稲荷の里

 食欲と性欲が存在しないこの世界では、娯楽は特に大切な生活の一部である。食事を楽しむことも、性交に耽ることも出来ない以上、それを埋めるように娯楽の重要性は高まる。

 まず基本的なものは、外での遊びである。鬼ごっこにかくれんぼ、そこから派生したものや新たに生み出された身体を使った遊び。単純な遊びは最初から成長しているので子供のするものだと敬遠されがちだが、ルールの複雑な競技と呼ぶことが出来るものは広く浸透している。

 ただし、道具を使ったものはあまりない。この世界には動物皮がなく、さらには石油が存在しないため、道具を作るのが困難であるからだ。石油及び石炭が存在しないことはこの世界の文明水準が生前の世界よりも劣っている理由でもある。

 ロウトとロウカがスコルとハティに付き合って遊ぶのは、もっぱら単純な鬼ごっこが多かった。ただし、霊気の使用が自由なので必然的に超高速の追いかけ合いになる。なめてかかると痛い目に会うので、結構難儀である。ただ、ロウトは生前に全力で走るということが出来なかったので愚痴を洩らしつつも実際は結構楽しんでいる。

 身体を使った以外の娯楽では碁や将棋などの遊びも人気があった。ただしこれは三峯の里では殆ど行われず、三峯から他の里で盛んな遊びだと聞かされたにすぎない。

 書物を読むという行為に没頭する者も多い。この世界では未だに木版印刷だが、主に愛宕の里でよく刷られている。

 そして最も原始的で、三峯の里で最もよく行われているのが口頭での話だった。三峯は相当な年数生きているらしく、話が尽きることなくいつも様々な話を里の者達に聞かせている。昔の三峯の里の様子、かつて起こった戦い、里の者達の名前の由来など。

 ロウトが三峯の話の中でも一際引き込まれたのは、先代の三峯の話だった。今の三峯も相当な変人だが、この先代の三峯という人はそれ以上だったらしく、三峯の名を継ぐ前には一人で世界中を放浪し、そこに伝わる話を聞いて回るという奇妙な旅を続けていたらしい。時には前世持ちにも話を聞いて、神話に始まり世間話まで見境なく熱心に耳を傾けた。里の者の名前に異国の神話の狼の名が使われるのも、この人の影響だという。

 ただ、その話をする時には、三峯はいつも最後に複雑な表情を見せた。恐らくは二人の間には何かがあったのだろうが、それを聞けるだけの度胸は到底ロウトは持ち合わせていなかった。

 他の里の話もよく聞かされた。特に距離が遠く、ロウトとロウカがこの頃――生まれてもうすぐ四年になろうかという頃だ――まだ訪れたことのない里について。二人が訪れたことのあるのは春日の里、八幡の里、住吉の里だけだった。住吉の里以外では里長に会うことはなく、里の者達数名に里を案内された。これは住吉の里が変わっているだけで、人口の多い他の里ではそう易々と長には会えないものなのである。

 最初に訪れた春日の里は三峯の里とは比べ物にならない程大きく、多くの家々に圧倒されたものだった。地面は舗装されておらず、家も簡素な木造だが、人口は三峯の里の二百倍以上。しかもその四割以上が霊気の扱いを修得した戦士。それに加えて霊気の扱いを学んでいない者達も有事には武器を取って戦うという。

 八幡の里は、それをはるかに上回る人口を誇っていた。里というよりはもう街で、地面は石畳で綺麗に舗装され、建物も石造が多い。街の中には巨大なたたら吹きを行う炉のある建物があり、多くの人間が代わる代わるたたらを踏んでいる。食うに困らない、通貨もないこの世界でも、仕事に就く者は意外に多いのだという。しかし霊気を扱える者の数は人口の一割にも満たず、そのため春日の里と三峯の里にその製鉄技術で作られた刀を渡すことで協定を結んでいる。

 海辺に開かれた住吉の里の人口は前二つの里に比べるとはるかに少ないが、それでも三峯の里の二十倍以上はある。こう言うと多く聞こえるが、実際は三峯の里の人口が七人と極端に少ないのでそれ程多くない。住吉の里では連綿と土木技術が受け継がれている。八幡の里の道路や建物も殆どこの里の者達が造ったのだという。

 そういう訳でこの頃三峯がロウトとロウカに話すのはもっぱらそれ以外の里の様子だった。

「そういえば、大会があるんだった」

 稲荷の里について楽しげに話していた三峯が、急に思い出したかのように話を途中でぶった切ってそう言った。

「大会?」

 ロウトは胡坐の足を組み替えて訊く。三峯の部屋に、三峯が奥に胡坐をかき、ロウトがその前に同じく胡坐、ロウカがロウトの横に足を横に出して座っている。

 さっきまでの話は、三峯と稲荷の里の長つまり稲荷との壮絶な決闘ごっこ(、、、)についてだった。三峯はちょくちょく稲荷の里に遊びに行き、稲荷と遊んでいたのだという。しかし話の内容は――冗談の可能性も充分すぎる程あるが――三峯が真剣で、稲荷が徒手空拳で全力で戦っていたことになっている。稲荷の里の者は武器を使わず、己の肉体を霊気で強化し素手で戦う。それでも他の里の者には全くひけを取らず、三峯の話の中でも稲荷と壮絶な互角の戦いをしたという。

「じゃあここで問題。稲荷の条件とは何だった?」

 はいロウカ――と三峯はロウカを指差す。

「えっと、里で一番強いこと?」

「その通り。じゃあそれをどうやって決めると思う?」

「ああ、そういうことか」

「そういうこと。一年に一度、稲荷の里では霊気を扱える者が全員参加で勝ち上がり戦を行うの。それで勝ち残った子が、稲荷ちゃんへの挑戦を認められる。勝てばその場で長を交代。負けても次期稲荷に内定。で、今がその大会の時期なの。言ってみれば里を挙げてのお祭りだから、賑やかで楽しいわよ。という訳で、みんなで遊びに行かない?」

「ちょっと待て」

 突然背後から声がし、ロウトとロウカは驚いて振り向いた。ゲリが険のある目で三峯を睨んでいる。戸は開いていたが、いつの間に入ったのか全くわからなかった。

「里に誰もいなくする気か? 野凶にでも襲われたらどうする」

「何言ってんの。里にあたしとゲリとフレキだけだった時はしょっちゅう里を空けてたじゃない」

「それは俺達がまだ完璧に霊気の扱いを覚えていなくて、俺達だけを外に出すのも里に残すのも危険だったからだろう。今は全員が霊気を扱える。誰か一人でも里に残すべきだ」

 ははあ、と三峯がにやりと笑う。

「つまりあなた、稲荷の里に行きたくないのね」

 一瞬言葉に詰まるが、ゲリはすぐにそれを認めた。

「そうだよ。俺はあの手の連中がどうも苦手でな」

「ちょっと待て、稲荷の里はそんな恐ろしいとこなのか?」

 ロウトが慌てて訊くと、三峯は楽しげに笑い、ゲリは苦い顔をする。

「稲荷の里には馬鹿な手合いが多いんだよ。考えてもみろ。殴り合いを嬉々として観戦するような連中だぞ」

「別にそんな子ばっかりじゃないわよあそこは。ただ試合が一番の娯楽として浸透しているだけで、それを観るから馬鹿ということにはならないでしょう」

「わかった、理屈を付けた俺が悪かった。俺はただ理屈抜きにああいう手合いが苦手なんだよ」

 三峯はくつくつと笑い、目を妖しく光らせてゲリを見る。

「じゃああなたの言い分通り、里には一人残して行きましょう。フレキをね」

「なっ!」

 一歩前に出るゲリを、三峯はにこにこと微笑みながら説き伏せる。

「フレキには前の失態があるからね。稲荷の里への先導はあなたが適任ってことよ」

「あんたフレキの失態は不問に処すって言ってたし、あの後もあいつに二人の先導を任せていただろ。それに先導ならあんたが一番適任じゃないかッ」

「あたしは面倒臭いから後ろについてく方が向いてるもの。細かいことは気にしないの」

 その後もゲリは食い下がったが、三峯に勝てるはずもなかった。結局無理矢理丸め込まれてしまい、すぐに話を聞いて大喜びのスコルとハティを連れ、ゲリに対して口では気の毒にと言いながらもにやにやと笑っていたフレキに留守を任せて出発した。

 稲荷の里との距離は今までにロウトとロウカが訪れた里と比べると遠い。だが白縫を以てすればこの距離でも一日あれば辿り着ける。今までもそうだが、この世界には彼らが走るよりも速い連絡手段がないため、他の里には何の連絡もなしに突然訪れることになる。だが三峯からの書状を見せれば、基本的にどの里でも警戒せずに入れてくれるという。今回は三峯自身が向かうので紙に一筆書くこともなく、顔を見せればすぐにわかるということだった。

