第18話
「あのバカ……何考えてるのよ」
那月は一階から聞こえてきた大きな音に大急ぎで階段を降りると、社会科資料室の窓から身を乗り出して何があったのかを確認する。
地面に落ちたロープ。その先には一階には大きく割れた窓ガラス。
ロープを用いて突入。そのまま、壁に激突したとすればどれだけの衝撃を受けたか想像に難い。いくら、安全装置が付いているとは言えそんな行動は無謀以外の何物でもない。
だからこそ、那月は平気でそんな事をして見せる美鶴に苛立ちを隠せなかった。
だが、今はそんな感情を抱いても仕方ない。
更紗は那月の意識を逸らす為に少しだけ考え込むと、話題を逸らした。
『一階に向かったって事はどういう事かしら? 図書室の書庫になら、学校史は保管されている筈よね? まさか、別の物だったとか?』
更紗の言葉が那月の中で何かに引っかかった。
あの美鶴がそんな見落としを果たしてするだろうか? いや、自身の知っている白浜美鶴という人間ならばそのようなミスを犯す筈がないという確信が那月にはあった。
ただ、問題は何の為に一階を目指しているのかという事だ。
一階を目指す理由は答えがそこにあるからなのだろうが、何が答えなのか見当もつかない。
「一階にあるもの……。これまでの美鶴の行動と照らし合わて見えて来るのは」
そこまで呟いた時、美鶴が鍵を隠していた事を思い出した。
もしも、あの鍵が何を持っているのかを確認させない為だったとするならば、図書室の他にも鍵を隠し持っていたとしてもおかしくはない。
しかし、あの時点で答えを判断していたとも考え辛い。ならば、一体何なのか。
那月はそう考えながら、何気なしに廊下を見回した。
そして、あるモノに目が留まった。これ以外には考えられない。
「なるほど。確かに、これならアイツが知っていてもおかしくはない訳か」
目が留まったのはコルク材で出来た掲示板。
現実ではスクリーンセイバーのように画面が変わっていく電子モニターとは違い、紙の掲示物が幾つも貼り出されている。那月はその中のプリントを一枚、手に取った。
新聞部が作ったと思われる学校新聞。しかも、カラーの写真付きの新聞だ。
いつも新聞部の三浦とつるんでいる美鶴がこの事を知っていたとすれば、行動がすべて繋がる。
「如月先輩。分かりました。鍵の答えは学校新聞――新聞部です」
卒業アルバムに生徒が写っていない。そして、よく考えれば学校史も社会科資料室が移動したときの写真ではないかと考えていたが部屋の様子が写っていなかった事がおかしかった。
そこまで考えて美鶴が出した答えがこの学校に古くからある新聞部なのだろう。
だが、この仮想空間でも現実と同じ部室とは限らない。どこに部室があるのか確かめなければならない筈だ。ならば何故、何の迷いもなく移動出来たのだろうか。
しかし、美鶴は既に一階にいる。あまり猶予はない。
「どういう事? なんで、一階と判断した訳?」
一階と断定するには学校の教室を確かめなければならない筈。何か、確信がなければあのような無茶な行動に出るとは考え辛い。なら、一体どこで教室を確かめたのか。
考えても全く答えが出て来ない。そんな那月に対し、更紗はこう助言する。
『そう言えば、美鶴君は職員室に隠れていたのよね?』
更紗の言葉に那月の中で全てが繋がっていく。
見落としていた訳ではない。那月達は根本的な勘違いをしていたのだ。それに気が付いてしまえば、何でもないような事でしかなかった。
「なるほど。職員室で鍵を調べればいいだけか。新聞部が専用の個室を与えられていたとすれば、それで全てが説明される。――やってくれるじゃない」
職員室に美鶴がいたという事ばかりに目が行き、何をしていたのかまで目が届いていなかった。侮らないようにしていても、どこかで気を抜いていたのだ。
本来ならば、そこまで事を推測し、動かなければならなかっただけに完全に那月のミスだ。試合である以上、油断など許される筈はない。現実はそこまで甘くはないのだ。
大会に出場する以上、どんな人間が出て来てもおかしくはない。
もしも、これが大会の一回戦なら何度も勝てるチャンスを逃している事になる。
自身に求められていたのは冷静に相手の動きを予測し、先手を打ちつつ勝利へ一直線に向かう事。それを完全に怠ってしまっていた。那月はその事に関して自己嫌悪に陥ってしまう。
