四幕『亜人通りの古き女王』Ⅱ


 パーウィック・ストリートの路地は、ロンドン市内でもひと際蒸気の噴出量が多い。

 これは都市設計上生じた偶発的なものではなく、人の手によって生み出された――いわば人為的な蒸気ものであり、さらに言えば作為的な蒸気の量だ。

 吹き出す蒸気がパーウィック・ストリートを覆い隠し、あらゆる耳目からその姿を覆い隠す。この通りが快楽街であることは、ロンドンに住む人間ならば殆どが判っていることであり、その姿を衆目に晒すのを避けたい――という理由だけであるならば、この隠蔽は随分と大掛かりな仕掛けと言えるでしょう。

「――すごい蒸気ですね」

「ははっ、此処に初めて来た人はみんな君みたいな表情かおをするよ」

 視界の多くが蒸気で覆われ、下手をすれば進む方向すら怪しくなるような蒸気の量に私は驚きの声を上げる。すると、腕の中の幼児の様子を見ながら、ミスタ・レナードはにんまりと笑みを浮かべながら言った。

「パーウィック・ストリートの蒸気壁スチームウォールはロンドンの名物の一つだからね。流石に観光客を直接招くようなことはできないけど、回転羽根付飛行機や蒸気飛行船に乗って遠目から見る分には問題ないしね。まあ、そもそも此処の蒸気噴出量はサザークとかの機関工場区域並みだから、慣れない人間は、まあ視界が役に立たなくなる――観光客なんて、十中八九迷子確定さ」

「……その科白から察するに、ミスタ・レナードは慣れているようですね。足運びに淀みがないですよ」

「あー……ノーコメントで」

 私が白い目を向けると、彼は慌てて明後日の方角を見ながら言う。「だけど君の同僚君も、迷いなく進んでるみたいだけど?」

 その言葉に、私は眉間にしわが寄るのを自覚しながら前を歩くミスタ・トバリへと向けられた。ミスタ・レナードの言葉通り、ミスタ・トバリの足運びは淀みなく、彼は厚い蒸気の中を変然と歩く。時々足を止め、此方を振り返っては「こっちだ」と進む先を促してさえいる。その様子から、パーウィック・ストリートに彼が足を運んだ回数が一度や二度じゃあないことは明白だった。

 追求しようとは思わない。そもそも追及することに意味はないから。

 ……のだけれども。

(――気には、なりますよね)

 何故、わざわざ護衛対象を危険に晒すというをリスクを冒してまで、わざわざ快楽街なんかに菓子を運んだのか。間違っても彼がどのような女性と夜を共にするのか、というものではない。断じてない。

 私はぶんぶんとかぶりを振って頭の片隅に浮上した考えを捨て、幸か不幸かこの蒸気の中でもしっかりと目立っている赤い影を追う。

 周囲を飛び交っている下品な壮年男性の笑い声や、艶の乗ったしょう……ご婦人方の声を右から左に聞き流し、蒸気の向こうから唐突に現れる人影を避けながら、前方にミスタ・トバリの姿を捉え、すぐ後ろにミスタ・レナードを何度も確認し――

「み、ミスタ・トバリ……一体何処に向かっているんですか?」

 前を行く彼の背に声を掛ける。すると、彼はぴたりと足を止めて私たちを振り返った。面倒くさそうに眉を顰め、彼は外套の内側から一枚に紙片を取り出しながら言う。

「何処か、って聞かれると答え難い」

「はい?」

 私は今、自分の眉間に青筋が浮かぶんじゃないかと思った。同時に〝この人は何を言っているんだろう?〟と本気で疑問を抱く。

「……ミスタ・トバリ。目的があってこのいかがわしい通りにきた来たのではなかったんですか?」

「この通りが目的地であることは間違いねぇよ。ただ、に辿り着くのが少しばかり面倒ってだけだ」

「更に先?」

 私が首を傾げる横で、ミスタ・スペンサーが「ああ」と一人なにやら得心を得た様子で口を――

「もしかして、亜――」

「よし黙れ」

 開こうとした瞬間、ミスタ・トバリが罵声と共にミスタ・スペンサーの喉仏を殴打した。「うげっ!?」と悲鳴を上げて蹲るミスタ・スペンサーの襟首をむんずと摑み、反対の手で彼は私の手首を摑むと、周囲に気を配りながら路地に飛び込む。