 出発したのはちょうど陽が沈んだ頃だったが、山を登っては降りてを繰り返していく内に既に夜は明けていた。慣れない強い日光に目を細めながら、一同は足を速める。

「ねぇまだー?」

 スコルが隣を走る三峯に訊く。ハティがそれを黙って走れと諫めるが、三峯は逆に笑ってハティを諫めた。

「無言で走るのは退屈でしょ? そうね、もうちょっとじゃないかしら。あ、ほら」

 三峯が前を指差す。いくつもの山を越え、今は平野を走っている。その広がった野原の先に、いくつかの屋根が見えている。

「見えたぁ!」

 嬉々としてはしゃぐスコルと、それを見て呆れたように肩を竦めるハティ。ただ、ハティは漸く目的地が見えたことで幾分楽しそうではある。

 一番後ろを走るロウトはそれを聞いて胸を撫で下ろす。

「お疲れ様」

 すぐ前を走るロウカが後ろを向いてそう言う。

「ずっと後ろから野凶が来ないか気を張ってたんでしょ?」

「まあ、いつもと同じだよ」

 ゲリやフレキと他の里に向かう時から、ロウトは常にしんがりを務めていた。その場所に就くに当たり最初に言われたのは、常に背後及び周囲に気を張り巡らせろということだった。里の外を進む時は、常に野凶の脅威に晒されることになる。三峯の里の走術は他のどの里よりも速いが、先導する者と後に続く者がいる以上、全速力で走るのはもしもの時のことを考えると躊躇われる。休憩を挟むこともあり、その場合は野凶に狙われる危険がより高まる。そこで先頭のゲリは前方に、しんがりのロウトは背後に注意しながら進む。野凶の気配があれば合図を出し、全員が全速力で走る。それで大抵の野凶は撒くことが出来る。

 稲荷の里は囲いも何もなく、まっさらな平地の中に多くの建物が急に現れる。ただその中にも一応の門らしきものはあったので、一行はそこに向かった。

 門の下では一組の男女が一つ置かれた机の上に腕を出して手をがっちりと掴み合っていた。どちらも力を込めている様子だったので、腕相撲をしているのだろう。

「こんにちは。稲荷ちゃんは元気?」

 いつの間にか先頭に立っていた三峯が声をかけると、二人は腕に力を込めたまま目だけをこちらに向けた。外見年齢はロウトとロウカよりも少し年上に見える。とはいってもこの世界で外見の年齢など殆ど無意味なのだが。

「なんだテメー。野凶か?」

 少年の方が歯を食いしばりながら三峯にドスの利いた声で訊く。

「あたしの顔を知らないってことは、あなた達生まれてから十年も経ってないわね」

「誰だって訊いてンだよ」

「三峯の里より、ゲリ、スコル、ハティ、ロウト、ロウカ、そして長三峯だ。突然訪れてすまない」

 ゲリが三峯を押しのけて前に出、全員の名を明かした。

「嘘! 三峯?」

 少女はそれを聞くと少年と組んでいた手をぱっと離し、ゲリの方に駆け寄った。少年は急に力のやり場を失い、机につんのめる。

「おいこらサコ!」

「稲荷からいつも話は聞かされてるよ。いやあ驚いたなあ。やっぱり話通り滅茶苦茶強いの?」

 ゲリに熱心に話しかける少女には、少年の声など耳に届いていないらしい。少年はそれはもう怒涛のように悪態を吐いていた。

 ゲリはあからさまに顔を顰め、後ろの三峯を指差した。

「三峯はこっちだ。全く――」

「え? そうなの? なんだ早く言ってよー」

「サコぉ! テメー勝負をほっぽり出してんじゃねえ!」

 少年が一際大きく怒声を上げた。流石にこれには少女も気付いたのか、険のある目付きでそちらを振り向いた。

「うっさいわね。腕相撲くらいでぎゃーぎゃー言ってんじゃないわよ。どうせあたしの勝ちだったでしょ」

「なンだとコラ! オレがテメーに負ける訳がねえだろ!」

「はいはい。あたし稲荷に伝えてくるから、あんたこの人達をよろしく」

 そう言うと少女は里の中心に向かって走っていった。

「だあああ! おいテメー、三峯!」

 少年は三峯に向かって指を突き出す。

「オレと勝負しろ! なんならその刀使ってもいいぞ!」

 三峯はくすくすと楽しげに笑っている。対するゲリはげんなりと肩を落とし、スコルとハティは興味津々といった様子で後ろから目を光らせ、ロウトとロウカはただ苦笑するしかなかった。

「じゃあさっき途中で終わっちゃった腕相撲にしましょう」

「ふん。いいぜ。霊気の使用は自由だ」

 少年が机に右腕を出して肘を着けると、三峯も同様にして相手の手を掴んだ。

「合図はそちらからどうぞ」

「後悔するなよ? レディ――ファイッ!」

 合図と共に少年は腕に全力を込める。

 しかし、三峯の腕は全く動かない。ゆうに一分はそのままだった。少年は顔を真っ赤にして力を込めるが、三峯の方は涼しい顔をしている。三峯は一瞬笑みを見せると、右腕を勢いよく左に倒した。少年の腕はそれはもう呆気なく机に叩き付けられた。

 三峯は呆然とする少年に優しく微笑みかける。

「あたしの勝ちね」

「こンの――」

 ぎりぎりと歯を鳴らす少年は、圧倒的な力の差を見せられてもなお食い下がろうとする。

「この――阿呆がァ!」

 少年が一歩前に出た瞬間、何者かが少年の頭を勢いよく地面に叩き付けた。

「申ッし訳ございません! ウチの阿呆がとんだご無礼を!」

 少年の顔を地面に埋めながら、自らも膝を着いて頭を下げる男。

「テメー! 何しやが――」

 男に抗い少年は何度も顔を上げようとするが、その度に地面に顔面を叩き付けられることになった。

「まあまあコギョウ。その子は何も無礼なんてしてないわよ。いいから頭を上げなさい」

「え? そうなんですか? 俺はてっきり――」

 コギョウと呼ばれた男はそれを聞くと顔を上げて呆けた表情を見せる。ロウトはなんとなくだが、ゲリの言っていた意味がわかるような気がした。

「だあああ! コギョウテメーふざけんな!」

 コギョウの力が緩んだところを見計らって少年が起き上がる。そのまま拳を突き出すが、コギョウはその手首を掴んで捻り上げ再び地面に叩き付ける。

「この阿呆はどうあがいても阿呆なもので、俺が案内をさせてもらいます」

「稲荷ちゃんは?」

 コギョウはそれを聞くとにやりと笑った。

「宿命のライバルの再会は劇的な方がいいでしょう?」

 少年は漸くコギョウから解放された。途端に怒声を上げてコギョウに襲いかかるが、鳩尾に強烈な一撃を加えられると静かになった。

「奥の二人はこちらは初めてのようですね」

 目をこちらに向けられ、ロウトとロウカは思わずたじろいだ。それを見るとコギョウは小さく笑う。

「三峯様、その二人はこちらのコウに里全体を案内させましょう。勝手知ったる皆さんは俺が。わかったな、コウ」

「はああ? ふざけんな。なんでオレがこんな奴ら!」

「俺から稲荷に言って、お前の大会への参加を取り消してもらってもいいんだぞ」

 これは相当応えたらしい。少年――コウは恨めしげにコギョウを睨み、大きく鼻を鳴らして不服ながらもそれに応じることを示した。

「では行きましょう」

 そう言ってコギョウは三峯達を連れて里の奥に向かっていった。

 残されたロウトとロウカは、不機嫌そうに顔を歪めるコウの対処に悩まされることになった。

「あの、私はロウカ。で、こっちはロウト。よろしくね」

 ロウカが言うと、コウは急に口を開いた。

「全くよお、あのコギョウって奴、稲荷の側近気取りでオレにいちいち文句を付けてきやがるんだよ。あんにゃろう、今はまだオレより強い気でいるみてーだけど、今回の大会で目にもの見せてやる。そんでもって稲荷の奴もぶっ飛ばして、オレが稲荷最強。つー訳で」

 にっこりと笑い、誇らしげに胸を張る。

「オレがコウだ。よろしくな!」

 呆気に取られた二人を見て、コウは磊落に笑った。

「自分が稲荷最強になるイメージをしたら気分がよくなった! まあそんな心配すんなって。ちゃんと里は案内してやっから。つってもあるのは家と訓練所くらいだけどな」

「あはは……。じゃあ、お願い」

 呆れて言葉も出ないロウトに代わり、ロウカが苦笑しながら言う。

「っしゃあ! んじゃ行くぜ。まずは町の方か」

 コウはそう言って二人の後ろに回り、背中を押して歩き出した。

 江戸時代の長屋を思わせる居住区の人口は住吉の里の倍程であった。コウによれば全人口の三割程が霊気を扱えるらしい。

 町中を歩いていると、誰もがコウに声をかけ、時折二人のことを訊いてくる。誰とでも明るく話すコウを見て、性格その他はともかく、里の皆に親しまれていることはわかった。現にコウは二人にもしきりに話しかけ、里の者達に紹介して回っている。

