「おお、二人とも。お帰り」


「おう」


「ただいまー」


 集合住宅アパルトメントに帰って来たトバリたちに気づいたヴィンセントが、執務机の上で何か書き物をしながら迎えの言葉を投げてきたので、トバリとリズィは各々の返事を返した。

 コートについた煤を軽く叩いて落とし脱ごうとする。すると、


「ああ、リズィ。帰ってきたことろで悪いのだが、一つ頼まれてくれるかな」


「ん? なに?」


 コートを脱ごうとしていたリズィが、言葉少なにヴィンセントを見る。そんな彼女に、ヴィンセントは今まさに書き終えたらしき書面を折り畳み、封筒へと入れて蝋印を押すと、何度か手紙を振ってから、それをリズィに差し出した。


「これを急ぎ届けてほしいのだ。郵便にではなく、直接。場所はベーカー街211B――といえば、誰か判るだろう」


「ん。もち」


『勿論』の『論』を言うのが面倒くさくなったのか、彼女はそこで言葉を区切るとひょいと手紙を受け取り、颯爽と踵を返えして部屋を出て行った。

 出ていく間際、部屋の外で入るのを躊躇っているらしい人物に「入っていいよー」と覇気のない声を掛けながら。

 廊下の向こうから「え、ええ」という戸惑いの声と共に、開けっ放しになった扉をノックする音。


「――失礼します」


 そして――


「おおー! よく来てくれた、お嬢さんマドモワゼル!」


 この部屋の主――ヴィンセント・サン=ジェルマンは、諸手を上げて彼女の来訪を歓迎した。


「……ええ、お邪魔します。ミスター……」


 しかし、男の歓迎する様子とは相反するように、女は――エルシニア・アリア・リーデルシュタインは険しい表情を浮かべていた。それは仕方がないだろうなぁと、トバリは思った。

 なにせ彼――ヴィンセント・サン=ジェルマンは、一言でいえば『胡散臭い』のである。まさに胡散臭さの塊のような男だ。

 言動のいちいちが芝居がかっており、何処までが本気でどこまでが冗談なのか、推し量ることができない。彼という存在そのものに慣れていない人間は、十中八九警戒してしまうだろう。あるいは戸惑うか……まあ、どっちにしても似たようなものだ。

 まあ、尤も。

 得体が知れない――という意味では、トバリからしてみれば少女も同じようなものだったが。


(――それにしても……)


 部屋の中央で諸手を上げて女の来訪に歓迎の意を示す、壮年の男。

 対するは、そんな男の様子に露骨なまでの警戒心を露わにする少女。

 その様子を、コートを脱ぎながら呆れ顔を浮かべ眺めている自分――まるで出来の悪い三文芝居パルプフィクションを見せられているような気分だった。


(どういう状況だよ、これ……)


 紅茶の用意をしながら、ヴィンセントと対峙する少女をそれとなく観察する。

 一見して緊張している様子に見えるが――その実、彼女は警戒を緩めていない。

 ヴィンセントに対して。そして、自分トバリに対して。

 どちらかが。あるいはトバリとヴィンセントの両方が僅かでも不審な動きを見せれば、すぐに何かしらの対応をして見せる――そんな刺々しい気配がずっと身体を刺している感覚。

 失礼な限りだ。

 此処に連れてくるときはあんな物騒な発言こそしたものの、実際のところトバリにはその気なんてない。勿論、雇い主の指示があれば別であるが……少なくとも現状、ヴィンセントにも彼女との敵対する意思はないはずだ。多分だけど。


「そういえば、以前にあったときは自己紹介を忘れてしまっていたようだ。申し訳ない」


 そんなトバリの胸中を余所に、ヴィンセントは胸元に手を置き、少女に向けて軽く会釈する。


「――改めて。私はヴィンセント・サン=ジェルマン。此処、請負屋の経営主オーナーだ」


 にこり、と。

 彼は穏やかに微笑んで見せた。

 対して、クオリは金色の双眸に戸惑いの色を宿しながら、ゆるりと口を開いた。


「……存じています。一応、調べましたので。サン=ジェルマン伯爵――歴史の中に幾度となく姿を現す怪人にして、魔術師であり、錬金術師……まさかご本人とは思いませんでしたけど」