そんな那月に対し、更紗は優しく声をかけるのだった。
『那月ちゃん一人が背負う責任じゃないから安心して? 今回はたまたま美香達の方が旨い具合に歯車が噛み合っていただけの話よ。それに、楽しむ事を忘れたら辛いだけじゃない? そんなに一年の貴方が肩肘張る必要はないの。もっと、試合を楽しみなさい』
更紗の言葉に那月はどこか救われた気がした。
チーム戦で一人のミスが致命的になる事は確かにある。だが、それを互いに助け合うのもまた、チーム戦の醍醐味であり、在り方なのだ。
その事に気が付かされた那月は大急ぎで一階目指し、階段を駆け下りる。
『ちょっと、新聞部室がこの仮想世界でどこにあるか知ってるの!?』
急に走り出した那月の様子に更紗はその事だけが気がかりだった。
闇雲に走った所で答えに辿り着ける可能性は低い。それならば、手堅く職員室に向かうのも手だからだ。しかし、那月は更紗がそれを奨めるのを遮る形でこう叫んだ。
「時間がないんです。恐らく、美鶴は鍵を持っている筈。入られる前に直接対決に持ち込まないと、私達の負けになるんですから!」
確かに那月の言っている事に間違いはない。それ以外にこの難局を乗り切る方法がないだろう。
完全に裏をかかれてしまっている以上、それなりの代償を支払わなければならない。
更紗も那月の覚悟に深く頷いた。
『分かった。貴方の言う事にも一理ある。――自由にしなさい。後の事はこっちでどうにかしてあげるから、全部あなたに任せるわ』
「如月先輩……それって、もしかして」
那月は更紗の言葉に嫌な予感が過ぎる。これだけ、出場メンバー内で揉めているのだ。そこから、更紗までいなくなってしまえば本当の意味で収拾が付かなくなる。
そう考えた那月は何かを伝えようとするが、更紗はそれを遮った。
『そこから先は言わない。必要ないでしょう? 私は先輩としての務めを果たすだけ。貴方は勝つのが仕事。それだけの事じゃない。貴方が気に止む事じゃないわ。』
求められている事は勝利。だが、那月の中でその言葉に違和感を覚えた。
そんなに単純な話なのだろうか? 勝った先で何か大切なものを失うのではないだろうか?
もしも、誰かが傷付いてしまうのならばその勝利に何の意味があるのだろうか。
「本当にこの勝負、勝ちに行ってもいいんでしょうか? 如月先輩も、相良先輩も、白浜先輩も」
那月の口から洩れた言葉に更紗は何の返答も出来ない。
それは個人的価値観によるものだからだ。出来るとすれば、助言程度。それが限界だ。
しかし、更紗はそんな中で誤魔化す事を選んだ。それがどんなに狡い事かは理解している。それでも、今の那月には目の前の勝負だけに集中して欲しいという気持ちが働いたのだ。
『私には分からない。貴方は貴方の思うようにすればいいと思う。例え、私が那月ちゃんに答えを提示したとしても、それは私の答えでしかないの。それに従っても何の意味もないでしょう? けど、一つだけ言えるのは、誰かの為に勝ちを譲ろうなんて思ってるなら――止めておきなさい』
勝ちを譲るのは相手に対する冒涜だという事は那月も分かっている。
ただ、他人の人生を壊してまで先に進むだけの覚悟が那月には出来ていなかったのだ。
もしかしたら、美香がはなれていったのは頼り過ぎていたからかも知れない。そんな気持ちが那月の中で過ぎり始める。どこか、寄り掛かる事で安心していたのかも知れない。
美香に手を引かれ、提示された道が那月の中で答えとなった。道となった。目標となった。
だが、それは元々、那月の持っていた答えではない。道でも、目標でもない。美香から借り受けたに過ぎない空っぽな物だったのかも知れない。
そんな那月に対し、更紗は優しい声色でこう助言する。
『確かに、これはあなた一人の独奏曲じゃない。私達で作り上げる交響曲のようなものよ。でも、凝り固まった音楽なんて聞いてて面白みがないでしょう?』
その言葉に私の喉に突っかかっていた何かが撮れた気がした。
美香が私達に求めていたのは、気が付いて欲しかったのは『自分自身の答え、自分の言葉』だったのかもしれない。もしかしたら、それに更紗は気付いていたのかも。