「オレのダチだから、気軽に接してくれていいぜ」

 終いにはこんなことを平気で触れ回る始末。いつ『ダチ』になったのかとロウトは若干閉口したが、ロウカは稲荷の里の者達と親しくなれて嬉しそうだった。

 町を見て回った後、三人は訓練所と呼ばれる広大な空き地に向かった。だだっ広い地面の他には、近くを流れる川から引いたのであろう水路と、その水路が分かれてそれぞれの水を溜めておく小さな池がいくつもあった。

「ここで霊気の扱い方と戦い方を学ぶんだ。当然生傷は絶えねえし、泥だらけにもなるからあそこで身体を洗うって訳」

 その後里の中心部に向かい、大会の会場になるという場所を見た。屋外に地面より高く設けられた、周囲に柵が張り巡らされただけの簡素な試合場だ。

「見てろよコギョウ、稲荷。オレは今年こそテメーらをぶちのめしてやっからな!」

 一人で盛り上がるコウにほとほと呆れ果て、ロウトは小さく溜め息を吐いた。それを見てロウカが微笑する。

「そうだロウト、ロウカ。テメーらではどっちの方が強い?」

 二人はすぐさま互いを指差した。

「俺は一度もロウカに勝ったことがない。ロウカだ」

「何言ってるの。実戦では絶対ロウトの方が強いでしょ?」

「あいつのことだからロクでもないことを言うに決まってるだろ。頼むよロウカ」

 ロウトはげんなりとしてロウカに耳打ちする。ロウカはなるほどと納得したが、直後に「それって何かずるくない?」と眉を顰めた。

「じゃあロウト、オレと勝負しろ」

 にやりと笑い、コウがロウトを指差す。

「何でそうなるんだ――」

 長く大きく溜め息を吐いてから、ロウトはコウの考えを止めようと口を開く。

「俺は徒手空拳は全く使えない」

「構わねえよ。真剣でかかってこい」

「待て待て。殺し合いって訳でもないのに丸腰相手に真剣を振る訳には――」

 ロウトの言葉は途中で止まった。コウが突如怒髪天を衝く形相でロウトの胸倉を取ったのである。

「いいか、稲荷の里の人間は何も持たずとも何よりも強い。そんなふざけた考えはオレ達にとっては最大の侮辱だ。覚えとけ」

「――悪かった」

 ロウトがそう言うとコウは手を放し、一度深呼吸をしてから笑顔に戻った。

「ま、そういう訳だ! オレと勝負しろ!」

 切り替えが恐ろしく速く、なかなか掴めない。ロウトは難しい顔をして、腰から刀を抜き、地面に突き立てた。

「里の他の奴らと違って、俺の戦い方は人を殺すことだけに特化している。だから、攻撃は全て峰でやる。これだけは絶対に譲れない」

「わかったよ。その条件でいい。んじゃ、早くリングに上がれよ」

「わざわざこの中でやるのか?」

「当ったり前だろ。何のためにここに来たんだよ」

 ただの見学に来ただけではないのか、とロウトが言う前に、コウは柵に取り付けられた扉を開けて中に入った。

「頑張って! ロウト!」

 大真面目に応援するロウカに半ば自棄で笑いかけ、ロウトは刀を持ってリングに上がった。

 上がってから気付いたのだが、この空間はどうにも狭い。ロウトはその神速で相手の死角から斬り付けるのを信条としているので、どうしても広い空間が必要になる。ロウトの速度ならば目に見える範囲をそれこそ縦横無尽に動き回れるが、その場所が狭くなればそれだけ行動も制限されてしまう。

 刀を構え、全身の力を抜く。白縫で重要なのは筋力ではなく霊気に身体を委ねることだ。そこから刀を振るう時に一気に力を高めるのだが、ロウトの場合は肉体の強化がまるで出来ないので脱力したまま、刃先に霊気を極限まで研ぎ澄まして振るう。しかし今そんなことをすれば、峰であろうともコウを触れただけで切り裂いてしまう。なので刀には緩やかに霊気を流し、重さを感じないようにすることだけに努める。

「しゃあ! いくぜ!」

 軽やかな足運びで、コウがロウトに迫る。

 まず右手で軽い拳。ロウトはそれを身を引いてかわし、慣れないながらも出来る限り力を込めて逆袈裟に刀を振るう。

 コウはそれを左手で易々と掴み、思い切り横に払い除ける。刀を手放せば終わりだということを自覚していたロウトは必死に柄を握り締めたが、コウはそれをものともせず腕を振り抜き、ロウトごと吹き飛ばした。

 柵に頭から突っ込み、ロウトは素早く体勢を立て直す。刀を構えながら、足の力を限界まで抜き、霊気に身を預けていく。

 ロウトが移動する時に描く軌跡は、殆どが直線だ。一歩で一気に距離を詰めるので、足が地面を離れている間に方向を変えることは出来ない。背後を取るには、相手の斜め後ろに移動し、そこから身体の向きを変えて後ろに回る。

 しかしこのリング上では、コウの斜め後ろに回るだけの距離がない。

 走りながら強引な体捌きで曲線を描く――。

 そしてそのままコウの後ろを取るしか、今のロウトに勝機はない。

 どうしても勝ちたいという程思い入れはないが、殴られるのは御免被る、というのがロウトの正直な考えだった。

 一瞬で、ロウトの姿がコウの前から消えた。

 コウはロウトが動いた方向を目で追う。身体を無理に曲げて走るロウトの速度は、やはり落ちていた。それでも、コウは完全にその姿を捉えることが出来ない。コウにわかったのは、自分の左側をロウトが駆け抜けたということだった。

 それ理解した時には既に、ロウトの刀が背後から伸びていた。

 ――入った。

 ロウトは確信したが、コウは本当に目の端でその切っ先を捉え、瞬時に身を屈めた。ロウトの剣は空を切る。

 ロウトの戦い方は一撃必殺という言葉に集約出来る。一太刀で相手を斬り伏せ、肉塊と化す。そのため刀を大きく振り、必ず仕留めるように努める。その分、攻撃の後にはどうしても隙が生まれてしまう。勿論その後の動作を迅速にすることで、その隙を少なくするようにはしている。

 しかし、コウの反応速度と瞬発力は尋常ではなかった。無理な動きをしたせいというのもあるが、ロウトがここまで完璧に攻撃をかわされたのは初めてだった。そしてコウは、その一瞬の驚愕の間を逃さなかった。

 屈んだまま、足を伸ばして回転する。ロウトは見事に足を払われ、見事に背中から倒れた。

 コウはロウトの胸の上に足を乗せ、拳を顔に向ける。ロウトは両手を顔の横に挙げた。

「降参だ。納得しただろ?」

 ロウトが言うと、コウはにやりと笑った。

「まあ、テメーの本気が見れたからよしとするぜ」

 胸に置いた足をどけ、コウは拳を開いて身を屈める。

 ロウトが苦笑しながらその手を取ろうとすると、何者かの怒声と共にコウがリングに顔を埋めた。

「勝手にリングに上がるなこの阿呆がァ!」

 ロウトは完全に呆気に取られ、目の前でコウの顔を足で踏み付けているコギョウを見上げた。リングに入る扉が開けられた様子はないので、どうやら跳び上がって柵を乗り越え、そのままコウを蹴り飛ばしたらしかった。

「お前」

 鋭い目がロウトを睨む。

「どうせこの阿呆にそそのかされてここに上がったんだろうから、お前を責めることはしない。だが、阿呆に付き合う奴も阿呆だ。覚えておけ」

 語気は強い。当たり前だが、敬意を払うのは長である三峯に対してだけということらしい。

「コギョウ! テメー絶対覚えとけよ! 今夜、絶対ぶ――」

 足を強く押し付けコウの言葉を遮る。

「コウ、お前は確かに強い。まだ俺には敵わないし、稲荷にも遠く及ばないが、お前はまだ生まれて四年にならない。経験を積めば、すぐに俺を追い越すだろう」

「テメー、だから若い芽を摘もうと――」

「まあ話を聞け。お前がこの里に敵がいなくなった時、稲荷を継ぐのはお前になる。だが、お前はどうしようもない阿呆だ。最強に、稲荷になりたいのなら、もう少しない頭を使え。分別を弁えろ。それから、お前が阿呆のまま稲荷になったなら、俺がお前の愚行を止めてやる。阿呆には容赦はしないから、せいぜい気を付けろよ」

