1-6

 とうとう、崖下に近付いていました。オチビとの差も、もう殆どありません。けれども、オチビは諦める事はしませんでした。

 なので私が諦める事にしました。ここで喧嘩をする事にしました。

 腐っている糞もちらほら落ちているのですが、それをオチビに擦り付ける事にしましょう。

 私はオチビが跳び掛かろうとしているタイミングを見計らって、体を横に回転させました。尻尾に顔面がぶつかった感触がして、私はそのまま体ごと振り抜きます。

「ギャン!」と悲鳴を上げて、オチビは横へと盛大に転びました。丁度そこは腐った糞が落ちている場所でした。

 私は振り向いて、それを見て良い気味だと思うつもりでいたのですが、現実は違いました。

 オチビが盛大に転んだ影響で、私にもその腐った糞が飛び散ったのです。私は声は上げなかったものの、かなり怯みました。

 臭いの根源が鼻にくっついていました。あの、初めての滑空の時に食らってしまったものよりも、何倍もの強烈な、臭いものが腐った臭いが私を襲ったのです。

 そして、更に悪い事にオチビは本当にこの臭いを気にしていないようでした。

 オチビはその糞塗れの体で私に跳び掛かって来たのです。臭いで怯んでいた私はその突進をまともに食らい、圧し掛かられました。

 背中ではぶちぶちと音がしました。その、蛆虫の卵が潰れたような音は、とても嫌な音でした。

 オチビは今こそ好機と、糞塗れの顔から歯を覗かせて首に食らいついて来ようとします。私の中で、暴れてこれ以上糞塗れになってしまうか、大人しく噛まれてこれ以上の被害を出来るだけ抑えるか、天秤に掛けられました。

 私が一瞬で出した結論は、汚さに対してはもうこれ以上汚れても余り関係ないだろう、という事でした。

 要するに、暴れる事にしました。

 私は翼腕で迫って来るオチビの顔を引っ叩きます。勢いは削がれませんでしたが、牙の矛先はずれ、私のすぐ隣の空間に齧り付きました。残念ながらそのオチビの牙が糞尿を切り裂く事はありませんでしたが。私は自分の首との間に翼腕を差し、噛まれまいとしました。

 それから私は体を捻ろうと体に力を込めました。幸いにも完全に決まって全く動けない事はありませんでしたから。しかし、易々と好機を逃すオチビではありません。

 必死に私が下である状況を保ちつつ、もう一度噛みつきを行おうとします。びちゃびちゃと腐った糞が周りで飛び散っています。

 私が現状を変えられないまま、二度目の噛みつきが来ました。今度も私は翼腕でそれを弾きます。

 しかし、勢いはさっきより強かったのです。牙の矛先は完全に私から逸れる事なく、首を掠めました。

 まずい、と私はとにかく必死になってオチビの拘束から逃れようと頑張りました。オチビは今にもそのまま首に噛みつこうとしてくるでしょう。私の首とオチビの顔の間は何もありません。翼腕で防ぐ事も出来ません。

 これだけ糞塗れになってしまったなら、何が何でも負けたくはありませんでした。

 私はとにかく必死になった結果、何とか体を少しだけ捩る事が出来ました。拘束もそれに続いて緩みます。けれども、そこで終わりでした。

 オチビの牙が私の首に優しく刺さりました。

 もう、そこで私の負けでした。これ以上動けば、オチビの牙が私の喉を貫くでしょう。

 ああ、と私は悲しく思いながら、だらりと体から力を抜きました。オチビは少しの間噛み続けた後、私から牙を抜きました。

 私の、初めての兄妹以外での負けでした。オチビは立ち上がって強く叫び、尻尾を糞塗れの地面に何度も叩きつけながら初めて私に勝った喜びを爆発させていました。糞は嫌と言う程飛び散っていましたが、私もオチビも糞塗れでもう、そんなに気になりませんでした。

 私は、少しは慣れたというものの、やはり糞塗れな臭いに顔を顰めつつ少しの間、地面に横たわっていました。とても、悔しかったのです。


 私が立ち上がり、それからも崖下に向おうとすると、オチビも付いてきました。

 オチビは私を友達として見ているのでしょうか。良く分かりません。今まで喧嘩をするだけの付き合いで、私が勝った後はオチビは泣くか何かで私には付いて来ませんでしたし。

 少し考えた後、私はオチビを友達として見る事にしました。

 そして、とうとう崖下に着きました。もう、糞が無い場所は見当たらない程に糞で地面が覆われていて、ハエがとにかく沢山舞っていました。オチビの方を振り向くと、今も糞塗れな顔でこれから何をするのか不思議そうな顔をしていました。臭いに対して嫌そうな顔は全くしていませんでした。

 私は一歩、踏み出しました。そして、いきなり硬い物に足がぶつかりました。

 私は、ああ、と悲しく結論を出しました。足でそれを持ち上げてみると、糞が落ちた部分は白い、角ばっていない細長いものが出てきました。

 やはり、骨でした。更に私は歩くと、何度もその骨にぶつかりました。それが獲物となった動物の骨だとは考えられませんでした。私達はまだ骨は食べませんが、父母は私達が残した骨を食べているからです。そして、極め付けに出て来たものは、翼腕の骨でした。

