「後編」
私の肉体は、見慣れた男のそれでは既になかった。
長く伸びた髪。
膨らんだ胸元。
身体中の柔らかな感触。
あそこにあるはずのものがなくなっている感覚。
なんて、ことだ。
私の身体は、すっかり女のものになってしまっていた。
それだけじゃない。
脳にまで変化が及んでしまったのだろうか。心のどこかで、このすっかり変貌した肉体を当たり前のものとして受け入れてしまっている自分がいた。
恐ろしいことに私は、自分が男ではなく、女であるとはっきり自認してしまっている!
突然訪れた己の急激な変化に、半ば茫然としてしまう。
冷たいアスファルトに身を横たえたまま、心ここにあらずで、とても動く気なんて起きなかった。
そんな私に、誰かが近寄ってくる足音が聞こえた。
きっとウィルとかいう奴に違いない。私に挨拶するとか言ってたから。
彼の接近を意識した途端、すっかり放心していた自分はひとまず我を取り戻した。気を引き締めた。
怒りに気持ちが傾いてきたからだ。
よくはわからないけど、エーナという女の人の言ってたことが本当なら、私をこんなにしたのは他ならないこいつなんだ。
一体何をしたのか問い詰めてやる!
間もなく、私のすぐ横に屈んで顔を覗き込んできたのは、声から予想された通りの人物――黒髪の少年だった。
彼は面白そうに下卑た笑みを浮かべている。
まずは文句の一つでも言ってやろう。
そう思っていたのに、彼と目が合ったその瞬間、もうそれどころじゃなかった。
怖い。
まだこの身に残っていた熱と快楽の余韻なんて、一瞬で消し飛んでしまった。
身も凍える恐怖が、全身をわなわなと震わせてきたんだ。
彼の眼は、まるで死人のように冷め切っていた。
瞳に一切の光はなく、すべてを飲み込んでしまいそうなほどに深く鋭い闇を湛えている。
ほんの一睨みするだけで、その眼に映るすべてのものを殺してしまえるのではないか。
そう思ってしまうほどの圧倒的な威圧を放っていた。
一体どうして、何があれば。人はこのような眼ができるというのか。
私はかつて、これほどまでに恐ろしい眼を見たことがなかった。
この世のどんな凶悪犯でも、どれほどの異常者でも、こんなぶっ壊れた眼はできないに違いない。
とても同じ人間とは思えなかった。何か異質の存在――恐怖そのものを体現しているとまですら思えてくる。
恐ろしさで身体が凍りついたように動けない私を見下ろしながら、彼は堂々と自らを名乗った。
「もう名は聞こえたと思うが。僕がウィルだ」
何が面白いのか、どこまでも嘲笑うかのように薄ら笑みを浮かべている。
なのに目はまったく笑っていない。怖い。
「さて、能力に目覚めた気分はどうだ。ユウ」
「散々私を弄んでくれたな。最悪だ。この野郎」
言葉の形だけの、精一杯の強がりだった。
せめて形だけでも気を強く持たなくちゃ、恐怖で取り乱してしまいそうで。気が触れてしまいそうで。
発した声で、自分が女だということをさらに強く認識させられる。
だってその声は――まるで声変わりする前のときのように、高いソプラノだったからだ。
「まあそう怒るなよ。中々見ものだったぜ」
「…………」
「おめでとう。これでお前もフェバル――星を渡る者だ」
「フェバル……星を、渡る者……」
「そうだ。お前はこれから、星々を彷徨って生きるんだよ。ずーっとな」
その言葉に込められた、吐き捨てるような嘲笑が、嫌に突き刺さる。
さっきから続く非日常の連続が、エーナとウィル、この二人の言葉に妙な真実味を帯びさせていた。
そして私が今、この女の身体の私であるということが、さらに輪をかけて彼らの言葉に説得力を持たせてしまっている。
二人が言う、私が持つ能力。
【神の器】なんて大層な名前は気に入らないけど、確かに今、私は性を超越していた。
男と女を自在に行き来し、それに合わせて性の自己認識さえも変えてしまう。
そんなふざけた存在に、私はなってしまったらしい。
彼らが言った通り、謎の能力には目覚めてしまった。
私が星を渡る者になるという言葉だけが嘘のようには、もうとても思えない。
だとしたら。
私はもう、生まれ育ったこの町で暮らすことはできないのだろうか。
この日本を、それどころか地球をも離れて、まったく知らない場所にたった一人で飛ばされてしまうのだろうか。
考えると、無性に不安になってきた。悲しくなってきた。
どうして。
どうして、私がそんなことにならなくちゃならないんだ!
