第4話 険道5
数日経てば、すべてもとどおり、何事もなかったかのような毎日が訪れる。
日常はなにも変わらない。
数十万年この星は、なにかが生まれ、消えてゆくことを繰り返してる。
ふらりと歩き、パン屋の前を通りながらこんなことを思っていても、
焼きたてのパンの香ばしい匂いで、頭のなかがパンになる。
「あれ、佐倉ちゃん」
図書館帰りに街をぶらぶら歩いていると、ちいさな楽器屋が入っているテナントビルのなかから顔を覗かせたマスターに声をかけられた。
マスターのとなりにはROKKER風のピアスやタトゥーがたくさん入った外人がいて、すこし近付くのが憚られた。
「あ、ビビった?」
マスターはそんな様子のわたしに笑って、その人物と一言二言話して、マスターが自らこちらへやって来た。
その外人はその場に立ったまま、見た目とは裏腹に、さわやかな人懐っこい笑顔を浮かべてこちらに向かって手を振っている。
いちおう、振り返しておく。
あれ、わたしあの人をどこかで見たような……と頭の隅から記憶を掘り起こす。
マスターは、またひとしきり笑っている。
結局思い出せないまま、わたしが渋い顔をしていると、マスターがパン屋を指さした。
「てっきりあいつのことを知っていたからビビったのかと思ったけど、どうやら思い当たらなかったみたいだね」
「でも、まあせめて、俺の顔を見てダッシュで逃げなかったご褒美として、そこのパン美味いから驕ってあげるよ。なにが食いたい?」
マスターにはぜんぶお見通しらしい。恥ずかしい。
「なにかあった?」
開口一番がそれだった。パンを頬張っていたわたしは咀嚼をしつつ、
「なにもないですよ」
という答えが思い浮かんで、取り消した。
わたし自身に何かあったわけではないけれど、身近でなにかあったには違いなくて、すくなからず影響を受けている身としては、なにかあったとは言えるだろう。
しかし、たのしい話題でもないそれを報告する必要があるのか、ないのか。
べつに思い悩んでいるわけでも落ち込んでいるわけでもない。
人に話したからといって、楽になるものでもない。
わたしが返答に詰まっているのを、マスターは咎めるでもなく、そのあいだを利用して自分もパンを食べはじめていた。
マスターは、はじめからわたしからの答えなど期待していないかのようだ。
「あ」
わたしは閃いたように思い出した。
「あ?」
「さっきの人……」
「まさか、いま思い出した?」
「ええええ、なんで日本にいるんですか?しかも今!」
「ちょっとした野暮用だよ」
「野暮用ってマスターに会うことが?」
「そこはヒ、ミツ」
マスターは笑った。
今日のマスターは機嫌がいいのか、よく笑う。
それはわたしがマスターの笑顔を羨んでそう感じているのか、実際にマスターがよく笑っているのか、それすらよくわからなかった。
ただ、その笑顔をわたしはきれいだと思えた。
そう思えるだけで、わたしはまだこころを失っちゃいないと思えて、すこし安心した。
わたしはマスターの笑顔を羨んでいるようだ。
「実はさ、徹、さいきん悩んでるみたいなんだよね」
ポツリとマスターが呟いた。
「悩み?」
「そそ。よくあることなんだけど、ドツボに嵌ってるっていうかさぁ……」
「スランプですか?」
「んー……スランプというよりは、環境かな。深刻な環境問題」
「なんかそれ地球温暖化とかそういった類いの環境に聞こえるんですが」
「間違っちゃいないよ。空気悪いんだ、ここんところの人間関係」
業界の商業的な重圧のいろいろが浅沼くんを苦しめているらしい。
仕事と報酬の構図がピンとは浮かんでこない、そのあいまいな立場。
「安定、安心、安全なんていうのは存在しないんだよなあ」
「バッハとかハイドンの宮廷音楽家であれば、貴族や教会に音楽を捧げて生計を立てていたんだけどね」
「いまや、そんな貴族級の人間は、なかなか居ないよねって話。パトロンなんて夢のまた夢だよ」
「でも、有名な作曲家たちも、演奏したりピアノを教えたり、職を掛け持ちしてましたよね」
「そうだね、楽じゃないんだよね、パトロンさがしは」
マスターがクラシックの話題に触れることに一方的な違和感を感じつつも、音楽史を思い返す。
パンを一つ食べ終え、パンの包装紙をきれいに畳んでいくマスター。
パンの包装紙が、マスターの手によって折り紙と化している。
「……委嘱の悩みですか?」
「うーん、……究極的には人間関係というか、組織体制そのものの問題なのかもしれないな。著作権や税金云々の問題も出てきてるみたいだしさ」
