「君を呼ぶときに」

 うちの嫁さんは、日曜日は猫になる。猫は気まぐれ、なんて言葉もあるが、彼女も割とその口だと思う。


「ねぇねぇ、旦那さん、旦那さんっ」

「んー、どしたー?」


 土曜日の夜、月末に家計簿と帳簿をつけていると、嫁さんがとつぜん言ってきた。


「たまには呼び方を変えてくださいー。日替わり希望です~」

「……は?」


 電卓を叩いていた手が止まる。つい顔を見上げた。テーブルを挟んだ向かい側で「I am CAT」という謎のロゴが入ったパジャマを着て、手には発泡酒を握っている嫁さんが、ほんのり赤ら顔で言ってきた。


「〝嫁さん〟ばかりだと、なんだか新鮮味が薄れてきた感じじゃないですかー」

「どゆこと?」

「たまにはハニーとか呼ばれてみたいっ」


 じゃあ俺はダーリンか? それはともかく、またネット小町辺りの情報に踊らされているに違いないと思いつつ、経費用のレシートを整理しながら応えてみた。


「呼び方を変えるのはべつにいいけど。じゃあ明日は、ハニーって呼べばいい?」

「そうですねぇ……〝お母さん〟以外なら、なんでもいいですが」

「奥さんは?」

「ふむう……どうせなら、様付けで」

「奥様」

「きゅんっ!?」


 どんっ。


 嫁さ――奥様が、発泡酒を机に叩きつけて、空いた両手で自分の頬を掴んでいた。


「素晴らしい! これは予想以上に甘美な響きですねっ!」

「奥様。税金の計算と家計簿付けるから、そっちの給与明細も見せて」

「やめて! セレブなご気分に水を差さないで~っ!」


 奥様は今一度、発泡酒を掴みあげ、それからきゅーっと煽った。


 セレブとは。


「ぷは~。この味は猫の時には楽しめない、まさに人間の大人の味です!」

「人間のって定冠詞がつくと、かなり怪しげな響きになるな」


 そう思ったが、機嫌を損ねられても面倒なので、黙っておいた。


 🐈 🐈


 

 日曜日。嫁さんは相変わらず机の上に転がって、幸せそうにスマホの画面を叩いていた。


「さてと、飯も食ったし、仕事するか」 


 朝の六時に目を覚まし、雑用を終えた七時半ちょうどに、絵描きの仕事に移る。


「じゃあ嫁さ――じゃなかった」

「にゃん♪」


 呼び方を変えることを義務付けられているのだった。彼女も今日はなんと呼ばれてるのか、心なしか楽しそうに眼を輝かせていた。


「タマ」

「……にゃ?」

「タマさん、例の如く夕方まで仕事するので、後よろしく。昼には一度顔だすから」

「にゃああおおん!?」

「なに?」


 尻尾が二股に分かれている嫁さ――タマは、近くに置いてあったキーボードを肉球で叩きつけ、怒りの高速ブラインドタッチをしてみせた。


『誰がタマですかっ、誰がっ!!』

「え、呼び方を変えろって言ってきたの、タマだろ」

『そうですけどっ、っていうか、タマじゃないですっ! タマはやだ~っ』

「猫といえばタマかなって……」

『却下! 不採用! べつの考えてっ!!』

「えぇ……」


 面倒だなぁ。はやく仕事したいと思いながら、立ち止まって考えた。



「じゃあ、ファフニール」


 言った瞬間、嫁さんが『Σ( ̄□ ̄;)』みたいな顔で固まった。

 気に入ってくれたらしい。


「仕事に行ってくるよ。ファフニール」

「にゃーーーーーんっ!!」


 肉声でなにか抗議していた。すぐさま、ブラインドタッチ。


『ふぁふにーるって、なに!? なんなん!?』

「ドラゴンだよ。黒くて、強くて、平素はきびしい現代社会で生き延びる嫁さんにぴったりじゃないか」

『ちっとも嬉しくないですっ!! もっと可愛いのがいい~~っ!』

「嫁さん」

『原点に返った!?』

「嫁さん」

「…………に、にゃ……」

「嫁さん」

「に、にゃあああ……っ」

「うちの嫁さんは、世界で一番可愛いよ」

「…………………にゃん……」


 嫁さんはくるりと振り返り、背中で語っていた。


「もうそれでいいです」


 うん。俺もこの呼び方がしっくりくるよ。嫁さん。


 そういうわけで、今日も平素と変わらぬ日々だった。

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