第20話
目を覚まして美鶴の目に飛び込んで来たのは自身の事を食い入るように覗き込む美香の顔だった。今にも唇同士が触れ合いそうな距離でギュッと抱き締められており、自由に身動き出来ない。
「本当に無茶ばかりして……。お姉ちゃん、心配したんだからね」
美香はそう告げると共に抱き締める力を更に強めた。
その際に薄らと美香の瞳から零れる滴に気が付き、美鶴はどれだけ美香に心配させてしまっていたのかを思い知る事となる。夢ではなく、これが現実だと……。
「――それで、何か変わった事はない? 何かを思い出したとか」
いきなり話題が変わった事に一瞬、言っている事が理解出来なかった。記憶の事に関しては今回の件とは全く関係ない筈だからだ。だからこそ、首を傾げる以外に返答が出来ない。
「悪い、姉貴。何を言っているのか理解出来ないんだが……。確かに窓から飛び降りたりしたのは正直、やり過ぎたと思う。けど記憶って……。もしかして、あの最後の?」
いつもなら、無理矢理にでも引き剥がすところなのだが、今回は色々と無茶をして心配をかけてしまった手前美鶴も強くは出られない。今日だけは特別に美香に自由にさせてやるのだった。
――姉に抱き着かれるという行為をこうして周りに見られるのは恥かしいが。
「思い出してないなら、気にしないで。……私の気のせいだから」
美香が何かを隠しているのはすぐに分かったが、話すつもりがない時には絶対に美香は話さない。それを知っているだけに、美鶴はそれ以上深く聞き出そうとはしなかった。
姉弟の微笑ましくも恥ずかしい空気。
だが、そんな和やかな空気も結果を聞く為に向かった集合場所へと辿り着くと、すぐに張り詰めた緊張感へと変わってしまう。
「それがお前の答えなんだな」
「はい。あの時点で私はデバイスを一時的に使用不可にされました。それに、あのまま勝負を続けたとしても、勝ち目はありませんでした。それに、鍵がない以上どうしようもなかったですから」
無表情で那月を見つめる相良。相良にはっきりと見据え冷静に言葉を吐く那月。
何も言わずただ見つめ合う中、相良が大きく溜息を吐いた。
「まぁ、お前がそれでいいならそれでいいか。ただ、お前がその選択をした以上、分かってるよな? その答えに責任を持て」
選択をした事に対する代償。それは美香達に負けを認めたという事実だ。
一応、互いに同時に棄権をしたという事になるが、棄権するという事は負けを認めたと同義だ。
だからこそ、今回の大会に関してはどうなるか見えなくなってしまった。
可能性の一つとして、今回の大会に那月が出場出来ないという事も十分に有り得るのだ。後は学校側に選択を委ねる事になる為、どうなるかなどここにいる誰にも分からない。
そして、それは那月だけでなく、相良達全員に言える事だった。
「すいませんでした。先輩達の最後の大会を……」
那月の口から洩れた言葉に更紗は固まってしまう。
その言葉は那月が絶対に口にすべきでは無かった言葉だからだ。
確かに相良達、三年がこの試合に大きな対価を支払う事になったのは確かだ。だが、それは全て自己責任の話であり、那月一人の責任では決してないのだ。
相良にしても、美香との実力差を深く知る事になった。足下にすら及んでいないという事を。
だからこそ、那月自身がそんな下らない事を深く思い悩む事を相良は許せる筈がなかった。
「それがお前の結論か。――――ふざけてるのか?」
何も言い返す事は出来ず、那月は相良の言葉の重みに思わず押し黙ってしまう。
ただ、怒鳴りつけていない所から相良も本気で怒っている事は容易に分かる。そして、今回ばかりは相良の思いが正しいという事も美鶴には分かっていた。
だが、どうやら美香は違ったらしく、美鶴からゆっくりと離れると相良と那月の間に割って入ろうとする。けれども、すぐさま美鶴に美香は腕を掴まれてしまう。
離して。そう、美香は無言で美鶴に懇願するが首を振り、それを却下する。
そして、無言のまま最後まで見ているように美鶴は美香に促すのだった。
「あぁ、確かに俺達三年はこの大会は最後だ。だが、お前はまだ一年で次があるだろ。何か、掴めたモノがあるなら俺達に謝るより先にやるべき事があるんじゃないのか? 時間は待ってくれないからな」
「相良……」
美香の口から思わず、相良の名前が漏れた。過去の件に固執せず、いつの間にか前を向き、次を見据えて歩き出そうとしていたのだ。