「著作……某アヒルがCMに出てくる生命保険会社と似てる組織ですか」
「ああ、佐倉ちゃんなら言うと思った」
「保険に掛けて話を進めると、会社と個人の契約に関して言えば、アーティストは、期間内に定期的にタマゴを産みつづけなければならないニワトリのようなものだよ」
「好きでいてもらうために常に飽きられない努力ってわけだ」
マスターはどこかさびしそうに笑って、ニワトリなのかアヒルなのかわからない、とりあえず鳥の形状をした紙をわたしに寄越した。
「徹はさ、根っからの芸術家気質っつーか、金銭に関する頓着がないから、商業ベースになるのに嫌気がさしたんだろうね。売るために作っているんじゃないって」
「それは、きれい事ですか?」
「どうだろう。俺は徹には自由であって欲しいとは思うけどね」
「生きるために作っているんじゃない、生きているから作っている、と?」
「……なんかさ、徹と佐倉ちゃんってどっか似てるんだよなぁ」
マスターは、「とりあえず徹に会ってやって」とだけ言って、わたしと別れた。
そんなふうに言われてしまえば、気にならないわけがなく、近々浅沼くんの家に訪れようと考えていた矢先に、マスターからメールで病院先を告げられた。
浅沼くんは現在入院しているらしい。
そのことにも衝撃を受けた。
どうしてそれを先に言わないんかーい。
訪れた病院の受付で事情を話し、案内してもらう。
浅沼くんは、どうやら個室を与えられているようだ。
なんというリッチな生活。
まあ、大部屋にいる浅沼くんなんて想像できないのだけれど、いったい入院費用はどうしているのだろうと考えてしまう。
案内された個室の前に立てば、中から話し声が聞こえてくる。
浅沼くんと、もうひとり誰かがいる。声の感じからすると男性かもしれない。
浅沼くんは激しているわけではないけれど、人を突き放す、ことばの端々から冷たさを感じる独特の話し方をしている。
「創作するのは創作者の勝手だけど、ある程度作ったらとっとと死んで、著作権なしになってもらいたいっていうのが本音なんだよなあ、使用する側は。そして創作者のつくったものがあられもない姿になっていくんだ。みずから創造も出来ない輩のおもちゃに成り下がるってわけだ。そして自分がみずからつくったような厚かましい顔を世間にさらけ出す」
「そこまで言っていないし、そんなことは……」
「大衆に受けるのがそんなに大事ですか。扱いづらくなれば、こうやって保護気取りの監禁じゃないですか。俺はいたって正常なんですけどね」
「アナタは権謀術数に長けてて、俺をうまく利用していたい。それがすべてだろう。話は終わりだ、とっとと帰ってくれ。顔も見たくない」
一間の沈黙の後、スーツ姿の男性がドアを開けて出てきた。
男性は、見舞いの花を手に持ったままである。
わたしと目が合い、わたしから軽く会釈をした。
その男性もぎこちなく会釈を返した。
わたしを何者か窺っている目つきだった。
「まさか佐倉さんが来てくれるなんてなあ」
入室すると真っ白い部屋で、白がよく似合う浅沼くんがそんなことを言った。
白いカーテンが、開いている窓からの風にゆらゆら揺れている。
「なんだか佐倉さん、間がわるいときに来たね」
「……浅沼くんって、白が似合うね。なんか部屋にマッチしてる」
「おれ、腹が黒いからね」
「それを自分で言っちゃうのが、浅沼くんらしいね」
「そうでしょう」
さきほどの険悪な雰囲気からは想像もできないおだやかな空気が流れていた。
ベッド横の机に無造作に置かれた白紙の五線譜の山。
「マスターからなにか聞いた?」
「端的に」
「いちおう入院ってカタチになってるんだけど、ここ数日徹夜ばっかしてて、ふと気が抜けて床で爆睡してたら、こんな処理になっただけなんだよね。だから病気でもなんでもないよ」
「ああ、そういうことよくあるよね」
「だから、心配かけてごめん」
「わたしが浅沼くんに会いたくて来ただけだから、気にしないで」
話をしながら、置いてあった五線譜に鉛筆で、生物学的リアルなかわいげのないオタマジャクシをえがく。
それを見た浅沼くんは、ウーパールーパーをえがき出す。
「真似したら作品使用料取るよ」
「それは困ったな。技術だけを盗まなきゃいけないね」
点滴の刺さった浅沼くんの手は色白く、折れてしまいそうなほどに細かった。
