エピローグ3「それぞれの胸の中で」
再び日常が訪れ、次第に学校や会社も再開していた。
狭いアパートの一室に、中年の男、ダイゴの声が響く。
「おい。忘れ物はないか。あとも少し急げ。初っ端から遅刻じゃしまらねえぞ」
「えーっと。あれ、あれ? どこだったかな?」
微妙に寝ぐせが残ったままのシェリーは、慌てて本の山をひっくり返していた。
勉強熱心なのはいいが、整頓がおざなりになる悪癖があるようだ。
「だから昨日のうちに準備しとけって言ったじゃねえか」
「わああ! すみません! ほんと、どこいっちゃったんだろう?」
「ほれ。こいつじゃないのか?」
「あ、それですっ!」
崩れた本の山から一冊を目敏く選び取って、差し渡す。まさに彼女が探し求めていたものだった。
実はダイゴは、昨日のうちにこっそり時間割を見て、必要なものを把握していたのだ。
「くっく。案外そそっかしいな。シェリーも」
「えへへ。実は昔っからそうで。ありがとうございます。ダイゴさん」
「おう」
「そして、こうして私を学校に行けるようにしてくれて、本当にありがとうございます」
「……ふん」
二人が一緒に暮らしているのには、理由がある。
彼女の家が全壊していたところから、話は始まった。さらに運の悪いことには、彼女の財産を預けていた銀行が、物理的に吹き飛んでしまっていたのである。
元々両親を夢想病で失い、身寄りのなかった彼女は、生活の基盤さえも破壊されて、途方に暮れていた。
そんなシェリーの窮状を知ったダイゴは、これも縁だと彼女の身柄を引き受けて、今は二人で狭い部屋に暮らしているのだ。
なし崩し的に奇妙な共同生活が始まってしまったわけであるが、彼には一人暮らしで無駄に蓄えがあったことが幸いし、つつがなく生活を送れている。
もちろん、彼とて自制は心得ている。娘ほど年下の子に間違いなど起こす気もなく、本当に娘のように思っていた。
彼女もそんな彼だからこそ、心から信頼し、身を預けているのだ。
「礼はいいさ。立派な医者になるんだろう。しっかり勉強してこいよ」
「はい。ダイゴさんも、お仕事頑張って下さいね」
「……おう。そうだな」
「じゃあ、行ってきますっ!」
「気を付けてな」
元気な年頃の娘を送り出したダイゴは、うんと伸びをして、自分も出社の準備を始める。
髭を剃りながら、彼は独り言ちていた。
「学校行って、会社行って。平和な日常ってのは――いいもんだな」
かつて退屈な日常に絶望していた男は、もういない。
今、男は平和であることに至上の幸せを感じている。
ぴしりと白モップを着込み、市民を示す銀バッジを胸につけて、意気揚々と扉を開けた。
「さあてと。俺も俺なりに一丁、頑張ってみるか」
世界が大変なことになって。自分もあと一歩で死にかけた。
一つ、わかったことがある。
人には、それぞれの人生の課題がある。それぞれの困難がある。
苦しいこと。つらいこと。どうにもならないこと。
そりゃあもうたくさんある。数え切れないほどある。
この事件で、救われなかった運のない連中だって……たくさんいる。
俺が明日から、世界を救えるわけじゃない。いきなり金持ちになったりもしない。
どんなに綺麗ごと並べたって。この事実は変わらねえ。
だがな。
それでも命の続く限り、できることはある。どんなに小さくても、この手に届くものはきっとあるのだ。
そう信じることが。
人それぞれの運命に対して、己の意志をもって懸命に立ち向かうならば――誰もがきっと、小さな英雄になれるのだろう。
青い空を見上げて、ダイゴはしみじみと呟く。
「なあ。そうだよな――ユウ」
――ほとんどの人は、決して知ることはないだろう。言ったとして、決して信じることはないだろう。
公式には、ダイラー星系列が解決したことになっているあの事件の顛末を。
民衆には、ラナの奇跡と信じられている――あの青き虹の光を。その正体を。
あれが本当は、誰だったのかを。誰の優しさだったのかを。
ダイゴは――フウガは、知っている。
彼は最後まで大きく出世することはなかったが、その熱心で誠実な働きぶりは次第に多くの人に認められ、彼が退職するときには、たいそう惜しまれたという。
また、娘のような年頃の娘と積極的にボランティア活動などをする姿が、たびたび目撃されていたそうだ。
やがて娘は結婚し、立派な医者になり、幸せな家庭を築き――。
彼は子供たちに「おじいちゃん」と弄られながら、近隣の住民にも慕われ、人生をまっとうするときまで、幸せに暮らしたという。
***
エインアークスの全面支援を受けて着々と進められた夢の翼『アーマフェイン』プロジェクトは、ついに実用化の段階にまでこぎ着けていた。
自在に空を駆ける金属製の機体を見上げて、歓喜に湧くスタッフたち。
彼らに混じり、プロジェクト責任者アイリン・バッカードは、得意気に鼻を鳴らした。
「ダイラー星系列とやらのとんでも兵器には、さすがに度肝抜かされたけどな。へへ。こいつは立派なトレヴァーク産ってやつだぜ」
幼き日の夢に描いていたそのままのような飛空艇ではないが、地球で言うところのヘリコプターに似た形状のその乗り物は、世界の距離を一気に縮める期待がほぼ確実視されている。
――なあ。見てるか兄貴。これからこの夢の翼が、数え切れないほど多くの人を救うんだぜ? わくわくするだろ?