直接、那月自身が本人に聞いたわけではないので実際は分からない。本当に更紗が美香の想いを知っており、同じことを考えているかは分からない。
だが、そんな気がした。
そして、その真意が聞けるのは試合が終わった後。それまで、確かめる術はないのだ。
ならば、行動で示す以外にそれを美香に伝える事は那月には出来ない。
「私が何をしたいのか、はっきりとはまだ分かりません。……やっぱり、こういうのはそう簡単には答えが見つかりそうにはありませんから……」
すぐには答えが見つかりそうにはない。どうしていいかも分からない。
色々な事が那月の頭の中で交差し、混じり合う。一体、何が問題なのか。それすらも分からなくなる。いつの間にか、止まってしまった足は凍り付いたかのように前へと踏み出す事が出来ない。
『そんなに迷う必要はないわよ。必死に何かにくらいついて行けば、気が付くと見えているモノだから。貴方だって、ここにいるのは自身の努力の結果である事は変わりない事を忘れてないかしら? それに、言葉にしないけど相良も貴方の事を認めてる』
必死で取り組んだ結果として、チームのメンバーに那月は選ばれた。
それだけは変える事の出来ない事実だ。もしも、那月が取り組んでこなければ美香の目に止まる事もなかった。それは胸を張って、誇ってもいい事でもある。
その更紗の言葉に那月は思い出した。
自分が何故、あんなに必死に取り組んで来たのかを――。
ただ、好きだったのだ。ひたすらに、ただそんな純粋な感情だった。
凝り固まった世界の中で生きる那月には新しい情報世界と言う道の世界がとても輝いて見えて、そこに自分もいく事が出来れば何かが変われると思ったのだ。
だからこそ、自分の意志でこの道へと足を踏み入れた。
確かに美香に那月は憧れている。それは紛れもない事実だ。
けれど、原点の風景のどこにも美香はいない。
数字と文字。いや、0と1だけで作る自分だけの世界。たったそれだけの事だったのだ。
しかし、那月にとってはとても大事な事。他人から見ればちっぽけで取るに足らない単純な事かも知れないが、それがとても輝いて見えた。ただ、それだけの事なのだ。
「そう、ですよね。最初から何一つ変わってないのに。気付けば、目の前が曇って見えなくなっていたみたいです。でも、今ならハッキリと見えます。眩しいぐらいにはっきりと。だからこそ、美香先輩に私の答えを見せ付けてみせる」
熱のこもった那月の言葉に更紗は嬉しげに微笑むと深く頷いた。
きっと、美香が求めていたのはこういう前への原動力なのだろう。確かに、それは相良達からは失われつつある力だと更紗は思わず、納得してしまった。
自分の決めてしまった壁に阻まれて、動けなくなっている相良はそれに抗おうとする姿を示せなかった。似たような事を考えているだが、根底の部分ですれ違っているのだ。
その事に互いに面倒な場所に建っていると思うと更紗は自然と苦笑いを浮かべてしまう。
『頑張りなさい。貴方を見出した美香の為にも、貴方が貴方である為にも。ただ、一つだけ言っておくわ。勝負には拘っても、勝敗には拘らないで』
那月は更紗の言葉に静かに頷くと、辞書を力強く握りしめた。そして、一階。――美鶴が待ち受けているであろう新聞部室前へと決着を着ける為に急ぐのだった。
「もう、いいや。彼方君、後は二人に任せましょう?」
美香は手を止めると、勝負は諦めたかのように大きく背伸びをする。
せっかく用意していた罠すらも無駄になってしまうだけに彼方はすぐには納得する事が出来なかった。いや、真意が理解出来なかったというのが正しいのかもしれない。
「いいですか? ここまで来たんですよ? 負けを認めても」
美鶴と那月を比べてもお世辞でも勝負になるとは言い難い。それば、彼方の本心だった。
確かに、もしかしたらという希望的観測は持ってはいる。しかし、それは色々な偶然が重なりあう事と、美香や自信が協力し合った場合の推測でしかない。
ここで手を引いた場合、確実に美鶴と那月の直接対決が起こる。そうなれば、手出しが出来ない以上勝ち目がないとしか彼方には思えてならないのだ。
だからこそ、美香のリラックスした様子を理解出来ないのだが、そんな彼方に対して何でもないように美香はにっこりと微笑んでみせる。