 コギョウはそれだけ言うとコウの頭の上から足をどけ、柵を跳躍で越えて里の奥に消えていった。

「あンの野郎――」

 頭を押さえながら立ち上がるコウ。ロウトも漸く我に返り立ち上がる。

「なってやる。絶対に最強に、稲荷になってやる!」

 一人盛り上がるコウを残し、ロウトはリングを出た。

「お疲れ様」

 ロウカが笑いかけてくるので、ロウトは苦い笑みで返した。

「はいはい。一人で盛り上がってるとこ悪いけど、あんたこいつら連れて家に戻ってきなさいよ」

 リングの横で、先程コウと腕相撲をしていた少女――サコが依然吠え続けているコウに向かって言い放った。ロウトは気付いていなかったが、コギョウと一緒に来ていたのだとロウカに教えられた。

「なんだサコ。オレがテンション上げてんだから邪魔すんじゃねえよ」

「あんたねえ、試合は今夜なんだから、今からそんなに張り切ってたら本番で死ぬわよ」

「死ぬかよ」

「例えよ」

 コウは大きく舌打ちし、リングの柵を跳び越えて外に出る。

「で、なんでこいつらを家に連れてくんだ?」

「稲荷が二人を泊めてやれって。ほら、家は布団が二つ余ってるでしょ。他の四人は空いてる家に布団が四つあるからそっちだって。という訳で」

 サコはそれまで話していたコウの方から、ロウトとロウカの方に向き直り、笑みを見せた。

「よろしくね。あたしはサコ」

「うん、よろしく。私はロウカね。それでこっちが」

「ロウトだ」

 二人が言うと、サコは感心したように目を見開いた。

「なんか二人共息ぴったり」

「同じ湧生期に二人だけだったし、一緒に修行してきたから」

 ロウカは照れるように笑い、ロウトも同じく決まりが悪そうに笑う。

「へー。あたしもコウと同じ湧生期だけど、あんた達みたいに息ぴったりじゃないもんなあ。まあ他にも一緒に生まれた奴らはいたけど、霊気の扱いを学んだのはあたしとコウだけだし……」

「なんだ、悔しいのか?」

 コウが真顔で訊くと、サコはその頭を思い切り叩いた。

「ちっがーう! あんたがもう少しあたしに合わせりゃいいのにって思ったの!」

「なんだその身勝手な考えは! テメーがオレに合わせりゃいいんじゃねえか!」

 言い争う二人。どちらも一歩も譲らず、相手の言葉を聞くとすぐさま言い返す。それを滞ることなく延々と繰り広げている。

「息ぴったりじゃないか――」

 ロウトは小さく、そう呟いた。

 二人の言い争いがどちらもそっぽを向いたことで一応の収まりを見せた後、四人はコウとサコの暮らす家へと向かった。

 稲荷の里では一つの家に、何人かの住民が一緒に暮らすのだという。コウとサコは一緒に暮らしていて、そこに空きがあることから二人を泊めることになった。

「二人共、大会を見にきたんでしょ?」

 家に上がり、畳の上に腰を下ろすとすぐさまサコがロウトとロウカに訊いた。

「うん、そう。三峯が面白いからって」

「そう! その三峯。稲荷と互角って本当? やっぱり滅茶苦茶強いの?」

 目を輝かせて身を乗り出すサコに、ロウカは若干たじろぎながらも愛想よく返答する。

「三峯が言うには稲荷と互角だって。それに里では一番強いよ。私とロウト二人がかりでも敵わないし」

「はああ、やっぱり強いんだあ。稲荷も相当なもんだから、互角ってことはやっぱ滅茶苦茶強いんじゃん」

「テメーはそんなことより自分の心配しろよ。そんなだとオレと当たる前に負けるぞ」

 苛立った様子でコウが言う。サコは肩を竦めてみせた。

「あんたとあたしの戦績は、あたしの五十八勝五十六敗でしょうが。勝ち越してるあたしが負けるはずないじゃない」

「テメーそれ腕相撲とか指相撲の勝敗も入ってンだろ! 殴り合いならオレの方が勝ってる!」

 再び言い争う二人を、まあまあとロウカが仲裁した。睨み合いながらも、どちらも一息吐き捨てて目を逸らす。先程と全く同じやり取りにロウトは呆れる。それで時間が経てばまた同じように言い合うのだろう。

 大会が始まるという夜までは、互いに里の話をして過ごした。コウとサコはロウカの話す三峯の里の現状について、興味深げに聞き入っていた。

 続いてサコが稲荷の圧倒的な強さについて熱っぽく話し始めた。それを聞いてコウは同意を示すものの、憧憬の感情を露わにするサコに対し、コウにとって稲荷は倒すべき最大の相手という認識らしかった。

 陽が暮れだすと、他の家々から人が次々に出てくる音がした。

 コウはそれを察すると、腕まくりをして気合いを入れる。

「さあて、いよいよだぜ」

 家を出て、先程までいたリングに向かう。

 リングの周りは多くの人間で埋め尽くされていた。実際は三百人にも満たないのだが、座席がなく全員が立ち見であることからどうしても大勢に見える。

 コウとサコはリングに着くとロウトとロウカを連れて最前列にまで分け入った。リングの目の前にまで来ると、隣に三峯、スコル、ハティとコギョウが陣取っていた。

「ロウトぉ、ロウカぁ、どこいってたの?」

 スコルが半日ぶりに顔を合わせたことに安堵を覚えながら訊く。

「稲荷の里を見て回ったの。それからね、ロウトがこのコウと勝負をしたんだよ」

 ロウカに紹介され気のいい挨拶をするコウに対し、ロウトは諦観の笑みを見せた。

「負けたのね。だらしない」

 ハティが呆れて言う。言われた通りなので何も返せない。

 陽が完全に暮れると篝火が焚かれ、リングが照らし出された。稲荷の里の人間は三峯の里の者程ではないにしろ夜目が利くので不要のように思われるが、これは演出だろう。

 すると暗闇のどこかから、高らかな女の笑い声が響き始めた。それを聞くと観衆が大いに湧き立つ。「稲荷」の掛け声が観衆の口から一斉に湧き上がった。

 リングに何かが降り立つ音。そちらに目を凝らすと、背は高いが華奢な女が右手を突き上げていた。観衆の興奮は最高潮に達した。

 女は、顔を真っ赤にしていた。

「ああ! 恥ずかしい!」

 しゃがみ込み、そろそろとロウト達の立つ方へと移動する。

「ねえコギョウ、やっぱりこれ恥ずかしいよ。なんか他の演出ないの?」

 女が小声で言うと、コギョウは大きく溜め息を吐いた。

「あんたが稲荷の威厳を示したいって言うから、みんなで知恵を絞って考えたんだろうが。そんなんじゃあんたの武勇伝を冗談半分で聞く奴が増えるぞ」

「うぅ、わかった。頑張る」

 女は立ち上がり、びくびくと怯えながらリングの中央に移動し、大きく深呼吸をしてから、意を決したように腹から声を振り絞った。

「私が! 稲荷だあ!」

 歓声が爆発した。幾分か笑い声も含まれているが、稲荷は気にしないことにしたようだった。

「えー、という訳でね、その、私も稲荷になって長いけど、やっぱり大勢の前で話をするのは恥ずかしくて……いやいや、そんなことより今日はなんと遠路はるばる三峯の里からお客さんが来てます! 拍手ー」

 拍手が湧き起こった。リングの前に立っていたロウト達は、後ろから稲荷の里の者達に何度も親しみを込めて小突かれた。

「あのー、そんな訳で、今日は里長の三峯さんも来てます。それでコギョウ達が私と三峯さんとで余興の試合をやれって言うんだけど……」

 それを聞くと観衆は大いに湧き立った。今度は「三峯」という掛け声が全体で上がった。

 稲荷は盛り上がる観衆を見て困ったように笑った。

「私としては、三峯さんとの戦いはもう過去のものなんだけど、その辺どうでしょう? 三峯さん」

 当の三峯は稲荷の話の間中ずっと楽しげな笑顔だった。返答を迫られると、三峯は一層笑顔になってその場で跳び上がり、リングの柵を越えて中に入った。

「久しぶりに稲荷ちゃんと戦うのも悪くないわね。その勝負、受けましょう」

 今日一番の歓声が上がった。サコはきゃあきゃあと興奮し、コウはつまらなそうに装っていたが、勝負を一瞬たりとも見逃さないように目を凝らしている。ロウカ、スコル、ハティは揃って三峯に応援を投げかけ、ロウトはその横で乾いた笑みをこぼしていた。多分ゲリも後ろの方でロウトと同じ反応か、さらに呆れているのだろう。

 リングの端に立ち、鞘から刀を抜く三峯。その反対側で大きく深呼吸をして精神を統一している稲荷。

 本当に真剣でやり合うのかと、誰もが息を呑んだ。

 三峯が刀を構え、稲荷が目を見開いて自然な体勢になると、そこには先程までの邪魔な感情は一切なくなっていた。達人同士の本気の戦い。その緊迫感は、観客全員に伝わっていた。