 細長く、枝分かれしていて、翼を折る部分から骨が突き出している、特徴的な骨です。

 私は、カラスは死んだのだと、はっきり理解しました。結論としては、滑空に失敗したワイバーンは、ここで虚しく死に、腐って行くのでしょう、という事でした。

 それからも、私は何度も骨を見つけ出しました。オチビは、私の少し暗い感情に気圧されたのか、私に構おうとはしませんでした。

 ここには、飛ぶ喜びではなく落ちる恐怖を身に染みさせて死んでいったワイバーン達が居るのです。外への羨望は、私でなくても、誰もが持っているものでしょう。その羨望が叶えられずに、こんな糞塗れな場所で虚しく死んでいったのでしょう。

 弱肉強食とは言え、私は少し、やるせなさを感じていました。びちゃりと、近くで糞が落ちた音が聞こえました。


 さて、帰ろうと私は思いました。この糞塗れの体をどうするか、私には解決策は浮かんでいません。遠くにある川には、まだ数回しか行った事がありません。また、自分で行ける距離でもありませんでした。

 母か父が連れて行ってくれないかな、と私は願いました。

 私は崖に背を向け、歩き始めました。オチビも私の後を追ってきます。

 歩き始めてほんの少し後、ごつ、と大きなものに私の足が当たりました。それは、触れた感触だけで大きいと分かるものでした。絶対に子供のワイバーンの大きさではありません。

 私は気になって足でその骨を何度か蹴りました。しかし、びくともせずに、衝撃だけが伝わって周りの糞が弾けるだけでした。

 この骨はもしかして成獣のワイバーンのものではないのか、と私は思っていましたが、確証は得られません。私は翼も糞塗れですが翼腕を使ってまでこれを掘り起こそうとは思いませんでした。

 まあ、いいや、と私はここから去る事にしました。

 オチビもその骨が気になったようで私の後で蹴っていました。弾けた糞が後頭部に付いてしまいましたが、その位なら私はもう、無頓着でした。


 無事に草原に戻ると、私とオチビの体は異様に目立ちました。灰色ではなく、どす黒い茶色の異臭漂うものが私達の体を覆っていたのです。当然でしょう。

 周りからはワイバーンはすぐに居なくなり、その逃げたワイバーン達は遠くからギャンギャン騒いでいます。私は、行かない方が良かったかな、と今更ながらに思いました。そうは思いながらも、妙にすっきりした気分だったのですが。

 すぐにその異変を嗅ぎつけた私の父とオチビの父がやってきて、後ろ脚で掴まれて川の方へと連れて行かれました。やはり、父にとっても糞塗れな私は極力触れたくないようで、私が少しでも動いたら落ちてしまう位に軽く引っ掛けているだけでした。

 その父の強い羽ばたきで私は風を受け、その度に落ちそうになりながら、身に付いていた腐った糞をほんの少しずつ大地へと垂らしていました。こんな事をしてしまっていると、これから糞が自分に落ちて来ても悲しめないな、と罪悪感を感じながら私は思っていました。

 オチビは後ろ脚で掴まれつつも、きゃっきゃと騒ぎ、その結果私の数倍の量の糞を垂らしていました。しかし、私のような罪悪感は全く感じていないようでした。

 兄妹同様私のような、前世を持っているようなワイバーンでは無さそうだ、と私は思いました。

 遠くの川を見ると、数十頭のワイバーンが水浴びや、魚取り、はたまた喧嘩をしているのが見えました。残暑というものも終わり、程々に涼しくなっていたのですが成獣のワイバーンにとってはまだまだ水で遊べる時期なのでしょう。

 そんな光景を見ていると、唐突に私は宙へと放り出されました。私は慌てて滑空の体勢に移り、川目掛けて飛び始めました。隣を見ると、オチビも少し遅れて宙へと放り出されていました。

 私とオチビは自然と並んで飛ぶようになりました。そしてその内、強風に一緒に乗り、いつの間にか息がぴったり合ったように同じ姿勢で、同じ速さで空を飛んでいました。

 私は毎日喧嘩を買っていただけでしたが、こんなにも息を合わせられるようになっていたとは驚きです。二匹とも同じく糞塗れで、それでも目を細めて口元を緩め、私もオチビも笑っていました。

 私は、その友達の感覚を久しく感じました。その意味を私自身が受け止めた時には、前世があり、記憶がそこそこ引き継がれている事に対して、より一層確信を得たのです。

 川は、驚くほどあっと言う間の時間で近付いてきました。そして私とオチビは一緒に水の中へと飛び込ました。

 水の冷たさに、私とオチビは驚き、次の瞬間には叫びながら岸へと必死に泳ぎ始めました。私とオチビはその時も笑っていました。

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