて、これを中央の内務省文武局に送っている。

 たった一人の恩寵が戦場を左右し、国の行く末を決めかねない時代だ。『人は宝』とは至言だ。国と言う組織を運営する上で人材の健全な育成と恩寵の発展は欠かせないのである。

 恩寵の徹底した管理を声高に主張するのが恩寵至上主義者や血統血縁優遇政策支持者と言った輩達だ。

「のぅ、その東雲とやらはいかような人物かえ?」

「お待ひくだひゃい、鳳ひゃま。んぐぐ。何故彼に拘るのですか?」

「なぁに、昔斬った女子おなごと同じ名字でな。その娘の子が成長していれば年の頃は同じじゃと思うての」

「…………」

 沢庵先生の睨みにも鳳珠はどこ吹く風だ。

「彼は少々特殊な恩寵の持ち主ですが、友人と剣術の同好会を立ち上げたり、そうそう、夜間警備にも参加してくれてましたね。最初は実戦に不慣れと言うことでしたが、ここ数日は怪異を撃破する戦果をあげていますよ」

 同時に班を壊滅に導きかねない命令無視を敢行する要注意人物と国司君は報告書に書いていたが、これは黙っていておいてあげよう。

「剣術のぅ〜……」

 鳳珠が自らの顔の傷を上から下へとなぞる。

「その力とは何かえ?」

「それは教えられませんな。この老官、これでも教員の端くれであります故」

「ふむ。ほぅれ、次はきなこあんじゃ」

「あ、ありがとうございます! ぱくっ」

 弥生君はすっかり餌付けされてしまったか。

<思い出す>——東雲少年はその恩寵や体質とは別に入島審査において特異な点があったことを。

 彼が怪異を引き寄せる体質の可能性ありと国司君は報告していた。

 この会話の主導権を握るため、こちらから情報を先出しするか。

「彼の入学には——そうそう、国立の仁部じんぶ機関と言うところから推薦状がありましてね。鳳様は何かご存知ですか?」

「おお、仁部機関か。人を実験動物モルモット扱いする外法学者の集団よ。妾も未だ確証が掴めぬ。ほほっ、思わぬ拾い物じゃ」

「……。これ須佐、そんな怪しげなところからの推薦状を真に受けたのか?」

 鳥上学園に入学する学生諸君は、この島の性質上、鳥上学園と鳥上島地方政庁の両方から入学を許可された者でなければならない。この島に日本皇国門外不出の鍛冶錬成術にして天下六箇伝の一つ、『鳥上伝』があるせいだ。

「人物を保証するとありましたね。しかしモルモットとは穏やかではありませんね。何なのですか、その仁部機関とやらは?」

「ふむ。妾も掴めてはおらぬが……東州とうしゅう事件の生き残り共が新たに立ち上げた組織と見ておる」

「東州事件じゃと?」

「もひゅひゅ?」

「確か……人為的な恩寵の発現を目指した人体実験ですか。かれこれ十年程前ですね」

 東州と呼ばれる山奥の町でその実験は行われていたと言う。目的は、『設計した恩寵の発現方法の確立』とされている。

「血統による恩寵の継承は同じ者にしか伝わりませんからね。当時の噂では、人を意のままに操る恩寵の発現ですとか、<無効化キャンセラー>の兵装を創り出す方法を研究していたそうですね」

「それにのぅ、血統ばかり重視すると新たに優位な力を持つ人間が生まれにくくなる害悪がある——ほほっ、何とも浅ましき考えじゃよ、のぅ?」

「ほひほふ」

「恩寵至上主義はもはや狂信の域ですからね」

 弥生君、ところで君のそのお饅頭は幾つ目かね?