「あとは、美鶴一人に任せて大丈夫だと思うの。あの子はやると言った時は必ず、やる子だから。私達がする事は相良達に二人の勝負の邪魔立てをしないようにする事くらいでさ」
美香としてはここまで来たのだから、勝ち負けに拘る意味合いを失っていたのだった。
ここまで善戦された以上、方針は見直されるだろう。確かに、美香自身がチームに戻る事にはなるが、それはもう大した意味合いはない。目的は果たされたようなものだ。
だが、勝負を諦めたわけではない。
あとは美鶴一人に任せてしまっても大丈夫。何の問題もないと美香が信じているだけだ。
「それなら、俺はそれでいいですけど……いいんですか?」
彼方としてはこの試合の中心にいる美香がそれを認めている以上、口を出す理由もない。
ただ、犬にプライドを食わせたような彼方でも、ここまで善戦して来た状況で美鶴に全てを託すような賭けに出る事は少しばかり抵抗があるのもまた事実だった。
作成したプログラムを試合途中で破棄をする。
試合が続けば、普通に起こり得る事ではある。それに関しては彼方も納得の上だ。だが、勝負を委ねて負けた場合、それをどうするのかに関しては話が違う。
「なら、負けた時はどうするんですか? 白浜が一人で責任を負う事になるんですよ? それでもいいのなら、俺は何も言いませんが……」
ここで手を引いて負けた場合、世間の目はどうなるだろうか。
いや、美香が負けた場合も同じだ。そうなった際に一番、風当たりが強いのは美香ではなく、美鶴である事は間違いない。そうなる事をこの中で一番、気にかけていたのは美香だった筈だ。
だからこそ、何を考えているのか彼方には到底理解出来なかった。
そんな彼方の様子に美香はモニターを見詰め、何か作業を開始しながらこう呟くのだった。
「大丈夫。その事に関しては手を打つつもりだし、美鶴は大丈夫って信じてるから。私の自慢の弟はきっと、勝ってくれるわ。絶対にね。だから、貴方は罠の解体をお願い」
罠を作るより、ただ罠を解体するという行為は数百倍も楽な作業である以上、断る理由はない。だが、彼方には美香の言葉に聞き捨てならない事があった。
手を打つという事だ。この状況で、試合中に出来る事は限られる。
その中で一体、美香が何をしようとしているのか全く、見えてこないのだ。
だからこそ、彼方は思わず美香に何を企んでいるのか聞き返してしまう。
「美香先輩がどれ程、自分の弟を溺愛しているかは分かりましたから。――けれど、それと手を打つって言うのは別でしょう? 一応、何を企んでいるのか教えて頂けませんか? 巻き添えを食うのなら、知っておいた方が色々と手の打ちようがありますから」
美香が何かしでかそうとしているのならば、他のメンバーに影響が出てもおかしくはない。だからこそ、彼方は美香の単独行動に対して苦言を呈する。
それに加えて、美鶴の事に関しても納得した訳ではない。信じている程度でどうにかなるのならば、誰も苦労はしないからだ。彼方にとってそれは過去の自分に対する言葉でもある。
もう、どうする事も出来ない。帰る事すら出来ないような後悔と懺悔だけが残留する過去。
その事を暗に察した美香は静かに首を横に振った。
「日下部君に何があったのか私は知らない。同じように私と美鶴の関係を貴方は知らないでしょう? ただ、それだけよ。それにたとえ負けたとしても、最終的に勝てば問題ないでしょう?」
――負けて勝つ。その言葉に彼方は嫌な予感が頭に過ぎった。
もしも、評価と言う話になれば経験も加味される。完全なる奥の手だ。
その事に気が付いた彼方は美香に対して何かを言おうとするが、それよりも先に監督役の高倉に通信を繋いだ。そうなってしまえば、止めようがない。
「高倉先生、学校に所属する全生徒への今回の試合映像公開を進言します」
確かに試合映像は後々の考察などの為に記録されている。だが、それはあくまでも実力を磨く意味で録画された映像だ。学校で公開する為に残されている訳ではない。
そもそも、いまだに試験運用段階なのだ。部外秘扱いされているだけに美香の進言は常軌を逸脱している提案でしかない。その事を理解している高倉は当然、それを却下しようとする。
その様子に彼方は呆れていると、美香は高倉が口を開くよりも先に先手を打つのだった。