オタマジャクシとウーパールーパーの落書きは、まるで同一人物が描いたような統一性のある画風で描かれ、それとは別に個々で描いたカエルは、およそバラバラの個性ある絵となっており、ふたり満足して笑い合った。
「ねえ、佐倉さん知っているかい?男にも生理っていうのがあるらしいよ」
「そうなの?」
「とくに理由もなく”ひとりっきり”でいたいというときがある。それで、しばらくのあいだ、放っておいてひとりにしておくと、また元に戻っていつものようにコミュニケーションを取ることが出来るようになる。その”ひとりになりたい”期間のことを男の生理って呼ぶんだって、看護師さんが言っていた」
「みんなと一緒にいたいのに孤独にもなりたい人間ってたいへんだよね」
浅沼くんはしずかに笑っていた。
「どこまでが個人の楽しみなんだろうね。たとえば、種々雑多なネットの世界のなかでも、日常のなかでも」
浅沼くんがひとりごとのようにつぶいた。
「共有出来るものってどこまでなんだろうね」
わたしもひとりごとのようにつぶやく。
「浅沼くんはエゴサーチをしてる?」
「え?」
浅沼くんはきょとんとしてこちらを向いた。
「お店をやっている人とか、本や音楽を作っている人、表へ向かって発信している人は、普通にそうやってマーケティングしていると思うから」
「わたしは昔しょっちゅうやっていたよ。で、ブログに良いコメントを書いてもらったり、”あ、あの人がコメントをくれた人だ”と判明したら、すぐに
「でも今はもうエゴサーチはしないよ。ほとんどの感想は、”良かったよ。今後も期待してる”みたいなものだったんだけど、本当にごくたまに、しっかり読んでもいない人間が変なことを書いていることがある」
「おれはエゴサーチをしているよ」
「そして自分の悪口を書いているツイートを発見したら、もちろんかなり悔しく思うけど、その人の過去のツイートをたどって、”漂う小物感と人生がうまくいっていない感”を確認して、”こんなたいした人生を送っていない、しょうもない人に批判されたくらいで負けないもんね。今にその口をふさいでやる”と溜飲を下げてる」
そんな自分にとって見たくもないことばを受け入れられる浅沼くんに勇気づけられた。
わたしは、こういう”ネット上の有名人”がネガティブなことをされたときに、どういうふうに感じているのか、どういうふうにリアクションをしているのをとにかくチェックしてしまう。
たとえば、芸能人のだれかさんはツイッター上で、批判的なリプライに対して本当に誠実に丁寧に紳士的に、論争を挑んでいた。
そういう姿勢を見るたびに、わたしはすごく勇気づけられる。
あるいはべつのだれかさんは「おまえは学歴偏重・エリート意識にまみれたナルシスト。こじらせとかなんとか言って、結局は女性をただの性欲の対象としてしかみていない。同じ男として書いたものを読んでいると反吐が出る」と批判され、いろいろと悩んだあげく、「憎悪の連鎖を断ち切りたい」と思い、「わたしへの悪意を剥き出しにして攻撃してきたその人のために、祈ろう」と思ったそうだ。
半年以上嫌がらせメールを送ってきた相手と直接会ってしまう人もいる。
こういう行動なんかは本当に、ドキドキしてしまうし、”人間の暗闇”のようなものがよくわかる。
ネットと、
一度顔を合わせていても、ネットではあることないこと、ひどいことを言えてしまうひともいるし、一般的には顔を合わせているからこそ、言えなくなるという心理もある。
こういう「考え方や対応」ってネット以降の特殊な現象なので、みんな色々と試行錯誤しながら「どうすべきなんだろう」って考えたり悩んだりしていると思う。
「ね、思うんだけどね、こういう”有名人がこういうふうにネット上での自分への批判に対応している”というのをまとめた本なんていうのを出版したらどうだろう?現在ってそういうニーズがあるんじゃないかな」
「知らない人からの突然の悪意に対して、人はどう反応するべきか、というのは、とても興味ぶかいテーマだと思わない?そんな書籍が発売されればいいのにっていつも思ってるんだ」
「発売されたとしたら、わたしはぜったい購入するよ」
浅沼くんはどこか思案ぶかく、とおくを眺めている。
「”あ、そうかあ。そういう時にはそういう風に対処すれば大事や炎上にはならないんだ”と、すごく勉強になるし」
そのことばは自分の口から出たものの、どこかふわふわとしていて、消えていってしまいそうだった。
外から西日が差し込みはじめていた。
白い部屋が橙色に染まってゆく。