「それは実に良かった。私という存在についての説明の手間が省けるというものだよ。それでは……改めて、お嬢さん。私は君に、こう尋ねよう――」


 僅かに、息を呑む気配がした。

 少女の青い髪がかすかに揺れる。緊張した気配が、その背中から見て取れた。当然だろう――と、トバリは思う。

 言葉と共に、ヴィンセントの双眸が鋭利になる。元より、猛禽類を彷彿させる彼の鋭い目が、まるで射貫くように彼女を見ていた。

 一拍の間隙。

 呼吸一回分ほどの時間を置いて。

 ヴィンセントは、息を呑む少女に問う。



「――君は一体、何者なのかな?」



 かつん――と。

 ヴィンセントの杖が床を叩き。

 一歩、彼が前に踏み出して。

 少女との距離が、一歩分近づけた。

 対してエルシニア・アリア・リーデルシュタインは。


「――そう、ですね。先ずは、先日名を騙ったことに対して謝罪します。ミスター・サン=ジェルマン」


 肩を強張らせながらも、毅然とした口調でそう言って頭を下げた。


「改めて名乗ります。私は、エルシニア・アリア・リーデルシュタイン。そして先日の依頼に嘘があったことも、お詫びします。貴方たちを試しました。噂に聞く請負屋……その腕前を、この目で確かめたくて」


「謝罪を受け入れよう。ミス・リーデルシュタイン嬢。して――我々を試した、というのは?」


 くすりと笑いながら、ヴィンセントは鷹揚に頷き、そして尋ねる。すると、クオリは、


「――言葉通りの意味です。彼の名探偵すら忌避する事件を、粛々と解決している請負屋がいる。都市伝説の怪物を殺す、可笑しな二人組。その噂の真偽を確かめたかったので」


「なるほど……それで、結果はどうだったのかな? 我々は、君の眼鏡にかなったのだろうか?」


「……それは、勿論」


 そう言って、エルシニアは慎重に――だが、怪しい笑みを浮かべながら頷いた。



 ――ぎしり



 空気が軋む気配を肌に感じた。

 ヴィンセントとエルシニアの間に生じた、形容しがたい軋轢の音に、トバリもまた自然と自分の中で切り替えに入る。

 クオリの様子に、ヴィンセントはくつくつと笑い肩を竦めた。そしてゆるりと踵を返し、彼は長椅子に腰を下ろした。


「トバリ、お茶はまだかな?」


「少しくらい待てよ――ほら」


 視線だけ振り返り問うてくるヴィンセントに小言を零しつつ、トバリは彼に紅茶の入ったカップを彼に手渡す。自分の分を手に取り、「ほれ、アンタのだ」とエルシニアに言って、ヴィンセントの対面の席に一つ置いた。

 彼女は訝しげにカップを見下ろす。何やら警戒している様子だった。

「別に毒なんて入ってねーよ」言いながら、ヴィンセントの後ろで壁に背を預けながら紅茶に口をつけて。

 その様子を見て――漸くエルシニアは来客用の長椅子に腰を下ろす。渋々、という空気が露骨に感じられたが、気にしないことにしておこうと思った。

 そうして、それぞれが一息を着く。紅茶を口にしたクオリから、ほんの僅かだが緊張が解れていく。

 尤も、部屋全体に漂う緊張感は少しも薄れていない。

 まるで可燃性のガスが充満した部屋の中にいるような気分だった。今にも火がついて、爆発寸前のような――そんな雰囲気。

 そんな中でも、ヴィンセントは笑みを絶やさない。彼は優雅に紅茶に口をつけ、努めて穏やかな口調でエルシニアに問うた。


「――それで……我々を試したと言ったね。それは、一体何のためにかな?」


 それは、確認の問いだった。

 彼女が――エルシニア・アリア・リーデルシュタインが、何処まで認識しているか、、、、、、、、、、、を確かめる、そういう問い。

 その問いを、まるで待っていたかのように少女が笑う。

 挑戦的な、あるいは挑発するような――それでいて凛然とした、綺麗な笑みを浮かべて。

 彼女は、答える。


「――勿論、レヴェナントと戦うために、、、、、、、、、、、、


 その瞬間、トバリは動いた。

 タン――と。床を蹴って跳躍、一瞬で彼女の背後へ降りる。

 着地と同時に、左手で腰の短剣を引き抜いた。

そしてその刃で、逡巡なく少女の首筋を――


「――待て、トバリ」


 掻き切ろうとした寸前、ヴィンセントが制止した。

 エルシニアが息を呑む気配を感じる。それは当然だろう。気づいた時には首に剣が突き付けられているのだ。これで微動だにしないというのなら、たとえ制止の声があっても切っていた。