「ですがあの事件は被験者が暴走し、研究員と施設を破壊、そのおかげで明るみになり、外法の人体実験をしていた者達は皆処分されたと聞いておりますが……?」

「甘いのう。そちの腹黒さでよくよく考えてみよ。処分されるような者は所詮はじゃよ。実験のやトップの学者共は雲隠れしおったわい」

「よくご存知なのですね」

「妾が事件を処理した故の」

「なっ?」

「みゅ?」

「む?」

 おや、これは初耳だ。

「関わっただけよ。暴走した被験者、東雲なる女子を斬ったのは妾じゃ。事故処理を任せてみればこのざまじゃったがのぅ」

「それが東雲萌君の母親だと仰るのですか?」

「そう思うから主らに聞いておる次第よ。哀しい女子での。<簒奪者>と言う恩寵を持ったが故に、人から奪うことを生業としてしまったのよ」

 鳳珠の語る東雲なる女性は、孤独な人だったようだ。

 人からものを奪い自分のものとする恩寵のせいか、幼くして犯罪に手を染めた。様々な悪事を重ねた結果、首を縄にくくるか、軍に入るかと言うところまでいってしまったらしい。その時、歳は四十を越えながらに十七、八歳の美貌を保っていたそうだ。無論、他人から若さや寿命を奪い取ってきた結果だ。

 軍人としては文句ない人だったようだ。恩寵の性質もさることながら、他人を傷つけても何とも思わない一種の人格障害者であったことが拍車をかける。

 しかし——

「戦地で、かたくなに再出撃を止める若い医師がいたようでのぅ」

 怪我人を止めるのは医師として当然のことなのだが、彼女ならば人から生命を奪えば済む話なのだ。

「上官から命令されしぶしぶ従っていたようじゃがの、人の心はわからんものよ、何時しか二人は恋に落ちてしもうたようじゃ」

「——ごっくん」

 弥生君、色々と台無しだ。

 相手をどう殺しどんな命を奪えるかと考える自分勝手で孤独な女と、ただ彼女の身を案じ怪我の世話をする青年——恋に落ちるのは必然であったのかも知れなかった。

「結局、二人は結ばれ、夫となった青年は軍医を止めてある研究所で内勤となり、女は軍を除隊、程なくして一人の男子を出産する。奪うことが人生の全てじゃった女子からすれば、自分が生命を生み出せるとはと大層感激したようじゃ」

「……うぅ、ぐすん。はむ」

「だからかの、その赤子が恩寵を<何も持たない>と分かっても、愛することを止めなかったのよ。いや、だからこそ一層愛したのかも知れぬ」

<何も無い>恩寵の持ち主、それはつまり——……

「自分のこれまでの悪事は己の持っている恩寵が優秀じゃったから許されていたと知っていたのは他ならぬその女子自身よ。可愛い我が子がいずれ、自分のような人を人とも思わぬ恩寵者から搾取される定めと分かっても愛そうとしたのよ」

「うぅぅ……。はむぐぅ」

 弥生君、泣くのか、食べるのか、話を聞くのか、どれか一つに集中しなさい。

「故に、その子供を産ませることが、己が夫の仕事と知った時はさぞ動揺したろうに」

 恩寵の発現に絶対の法則は無い。経験則として親の恩寵が同じならばその子はそれを引き継ぐと言うのがある。

 ならば、と、その東州の学者達は考えたようだ。

 全く正反対の恩寵者から生まれる子はいかなる恩寵の持ち主かと。

 恩寵が血統によって確実に受け継がれるのなら話は簡単だが、現実は違う。人は二人の両親の血を受け継ぐが、その両親にもそれぞれ二人の両親がいるのだ。人が持つ複雑な血の螺旋を考えれば、全く正反対の男女二人などそう見つけられない——はずだった。

「妾は分からぬがのぅ。夫がその女子を、実験対象として愛したのか、一人の女性として愛したのか、それとも愛なぞ鼻っからなかったのか。ただ一つ言えることは、その女子は夫が自分をモルモットとしか見ていないと思ったことじゃ」