「お前は俺とは違う。過去の結果で、届かないなんて諦めてないだろ。それに何より、試合そのものを楽しんでいたしな。その事を忘れるな。忘れちまったら、今の俺達のようになるからな」
それは他ならない相良が美香の言い分を認めた事に他ならなかった。
一瞬、相良は美香を横目で確かめる。しかし、すぐに視線を戻すとそのまま何も言わず、教室から立ち去ろうとする。
その背中を美鶴は大声で呼びとめた。
「約束、忘れてません?」
「負けてはいないだろ。今回は引き分けだ」
「さっき、相良先輩は負けを認めるって言った那月を肯定しましたよね。聞き間違えでなければ」
屁理屈だが、事実だ。その美鶴の言葉に思わず、相良は舌打ちをする。
「確かに言ったな。それで、お前を侮辱した事を謝罪すればいいのか?」
その返答に美鶴は手を伸ばし、何かを求める事で返答した。
謝罪など必要ない。そんな物に何の意味もないからだ。今、欲しているモノはそんな一時の感情論でどうこうするような物ではない。もっと、大事なものだからだ。
「相良先輩の退部届、貰えますか? 今、持ってるでしょう?」
「ちょっと、美鶴! アンタ……何、言ってるの」
「えっ? 弟君……今、なんて……」
美鶴の言葉に那月も薫も思わず、そう聞き返してしまう。
ただ、そんな中でその場にいた他の人間はその言葉の続きをただ黙って聞いていた。
「まぁ、約束は約束だからな」
懐から取り出された退部届を相良は美鶴に渡す。
こんな薄っぺらな紙切れ一枚で責任を取る。
この退部届には今回の件に関する相良の思いがずっしりと重く圧し掛かっていた。だからこそ、それを相良の目の前で破り捨ててみせる。
「大会なんて俺はまったく、興味の欠片もありませんからハッキリ言ってどうでもいい。けど、相良先輩、俺はそんな責任の取り方を認めるつもりはありません。責任を取るっていうのなら最後まで辞めずに筋を通して下さい。やり方は他にもある筈です」
破り捨てられた退部届が風に乗り、数枚が窓から校庭へと飛ばされる。
手紙を読んだ時から、美鶴には相良がここまで事を大きくするつもりなど毛頭なかった事を理解していた。色々な思いが交差し、思惑が混じり込みこんな事になってしまっただけなのだ。
だからこそ、誰も傷付かずに済むように美香が呼びかけようとした人間に話を付けて回った。
そうする事によって、早急に事を終わらせる事が出来たからだ。
そして、全ての件の責任を取る形でチームから去る。それが相良の答えだった。
「他にどんな責任の取り方があるんだ。ここまで、色々と滅茶苦茶にしたのは俺だぞ。それに、俺と白浜美香は水と油みたいな関係だ。決して、お互いに理解し合えないんだよ。なら、どちらかがこの場を去るしか他にないだろ」
美香が戻って来てもチームを去ろうとしていた理由。
けれども、それは上澄みだけの言葉である事を美鶴は見抜いていた。
「今年度の主力は三年。では、先輩方が卒業された段階で出場出来るだけの実力を持った人間がどれ程いますか? そういった取り方もあるんじゃないですか?」
確かに美鶴にも相良と美香が決して分かり合えないのは薄々、勘付いている。
だが、それではダメなのだ。それでは何も変わらない。何一つ、変わらないのだ。
結局、この試合が始まる最初に戻ってしまうだけ。それならば、何の意味もない。試合にも、相良がチームを抜ける事にも何一つ。ただ、余計にしこりを残してしまうだけだ。
「アンタは美香っていう街灯に集まる虫なんかじゃなかった筈だ。矜持を持った一人の人間だった筈だ。確かに、芯は捻じ曲がってしまったかもしれない。けど……」
美香という存在は余りにも眩し過ぎる。
遠くから目標と言う灯として追いかけるならいいが、近付き過ぎてしまえば信念すらも見えなくさせてしまうのだ。結局、相良もそんな人間の一人でしかなかった。
その眩しさに一人、絶望し何もかも見えなくなった。そんな一人の人間だった。
「確かにお前の言う通りかもな。周りを見ずにただ、前ばかりに目が向いているアイツの考えに勝手に着いていけないって諦めてた。限界を知った人間にソレを平然と超えろって無茶苦茶な要求をするんだぞ。世の中、アイツみたいな天才ばかりじゃないのにな……」
天才ばかりじゃない。その言葉を痛い程、美鶴は理解してしまう。
美香の事を街灯に例えた。そして、他の人間を群がる虫に。
だが、一体そこから街灯は何を見ているのか群がる虫には分からない。所詮、それを追いかける事しか出来ないからだ。