「ちょっ、いきなりなにをするんですか!?」

 驚く私を他所に、ミスタ・トバリは路地の奥に歩みを進めて、周囲に誰もいないことを確認すると、安堵した様子で息を吐いた。

 そして鋭い眼差しでミスタ・スペンサーを見下ろし、言った。

「でかい声でその名前を出すなって教わらなかったのかオニーチャン。それともあれか。手の込んだ自殺か何かか? お望みなら今すぐばっさりやっちまってもいいぞ?」

「ちょっとした茶目っ気だよ。お願いだから、その外套に隠れた腰に吊ってる物騒なものからは手を離そう。ね?」

「……テメェが良い子にしてたらな」

 ミスタ・スペンサーの必死な懇願に、ミスタ・トバリは溜息を零しながら渋々短剣に添えていた手を放す。同時に、ミスタ・スペンサーはすばしっこい猫か鼠のように地面を張って私の背後に身を隠した。

 大の大人が大変みっともない様子を曝しているのを白い目で見ながら、私は先程の質問を再び口にした。

「――……それで、何を探しているんですか?」

「あー……それな」

 ミスタ・トバリは面倒くさそうに頭をわしゃわしゃと掻きながら、仕方がないといった表情を浮かべた。そして何の前触れもなく私との距離を詰めてきて――

「――へ?」

 と、われながらなんて間抜けな声を出しているんだろうと思っている間に、ミスタ・トバリは殆ど密着するんじゃあないかというくらいの位置に立っていた。

 近すぎる距離に、私は思わず息を呑む。

 対して、ミスタ・トバリは涼しげな表情のまま更に距離を詰めて、片手を私のすぐ後ろにある壁に置き、更に私の耳元に口を近づけながら言う。

「この通りの何処か扉――の周囲に、獣と歯車の合わさった絵が描かれている場所がある。その扉の向こうに目的地があるんだが……」

「は、はあ……」

 ミスタ・トバリが声を潜めながら説明してくれている。だけど……ええ、はい。はっきり言って、彼の説明をしっかり理解しているのかと問われれば、私は答えられない。

 そもそもに、だ。

(――……こんな体勢で話さないで欲しいのですけど!?)

 人通りの少ない路地で、人目を忍ぶように壁際に寄せられ、その耳元で話をする――なんて、事情を知らない誰かが見たらどう思うか、この人は考えているのだろうかと私は真剣に頭を悩ませる。

 先程まで私の傍にいたはずのミスタ・スペンサーは、いつの間にか少し離れた物陰に移動して何やら「おおー」と感嘆した様子で見物しているのが実に腹立たしく思った――まあ、そういうのがあるから、体勢に驚機ながらも客観的には冷静で要られているのかもしれない……と、私は自分に言い聞かせ、傍に身を寄せているミスタ・トバリを見上げ――そして、彼が辟易とした様子で私の背後の壁を見ていることに気づく。

 ……女性に密着しておきながらよくもまあそんな表情ができますね、と怒鳴らなかった私は、きっと褒められていいと思った。

 思いながら、「……何を見ているんです?」と訊ねれば、彼は無言で手に持っていた紙切れを私に差し出しながら、壁を指さして言った。

「……あったわ、扉」

「はい?」

 言われて、私はミスタ・トバリを押し退けながら振り返る。同時に、彼の差し出す紙切れを手に取って、壁に描かれている絵を見て――

「これが?」

「目印」

 私の問いに、ミスタ・トバリは淡々と答えた。私は驚いたような、呆れたような、そんな微妙な表情を浮かべながら彼に訊ねる。

「……わりと簡単に見つかっていますけど?」

「今日はなー」

 ミスタ・トバリは何やら釈然としない様子で答えた。「パーウィック・ストリートには、こんな感じの扉が四〇近くある。そんでもって、日によってこの絵が描かれている扉は違ってくる。いつもはこんな簡単に見つからねーんだよ」

