310「悪夢を斬り裂く青き光」
俺はエルゼムを見上げていた。
前に見たときと姿が多少違う。のっぺらぼうではなく、誰かの泣き叫ぶ顔のようなものが貼り付いている。
あの顔、どこかで見たような……。
しかし正確に誰かまではわからなかった。彼なのか彼女なのか、とにかくそれの元になったかもしれない者の心は、エルゼムという闇の塊に呑み込まれて、まったく失われてしまっている。
そもそもナイトメアは姿形を変えるもの。こだわるところではない。
お前がどんな姿になろうと、今このときに倒すだけだ。
ただ……ここで戦えば、ヴィッターヴァイツたちを巻き込むになるな。
「場所を変えさせてもらうぞ」
左手で想剣を手にしたまま、右手を突き出して構える。
《気断掌》
不可視の衝撃波が、エルゼムを遥か空の向こうまで吹き飛ばす。
心力を纏うことによって確実に本体を捉え、奴が持っているすり抜け等の特殊能力を無効化していた。
同時にダメージも与えているが、直接攻撃でない分だけ、どうしても威力は落ちるようだ。奴の反応は健在である。
追いかけるため、俺は女に変身する。
着ているジャケットを押しのけるように胸が膨らみ、布地が窮屈に貼り付いて、存在感を主張する。
髪がざわめいて伸びるのを感じ、目線が少し低くなる。
実は世界を飛び回ってナイトメアを浄化していたとき、私はこの姿でずっと飛行魔法を使っていた。
およそ二年半ぶりの変身だったけれど、まるでずっとこの身体だったかのように、しっくり馴染んでいる。
――うん。そうだよね。どんなに長く離れても、ユイと私は一つだもの。
空を飛び追い縋ると、エルゼムは逆さになった姿で空中に静止していた。
明らかに傷が伺える。体表がぼろぼろと剥がれ落ちたようになっていた。
しかもエルゼムは、受けたダメージを再生によって回復することができずにいた。
これには、奴も驚きが隠せなかったらしい。
ヴィッターヴァイツたちを圧倒していたときに感じられた余裕というものが、今はすっかり消え失せていた。
「グ、ギ、ギ……!」
歯車が軋むような唸り声を上げて、まるで地団駄を踏んでいるかのようだ。
「へえ。お前が悔しいなんて思うことがあるの」
今日までは聞く方だった、今は私自身の声であるソプラノで挑発してやると、エルゼムは激しい怒りと憎悪のままに飛び掛かってきた。
いつでも反撃できるよう身構えると、途中で奴の姿が消える。
……偏在性を駆使した存在転移。すなわち、瞬間移動を使っている。
私は動じることなく振り返ると、背後から心臓を突き刺すように狙って伸びてきた影を――指先だけで摘まんでいた。
お前の純粋な悪意ほど読みやすいものはないよ。
動きがまったく見えなかったときでさえ、その反応だけはすぐにわかったほどなんだから。
今のこの状態で、そんな手は通用しない。
簡単に攻撃を受け止められたエルゼムは、力任せに影を引こうとして、ビクともしないことに狼狽えていた。
動揺の源は、それだけではないだろう。
私が実体のないはずの影に直接触れていること。しかも触れているにも関わらず、悪夢はまったく私を侵食できずにいること。
私にも深いトラウマはあるけれど、想いの力が私の領域を侵すことを防いでくれているのだ。
「やあっ!」
変身する猶予まではないため、女の身体のままで剣を振り下ろす。
恐ろしい予感を見たか、エルゼムは剣身が触れる直前に伸ばしていた部分を自ら切り離すという強引な手段で回避した。
その判断は、敵ながら最善だった。
切り離された部分に剣が触れると、その部分は青い光に包まれて、完全に浄化消滅してしまった。
辛うじて本体を断たれることを免れたエルゼムだったが、負傷は決して小さくはなかった。
伸びていた影は、細長い左腕を変形させたものだったみたいだ。
「エルゼムの左腕」という概念そのものの本源を斬ったがために。その部分はもう二度と再生できなくなってしまった。
必死に生やそうと試み、まるで何も起きない様はいっそ哀れですらある。
でも、生まれてしまったことが可哀想だとは思っても、容赦しようとは思わない。
人の心を持たない、ただの化け物なんて。
そんなものは。深い絶望を胸に壁となったヴィッターヴァイツや、ラナソールの想いを背負って立ち向かってきたランドに比べたら。
お前なんて。ただ強いだけの化け物なんて。大したことはない!