 そう思い込んでしまえば全てが色褪せる。二人で過ごした時間も、語り合った夢も、肌を重ねた愛情も——

「他人から奪うだけだった人生に初めて何かを産み出す喜びを与えてくれた男が裏切っていたと信じた女子の絶望は計り知れぬじゃろう。元より狂気の嗜好ある女子じゃった。発狂し——夫を殺し、子を殺し、夫の勤めていた東州の研究所を襲撃した」

 二十名を超す死者と、重軽傷者多数の事件を引き起こした、と鳳珠は続ける。

「その犯人である東雲と言う女性を斬ったのが鳳様なのですね? よくご存知で」

「ほほっ、妾は斬った人間のことは皆知るようにしておるのよ」

 死者の中には研究所とは全く関係無い町の人も含まれていたそうだ。それにより研究所で行われていた非人道的な活動が明らかになる。

「そこからは主らも知っておろう。責任者探しに黒幕探し、あれやこれやのなすりつけ合いじゃ。今思えばそうやって派手な目くらましをうっておいて、真に守るべき者達を遠ざけておいたのじゃろう。犯人のことや、散っていった人命なぞ何処吹く風よ」

「先程、鳳様はこう仰いましたよね? 犯人は自分の夫と息子を殺したと。でしたら東雲君がその女性の子供とは限らないのでは?」

「妾の話は、あくまで妾の斬った首の内に残っていた記憶を知り合いに読んでもろうたものじゃ。と言うこともあるのではないかのぅ、とな。何にせよ、腹を痛めて産んじゃ子じゃて。底知れぬ狂気と絶望に陥ろうとも、そうやすやすと殺められるものなのか、とな」

「なるほど……」

「それでか。あンの馬鹿もんが……」

 沢庵先生は立ち上がる。

「儂はここいらで失礼させて貰う。須佐、次会う時はその腑抜け顔をなんとかせい。では鳳様、老官はこれにて失礼つかまつる」

 有無を言わせぬ強い口調だ。

 それを見送る鳳珠は、

「心当たりあるはあの老人か。ほほっ、縁とは不可思議にて面白いものじゃのう」

「仇を討たれるとお考えなのですか?」

「ほほ、さてのぅ。ほれ、饅頭娘や、すまぬがちと茶を淹れてきてくれぬかぇ?」

「はっ! 直ちにお持ち致します!」

 餌付けによる条件反射か、弥生君が沢庵先生の後を追うように走り去っていく。

 舞い上がるのは良いのだが、その口周りを綺麗にしてからこの部屋を出る方が良かろうに。

「さて、やっと二人っきりになれたのぅ」

「ははっ、私などで良ければ何時でもお呼び頂ければ」

「何を抜かすか。妾から呼びつけたのでは主にどんな厄介ごとを押し付けられるか分かったものではないぞえ」

「昨日のように、ですか」

 彼女はカラカラと笑う。

 昨日間近で見た彼女の居合の技——それは不可思議なものだった。

 一キロメートル以上離れた森の中を動く怪異を、そのすぐそばをヴォルフハルト嬢が走っていたにもかかわらず、正確に斬って捨てたのだ。

 それだけではない、私にはその抜刀も納刀も全く見えなかったし、音すらも聞こえなかった。

 話以上の法外な居合の技である。

「昨日のあの女子達、顔に似合わず中々にやるものではないか、のぅ?」

「私は部隊の手配で最後まで拝見できませんでしたが、凄まじいものでしたね。鳳様ならばどうなさいます? あのような恩寵を持つ彼女達と万一にも戦うことになれば?」

「ほっほっほ。前提が違うかのぅ。妾が斬るは皇国に仇なす者のみ。もしあの女子らが刃向けるのならば、」

 彼女が顔を上に向けて笑う。

「勝ち負けなど、妾の生死などどうでも良い。ただ討つ、それだけよ」

 論理的に考える人間かと思ったが、根の部分ではただの武人か。

「さて、昨日の借りを返して貰おうかの」

「私にできることでしたら」

「何、簡単じゃよ。青江の当主の青江静じゃがのぅ」

「彼女が何か?」

「主の娘かえ?」

「————はい?」

「母親とは同い年、しかもこの学園で同じ生徒会とやらに所属しておったのじゃろう? 母親が神隠しとやらでいなくなっても金銭的に随分と支援しておるし、何かと便宜を図っておるそうではないか」