 エルシニアの背後から彼女の首に刃を突き付けた姿勢のまま、トバリは視線を標的から逸らさずに尋ねる。


「――この女、危険だぞ」


「勿論、判っている。だが、それ以上に興味がある」


 数瞬の沈黙。

 互いに言葉なく、ただ視線だけを交え――そして。


「――っち」


 舌打ち一つ零して、トバリはエルシニアを開放し、短剣を鞘に納めた。同瞬、解放されたエルシニアが安堵の吐息を零し、振り返ってトバリを一瞥する。


「……まるで獣ですね」


「褒め言葉をありがとうよ」


 皮肉に皮肉を返して、トバリは元の位置へと戻った。

 こっちの気など知らずにか、ヴィンセントは飄々とした笑みを浮かべてトバリを見やり、改めてエルシニアに向き直る。


「――これまでなかなかに物騒な依頼もあったが……都市伝説の怪物レヴェナントと戦う、などという荒唐無稽な事例は初めてだよ。前回の依頼といい……まったく。本来ならば、有り得ざる依頼はなしだよ」


 それは含みのある物言いだった。

 だが――実際のところ、ヴィンセントの言う通りでもある。

 彼と組んで早数カ月。両手両足では足りない程度の仕事ビズはこなしてきた。

 勿論、それらの仕事の中にはレヴェナントと遭遇したものも少なくはない。行方不明者の捜索――その多くはレヴェナントが関わってくる。

 レヴェナントの持つ能力の一つ、支配領域ドメイン

 標的を逃がさないための空間支配であり、同時に標的以外が近づかないようにするある種の隔絶された《空間フィールド》を作り出す異能を持つ。

 だから、普通の人間はレヴェナントを認識できない。その存在を明確に、意識して捉えることができないのだ。

 認識できず、認識されず。

 静かに、邪魔されぬようにひっそりと、奴らは薄暗闇の中に人を誘い込み――そして食らうのだ。

 レヴェナントの支配領域に飲み込まれた人々は、ただ、抗うことすらできずに喰い散らされて、そうして行方が判らなくなって――

 それが、レヴェナント。

 認識できぬが故に、その存在は不明瞭あやふやであり。

 認識されぬが故に、その存在は不確かであり。

 認識できぬままに、人々は彼らに喰われていく。

 認識されぬままに、彼らは人々を食らっていく。

 故に、レヴェナントは都市伝説なのだ。

 気づかれないから。

 気づけないから。

 誰も、その都市伝説はなしを知っていても、信じる者はまずいない。それは聞き分けのない子供を諫めるための謳い文句のようなもの。その実在を知っている者は、この都市ですら一握りだ。


 ――故に。


 レヴェナントを知る人間は稀有であり、数奇であり――そして危険なのだ。特に、レヴェナントを狩るトバリたちにとっては。

 理由は単純。誰が敵で誰が味方か、判ったものでないからだ。

 ましてや、レヴェナントと戦う――などという、奇矯極まりない科白を口にするような相手なら、なおのことである。

 だが、


「それで、ミス・リーデルシュタイン。レヴェナントと戦うと、貴女は言った。しかしそれは何のためかな? そして何故、貴女はそんなことをしようとする?」


 その懸念を差し引いて考えれば、少女の言葉に興味を抱くもの仕方がないだろう。実際、その真意を知りたいという気持ちは、トバリにもある。

 だからトバリは、これ以上ヴィンセントの問いを遮ることもせず、黙って様子を窺うことにしたのだ。勿論、いつでも得物を抜ける心構えをした上でだが……。

 沈黙は数秒続いた。

 短いようで、その実異様に長く感じたその間隔。

 二人の視線を正面から受け止め、エルシニア・アリア・リーデルシュタインはゆっくりと口を開く。


「説明の前に一つだけ――ホーエンハイム・インダストリー……ご存知ですか?」


「勿論だ。この英国随一の機関企業エンジンメーカーだね。五年前に突如として産業界に姿を現し、瞬く間にロンドン一の、ひいては英国一の企業とまで謳われるほどとなった大企業だ。大機関をはじめ、ロンドンの生活基盤を支える機関のおよそ半分は、このホーエンハイム・インダストリーの製品と言われている」