「地方出身者は上昇志向が強いと言われていて、都会育ちのひとは、あまりガンガン行かないでクールにやっているという印象があるそうだよ」
外を眺めながら、浅沼くんがそんなことを話しだした。
「自分の周りを見ても、目立ったことをやっている人間は、みんなどちらかと言えば地方出身者だった。本当はどの地域でも、上昇志向がある人間の割合っていうのはいっしょなはずで、どうして違いが出るかをずっと考えていた」
「ガンガン上を目指して行けるか行けないかっていうのは、”移動”にあると思うんだ。”移動”することによって、いろんな変化が起きる。付加価値や、発想やひらめきなんかも生まれる」
「ドライブだったり、散歩だったり、旅行だったり、そういうことだろうね。気分転換とも呼べるけれど、周りの景色や空気の変化によって、頭のなかも変化する気がする」
「移動することによって、新しい文化や出会い、発想なんかを手に入れているんだと思う。おれもそろそろ”移動”が必要なんじゃないかな」
話の合間にオーディオの横に無造作にある、ふるいCDの山を眺める。
マスターは、わたしと浅沼くんが似てると言っていた。
けれど、わたしからすれば、マスターと浅沼くんのほうが通ずるものが多い気がするのである。
こんなふうにマスターと浅沼くんの音楽の趣味が似ていたり。
浅沼くんだったらすぐに気がついたのかなと思いながら、マスターといっしょに居た強面の人が所属するバンドのCDを見つけて取り出す。
「そう言えばね、このバンドのひと、マスターといっしょに居たんだよね」
「え、うそマジで?なんで?ああ……なんでそれを第一におれに言わないかなあ、マスターの野郎」
舌打ちが聞こえそうなほどに、心底くやしそうにする浅沼くんを横目に笑いをこらえながら、ちいさな音量で曲を流す。
ふたりでしばし、その曲に聴き入る時間になる。
「……結局さ、マスターの言うとおりなんだよね」
「世の中は思っているよりも絶望的だって?」
返事をしない浅沼くんは黙って、窓のそとを眺めている。
あのときは、即答で「期待してない」だなんて言ってたっけ。
「なにかに失望しても、音楽には失望しないよ」
期待出来ないなんて、そんなのはさびしいとあのときのわたしは思った。
なぜなら、いつだってそこは孤独だもの。
肝心なのは、物事に夢中になり過ぎないこと。
「ねえ、浅沼くん。疲れたのなら、おなじ場所にずっといないで、たまにはちょっと”移動”してみたらどうだろう?」
支えてくれるのはいつだって自分しかいない。
人にはなにが要るものだろうか。どうすれば渇きが癒えるのか。
どんな自問自答をくり返したところで、ほどなく狂気と陶酔のなかに堕ちてゆくのだろう。
ああ、煩悩。
目の前にある物事だけを、ただ着実に受け入れ、こなしていくことだ。
わたしは本当に”やりたいこと”が頭のなかにたくさん浮かんでは消えてしまう。
人生は一度きりで、時間も限られているから、”やれそうなもの”だけを優先順位をつけてやっていくしかない。
”あともうひとつ人生があったのなら、やってみたかったな”と思うことが、いくつもある。
ただ、わたしは今、”魅力ある人間の生きざま”に興味がある。
”だれかひとりだけ”をずっと見つめていれば、もっとちがったものが見えてくるかもしれない。
どうしてこの人は、こんなにもたくさんの魅力ある人たちと出会えたのだろうか、とか、どうしてこの人はこんなにも多くの人たちを魅了し続けてきたのだろう?とか。
わたしは魅了されている理由はんんだろう。
女優や俳優は美貌があって、アスリートであれば、生まれついた身体能力を持ち合わせていたりするけれど、成功する人間の”特別ななにか”というのが気になって仕方がない。
たとえば、だれかの”人を惹き付けてやまない能力”とか。
その能力を使って、政治家や芸能人として大成したり、なにか新しいムーブメントを作ったり、良質な作品をたくさん残す人。
気晴らしに、一人でインディーズのバンドのライブに来ていた。
なにを眺めると無しに、氷の入ったドリンクを片手に、ぼうーっと隅のほうで壁に寄りかかる。
「しょせん、過去の遺産を食いつぶしているんだよ、世間一般のクリエイターなんていうのは。いまの時代、一億人総クリエイターじゃないか」
浅沼くんは、わたしが帰る前にそんなことをつぶやいていた。
そのことばを自分のなかで、何度かくり返す。
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