 最初に動いたのは三峯だった。

 ロウトと殆ど同じ速さで一気に距離を詰め、右手一本で刀を横に薙ぐ。

 稲荷はその刃を両手で取ると、そのまま峰の方向に空中で側転し、足が上を向いたところでその足を三峯に振り落とした。

 三峯は空いていた左手でその蹴りを掴んで受け止めるが、続く右足の蹴りで手を弾き飛ばされ、稲荷は解放されて三峯の左側に着地する。

 三峯は凄まじい敏捷さで薙いだ刀を返し、袈裟懸けで稲荷を狙う。

 だが稲荷はその刃が放たれるか放たれないかのところで既に大きく上に跳び上がっていた。そのまま落下と共に踵落としを放ち、三峯は大きく後ろに跳ぶ。稲荷の踵が直撃したリングは深く抉れていた。

「流石ね」

 三峯はそう言ってすぐに全神経を集中させ、自分の隣に二体の影朧を出現させた。初めて見る影朧に、稲荷の里の者達からどよめきが起こる。

「ねえロウト! 何あれ! 何なの!」

 興奮して隣のロウトに説明をせがむサコに対し、ロウトは小さな呻き声で応えた。説明する暇などない程に、この戦いは緊迫していた。

 三人の三峯が放射状に広がり駆けていく。

 三峯の里の人間はこれを見て完全に絶句した。影朧は一つ一つの動きを全て一つの頭で処理しなければならない。そのため修行は影朧一つと、自分自身に別々の動きをさせることが出来れば完了となる。それが限界とされており、ロウトとロウカはこの時まだその段階にすら達していない。確かに三峯は以前二つの影朧を出して別々の動きをさせていたが、その時本体は動いていなかった。だが、今は全てが別々の動きを見せている。

 三方向から迫る三峯の斬撃を、稲荷は踊るような動きで見事にかわしていく。

 同時に左右から刃が迫ったが、稲荷はそれをぎりぎりまで引き付け、横に振るわれた刀を瞬時に屈んでかわし、両側に掌を突き出した。二人の三峯の腹に直撃し、それぞれが霧散する。この時がちょうど影朧を出しておける限界の一分だった。

 稲荷の背後から三峯自身が刀を振り上げて迫る。唐竹割りが直撃するかと思われた瞬間、稲荷はそのままの体勢で両手を前に着き、後ろ蹴りを上方に放った。

 稲荷が手を着いた瞬間にわずかに身を引いた三峯だが、それでも蹴りは胸に入り、大きく後ろに吹き飛ばされた。

 三峯は空中でくるりと身体を捻るとすぐさま体勢を立て直し、着地した瞬間に前方に疾駆する。

 対する稲荷は右手で強く拳を作ると、他の殆どの者には目視出来ていない三峯を目で追い、その拳を放つ方向を定めた。

 三峯の刃、稲荷の拳が交錯しようかというところで、二人の動きがぴたりと止まった。

 三峯の刃は後少しでも動けば稲荷の身体を斬り裂こうかというところで、稲荷の拳は三峯の顔面に触れるか触れないかという程近くで、それぞれ止まっていた。

 このまま動いていたら、間違いなく相討ちである。

 三峯は笑顔を見せると刀を下ろし、鞘に納める。稲荷は身体中の力が抜けたかのように長く息を漏らし、声を張り上げた。

「引き分け!」

 それまで呼吸を忘れたかのように試合に見入っていた観衆が、一斉に歓声を上げた。「稲荷」と「三峯」という掛け声が競い合うかのように上がり、三峯は手を振ってそれに応えたが、稲荷は思い出したかのように顔を真っ赤にした。

「と、という訳で余興はここまで。じゃあ大会を始めましょう!」

 稲荷と三峯はリングを降り、入れ換わりに男が一人リングに上がった。三峯が笑顔でロウト達の許に戻ってくると、男が声を張り上げる。

「それでは、ここからはこのコトウが司会と審判を務めさせてもらう。ルールは相手をぶっ倒した方が勝ち。また、俺が戦闘不能と判断した場合はそこで試合は終了。では、これから名前を呼ばれた者はリングに上がるように。最初は、コウとコエン!」

「っしゃあ!」

 それを聞くとコウは群衆をかき分けてリングの入り口に向かい、歓声を盛大に受けてリングに上がった。

 対するコエンは苦笑を浮かべ続け、リングの上でコウと目を合わせると口を開いた。

「最初がお前とはついてねえよ全く」

「バーカ。トーナメントなんだから勝ち上がればいつかは当たるだろ」

「お前はいいねえ。ま、俺も勝機が薄くても負けるつもりはねえから」

 コエンが構えると、コウも同じく両手を前に出して臨戦態勢を取る。

「始め!」

 コトウが叫ぶと、まずコウが一歩踏み込んだ。

 コウとサコの話によると、稲荷の者は霊気で全身を強化してその身で戦うという、至って単純な方法を使う。肉体の強化だけを突き詰めた訳だが、単純な分ここまで高めるのは相当な修行を要する。

 霊気で極限まで高められた拳や蹴りは、普通ならば一発で相手を昏倒、あるいは殺傷する力があるが、稲荷の里の者はその肉体を強化することで防御も高めている。そのため里の者同士の戦いでは一発で勝負が着くということは少なく、どうしても長い戦いになる。だが――

 コウが跳び上がって放った回し蹴りがコエンの頭を完全に捉えたのは、試合が始まって三分も経たない頃だった。コエンはそれまで積極的に拳を撃ち込んでいたが、コウに充分なダメージを与えることは出来なかった。そこからコウが嵐のような猛攻をしかけ、コエンがよろめいたところに止めとばかりにこの一撃を加えたのである。

 コエンはリング上に崩れ落ち、審判のコトウが手を上げた。

「勝者、コウ!」

 ロウト達は圧倒されていた。三峯と稲荷の別次元の戦いを見た後ではどうしても見劣りするのではないかと思われたが、全くそんなことはなく、激しい拳の応酬に見入ってしまっていた。

 そしてロウトは、こんな相手と手合わせをした己の愚かさを呪った。当たらなかったからよかったものの、あんな打撃を受ければ肉体の強化が出来ないロウトは一発で吹っ飛んでしまう。今更ながらぞっとするものがあった。

 試合は順調に進み、サコもコギョウも勝ち上がていき、四回戦でコウとサコが当たることになった。

「まあ、こうなるわよね」

 サコが言うと、コウはそちらを睨んだ。サコも負けずと睨み返し、互いに激しく火花を散らす。

「おいコウとサコ! さっさとリングに上がれ!」

 コトウが怒鳴る。既に名前を呼ばれていたのだが、睨み合いに気が入っていて聞こえていなかったらしい。あちこちから笑いが起こり、二人は決まりが悪そうにリングに向かった。

「二人共頑張ってね!」

 ロウカが言うと、互いに笑顔で応える。そして相手を見て、互いに睨み合うのだった。

 ロウトはそこでおやと疑問が湧いた。コウもサコも、ロウトとロウカと同じ湧生期に生まれ、まだ生まれて四年経っていないのである。だというのに、他の者達を圧倒し、二人揃って四回戦まで進んでいる。

「あいつらには本当に敵わねえよ」

 ロウトの隣で声がし、そちらを振り向くと苦い笑みを浮かべた男がロウトを見ていた。

「あんたは、確か」

「ああそうだよ。一回戦でコウにあっという間に負けたコエンだ。俺は生まれてもう十年を超えてるんだがな。言っとくが俺はそこまで弱い訳じゃねえぞ。あいつらが異常なんだ」

 コエンはロウトが何も言わない内に話を続けた。

「コウとサコは同じ湧生期に生まれて、二人だけが霊気の扱いを学んだ。コウはな、馬鹿なんだ。強さを追い求めて、他の奴らの何倍も修行をこなしていった。サコはコウに遅れを取るのが許せなかったらしくて、その修行についていった。互いにいがみ合いながらも、互いに高め合って、気付けば俺なんかをとっくに追い越していやがった」