 エルシニアの問いに答えるように、まるで台本を読み上げるようにすらすらと言葉を口にするヴィンセントの様子に、質問したクオリのほうが目を丸くした。


「……随分とお詳しいですね」


「なーに。少しばかり、あの会社には興味があってね。ちょっと調べてみたことがあるのさ。なにせこのご時世、情報は新聞や情報誌のおかげで事欠かないわけだしね」


 微笑みながら、ヴィンセントは大袈裟なくらいに両手を広げ、周囲に山積みになっている本や紙束を示して見せる。

 隣の物置は当然のことながら、この書斎もまた随分と本が積み上がってきている。


(あー……そろそろ隣の物置に移さないといけないな、これ)


 などと考えているトバリを余所に、ヴィンセントとクオリの話は続いた。


「まあ、貴方がご存じであるのならば説明する手間は省けて助かりますね」


「これでも知識人を自負しているのでね。それで、どうしてホーエンハイム・インダストリーの名が出てくるのかな?」


「……ご存じないのですか?」


「ふむ……」


 こちらの出方を探るような、エルシニアの意味ありげな言葉にヴィンセントは微笑で返した。


「ミス・リーデルシュタイン。君は依頼人なのだ。君の考えは判らなくもないが……そう何度も相手の懐を探ろうとするのはどうかと思う。そんなやり取りばかりしていては、話が進まず本題に入ることができないのではないかね?」


「うっ……」


 ヴィンセントの言葉に、クオリは僅かに頬を赤らめて俯いた。どうやら自分でも自覚はあったのだろう部分を指摘されて、恥じているのかもしれない。

 やがて彼女は、赤みの引いた顔を持ち上げてヴィンセントを睥睨し、ゆるりと口を開いた。


「最近、ホーエンハイム・インダストリーがホワイトチャペルなどの貧困層を中心に大量雇用をしたことはご存知ですか」


「あまり表だって知られていないことだな。事業拡大による雇用枠の再編に伴った雇用があったことは、知る者ならば知っている話だ。正規雇用契約の上、これまで住居を持っていなかった者たちのため、社員用の仮住まいまで用意しているという――まったく懐の大きい企業だよ。機関革命当初であるならまだしも、今時代どこの大企業もそんなことはしない。社員が増えれば支払う賃金も増える。それだけ資金コストも増えるのだからな――それで、この話がどうかしたのかね?」


 ヴィンセントがうっすらと笑いながら首を傾げて見せる。だけど、その目元が少しも笑っていないことなど、この場にいる誰もが判っていた。

 そんなヴィンセントの視線を正面から受けたクオリは、頤に指を添え、熟考するように視線を彷徨わせる。そして慎重に頷きながら話を続ける。


「はい。確かに、それだけの話ならば大企業による貧困層の救済措置、と見えなくもありません。ですが、問題はその大量雇用された人々が何処に消えたかなんです」


「貴方はどう思いますか?」と、視線だけで問うクオリに、ヴィンセントは笑みを崩さず「続けて」と促した。クオリも特に異を唱えることなく、話を続ける――前に、彼女は持っていた鞄から大きな封筒を取り出して、長テーブルの上に置いた。

 ヴィンセントは黙ってそれを受け取り、中身を取り出して目を通し始める。

 数分の間、沈黙が客間に鎮座し、ヴィンセントが紙をめくる音だけが室内に響いた。そして、すべてに目を通し終えたのであろうヴィンセントが、くつくつと笑みを零しながら今しがた目を通したであろう資料を「なかなか面白い内容だぞ」と言ってこっちに向けて来たので、トバリは面倒くさいと感じながらもそれを受け取った。

「――これを何処で?」ヴィンセントがエルシニアを向き直りながら尋ねると、彼女は「盗み出しました」と、なかなか過激な科白を零したことにトバリは思わず目を剥き、ヴィンセントに至っては「ほっほっ!」と実に嬉しそうに声を上げる始末である。


「盗み出した! ふはは! 君ほど可憐なお嬢さんの口から、まさか盗み出したなどという科白が聞けるとは! いやはやなんとも刺激的アグレシップなことか!」


「何をそんな興奮してんだよ、お前は」


 危機とするヴィンセントに苦言を零しつつ、トバリは手渡された資料に目を通し、


「――名簿か、これ」


 書かれている内容は、個人の名前。年齢。出身。血液型と現住所に配偶者などと続き、最後に配属先となっており――それらを一覧リスト化した書面。まさに名簿と呼んで差し支えないような代物だった。


(なんでこんなものを盗んだ? ……いや、待て。この名簿――まさか)