「試合終了後に私達が敗北をした場合、この中で最も傷を負うのは美鶴。――白浜美鶴である筈です。ですが公開された場合、ソレは避けられる筈です」
『美香、言いたい事は理解出来る。しかし、それはあまりにも規約を逸脱しているぞ』
高倉とて、美香の言い分を理解出来ない訳ではない。
今でも色々と問題を抱えている美鶴だが、学内でも羨望の中心にいる白浜美香の足を引っ張ったともなれば風当たりが強くなるのは必至だ。
しかし、これまでの戦局の流れを直に見た高倉からすれば、見事と言わんばかりに善戦しているのだ。この試合を見て、それでもバカにする人間がいるのかと思える程に……。
「そうですか――でも、それでは納得出来ません」
高倉も美香一人以外は寄せ集めのチームであるという前提を理解している。その事が分かっただけでも、まず美香にとっては第一歩。ならば、もう一歩踏み込んでいくだけだ。
「私には姉として、弟を――美鶴を守る義務があります。巻き込んでしまった以上、どんな手を使っても酷い目にあわす訳にはいかないんです」
美香の言葉に高倉は深い溜息を吐いた。
『お前、ブラコンが過ぎるのは前々から分かっていたが、あまりに度が過ぎるのは笑えないぞ……。それにそんな事をして、お前が出場停止処分になる所の話じゃないぞ』
「なら、先生方に判断を委ねると言うのはどうでしょう? それなら!」
『今回の試合でお前の言っている事も考慮しなければならないという事は分かった。チームワーク、判断力、個々の能力値。それらの互いへの干渉、多くの見直す要素と課題が見えたからな』
だが、それでは美香にとっては意味がない。
あの教頭の事だ。握り潰してくる可能性も十分に考えられる。だからこそ、外部の動きを先に創ってしまい牽制するという意味合いもあったのだが……。
目の前には真っ暗なモニターがただ開いているだけだ。
美香の懸命虚しく、どうする事も出来なかった。手札を打居ない、頭を項垂れている美香に対し彼方は思わずに言葉を失ってしまう。
最初から、こうなる事はある程度、予測出来ていた筈だ。何故なら、それを行った場合、機密漏えいなど色々と問題があるからだ。彼方からすれば当然の結果だった。
「手っ取り早いのは公開。でも、学校側のリスクが大き過ぎる。なら、映像を用いずに勝負に勝って条件をクリアする以外に相良先輩達を認めさせる手段はないでしょうね」
認めさせる。そうすれば、映像がなくとも十分に話し合いで事を終わらせられるからだ。
ただ、認めてくれたのならばの話だが……。
「それはそうだけど……そう上手く行くとは思えないのよね。私が危惧してるのは勝った場合でもそれを証明するモノがないって事。手札がこちらには何もないから……」
美鶴が勝つと信じていない訳ではない。だが、最悪の事態を想定して美鶴の為に動いておきたい。対処しておきたいというのが美香の想いなのだ。
噂段階で勝負の話は流れていた。ならば、こちらが勝ったとしても先に先手を打たれたら覆しようがないのだ。相良はそこまでやらないと美香も思っているが、学校側は分からない。
そうなれば、例え数人が美鶴を認めていたとしても意味はない。
世間が認めなければ、風当たりは強くなるだけだからだ。美鶴が目立つのを嫌う事を知っているだけに出来る限り、そのような事態だけには美香としてもしたくはない。
だが、既にどうしようもない状況に美香も深く溜息を吐いていると、彼方が一つのモニターを美香へと提示する。そこには何かをダウンロードしている様子が映されていた。
タイトルは無題だが、情報体としては映像。しかも、容量も相当大きい。
その事に何やら、嫌な予感を抱きながら恐る恐る、美香はこれが何なのかを確認する。
「このデータは一体、何? もしかして、今回の試合の映像データとか言わないわよね?」
「さぁ? 俺は拾ったデータをダウンロードしているだけですよ。最初はこんな事するつもりはなかったですけど、美香先輩の気持ちも分からなくはないですから……。それに、保存場所さえ分かっていれば、こんな程度なら片手間でどうとでもなりますからね」
彼方は高倉と美香が通信中の間にその通信経路を利用して高倉のPDAに探索をかけ、そこからデータの複製、転送するプログラムを仕込んでおいたのだ。