 お手上げだとでも言わんばかりに笑い声を上げる。ただ、その声には嫉妬のような感情は含まれておらず、ただ相手を称えるものだった。

「お、始まるぜ」

 そう言ってコエンはリングを見上げる。ロウトも同じくそちらを見た。

 リングに上がったコウが腕をぶんぶんと振り回し、気合いを入れている。対するサコは屈伸運動をして身体をほぐしているようだった。

 互いが構えると、コトウが声を張り上げる。

「始め!」

 声が消えるか消えないかの内にコウは前に駆け出し跳び上がる。そのまま空中で右足を突き出し、サコを急襲する。

 サコはその強烈な力が込められた一撃を冷静に見極め、コウの右膝の辺りを両手で掴むと、勢いそのままに思い切り投げ飛ばした。

 リングの床に強かに身体を打ち付けるも、コウは素早く起き上がり、すぐさまサコに向かって駆け出す。

 即座に眼前に迫ると、コエンを沈めた跳び上がりながらの回し蹴りでサコの頭を狙う。サコは大きく身体を後ろに反らしてそれをかわした。コウは蹴りを放った右足で着地すると、それを軸にして左足で横蹴りを放つ。体勢を戻すところだったサコは咄嗟に左手で受け止めた。コウは瞬時にその足をわずかに戻し、再び勢いを乗せて放つ。サコはそれを今度は右手で払い除けるが、コウが再び足を引き、もう一度胸を突き上げるように蹴りを入れる。今度は対処が出来ず、サコは直撃を食らい後退した。

 サコは一瞬息が詰まり苦しげな表情を見せたが、すぐに相手を見据え小さく跳んだ。

 落下しながらコウに迫り、右の拳を振り下ろす。コウは左の掌でそれを受け止め、横にいなした。着地したサコにコウがすかさず下から腹に右の拳を放つ。完璧に入るが、サコは顔を苦痛に歪めただけでそのまま小さく跳び上がり、倒れ込みながら両足をコウの胸に叩き込んだ。

 これは強烈だった。サコは上手く着地出来ずに床に倒れるが、コウは大きく後ろに吹き飛んだ。

 胸を押さえるコウと腹を押さえるサコ。コウは勿論、打撃の直後に蹴りを放ったサコも相当なダメージを負っていた。霊気による全身の強化で打撃に対する強い耐性があるのは確かだが、互いの攻撃はそれを無視する程強力だった。

 だが、二人共この程度で倒れる程やわではない。すぐさま再び接近し、激しい拳と蹴りの応酬が始まった。

 殴り合いは、ほぼ互角のように見えた。今はもうどちらも殆ど防御を考えず、ただ自分の攻撃を入れることに集中している。

 二人の足下がふらつき始めた頃、サコがコウの懐から一歩下がった。コウはそこに付け入り、大きく右の拳を顔面に放つ。

 サコはそれを待っていたとばかりに、殆ど同じ動きで右の拳をコウの顔面目がけて放った。

 互いに、直撃した。両者は同時に後ろに倒れる。

 コトウが二人を見て固まる。

「先に立った方が勝ちだ。サコの奴、タフさ勝負に出たのか」

 コエンが緊迫した様子で言う。

 ほぼ同時に、二人が顔を上げた。互いを睨み合い、必死に立ち上がろうと全身に力を込める。これまた同時に床に手を着き、上体を起こす。

「おいサコ」

「何よ」

「戦績はどうだった」

「今のとこあたしの五十八勝五十六敗」

 コウは大きく舌打ちをする。

「これでもまだ負け越しか」

 コウはすくと立ち上がり、サコはリングに崩れ落ちた。

 一気に歓声が上がる。

「勝者、コウ!」

 コトウが声を上げると、コウは拳を天に突き上げて歓声に応えた。

 今まではすぐにリングから降りたコウだが、今回は倒れたサコに歩み寄り、手を出して助け起こした。サコは鼻を鳴らしたが、大人しくコウの肩に掴まり一緒にリングを降りた。リングを降りるとサコは他の者達に連れられて別の場所に連れていかれた。コエンによると横になって休める場所が用意されているらしい。

 この大会、トーナメント方式を一日で行うため、勝ち続ける者の休息は少ない。いかに途中の試合でダメージを抑えるかというのも重要になってくる。

 コウはその後も疲れを見せずに戦い抜き、徐々に苦戦が多くなっていきながらも勝ち上がっていった。

 決勝戦。コウの相手は大方の予想通りコギョウだった。どちらもこれまでの戦いで疲弊し切っていたが、相手を見る目には確かな闘志が燃えていた。

「負けたらぶっ飛ばすからね!」

 回復して戻ってきたサコがロウトの隣で声を張り上げる。同じくロウカも応援の声を上げ、ロウトも声に出さないながらも心中ではコウを応援していた。

「ここまで勝ち上がってきたのは初めてか」

 コギョウがコウを真っ直ぐ見ながら呟く。

「ああ。去年はテメーに三回戦で負けたからな」

 腕を振り回し気合いを入れるコウは強い口調で返す。コギョウはそれを聞くと小さく笑った。

「どれだけ成長したか見せてもらうとするか」

「余裕こいてるとぶっ飛ばすぜ」

 互いが臨戦態勢を取ると、コトウが叫ぶ。

「決勝戦、始め!」

 大音声を上げ、コウが疾駆する。今のコウに蓄積されたダメージはあまりに大きかった。気合いで保っている状態のコウは、感情を剥き出しにすることで限界を超えようとしていた。

 対するコギョウも相当のダメージを受けていたが、己の内で闘志を燃え上がらせることで意識を明瞭に保っていた。静かな激情さえあれば充分だった。

 コウが怒涛の連撃を放つ。淀みなく流れるような動きで繰り出される拳と蹴りを、コギョウは冷静にかわし、いなし、受け止めていく。

 コギョウもまた、それに合わせて応戦する。コウの無数の攻撃で有効打となるものは殆どないが、コギョウの合間合間に放たれる攻撃は確実に有効打となっていた。

 形勢不利と見たコウは後ろに跳んだ。コギョウは深追いはせず、その場で相手の動きを凝視している。

 再び声を上げて駆け出し、コギョウに迫ったところで跳び上がるコウ。頂点に達したところで右足を前に突き出し、コギョウの顔面を狙う。

 サコが先程の試合でこの攻撃を真正面から受け止めたのは、上から自分に一気に迫ってくるという強烈な圧力があることと、コウの接近速度があまりに速いからだった。だがコギョウはその圧力を突っ放すだけの胆力と、即座に対応出来るだけの敏捷さを持っていた。

「狙いが高すぎる」

 コギョウは直撃の寸前で身を屈める。コウの爪先の照準はコギョウの顔面。少し大きめに身体を沈めればかわすことは訳のないことだった。

 ロウトには、そこでコウがにやりと笑ったのが見えた。

 コウは既に足を引っ込め、空中で身体を曲げて右手を落下方向に突き出していた。その右手を無理矢理伸ばして屈んだコギョウの頭頂部を掴み、そこを支えにして身体を捻り、綺麗にコギョウの背後に着地した。

 直後にコウは相手を見ることなく後ろ蹴りを放つ。これが背中に決まり、コギョウは前に突っ伏す。しかしすぐに前に手を出し、そこから身体を起こした。

 その立ち上がったところに、コウの拳が迫る。コギョウはまだ相手側を向いていなかったが、コウは既に体勢を整えていた。

「終わりだオラァ!」

 しかし、その己を鼓舞するために叫んだ声が仇となった。コギョウは声からコウの攻撃を読み取り、直感で渾身の後ろ蹴りを放った。

 コギョウが完全に無防備だと思っていたコウはこれに反応出来なかった。腹に直撃を食らい、声にならない声を上げて崩れ落ちる。

 コギョウは数度埃を払う動作をしてみせた後、倒れたコウに向き直った。

「後少し、俺には遠いな」

 それを聞き、コウは自ずから顔を埋めた。

「優勝、コギョウ!」

 観衆が一気に湧き立った。

 ロウトは倒れたコウに向けて精一杯の拍手を送った。ロウカもスコルとハティと一緒になってコウに賛辞を送り、サコも唇を尖らせ、いつでも文句を吐き出せるようにしながらも拍手を送っている。

 二人の男がリングに上がり、コウを助け起こして退場させた。

「優勝者には稲荷に挑戦する権利が与えられる。その場合対決は明日になるが、さあどうするコギョウ!」

 コトウが言うと、観客は笑い出した。どういうことかわからずロウト達が困惑していると、サコが溜め息を吐いた。

「まあ、毎年のことなのよ」

 コギョウは手を振り、群衆を静める。そして乾いた笑みを浮かべながら口を開いた。

「稲荷には挑戦しない。勝てないのはわかり切っているし、俺は稲荷の座が欲しい訳じゃないからな」

 歓声とも罵声ともつかない声があちこちで上がった。

「あいつ、絶対に稲荷に挑戦しないの。これじゃコウも浮かばれないわ」

「なんでなのー?」

 スコルが訊くと、サコは首を捻った。

「コギョウは稲荷ちゃんが稲荷のままの方がいいんじゃない?」

 随分久しぶりに聞いた三峯の声だった。

「稲荷ちゃんを下で支える役がもう板についちゃったから、今更それを辞めるのは考えられなくなっちゃったんでしょうね。ねえ稲荷ちゃん」

 三峯の里の者達の列で一番右端にいた三峯が右隣にそう呼びかける。

「そうですね……。コギョウは私の世話ばかり焼いてくれて本当にありがたいんだけど、たまには私を倒してやるーっていうくらいの野心を出してくれてもいいのに」

 気付かなかったが、三峯の隣に稲荷がいたらしい。どうやら気付いていなかったのはロウトだけではなかったらしく、列の左端にいたサコも驚いたような声を上げた。

「稲荷、いたの?」

「その言い方は酷いよサコ……。さっき来たところなんだけどね」

 落ち込んだ声音で言い、稲荷は音を立てずに笑った。

「ご、ごめん」

 リングからコギョウが下りると、コトウが閉会の辞を述べ、お開きとなった。

 今更気付いたが、ロウトは昨日の夜に里を出てから今まで丸一日以上一睡もしていないのだった。さっきまで続いていた興奮が終わったことで、ロウトは強烈な眠気に襲われた。それはロウカも同じようで、大きく欠伸をして目を擦っている。