いや、追いかける事を辞めてしまった美鶴には分からないそれすらも、か。
目標としているモノが違い過ぎるのだ。そして、それを追い求める信念の熱さも。
そんな目指している。見ている世界が違うからこその擦れ違い。
秀才と凡人。天才と秀才。自分から道を造ってしまう人間と、作られた道をただひたすらに走る人間。そんな違いが二人の中にはあるのだ。どうしようもない落差が。
それに、誰しもが永遠に努力を続けられる訳はない。
人間は誰しも、どこかに諦めというものを抱いてしまう。自分自身との戦いに負けて。
絶対に超えられない。そんな風に思ってしまう程に高い壁にぶち当たり、勝手に決めつけて諦めてしまうのだ。周りから求められる結果と創り上げられた自分の実力という幻想を比べ……。
それを甘んじて受け入れていた美鶴には相良に何も言う事は出来ない。
ここから先は美香がすべき事だ。だからこそ、掴んでいた手をゆっくりと離した。
「後は薫先輩に任せますね。多分、如月先輩も協力してくれるでしょうから」
自身には聞かれたくない話もあるだろう。
そう考えた美鶴は去り際に薫にそう告げると、静かに部屋から姿を消した。
「何してるんだ。こんな所で」
いつの間にか部屋から姿を消していた那月を探して美鶴は茜色に染まる自分の教室へと顔を出すと、思った通りそこに那月はいた。
開け放たれた窓枠に腰を下ろしているが、俯いている為、那月の表情までは読み取れない。
空気が重たい。言葉が喉から出て来ない。
相良に対しては思う所があった。だが、那月に対しては分からないのだ。
強いように見える人間に限って、脆い。だからこそ、言葉が見付からない。突けば那月という人間の芯すらも叩き折ってしまいそうで何も出て来ないのだ。
そんな中、那月がゆっくりと顔を上げると少しずつ口を開き言葉を紡ぎ始める。
「アンタの事……見直した。だって、先輩達の事なんてまるで分ってなかったんだもの。何も分かっていなかったのは私だった。自分ばかりに目が行って、周りの事を気にかけられなかった」
違う。お前は十分に気をかけていた。周りの事を心配していた。自分の事を投げ打っても。
そう言いたかったのだが、美鶴の口からは言葉が出て来ない。
美鶴が相良にあそこまで言ってのけられたのは、更紗からの手紙があったからに過ぎない。
あれがなければ、あそこまで上手くまとめられなかっただろう。
結局は更紗と言う人間に上手く操られていただけなのかもしれない。
「違う。俺はお前と違って一人では何も出来ない人間だ。今回だって、他の奴らの力を借りてなんとかやってこれた。お前なんかと比べたら見えもしないゴミ屑に等しいレベルだ」
美香がいなければ、アイリスがいなければ、更紗がいなければ――
きっと、負けていた。ここまで上手く行かなかった。
いや、この舞台に立つ事もなかっただろう。
それを理解しているだけに美鶴は自分を評価する那月の言葉を真っ向から否定する。
「それがアンタの力でしょう。一人じゃ何も出来ない事を知ってるから、だから周りに力を借りる。何も間違ってないじゃない。だから、アンタは周りの事を良く理解してるんだからさ」
那月はそう呟くと長い溜息を吐いた。
窓から吹き込んで来た風が那月の黒く長い髪を靡かせる。
「それから、これだけははっきり言わせて貰うわ。高評価は素直に受け取りなさい。自分を卑下するのはいいけど、あんまりやられると負けた私が凄くバカみたいじゃない」
そう告げると、窓枠から腰を上げゆっくりと一歩ずつ美鶴へと近付いて来る。
目と鼻の先。吐息まで聞こえて来そうな距離だ。
那月の頬が茜色に染まっているのが分かる。だが、そのほんのりと朱く染まった頬が夕日の所為なのか、恥ずかしさからなのかまでは美鶴には分からない。
突然、頬に痛みが走る。
そこで初めて、美鶴は頬を抓られている事に気が付いた。
「お前、いきなり何しやがる。人が心配して言葉を選んでやってるってのに」
「さっきから、なんでアンタが通夜みたいな顔してる訳? アンタは勝ったんだからもっと、こう笑って『見たか!?』とでも、いってみなさいよ」
「俺だって、空気ぐらい読めるわ! それとも、俺が空気読めてないってか!」
「それが余計なお世話だってのよ。アンタに気を遣われる筋合いなんて全くないんだから!」
喧嘩腰で言い争いを始める二人。
だが、険悪な空気ではなく、互いに自然と笑みが漏れていた。
