285「最後の依頼 2」

 バルコニーに連れ立って向かうと、空を眺める彼女の後姿が見えた。


「ラナさん」


 声をかける。これまでは空っぽの彼女をラナと呼んでいたけど、さすがに本人の前では礼儀を正す。

振り返った彼女は、記憶で見たのと同じ、優しい微笑みを浮かべた。ようやく哀しい表情以外のものを見せてくれた。


「……待っていました。あなたたちが来てくれるのを」

「おお! マジもんのラナ様だ!」

「ラナ様……」


 ランドはすっかり興奮し、シルヴィアはこれで敬虔なのか、手を合わせてお祈りをした。

 他の面々は、俺も含めて、喜んでる場合じゃないって深刻な顔をしているけれど。


「アルトサイドに落ちたとき、俺を助けてくれてありがとうございます!」


 不格好ながらランドが礼を述べると、ラナさんはどこか申し訳なさそうに目を伏せるばかりだった。


「やっと会えましたね。俺たちのことは知っていますか?」

「はい。ぼんやりとですが、ずっと見ていました。覚えていますよ。今までこの世界に息づいていた人々も、あなたたちのことも」

「なら……世界の現状もわかりますね」

「……ええ。本当に……取り返しのつかないことになってしまって……」


 ラナさんは、憂いの表情を見せる。人格を取り戻した今は、人間味の感じられるものだった。


「俺たちは、この大変な事態を解決するために来たんです。ラナさんと力を合わせて、どうにかならないでしょうか。ラナソールを、元の平和な世界に戻すことはできないのでしょうか」


 縋るような思いで、俺は尋ねた。ランドシルの手前、はっきり何をするとは言えなかったけれど。

 何のために俺たちは記憶を集めてきたのか。限られた時間を本物の彼女に会うために割いてきたのか。

 本物は残念ながらとっくの昔に亡くなっていた。けれど、本物に限りなく近い彼女なら、何とかできるんじゃないか。そう信じたかった。

 ラナソールを創り上げた彼女なら、あの世界に再び「実体」を与え、秩序を取り戻すことができるのではないか。

 それができなくても、何かあるんじゃないか。あってくれと。

 その一念でここまで来たんだ。


 だけど……ラナさんは浮かない顔のまま、頷くことはなかった。

 代わりに、こう言ったのだ。


「……少し、お話を聞いて頂けないでしょうか」

「……わかりました」


 ラナさんはしばし考え、今までのことを振り返るように、慎重に言葉を選んで話し始めた。


「すべては私の夢から始まったことでした。誰も飢えることなく、誰も死なずに済む世界を。最初は順調でした。ですが……いつしか私は、思い上がっていたのかもしれません。もっとやれると考えてしまった。イコは、寿命をまっとうして死んでいったのに。それが人としてのあるべき姿だったのに……」


 遥か昔に死んでしまった親友のことを思い返しつつ、彼女は続ける。


「際限なく暮らしを豊かにし、どこまでも死を遠ざけた。人や世界のあり方として、まったく不自然になってしまうほどに。……そうして、完璧な世界を創れば創ろうとするほど、歪みは大きくなり、闇もまた深くなっていきました」


 彼女は小さく首を縦に振り、唇を噛み締め――とても悲しそうな表情で、自らの過ちを認めた。


「どんなに不思議な力があっても、私は人でしかないのに……神になろうとしてしまった。破綻は必然でした。どこかのタイミングで、私たちは誤りを認めなければならなかった。手遅れになる前に、世界を夢から醒まさなければならなかった。現状にいたるまでのすべてのことは、私たちがなすべきことをしなかったせいです」


 そして俺たちみんなを見渡して――特にランドとシルヴィアを見つめて、深く頭を下げる。


「本当に、ごめんなさい……っ……」

「ラナさん……」


 記憶で見た。彼女は純粋な善意の人だった。嘘偽りのない気持ちで、全身全霊をかけて人の幸せのために尽くしてきたのだ。それが、こんな皮肉な結果になってしまうなんて……。

 俺にはラナさんを責めることなどできない。

 俺だって……取り返しのつかないことをしてしまったのだから。


「ユウさん。世界を元に戻せないかと、そう言いましたね」

「はい……」

「確かに私の力があれば、一時的な延命はできるのかもしれません。けれど、ラナソールが今のままである限り、また同じことの繰り返しになってしまう。あなたもそれはわかっていますね?」

「……そう、ですね」


 認めるしかない。実際そうなのだ。

 でも……! それがわかった上で、何かないかって探しているんじゃないか!

 なのに……その言い方は。それじゃ、まるで……。


「……私には、今も聞こえるのです。トレインの苦しみが。悪夢に閉じ込められた人々の声なき悲鳴が。彼の絶望から生まれてしまったこの世界は、見える希望の分だけ、押し込められた歪みや絶望に満ちています。……こんなことは、もう終わりにしなければなりません。夢はいつか、醒めなければならない」


 そして、俺を真っ直ぐ見つめて――ひどく罪悪感に満ちた顔をしていた。

 もう嫌な予感しかしなかった。


「ユウさん。あなたは何でも屋でしたね。一つ、私から依頼をしてもいいでしょうか?」

「……なんでしょう」

「……お願いします。あなたの手で、トレインを……妄執に囚われたあの可哀想な人を、終わらせてやっては頂けませんか。あの日約束を果たすことのできなかった、私の代わりに……彼を――殺しては頂けませんか」

「…………」


 ――ああ。そうか。そうなるんだな……。


 ここまで来て。やっぱり。そうなるんだな……。


 俺だけじゃない。みんな、波を打ったように静まり返っていた。何も言えない。そんな表情だった。

 ただ一人、ラナさんだけが、苦しそうに続ける。


「あなたにしかできないことなのです。私と同じ、魂――本源を断つ心の力を持つ、あなたにしか。私だけの力ではもう、彼には届かない……」

「それが、唯一の解決方法だと……」

「はい。もはや、そうするしか……ありません」


 ラナさんは強い無念を露わにしながら、そう言い切った。


 俺は、答えられなかった。

 彼を殺すという、ただそれだけのことならば――頷けたかもしれない。

 俺だって、何度も人を殺したことはある。殺すしかどうしようもない相手を殺してきたことはある。

 だから……心を鬼にすれば、やれたかもしれない。トレインだけなら。覚悟ができたかもしれない。

 だけど。彼を殺すということは。それはつまり――。


 肩が震えて、まともな声にならない。


「そうしたら……どうなるんですか? 世界は、ラナソールは……みんなは……どうなるんですか……?」

「……もう、わかっているのでしょう? だから、そんな顔をして……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……っ!」


 とうとう堪え切れず、彼女は大粒の涙を零し始めた。

 それは、自分のなすべきことをもはや自分でどうすることもできない罪悪感であり。自らの愛した子たちを救えない悔しさの表れだった。

 それでも、そうするよりないのだからと。彼女は涙声のままで、言い切った。


「ユウさん。どうか……どうか、お願いします。トレインを。あの人を、永遠の苦しみから救ってやって下さい。そして、彼に切り取られたすべての魂を解放し……この世界を――ラナソールを、終わらせて下さい。あなたの手で」


 それは、最後にして――最も残酷な依頼だった。

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