「あなた達、眠ってないの?」

 三峯がロウトとロウカを見て訊ねる。二人は揃って頷いた。

「あたし達は昼間眠ったのに。じゃあ早いとこ寝ちゃいなさい。サコちゃん」

 三峯に名前を呼ばれ、サコはびっくりしたように上擦った声を上げた。

「二人をお願いね。明日の夜にはここを出るから」

「オッケー。任しといて!」

 三峯達と別れ、ロウトとロウカはサコと一緒に家に戻った。

 家に入り奥の部屋に向かうと、布団が一つ敷かれ、そこにコウが大の字になっていた。

「コウ、あんたもういいの?」

「おう」

 サコの問いかけにぶっきらぼうに答え、コウは目を閉じるとすぐに寝息を立て始めた。

「流石に大人しいわ。あたし達もさっさと寝ましょ。この馬鹿、布団敷くならみんなの分も敷けっての」

「自分のは自分で敷くから大丈夫だよ。ほら、ロウトも」

 ロウカに急かされ、ロウトは黙って自分の布団を敷いた。サコとロウカが敷き終わると、全員が横になる。皆疲れており、すぐに眠りに落ちた。

 翌朝――正確には昼過ぎ、ロウトは外の喧騒で目を覚ました。

 隣のロウカはまだ寝息を立てており、コウとサコの姿は既にない。

 ロウトはロウカを起こさないように音を立てずに起き上がり、欠伸を噛み殺しながら外に出た。眠る前に布団の横に置いた刀は忘れずに腰に下げておく。

「ロウト! ちょうどよかった、助けてくれ!」

 悲鳴が聞こえる。目を擦りながら往来を見ると人だかりが出来ており、その中心に悲鳴の主――ゲリがいた。

 ゲリの声でロウトに気付いた稲荷の里の者達の目が一斉にこちらを向く。

「おうロウト! お前ちょっとこっち来い」

 コウが顔を出し、笑顔で手招きをする。状況が理解出来ず、しかしゲリが進退きわまっていることは厭でもわかったので、一歩後退さる。

「とりあえず、何をしようとしてるのか教えてくれないか?」

 引きつった笑みでそう訊くと、コウが人だかりの中から抜け出してロウトの許まで駆け寄ってきた。

「勝負だ。昨日の稲荷と三峯の試合見て、みんな三峯んとこの奴と手合わせしたがってンだよ」

「お前――昨日三峯と腕相撲したし、俺と手合わせしただろ。なのに加わってるのか?」

「悪ぃかよ? いいじゃねえか、他の奴らともやってみてえンだよ」

「で、ゲリが捕まったのか――」

 よく見てみれば、ゲリは周りを取り囲む稲荷の里の者達に勝負しろだのかかってこいだの腰抜けだの言葉を投げかけられ続けている。どうやらゲリは相手をする気は全くないらしく、必死に断っている。

「ロウト! 何とかしてくれ!」

「何とかと言われても――」

「ええい! 静まれ!」

 甲高い声が響き渡る。その声に諫められ、群衆が言葉をなくした。

「全く、何やってんのよゲリ。いなくなったと思ったらこんなとこで捕まってるし」

「うん。ちょっとカッコ悪いと思う……」

 一喝したのはハティ。その小さな体躯に並々ならぬ怒気を滲ませ、群衆を射竦める。その後ろには少し物怖じした様子のスコルが続く。

 ゲリは抜け目なくその間に人の輪から抜け出し、ロウトの横に移動していた。苦い顔をしながらも目でハティに礼を送っている。

「三峯の里の人間と手合わせがしたいってんなら、まずあたしとスコルに申し込みなさいよ」

 殆ど全員が呆気に取られていた。皆、見た目で相手を判断してはならないことは重々承知である。幼い姿でこの世界に生まれる者もいるが、霊気の扱いはその差を完全に埋めてしまう。だが幼い姿の者自体少なく、さらにその中で霊気の扱いを修得する者となれば殆どいないので、その場にいた稲荷の里の者達は思わず吹き出してしまった。

「おいおい、お子様が相手だってよ!」

 誰かが言うと爆笑が起こった。

 ロウトは冷や汗をかいていた。表情は大して変えていないが、ハティの放つ異様な雰囲気を見れば内心は憤怒で膨れ上がっていることは明らかだった。

「あららァ? 常識ってやつがないのかしらこの人達?」

 ハティの声からは明確な殺意が感じられた。ロウトは慌てて二人と稲荷の者達の間に割って入る。

「ハティ、気を静めろ。深呼吸だ」

 腫れ物に触るように、言葉を選びながらなだめる。

 突然、着物の腹の辺りを掴まれた。ハティはそのまま腕を上げ、ロウトの身体も持ち上がる。

「別に殺したりしないわよ。その程度の常識くらい持ってるわ。だから」

 思い切り腕を横に払う。着物を掴まれたままのロウトはそれに引っ張られ、見事に横に吹き飛んだ。

「邪魔すんな馬鹿」

 鼻を鳴らし、家の壁に身体をぶつけたロウトに一瞥をくれる。

 これには流石に他の者達も驚いたようだった。少なくとも充分に霊気を扱えることは、皆確認した。

「面白ぇ。じゃあ手合わせ願おうか」

 痛む身体を庇いながらロウトは立ち上がる。顔を上げると、稲荷の里の者が二人、ハティの前に進み出たところだった。

「二対二でやろうじゃねえか。俺はコカク」

 最初に声を上げたのはこの男だった。コカクはもう一人背の高い男を腕を引っ張って連れ出し、自分の横に並べた。

 背の高い男は苦笑しながらもコカクの提案に乗ることを決めたらしく、スコルとハティに向き合った。

「俺はコヨウだ。よろしくね。君達、名前は?」

「ハティよ」

「僕はスコル」

 あ、とスコルが声を上げた。

「でも刀使うと殺しちゃうよ……。どうしようハティ」

「全部峰で斬るか、代わりに鞘を使えばいいでしょ。あんた達はどっちがいいの?」

 コカクとコヨウにハティが強い口調で訊くと、二人は顔を見合わせた。

「別に俺達は真剣でかかってきてもいいんだが――まあいい。峰打ちってのはどうしてもなめられてるように感じるから、鞘を使えよ」

 コカクがそう言い、コヨウもそれに同意したことからスコルとハティは刀を抜いて地面に置き、鞘を手に持った。

 普通手に持って振るうということをせず、刀とは長さも大きく違う鞘だけに、二人は何度も握る場所を変えたり、実際に振ってみたりして感触を確かめていた。

 スコルは鯉口のすぐ上を、ハティはそれよりも少し上、栗形の上辺りを握ることにしたようだった。

「いいわよ。いつでもかかってきなさい」

「ちょっと待て」

 それまで押し黙っていたゲリが声を上げ、スコルとハティの許に駆け寄る。

「なんだ? 三対二か? 別に構わねえぜ」

「悪いが俺はそういうのはお断りだ。ロウト、それとロウカも、ちょっと来てくれ。割と大切な話だ」

 ロウトは肩を叩かれ、振り向くと眠そうに目を擦るロウカが立っていた。

「どうなってるの?」

 欠伸混じりに訊かれるが、ロウトはとりあえずゲリの方へ行こうとしか言えなかった。

 ロウトとロウカが加わると、ゲリは稲荷の者達にすぐ戻ると告げ、四人を連れて少し離れた場所に移動した。

「今の三峯の里の威厳は、殆ど三峯一人で保っている状況だ」

 低い声で、他には聞こえないように話す。

「他の里と戦いになるなんてことはまずありえないだろうが、野凶が徒党を組んで襲ってくることもありうる。俺達七人で手に負えない場合――なんてのはないと思うが、とにかくその場合は里を占領されるだろう。その時は閻魔宮か他の里に避難することになる。そのままという訳にはいかないから、当然里を奪回しなければならない。だが俺達だけで手に負えないとなると、他の里の協力を仰ぐことになる」