そして、いつしか喧嘩腰の言い争いが笑いあいに変わっていく。
「さて、私も頑張らないと。来年は先輩達もいなくなるし、私がその後を引き継いで一人で引っ張っていかないといけないから」
負けた事も、チームの事も、今年は出場できないかもしれない事すらも吹っ切れたのか、那月は大きく背伸びをするとそう宣言して見せる。
試合を始める時よりも大きなモノを背負っている筈なのに、その顔は全ての荷が下りたかのように清々しい笑顔を浮かべているように美鶴には思えてしまう程だ。
周りは最上級学年である三年ばかり。そんな中に一人、一年である那月がいたのだ。
その重責は並大抵のものではなかったのかもしれない。
美鶴にはそれがどれだけのモノだったのか推測しか出来ないが、一つだけ分かったのは那月はもう一人でも大丈夫だという事だ。この笑顔が証拠だ。
あれ程、美香に執着していた那月のあっさりとした引き際に少しばかり違和感を覚えなくもないが、それは美鶴が関与すべき問題ではない。那月自身の問題だ。
美香という存在ではなく、那月が新たに得た目標に向かって走って行けばいい。それだけの話だ。
「そっか、頑張れよ」
それが美鶴の送る事の出来る那月への最大限の励ましの言葉だった。
「当然じゃない。アンタが何を勘繰ってるのか知らないけど、私は私のやりたいようにするだけよ。もう、美香先輩を止めるつもりもないから」
那月自身、自分の実力を過信し過ぎていた。
もしも、本当の意味での実力を理解していたのなら、美鶴の技量を見誤らなかっただろう。
過大評価も過小評価もしない。そう思っていたが、気が付けば周りからの評価に後押しされ自分の実力を過大評価するようになってしまっていた。
それはいつか驕りと傲慢にもなる。そして、相良のように挫折にも……。
「美香先輩の気持ちも、相良先輩の気持ちも全部は理解出来なかった。けど、少しだけなら分かった気がする。多分、私は美香先輩みたいな人間にはなれないっていう事もね」
那月はそう言うと、ゆっくりと窓から見える校庭の風景へと視線を移動させた。
「私は秀才にはなれても、きっと天才にはなれないって分かった。結局、勉強は出来ても自分で新たな道を開拓出来るまでの力はないってことがさ」
那月の中では眩し過ぎる程に美香は天才だった。
絶対に辿り着けない場所にいる憧れの存在だった。
それは、相良にとっても同じだったのかも知れないと那月はどこかで思っていた。
絶対に辿り着けないからこそ、美香の言葉の真意を理解出来ない。
那月自身、一歩間違えばその眩しさに自分の根源すら見失っていたかもしれないのだ。
「だからさ、私の事は気にしなくても大丈夫だから」
「分かったよ。確かに、なんかお前の心配なんかするよりも俺自身の心配した方が良さそうだ。なんか、体中に違和感がありまくるからな。上手く、動かせなみたいな」
先程から、美鶴の身体はまるで自分の身体ではないかのような不気味な違和感を訴えていた。身体の節々が上手く動かせないのだ。まるで自分の身体ではないかのように……。
確かに一つ一つは微々たるもので取るに足らない。だが、全体を見るとそれは結構な量となり、大きな違和感となってしまうのだ。
そんな美鶴に対して那月は呆れ果てると、ジト目で美鶴を睨み付ける。
「当然でしょう。そんなだから、美香先輩はアンタの事を心配するのよ。あのね! いくら、安全装置を付けてるとは言え、凄い勢いでコンクリートの壁と衝突してるのよ。現実なら、死んでもおかしくないんだからね。その事、本当に分かってるわけ」
普通なら、死んでいるか体中の骨が複雑骨折したあげく、全身血塗れになっているだろう。
それだけの事を仮想空間内でしたのならば、精神も何らかの影響を受けている。現実の身体がこの程度で済んだ事にむしろ、喜んでもいいぐらいだ。
「だから、今日くらいは美香先輩に心配させてあげなさい。アンタ、美香先輩にいつも冷たいんだからさ。ほら、行った行った! 善は急げっていうでしょう」
そう言うと、那月は美鶴を教室から追い出してしまう。
だが、まだ言いたい事が色々とあった美鶴は再び、扉を開こうとするが手を止める。
聞こえてきたからだ。那月の泣き声が……。
きっと、自身には聞かれたくないだろう。そう考えた美鶴は、静かにその場を離れると美香達の話が終わるのを待って帰宅するのだった。
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