家族と呼べる人はいない。親戚にはもう会いたくもない。
生活はいつもぎりぎりで。部活なんてする暇もないし、友達ともあまり遊べない。
それでも、それでも!
私はそれなりに楽しかったんだ。この平穏な暮らしが好きだったんだ!
いつかは普通に働いて、普通に恋をして、結婚して、子供を作って――。
家族がいないから、憧れていた。
普通の家庭に。普通の人生に。
そういう当たり前の幸せを望んでいたのに。
なのに、どうして!
「なんだお前。悲しいのか?」
「当たり前だろう! どうして、こんなことに……」
「くっく。そうかそうか。お前の都合なんて、どうでもいいね」
「なんだと!」
私はぎりぎりと歯ぎしりした。
こいつにも間違いなく原因があるはずなのに、何も取り合ってくれない。
冷たく突き放されたことが、心底悔しかった。
「それよりもだ」
ウィルは、今度は嫌らしい笑みを浮かべた。
「そんな男の恰好じゃ、せっかくの立派な胸が窮屈だろう?」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
その言葉の意味するところを理解する前に、こいつは私の服を強く掴んだ。
「なっ!」
沈んでいた気持ちなど、頭の奥へすっかり押しやってしまうほどに驚いた。
抵抗する間もなく、私の上着は、まるで紙切れのようにいとも容易く引き裂かれてしまったのだ。
露わになったのは、綺麗にくびれた腰と、雪のように白くきめ細やかな肌。
そして、つんと張った二つの柔らかな膨らみ。
それらのものが、私が本当に女になってしまったことを高らかに誇っているかのようだった。
自分を直視できない。思わず目を反らしてしまう。
男のときなら決して何とも思わなかったのに。今の私は、素肌を晒したことに対してひどく羞恥を覚えてしまっていた。
そのことに内心驚きつつも、いきなりとんでもないことをしでかしてくれた彼を、殺さんばかりの視線で睨みつけた。
「なにを、なにをするんだよっ!」
本気で怒っていた。
なのに、こいつは!
この野郎は、私の怒る様を見て愉しんでいた。
「いいねえ。その反抗的な目、気に入ったよ――うん、そうだな。決めたぞ」
そして彼は告げた。
これから幾度ともなく、まるで呪いのように私を苦しめることになった次の言葉を。
決して忘れることのできない、トラウマとともに。
「ユウ。お前は今から、僕のおもちゃだ」
告げると同時、彼は私に向けて右手をかざした。
突然、身体からがくんと力が抜けていく。
どうなってるんだ!?
手も足も、まるで自分のものじゃないみたいだ。
言うことを聞かない。動こうとしても、まったく動けない!
「どうだ。身体に力が入らないだろう?」
くそっ! どうして!?
混乱する私の姿を肴に、彼は大仰しく説明してくれやがった。
「僕の【干渉】で、お前の【神の器】をコントロールできるんだ。僕がお前の変身能力に干渉している間、お前の身体は自由が利かない。男にするも、女にするも、あえて中途半端にしてさっきのように喘がせるのも、自由自在だ」
な、に!?