「ねえそれ何の話なのー?」

 スコルが唇を尖らせて文句を言う。今回はハティがそれを諫めることはなかった。二人共臨戦態勢を解かれ、無理矢理話を聞かされていることに不満を持っているのだ。

「まあ聞いてくれ。その時に重要になるのは、他の里との信頼関係だ。今のところ、三峯が他の殆どの里長達と親しいからこれは問題ない。だが、三峯はもう年だ。俺も正確な年数はわからないが、俺達の何倍も生きていることは確かだ。考えたくないが、三峯が死んだ時、里の力は一気に下がる。なにせあいつは他の里の昔話の中に英雄として出てくるような奴だ。それが里長を務めているということは、他の里の信頼をいかに集めているか――」

「やっぱり三峯ってすごいんだ――」

 半ば放心した様子でロウカが言葉を漏らす。ゲリはそれを諫めるように小さく咳払いをしてから話を続ける。

「三峯の威厳はそのまま三峯の里の威厳として暫くは残るだろうが、それも年月が経てば薄れていく。そこで、次の世代の俺達がその威厳を失わないように行動しなければならない。つまり、三峯の里の者は何者よりも強いというイメージを保つ。里の持つ力が強大だということはそれだけで野凶の牽制になるし、他の里からの信頼を得られる」

「やはり武力が物を言う訳か」

 ロウトが物憂げに呟くと、ゲリは頷いた。

「野暮な言い方をすれば、他の里に三峯の里の言うことを聞かなければ痛い目を見ると思わせる訳だ。こんな考え方を持つのは厭だろうが、頭の片隅に置いておけ。勿論、三峯のように実力よりも人間で関係を強める方がいいんだが、これはなかなか難しい。つまりだ」

 ゲリはスコルとハティの肩に手を置く。

「負けるなよ。それだけじゃない、圧勝してくれ。話の意味はわかっただろう?」

「見た目で判断しないでよね。そのくらいの道理くらいわかるわよ。ねえスコル?」

「まあ、わかったけど……なんでゲリは戦わないの?」

 首を傾げるスコルに対し、ゲリは苦々しげに顔を歪める。

「情けない話だが、俺はあいつらに勝つ自信がない。そもそも俺はこういう娯楽のための戦いってやつが苦手なんだ。どうも性に合わなくてな」

 奥歯に物の挟まったようなゲリの物言いに、ハティがその腰を思い切り引っ叩いて応えた。

「あたし達に任せときなさい。ぱぱっと勝って、その威厳ってやつを保ってやるわよ」

 スコルと並び、ハティは胸を張って元の場所に戻っていく。ロウト、ロウカ、ゲリは、その姿を静かに見守った。

「話は終わったかい?」

 コヨウが言うと、スコルは小さく頷き、ハティは鼻を鳴らした。コカクがにやりと笑い、右の拳を左の掌にぶつける。

「こっちは待ちくたびれてんだ。さっさとやろうぜ」

 ハティが一歩踏み出すが、スコルがそれを手で制した。

「僕一人でいいよ」

 これには相手も頭にきたようだった。コカクが柄の悪い声を上げる。

「おいおい、お前一人ってのはちょっとなめすぎじゃねえか?」

 スコルは全く聞く耳持たず、鞘を構えると一歩踏み込んだ。

 ただ、一歩踏み込んだだけだった。しかしコカクとコヨウは、瞬間身の危険を感じ思わず後退さった。

「もう始めていいんだよね?」

 冷や汗を拭い落ち着きを取り戻そうとするコヨウに対し、コカクは完全に気迫に呑まれてしまった自分に逆上し、怒声を上げてスコルに迫った。

 コカクはまず下から打ち上げるように拳を放った。相手との体格差はコカクが今までに経験したことがない程離れていたが、普段は相手の腹を狙う一撃を顔面を狙うものに流用していた。

 スコルは素早く身を屈める。こうなればまず拳は届かない。コカクは拳を引っ込めない内に薙ぎ払うように低い蹴りを放った。

 しゃがんだ体勢のまま、スコルは身体を後ろに反らせて跳んだ。両手を地面に着け、一回転して立つ。

 すかさずそこにコヨウが疾駆し、前蹴りを放つ。

「こりゃあ二対一でも仕方ない!」

 コヨウの蹴りの連撃、さらにはそこに変則的に加わるコカクの蹴りや拳を見事にかわしていくスコルに驚愕し、コヨウが思わず声を上げた。

 スコルは表情を変えず、ただ淡々と攻撃をかわしていく。今はコカクとコヨウが両側に立ち、それぞれ蹴りを放っていた。スコルは攻撃の止む一瞬を見つけると、一気に前に駆け抜けた。

 相手が離れたことで、二人はわずかの間構えを崩す。スコルがゆっくりとこちらを振り向くと、二人は再び構えようとする。

 しかし、スコルはその刹那にコヨウに迫り、無防備になっていた腰に鞘を薙いだ。コヨウは息を詰まらせ、大きく吹き飛ぶ。

 自分のすぐ隣に一瞬で移動したスコルに対し、コカクは唖然とした後一拍置いて攻撃に転じようと拳を振り下ろす。

 しかしそれよりも速く、スコルは鞘を思い切り上方に突き出し、小尻でコカクの胸を撃ち抜いた。コカクは身体が浮き上がり、受け身も取れずに地面に背中を打ち付けた。

「真剣だったら、二人共死んでたよ」

 鞘を帯に差し、少し申し訳なさげにスコルが言った。

 これには二人も参ったらしい。コヨウは苦い顔をし、コカクは恨みがましげな目をスコルに向けながらも、大人しく負けを認めた。

「おい! 今度はオレとだ! オレと!」

 コウが駆け寄り、スコルに迫る。

「えー、疲れたからやだなぁ……」

 スコルはもうやる気を失ったらしく、地面に置いた刀を鞘に納め、ロウトとロウカの許に来て二人の間に納まった。

「勝ち逃げとかずりーぞ!」

「俺達はそろそろ帰りたいんだ。三峯が来たらこの里を出て、また走り続けなきゃならない」

 ゲリが言うも、コウは語気を弱めない。

「んなこと知るか! オレは負けっぱなしは性に合わねえんだ」

「コウ――お前昨日俺に勝っただろう」

「負けたのか、ロウト――」

 ゲリが肩を落としながら呟き、ロウトは同じく肩を落として謝った。

「それとこれとは別だ! 昨日は三峯に負けて、テメーに勝って、コギョウの野郎に負けた。ぬあああ! 負け越しじゃねえか!」

 コウの頭を、何者かが思い切り引っ叩いた。

「アホか! あんたあたしや他の奴らに勝ったのを計算に入れてないでしょうが! あたしもなめられたもんだわ」

 サコはそう言って、もう一発、今度は拳骨をコウに見舞った。

「ッてえな! あれ? でも待てよ――そう考えるとオレ勝ち越してんじゃねえか」

「どう考えても勝ち越しよ。憎たらしい」

「なーんだ! すっきりした!」

 一人で高らかに笑うコウを指差し、サコはロウトとロウカに、

「ね? アホでしょ?」

 と囁いた。

「じゃあ、帰りましょうか」

 スコルの実力に他の者達が圧倒されたことと、問題のコウが一人上機嫌になっていたことで、それ以上の手合わせは行われなかった。ハティは口では面倒が減ったと言っていたが、スコルに自分の出番を奪われ態度は不満げだった。

 そこに三峯が稲荷を伴って現れ、五人に帰ることを告げたのだった。

「稲荷ちゃん、色々ありがとね。お互い寿命が尽きてなかったらまた遊びましょ」

 稲荷は苦笑する。

「もう、縁起でもないこと言わないでくださいよ。私こそ、久しぶりに三峯さんと会えて嬉しかったです。よければまた来てくださいね。皆さんなら、稲荷の里はいつでも歓迎します」

 来た時に入った門の前に、稲荷を含めて里の者達が大勢見送りに来た。

 門を出ると、里の者達が一斉に手を振った。三峯はそれに笑顔で応え、ゲリは溜め息を吐きながらも若干の笑顔を見せる。スコルとハティは大きく手を振り、ロウカは一礼してからスコルとハティに加わった。

「ロウト! ロウカ! またなー!」

 一際大きな声が上がり、人の群れの最前列にコウとサコが顔を出して大きく手を振った。

 ロウトはそちらに目を向け、二人とそれぞれ目を合わせる。笑顔を送られ、ロウトもそれに笑みで応えた。

「さあ、走るわよ」

 里から離れると、三峯が言う。全員が霊気を足に集め、力を抜いていく。ゲリが先陣を切って駆け出すと、皆がその後に続き、最後にロウトが駆け出す。

 コウとサコの声は、離れてもずっと聞こえていたような気がした。

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