確かにその程度ならば、美香でも不可能ではない。だが、先程も高倉が言ったように今後の学校生活どころか将来性に支障を来たすほどのリスクがあるのだ。
美香ならば、これまでの評価を踏まえると少しばかり傷を付ける程度で、将来を棒に振るとまではいかないだろう。だが、暗雲を漂わせるのは確実。
ただ、それは美香が特別な状況下にいる人間だからこその話だ。本来ならば、もっと重罪になり、最悪の場合、多額の罰金や人生の時間を刑務所で過ごす事にもなりかねない。
確かに彼方は美香の目から見ても優秀だ。それは短時間で仕掛けを施した事からも分かる。
だが、何らかの結果を有している訳ではないのだ。一つも結果を残していないのならば、学校側としても何ら処置を取ってくれるような事はないだろう。
旨みが彼方には無いのだ。だからこそ、擁護する意味合いも薄い。
「言いたい事は分かってますよ」
「なら、今すぐ破棄した方がいい。私も見なかった事にするから……」
美香としては自身が切られたとしてもどうにかなるという確信があったからこそ、実行に移そうとしたのだ。まさか、彼方がこんな行動に出ようとは思いもしなかった。
だからこそ、彼方に考え直すように説得を試みるのだが、彼方は首を縦に振らない。
それどころか、決心したような顔でこう宣言するのだった。
「別に後悔とかそんなのはありませんよ。ただ、誰かが代わりに背負える事で誰かが傷付いて行く姿を見ているのは御免なんですよ。――それに、美香先輩が傷付くよりも俺が傷付いた方が世間的にはいいでしょうしね」
まるで、当然の事を下までと言わんばかりに言い切る彼方に初めて、自分と同じようにいびつさを抱えた人間である事を感じ取る。だが、同族でしかない美香にはそれを止める資格がない。
ただ、一つ理解した。彼方という人間は酷く甘い人間であるという事だ。いや、優し過ぎると言うべきかもしれない。だからこそ、傷付きやすいとも言える。壊れやすいとも……。
「そんな事をやらせるような流れにした私がこんな事を言っていいのか分からないけど、いつか人生のすべてを棒に振る事になるわよ?」
優し過ぎれば、何もかもを失うハメになる。背負うハメになる。
いつかはその重責に耐えられなくなる。そして、自身の優しさが綿で首を絞めるかのようにゆっくり、じわじわと自分を追い込み、自滅するのだ。
本当にバカげていると感じなくもないが、美香には笑えなかった。
「過ぎた事は仕方ないでしょう? それに、美香先輩にはこれからもがんばって欲しいんです。アイツに似てますから……この程度なら何でもありませんよ」
何でもない筈がない。そんな言葉で終わるような話ではない筈だ。
だが、口から洩れたのは酷く安っぽい言葉でしかなかった。
「本当にもう一度だけ確認するけど、本当にいいのね?」
「構いませんよ。美香先輩にはアイツみたいになって欲しくはありませんから。だから、俺に美香先輩を救うチャンスを下さい。もう、後悔だけはしたくないんです」
失ったモノ、過ぎ去った時間は決して戻る事はない。後悔先に立たず、世の中は何が起こるかわからない。正しい選択など未来が見えないのだから出来る筈もない。
だが、同じ過ちを何度も繰り返す事だけは避ける事は出来る。
例え、正しい選択肢ではなくとも、選択した事に後悔しなければそれでいい。
選択してしまった事。いや、選択を拒絶して後悔するよりはずっとマシだと彼方は考えていた。
何も選ばず、あの手を掴んでいたのならば。……そんな思いがあるだけに。
「そう……。なら、もう私は何も言わないわ。後は二人に任せましょうか。罠の解除くらいなら私一人、片手間でも出来るし休んでもいいわよ?」
これ以上、迷惑をかけない。そういう思いからの美香の言葉だった。
彼方も美香と道場に大切な何かをどこかで失くしてしまい、今もそれを探し続けているのだ。絶対に手が届かない。見つかる筈もないと頭では理解しながら……。
けれども、それを頭で理解していても探す事を止められないのが人というものなのだ。
「最後まで付き合いますよ。俺はこの試合に参加したんですから」
彼方は美香にそう告げると、どこか遠い場所を見詰めながら小さく何かを呟くのだった。
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