「お前は、泣こうが喚こうが、決してこの僕に逆らうことはできない。ほら、こうやっていいように身体を弄られてもな」
彼が手を伸ばしてくる。
胸を痛いほど強く掴まれた。そのまま乱暴に揉みしだかれる。
やめろ! いや! いやだ! やめて!
揉まれるたびに、ぞくぞくと生理的嫌悪感が込み上げる。
なのに、その手を退けようとすることも、声を上げることも、彼から顔を背けることすらもできない。
私のすべては、彼のなすがままだった。
悔しかった。吐き気がするほど嫌な気分だった。
女になって最初にされることが、こんなレイプまがいのことだなんて。
屈辱だ。同時に、死ぬほど怖くてたまらない。
怯え震える私を見て、彼はますます愉しんでいるようだった。
「くっくっく。人が恐怖に顔を歪める様は、いつ見ても良いものだ。やはり人間の感情は素晴らしい」
いやだ。痛いよ。怖いよ。
「だがなあ、覚えておけよ。それは僕の最も嫌いなものでもあるのさ!」
彼は突然、激昂した。
胸から手が離れる。
代わりに両肩を力任せに掴まれて、唇が触れてしまいそうな距離まで顔が迫る。
そして、身も凍えるような甘い声で囁きかけてきた。
「いいか。僕はいつも退屈なんだ。まともな感情を入れる器なんて、とっくの昔に擦り切れて、壊れてしまってるのさ。僕は、人の形をした化け物だ」
目がかち合ったまま、彼の視線から逃れられない。
氷のような瞳が、弱った心を突き刺すように射抜いてくる。
やめて……。
そんな目で、私を見ないでよ……。
怖い。助けて……!
「そして、お前もいずれはそうなる。ユウ。僕はお前が壊れていく様が見たい。擦り切れていく様が見たい。さあ、お前はこれから何を見せてくれるんだ?」
あまりの恐怖で、気がおかしくなりそうだった。
こんなに心の底から震え上がったのは、生まれて初めてのことだった。
すべてを犯し尽くすかのような彼の眼が、私を捕えて放さない。放してくれない。
これから先、私はこんな恐ろしい男の掌の上で弄ばれてしまうのか。
本当に壊れてしまうまで、決して逃がしてはくれないのか。
それは、何よりも恐ろしいことだと思った。
気がつけば、涙が流れていた。まるで許しを乞うように。
情けないことだと、そう思う余裕すらなかった。
でも目の前のこの男は、泣き崩れた私に対して、意外にもそれ以上何をするわけでもなかった。
一切の言葉を足し加えることもなく、ただ私を静かに見つめる。
まるで何かを待っているかのように。
その光なき漆黒の瞳で、私の瞳の奥をじっと覗き込んでくる。
不気味で仕方がなかった。感情が読めない。
一体私をどうするつもりなのか。彼の考えがまるでわからない。
いや――。
極限の恐怖の中で、気付いてしまった。
彼は私のことなんて、本当はどうでもいいんじゃないのか。
いつも退屈だと言っていた。
そんな彼にとっての世界は、すべてがすっかり色褪せてしまったものなのかもしれない。
だからこんなにまで、彼の眼は冷たくなってしまえるのかもしれない。
底知れない彼の闇。
その本質の一端に触れた気がしたとき、涙は止まった。
悟ってしまったから。泣いても無駄なんだと。
この人には、私のちっぽけな存在なんて、まさしくただのおもちゃに過ぎない。
何をしようと、どれだけ情けなく許しを乞おうと、決して彼の心の底には届かない。
それを思い知った。
完全に心が折れた瞬間だった。
私はろくに動かない身の、せめてもの強張りさえも解き、彼に対して心身のすべてを投げ出した。
あらゆる抵抗を諦めた。無駄なことはやめようという開き直りだった。
これ以上の醜態を晒すより、完全に彼を受け入れることにしたのだ。他にしようがない。
今の私は、きっと彼の望むままに、身体だって何だって差し出してしまうだろう。
そうすることが一番身のためであると、わかってしまったから。
情けないことに、そんな後ろ向きの覚悟から、逆に見つめ返してやるだけの気概も戻っていた。
私の心境の変化を察したのか、彼はそこで初めて再び口を開いた。
「ほう。そんな顔もできるのか――なるほど。少し見つめ過ぎたらしいな」
見つめ過ぎた? 私を屈服させようとしていたんじゃないの……?