 二十枚近い名簿を捲っていき、トバリは自分の中に生じた疑問の答えに至った。そして、丁度それと同じくして、少女がこの名簿の意味を口にする。


「それは、先ほど説明したホーエンハイム・インダストリーの新雇用者の一覧名簿です。雇われた日付から、名前、年齢、生年月日に血液型など、簡易ですが最低限必要と言える個人情報プロフィールが揃っています」


「だけど、こんなのは当たり前だろう。普通の企業なら、個人の情報はある程度把握してしかるべきだ。……まっとうな会社であれば、だが」


 ロンドンの雇用事情は、お世辞にも良いとは言えないだろう。いやむしろ、労働者階級にとってこの都市ほど彼らにやさしくない場所はないとすら言える。蒸気機関の急激な発展による生産の大部分の機械化に、労働種事情。急激な人口の増加にインフラの整備や住居の建設が追いつかず、そういったさまざまな問題から労働条件も悪質であり、日に十四時間以上の労働や子供の雇用、低賃金が当たり前になっているのだ。

 そう言った事情もあって、下請けの工場や波止場などでは日雇いの者も数多く、日々入れ替わる彼らをすべて把握することは不可能に近いだろう。そういった事情から、余程の大企業でもない限り、社員の――ましてや浮浪者や貧困層の――雇用名簿など作らないという場所が圧倒的に多いのだ。

 だが、相手はホーエンハイム・インダストリー。英国随一の大企業であり、企業情報誌などによれば『今一番就職したい企業』のトップにある会社だ。管理体制も抜群と思って間違いないだろう。

 よって、名簿があることの何が可笑しいのだろうか。

 そう指摘するトバリの問いに、クオリは小さく嘆息を零しながら言った。


「――名簿の、最後の欄があるでしょう」


「配属先、ってやつか?」


「そうです。それを見て何か気づくことは?」


「気づくこと……って言ってもな。別に不思議なところはないんじゃないか。工業地帯のサザークに、テムズ川付近の波止場。ロンドン郊外に新設される工場……ふむ」


 トバリは一つ一つ配属先を口にしつつ、頭の中のロンドンの地図と照らし合わせていく。そして――


「なあ、ヴィンセント」


「なんだね、トバリ」


「ロンドン郊外――この名簿からすると……北の――そう。ハーリンゲイの外れ辺りだが、あんな場所に新設の工場なんてあったか?」


「よく気付いた。見事だ、トバリ」


 トバリの指摘に、ヴィンセントは拍手を送った。


「その通りだよ。確かに工場はロンドンの郊外に行けば幾らでもあるが――あのあたりに新設の工場ができたという話は聞いていない。まあ、この新雇用の話自体が表立っていないことを考えれば別段不思議でもないが……さて、ミス・リーデルシュタイン。この名簿と貴方が指摘したいのであろう、存在しない工場への配属――これらが導き出す答えは何かな?」


「それが、最初の質問に対しての答えです。伯爵」


 エルシニアは神妙な面持ちで答える。


「レヴェナント。それが何処から生まれてくるのか、貴方たちはご存知ですか?」


「それこそが、私の知りたいことでもある。レヴェナントを生み出している者。それは何者で、その目的は一体何なのか……実に興味深い事柄だ」


「まさかと思うが、このホーエンハイム・インダストリーがそうだっていうのか?」


 からかう気持ちでそう指摘してみた。すると、エルシニアはこちらに視線を移し――


「ええ、その通りです」


 はっきりとした口調で、そう言ったのである。

 クオリの言葉に、微笑みを深いものに変えてこちらを見やるヴィンセントの横で、トバリは「冗談だろう」と天井を仰いだ。軽い気持ちで言っただけだったのだが、まさか本当にそんな返しが待っているとは思わなかった。

 トバリは溜め息を吐きながら、目を通した資料をヴィンセントに返す。


「――おい、専門家さん。こちらのお嬢さんレディの推察、どう思いますか?」


「ふーむ。正直な話、判断材料に欠けるな。この名簿と存在しない工場だけでは――ねぇ」


 ヴィンセントは僅かに目を細めて、トバリが突き返した資料を手に意味ありげにクオリを見据える。


「それだけではなりません。マリア・パーキンソンたちが進めていた新理論。あれの後援者はホーエンハイム・インダストリーです」


「ほほーう」わざとらしく声を上げて微笑むヴィンセント。

 二人のやり取りに、トバリはそろそろ呆れを通り越して感心してしまう。まるで狸の化かし合いだ。手持ちのカードを一枚ずつ交互に公開しているような面倒なやり取りの何が楽しいのか、実に理解に苦しむ。