<思い出して>しまった。

「ははっ、違いますよ。知人の一人娘ですから、面倒を見るのは当然のことです。静さんの母君と私はそういった関係ではありませんでしたし、それに、」

「それに?」

「彼女の父親は、緋呂金真行——この島の鍛治宗家のご当主殿です」

「なんと。なれば先刻主をのしていたあの坊主とは、」

「ええ。腹違いの兄と妹です」


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「あのあの、ハジメさんってどうしてモエっちさん何ですか?」


 私も気になっていた萌の最大の秘密をシャルロッテが皆へと問いかけた。


「おーし! シャルちー良くぞ聞いてくれた! それはなのだね、」

「ちょっと透子ってば。シャルちゃんに変なこと教えちゃダメだって」

「そうそう、日本が変な国って誤解されちゃ困るじゃんさ〜」

「何をぅ〜」

『試斬』の授業も無事終わり、教室で早めの昼食をとりながらシャルロッテが投げかけた疑問は、周りの女子達の間でさざ波のように広がっていく。

 私達は明日の昇武祭予選に参加するための誓約書の文字を書き終わり、残すは沢庵教諭の見ている前で署名し印を押すだけだ。

「実は私も不思議でした」

「えっ!? リズさんまで!?」

「いえ、私は彼の名前が『もえ』と読むのは知っているのですが、どうしてあの漢字を『はじめ』と読むのかな、と」

 虚空に彼の名前——草冠に日と月で萌と書く。

「えっ……そっちなのリズさん……」

「リズっち、恐るべし!」

「てか、そうなの?」

「はい、そのはずです」

 遠く離れた席の彼を見ると、前の席の志水と向き合いながらおにぎりを食べている。

「何でだっけ? ねーねー西田、何で?」

「え、俺? まーいいけど。名乗り読み、て奴だろ? 要は、名前を当て字で読むみたいなもん」

「それでハジメさんがモエっちさんなんですか?」

「じゃねーかな。萌えるって草木の芽が出だすとか、はじまりの兆しって意味だから。そっからとって『はじめ』つーんじゃん? 本人じゃねーから知らんけど」

「まぁまぁ! ありがとうございますニシダさん! やっぱりニシダさんはものしりさんですね!」

「え!? いや、あんまり俺褒められても……」

「てめえ西田ちくしょーめ!」

「美味しいところ持って行きやがった!」

「いいぞぶちかませ、大豪寺!」

「俺を巻き込むなってんだろーが!」

 西田の席へ、男子から教科書や文房具類が投げ込まれる。

「いやほんと、マジごめんって!」

「んっふっふ〜、甘いな、西田っち。全然なっとらんのですよ、シャルちーさんや」

「え、え?」

「あ〜、透子がまぁた始まった」

「シャルちゃんごめんね、話半分に聞いといてあげて」

もえっちはね、えるから萌っちなんだよ!」

 透子が机を手で叩き(音から察するに)、顔をシャルロッテに近づけて力説する。

「萌えはね、日本が世界に誇る一大文化なのだよ! ババーン!!」

 効果音を自分で言ってしまうとは。

「あのあの、草木が育つことがそんなに大事なんですか?」

「違っーう! 可愛いものを見たり聞いたり、空想したりして、まぁうまく言葉にできないけど、何か良いなぁ幸せだなぁ、ってなるのが萌え萌えなのだよ!」

「えっ、えっ?」

「シャルちゃんとかお持ち帰りしたいぐらいに私の萌えポイント押さえてるんだけどね〜」

「私も」

「私もそうかな〜。アタシはリズさんと一緒にセットでゲットしたいかなぁ」

「——ゔ〜、さっきの授業思い出したらまた鼻血出てきた」

「?」

「むむ?」

 私とシャルロッテは萌えなる言葉の真意を掴めずにいる。

「ん〜、ほらさ、今の萌っち見てみそ!」

「オニギリ食べてます」

「そうそう。あの幸せそうな顔! ふっくらしたほっぺ! リスが尻尾振りながらご飯食べてるみたいでしょ!!」

「そう、ですか?」

「そう、には見えませんが……」

「ほらほら二人とももっと見る! 心の眼、心眼で見るのじゃ! じーっと! じーーっと!!」

「じ〜、じ〜」

 つまり眼鏡を外せと言うことか。外してみよう。さて、尻尾など何処にあるのか?