「お前なんかに、これ以上犠牲を出させるわけにはいかないの」
avnwodaghraogjalkgnaoiuwrhgawgnwar;oighjaohjgarl.kgeou;htgo;iajlok;rnahloj;arhhlkj;rahelj!
いよいよ後がなくなったエルゼムは、声にならない金切り声を上げた。
周りの空間が裂け、魔神種級を大量に含むナイトメアの全勢力が一か所に集結する。
総勢100億を超える数の異形の大群が、暗黒の空を埋め尽くしていた。
味方も使ってなりふり構わず、か。
アルトサイドに満ちる闇のすべてを振り絞ってまで、本気の本気で向かって来ようとしている。
でもね。どんなに闇や絶望が深くたって。こっちだって負けてないよ。
だって俺と私は――70億の希望を背負っているのだから!
剣を右手に持ち直し、左手に魔力を込める。
同時に心力も混ぜ合わせることによって、星光素の白は、私が纏うオーラと同じ、青白い輝きへと転じていく。
掌大の小さな球体に、闇を屠る莫大な力を詰め込んで――解き放つ。
《ブラストゥールアロー》
撃ち出された小さな球体は――手元から離れ切ったところで弾けて、膨れ上がる。
それはナイトメアの数と同じ――100億を超える矢となって、世界を憎むすべての敵へと降り注いでいった。
避けようとする努力は、すべて無駄に終わる。
一つ一つの矢は、誘導付きミサイルのごとく正確無比な軌道を描いて、大なる者から小なる者にまで、等しく突き刺さり、その本源を断たれる。
ナイトメアの反応は、はっきりしている。
そのすべてに対して同時に狙いを付けることは――あらゆるものを正確に捉える心の力をもってすれば、できないことではなかった。
ものの一瞬で独りぼっちに還ってしまった、悪夢の首領は。
あれでも、仲間意識というものがあったのだろうか。
まるで泣いているかのような、奇妙な掠れ声を鳴らしている。
私は剣を握り直し、空を飛んで奴に迫っていく。
決着をつけようと向かう私に、知らない誰かの顔を向けるエルゼムは。
恐怖や憎悪の体現であるはずのナイトメア――その中で最も強く凶悪なはずの者が。
見た目にはまったくわからないが、私にはよくわかる。
エルゼムは、怯えていた。
私から必死に逃げるように飛び退き、ずっと上空からこちらを見下ろすことで、それは自らの誇りを辛うじて保とうとしている。
そして、まともな声にならない絶叫とともに、泣き叫ぶ誰かの口から――絶大なる闇の波動が放たれた。
ヴィッターヴァイツやアカネさんに撃っていたものとは、技は同じでも威力がまったく違う。
まるで後先のことなど考えていない。人類への復讐など、もはやどうでもいいかのような。
ただ私という最大の敵を、世界丸ごと吹き飛ばしてしまおうとする化け物の――最後の抵抗だった。
滅びをもたらす波動を前にして、私は落ち着いていた。
左手に剣を持ち直し、右手に目いっぱいに閃光を溜める。
最大限に溜めた心力付きの魔力を、想いの剣という器にしっかりと込めて。
私としての役目は終わり。男に変身する。
両腕で剣を構え直し、さらに気力も込め合わせる。
『私たちが、ランドとの修業を糧に創った技を!』
『さあ、受け止めてみろ!』
『『エルゼム!』』
あいつとの修業がなければ、思い至らなかった。
一人では気力と魔力を同時に扱えない以上、この想剣という器がなければ……使うのは最初で最後になってしまうだろうけど。
最後には、楽しかった夢らしく――《セインブラスター》と《センクレイズ》を掛け合わせたロマン技を。
《ブラスターエッジ》!
深青の波動が――魔力、気力、そして心力の美しい三重奏が。
世界を滅ぼす闇を、真っ直ぐに斬り裂いて――。
しかし世界を一切傷付けることなく――ただエルゼムだけを、貫いていた。
ク、カ、カカ、カ……!
エルゼムの痛々しい断末魔が、心の芯に響き渡る。
哀しき生まれを持つ化け物。せめて慈悲をもって最期を見送る。
そして……海色の閃光が闇の空を越えて、宇宙の彼方まで消え去ったとき。
すべてのナイトメアは。人々を苦しめていた化け物たちは――トレヴァークから根絶されていた。
間もなく、地平線の向こうから夜明けの光が差し込んでくる。
無事新たな一日を迎えたことを祝福するかのように、登り輝く美しい朝日をユイと一緒に見つめながら。
俺たちは、トレインへと続く道が繋がったのを心で感じ取っていた。
さあ――最後のケリを、着けに行かなくちゃな。
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