ダイラー星系列による初期復興はなされたものの、彼らが去った今も、まだまだ世界各地には救援を求めている者たちがいる。
本格的な復興へ向けて、空という新たな移動手段が生まれることの恩恵は、計り知れない。
「そうだ。あいつにもちゃんと礼、言いたかったな……」
アイリンは、一人の頼りなさそうな見た目の青年を想い、寂しげに目を細めた。
このプロジェクトを実現にまでこぎ着けた立役者。兄を除いて、最も感謝する人間の一人。
世界が滅茶苦茶になってしまってから、連絡の一つも付かないままである。
今はどこにいるかも、果たして生きているかも彼女にはわからない。
だが、きっとどこかの空の下で、あのお節介な優しさで、誰かを助けている。絶対そうに違いないのだと。
わざわざ夢の中にまで出てくれやがったのだ。くたばるわけがない。
アイリンは、そう信じている。
だからあの人に負けないように。自分もできることをするのだ。
***
この日は、ニコの八回忌だった。
彼女の写真の前で、親子三人が仲良く祈りを捧げている。
未だ記憶に新しい化け物の襲撃。死者は街の八割にも及び、隣の家の者たちも皆殺しにされてしまったという。
すぐ側を悪魔が襲っていたのだ。自分たちが襲われずに助かったことは、奇跡的なことだった。
巷に流れる噂話でしかないが、かの大災厄の日では、生きることを諦め、絶望した者から次々と命を落としていったという。
本当かどうかはわからない。だが、妙に真実味のある話のように思われた。
両親は、考えていた。
自分たちがあの日、助かったのは。生きる気持ちを強く持てたのは――ニコがずっと、天国から励ましてくれていたからではないかと。
何度も命を諦めようかと思ったとき、「まだこっちへ来ちゃダメ」という強い声が、しきりに聞こえていたような気がしたのだ。
夢だったのかもしれない。幻だったのかもしれない。
それでも、信じたいのだ。
そして、姉が助けてくれたことを「知っている」マコは、祈りとともに感謝の言葉をたくさん述べると。
両親へ振り返って、いっぱいの笑顔で宣言した。
「マコね。将来ね、このお店、かわいいものでいっぱいの雑貨屋さんにする! でね、ニコお姉ちゃんみたいに、優しくて素敵な店長さんになるの!」
「そうか……いいな」
「素敵な夢ね。マコならきっと……きっと。強くて優しいお姉ちゃんみたいになれるわよ」
「うん。だって――最後に、約束したもんね」
今は小さなマコも、時が経つにつれて立派に成長していくだろう。
やがて記憶は遠ざかり。純粋な幼心も、いつかは少女のまま生を終えてしまった姉よりも大人びて。
今ははっきり覚えている姉の姿も、そのときには薄れてしまうかもしれない。いくらか忘れてしまうことがあるかもしれない。
人は、忘れてしまう生き物だから。
それでも確かなことがある。残り続けるものはある。
ニザリーは……ニコは確かに家族を守ったのだ。
そして確かに、三人の心へと想いは届いていたのだ。
新たな人生の活力、夢となって、彼女は家族の中でずっと生き続けていく。
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