 そこにはこの上なく幸せそうな表情を浮かべながら大きなおにぎりをほむほむとかじりついている萌がいるだけだ。間違っても尻尾など何処にも生えていない。うむむ、<強制視>で強く見てみよう。う〜む、何も無い。

「あっ! 何だか大きな尻尾をフリフリしてるのが見えてきたような気がします!」

「よし! そのまま行けシャルちー! 萌えの世界の扉を解き放つのだぁ!」

「あっ! はい、分かりましたトウコさん! 今の私の胸の中の幸せなあったかい気持ち、これが『モエ』なんですね!」

「おお、シャルちーも萌っちの萌えを分かったか!」

「はい! まち針でちくちくつついてあげたくなります!」

「そうそう、そうやって踊らせて……うぇぇ!?」

「ほらほら、リズさんも! ちゃんと見てあげて下さい!」

「……。何も見えませんが」

「見えますでしょう、見えますでしょう!」

 もはや聞こえてすらいない。

「ありがとうございます、トウコさん! 私、ニッポンのモエをもっと勉強します!」

「え、う、うん……。そ、そうだそうだ! これを知らずして日本の萌えを語るなかれ! 昔の日本には日本中から萌えを愛する人達の萌の、萌えによる、萌えのための祭典があったんだぞ!」

「まぁまぁ」

「場所は関八州の武蔵の国、時は夏と冬の年二回! 期間はそれぞれ三日間! 全国から何十万って人が毎年集まってきて萌えを語ったんだぞ!」

「まぁまぁ!」

「それは凄い」

 そんなに大勢の萌えの愛好家達がこの国にいたとは。萌えが分からない私には、にわかには信じがたい数字だ。多少の誇張はあるかもしれないが、透子が嘘を言うことの方が信じがたい。

 目を閉じて想像してみよう。

 何十万もの群衆が集まっている。もはやそれは人の海と呼ぶのが正しかろう。

 発する人の熱気、熱狂——全てが人により埋め尽くされている。

 その中の一人が拳を天に突き上げて叫ぶ。

『萌えーーーーーーッ!』

 呼応するように群衆が咆哮する。

『萌ぇぇぇーーーーーーッ!!』

『萌え萌えーーーーーーーーッ!!』

 天を貫かん猛り! 地を揺るがす絶叫! 大気震わす大音量!! もはや声と言う生易しいものではない! 何十万と言う人間の——そう、まさに深遠からの咆哮! もはや兵器! 超音波兵装そのものであろう。