「だがな、ユウ。勘違いするなよ。僕はお前を奴隷にしたいわけではない。僕が見たいのは、お前が変わっていく様だ。それは長い時間をかけて、ゆっくりと仕上がっていくものだからな」
そのときだった。どうしてだろう。
彼の身体の色が徐々に薄くなり、透け始めたんだ。
彼は自分の手を見下ろすと、忌々しそうに舌打ちした。
「ちっ。星脈が動き出したか。運がよかったな。今回のところはこれで終わりだ」
見ると、私の手も一緒に透け始めている。
「私は……どうなるの……?」
不安になって尋ねた私に、彼は小さく両手を広げて得意気に答えた。
「始まったのさ。世界移動が」
世界移動。
予想はしていたけど、まだ覚悟ができていなかっただけに、ショックは大きかった。
それでも、今までこいつから受けてきた扱いを思えば、このタイムリミットによって私は助かったのではないかとまで思えてしまう。
ふと、最初に出会った金髪の彼女のことが気にかかった。
「エーナ――そういえば、エーナは?」
「ああ。あいつか。うるさいから消したよ」
すぐに思い起こされたのは、彼女が上げた大きな悲鳴だった。
最悪の想像が口を衝いて出る。
「殺した、のか?」
それを聞いたウィルは、意外そうな顔をした。
「うん? なんだ。エーナにその辺聞いてなかったのか?」
「どういうこと!?」
「くっくっく。教えてやるのもつまらないな。ヒントだけやるよ。あいつは確かにお前を助けようとしていた。お前を殺すことでな。後は自分で気付くといいさ。なに。どうせいずれわかることだ」
いずれわかることとは何だろう。
なぜ殺されることが救われることになるのか、私にはさっぱり見当が付かなかった。
「じゃあな、ユウ。少しだけ楽しかったぜ。これからたくさん遊んでやるから、覚悟しておけよ?」
ウィルが初めて、ほんの少しだけ本当の感情を見せてくれたような気がした。
彼とはまた会うことになるだろう。
私は彼の存在を強く心に刻みつけた。
天敵として。恐怖の対象として。
そして、底知れぬ深い闇を抱えた、一人の人間として。
彼が消える。私もまた消えていく。
身体の感覚がなくなって、意識だけが宇宙空間に放り出される。
目の前に映ったものがあった。
紛れもなく、私たちが暮らす星。生命溢れる美しいブルーアースだった。
その悠然たる姿を外部から眺めたとき。
もうこの星にはいられないのだということが、とうとう腑に落ちてしまった。
そうして、いざ別れを告げるという土壇場になって、初めて気付いた。
私は、心からこの星を愛していたのだと。
今まで当たり前過ぎてわからなかった。
この美しい星で生きて、死んでいけること。それがどんなに幸せなことだったのか。
もう叶わない今になって、ようやく気付いた。
気が付けば、また泣いていた。
声も涙もなかったけれど、私はきっと泣いていた。
たとえ私がいなくなっても、変わらず世界は廻っていくのだろう。
何事もなかったかのように。
けれど。私は確かにここで生きていた。この星で、確かに暮らしていたんだ。
そのことを。誰が忘れても。世界が忘れても。
自分だけは忘れないでいようと思った。
離れてしまったら、思い出と自分の名前だけが、私がこの星で生きた唯一の証になってしまうのだから。
青い星は少しずつ、だが確実に遠ざかっていった。
やがて見えなくなってしまうまで、目に焼き付けた。
決して忘れてしまわないように。
さようなら、地球。
さようなら。私の、生まれ育った星。
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