 尤も、見ている限りエルシニアの持っている情報の大半を、この曲者ヴィンセントはとっくの昔に知っていたのではないかと思えるのだが……。

 いやまあ、それは後で確認するとして――だ。


「で、本題は――どうしてレヴェナントと戦うか、なんだが……リーデルシュタイン嬢よ。アンタ、俺らに何させる気だ?」


 結局のところ、トバリにしてみれば行き着く疑問はそこにある。ヴィンセントもその言葉に同意するように首肯する。

 その問いに、エルシニアは再び言葉を詰まらせた。だが、言わないわけにはいかないだろう。ただ単に『戦え』なんて言われてはいと頷けるほど、自分は戦闘狂ではないのだ。

 今度の逡巡は長かった。果たしてこちらに打ち明けていいのか――そんなことを考えているのだろうか。まあ、当たらずとも遠からず、といったところだろう。

 やがて、トバリたちのカップの中身が空になり、新しいのを注ぐ頃になって――漸く彼女は重い口を開くに至った。


「――人を、探しているんです。どうしても見つけなければならない人が。その人物は、ホーエンハイム・インダストリーに籍を置いています。何度か周囲を探ったのですが……そのたびに妨害があって、どうしても近づけなかったのです。人の大きさ程度の相手ならば、まだどうにかできたでしょう。ですが、中には大型の――それこそ見上げるほど巨大なレヴェナントすらいました。だから――」


「――我々のような請負屋……特に、対レヴェナント戦闘を可能にするものを探していた?」


「その通りです」


 ヴィンセントの指摘に、彼女は申し訳なさそうに柳眉を下げながら頭を下げる。


「勝手を言っているのは承知しています。ですが――力を貸していただけないでしょうか。私はどうしてもあの人に会わなければならないんです」

「その理由は?」

「それは……お話しできません。ちゃんと報酬は支払います。身勝手なお願いと判ってはいます。だけど、どうか……」

 きゅっと唇を噛むクオリの姿に、トバリは内心話にならないなと呆れてしまう。

 つまりは『自分では手に負えない相手だったから、腕の立つ人が囮になっている間に忍び込みます』と言っているわけである。

 そんな要件、幾ら報酬を積まれたってお断りだ。これまではどうにかレヴェナント相手に渡り合ってこれた。だが、だからと言ってこれからもそうだとは言えないのが、命のやり取りだ。

 ヴィンセントだってそのことは判っているはず。当然答えは――

「よろしい、引き受けよう」

「――って、おいぃぃぃっ!」

 満面の笑みを浮かべながら二つ返事で答えるヴィンセントに、思わず本気で声を上げた。悠然と長椅子に腰かけるヴィンセントの襟元を鷲掴みにして引き寄せる。


「お前、何引き受けてんの! 誰がそれやると思ってんだ!」

「勿論、君だ。荒事は君の分野なのだから、当然だろう?」


「当然だろう?――じゃねぇよ! お前、どう考えても可笑しいだろう。引き受ける要素なんてこれっぽっちもないはずだ!」


「まあ落ち着け。私も安易に引き受けているわけではない。考えあってのことだ」


「……本当だろうなぁ?」


 俄に信じがたく、トバリはヴィンセントを鋭く睨み付ける。猛犬だって逃げ出すであろう殺気を込めての視線だが、この男は大して気に留めた様子もなく「ああ」と一言頷いて、ヴィンセントは襟元を正しながらエルシニアを振り返った。


「ミス・リーデルシュタイン。その仕事ビズ、喜んで我々が引き受けさせて貰おう」


「……えっと、いいんですか?」


 呆気に取られていたエルシニアが、驚いた様子で改めて聞き返す。流石に信じ難いらしい。その気持ちには共感を覚える。何せトバリにだって信じ難いくらいなのだから。

 しかし、そんな二人を置いてけぼりにし、ヴィンセントは鷹揚に頷いて見せた。

「勿論だとも。以前も言っただろう? 私はレディの頼みは断らない主義なのだよ――では、改めて仕事の内容と、今後の予定や予想できるリスクなどについての相談を始めようじゃないか」

 そう言って片目を瞑って見せるヴィンセントに、エルシニアはどう対応していのか戸惑った様子で目をしばたたかせ、トバリは恨みがましい視線を似非紳士の背中に注ぎ続けることとなったのである。



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