 その熱さをもってしても各人の萌えへの思いを語るに足りないのだろう。

 流石は音に聞こえし日本皇国……私などが理解するにはあまりにも深い。

「ふむ……。萌の尻尾は未だ見えませんが、透子の言わんとするところは理解できた気がします」

「そうそう。その、何となぁく心で理解したような気持ちが萌えてるんだよ、まさに! 我が愛弟子のリズっちさんや」

 透子が椅子に片足を乗せ、何時もの熱弁をふるう。

「こら、透子。そのように足を開くと太腿が丸見えですよ」

「何言ってんのよリズっち。アタシのお肌なんて誰にも見えないって」

「今の私には見えていますよ」

 彼女の<透明化>の恩寵は、私の<強制視>によって破られている。

「え〜、またまた〜。ひっかけなんてアタシには効かないぞ〜?」

「透子、貴女は、ここ、右の目元にほくろがありますね。泣きぼくろと呼ぶのでしたか」

「へ……? 本当に見えてんの? てか、ほくろなんてあるの、アタシの顔? ……ここ?」

「もう少し右下——そう、そこです」

「……ん……」

 静が右手で私の手に触れ、<感覚共有>で私の視界情報を得る。

「……ぉ、ほんとだ……」

「まぁまぁ、シズちゃんにも見えるの?」

「……ん……」

 静がもう片方の手でシャルロッテの指に触る。そうか、他人への<感覚共有>もできるのか。

「まぁまぁ! 本当です! 私にも見えます、トウコさんのお顔が! 初めましてですね、トウコさん!」

「え、え? マジに見えてる系なの?」

「……んー……」

 静が今度は透子と手を繋ぐ。

「え——あ、うおぉぉぉぉーーー! すげーー! 手だ、手! 手相がある! 指紋も見えるぞー! 鏡、鏡、鏡は何処だ!?」

 透子が自分の机の中をがさごそと漁り、学園に持ち込んでいる短刀、脇差を片手で器用に鞘から抜く。刃の反射で自分の顔を見るつもりか。

「あ、あ、あーーー!! アタシだーー! これがアタシなのかーー!!」

 自分自身を見るのは初めてなのか。恩寵の最初の発現は五、六歳頃とされているが、産まれた時から力を発している者もいる。透子もそうなのか。

「スゲェーー! ほくろだ! ほんとにほくろがある! うぉぉぉぉーーー!」

 感極まってか、透子が脇差を抜いたまま教室中を駆け巡る。

「透子、危ないってば」

「うぉぉぉーーー!!」

 聞く耳などもはやない。

「もー、呑気にお茶なんか飲んでる場合じゃないっしょ、萌っちってば!!」

「——!?」

「うわ、汚ね、萌! てめ、百地! 抜いたら面倒だからさっさとしまっとけ!」

「うぉぉぉーーーっ!!」

 彼女の気持ちに志水の言葉は届かないのか。脇差を振り回し、教室の扉を開けて、雄叫びを上げながら廊下を走る!

「うぉぉぉーー! あ、センセーセンセー! 見て見て! アタシの顔が映って、」


「喝ーーーーーーーーーッ!!」


「うひぃ〜ん!?」

 教室にまで響く大喝! それに続き、透子が廊下の壁にぶつかる残念な音が聞こえた。

「見事……まずは見事と言っておこうか、百地透子よ! 常在戦場——鳥上学園学則はお主ら学園生だけへの規律ならず! 儂ら教員とて同じこと! 常に戦場にこの身あれば、何時如何なる時に命狙われたとておかしくはない……!! 儂の命を狙ったお主の行動、何一つ間違ったものではない……」

 沢庵教諭の聡明な声が響いてくる。

「だがな……悲しいかな、足らぬ、足らぬのだ! 刃物を操る技量! 儂をる心量! そして何より、己が命を捨ててでも儂をろうとする覚悟が足らぬわぁ!!」

「セ、センセ……そんなことより、顔……」

「もはや問答は無用である! 喝ァーーーーッ!!」

「ぎゃぴ〜ーん!」

 透子が廊下から何処かへ吹き飛ばされる中、何事もなく沢庵教諭が教室へと入ってくる。

「級長、号令ィーーーーッ!」

 学級長の声の元、私達は起立し、沢庵教諭へ頭を下げる。

「ね、ね、シズちゃん? 今いないトウコちゃんのためにもお話しきちんと聞いておかないとですね!」

「……ん……」

 私だけ、私だけなのか、違和感を覚えてしまうのは。この『のり』なる不思議なものが私達のクラスを支配するものだと分かってはいるのだが、やるせない。

 私と同じ表情を浮かべている萌と目が合う。

 私達は沈痛な面持ちで、頷き、首を横に振り、また頷き合う。

 目と目が合い、離れるまでの僅かな間、私達は口を動かさずに何百もの言葉を交わしていた。


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