「なんですか、その面倒臭い仕様システムは」

「それくらいしてでも隠したいものがあるんだよ」

 言葉を引き継いだのは、ミスタ・スペンサーだった。彼はカチカチと懐中時計を操作しながら朗らかに笑う。

「なかなか愉快な光景だよ。この先は」

 その口ぶりから察するに、彼もこの扉の向こうに何があるのか知っているらしい。

「この先に何が?って疑問に思ってるなら、行きゃぁ判るよ。百聞は一見に如かずSeeing is believing――って言うだろ」

 そう言いながら、ミスタ・トバリが扉を開けて先に進んだ。私は慌ててその後を追う。振り返ればミスタ・スペンサーが「早く早く」と先を急かしつつ扉を閉めているのが見えた。

 扉の向こうは、剥き出しの鉄骨や大型の蒸気機関の内部機構に覆われた階段だった。ゴゥンゴゥンゴゥン――と、稼働する蒸気機関の音が全方位から響き渡っていた。ところどころの配管から蒸気が服出していてその蒸気の吹き出し口を一瞥しながら「当たるなよ」と前を行くミスタ・トバリが忠告する。

 私は「判りました」と頷き、彼の後に続いた。薄暗くはあるが、随所に照明が設置されているので、足元に不安はなく、私は螺旋状の階段を一歩一歩進んでいく。

「地下……ですか?」

「ああ。階段はパーウィック・ストリートの真下に繋がってる。快楽街としてのパーウィック・ストリートは、ある意味表向きの顔だ」

「では、裏の顔はどういったものなんですか?」

「蒸気機関革命の悪しき弊害が詰め込まれてる――って感じだな」

「また漠然とした表現ですね」

 私は溜息交じりに言うと、ミスタ・スペンサーが背後で苦笑する気配がした。

「ロンドンには、混沌区画カオスポイントっていう、最初期の無茶な区画開発の折に偶発的にできてしまった区画があるんだよ。サザークの機関領域エンジンエリアがいい例だね」

「機関領域……というと、工業区画の増築に次ぐ増築をし続けた結果、人の手では最早手が付けられなくなっていて、自動建造機関アーキテクチャ・エンジンで今も改良と建造を繰り返しているっていう、あれですか?」

「うん。それだね。あそこが増設され続けるせいで、ロンドンの煤煙は年々増加する一方だけど、工業区画の増設は増え続ける機関エンジン需要を考えれば止めることはできないわけで。結果政府としてはいつだってあそこは頭痛の種で――」

「――つまり、此処もその混沌区画の一つってことさ」

 話の途中から愚痴に発展しそうになったのを察したらしいミスタ・トバリが、大声で先を無理矢理引き継ぎ、足を止めた。

 彼が立ち止まった先には、この機関内部に入って来た時と同じような扉があった。その扉の傍らには、全身をすっぽりと覆う形の外套に身を包んだ人影が左右にそれぞれ一人ずつ立っていて、ミスタ・トバリは「よぅ」と慣れた様子で片手を上げて気軽な挨拶をすると、そのまま外套姿の方々と少し言葉を交わして私たちを振り返る。

「さあ、行くぞ。そんでもってエルシニアにはようこそ、と言っておこうか」

 と――私たちを手招きしながら、ミスタ・トバリはにやりと笑いながら言った。



「此処が目的地。パーウィック・ストリートの裏の顔――〈亜人種通りデミオン・ストリート〉だ」










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