第16話

「弟君、今……。何をしたの?」

 鎖を消滅させた訳ではない。まだ、存在し続けているのだ。

 要はデータを改竄したという事になる。しかし、それはとても美鶴のレベルで出来る事ではないのだ。それだけに薫も驚かずにはいられなかった。

 そんな薫を余所に、美鶴は深く息を吸い込むと頬を叩いて気合を入れ直す。

『なんでもないですよ。ただ、俺だって何の切り札もなしに博打は打たないだけです』

 抜け出した事などまるで簡単と言わんばかりに映像の美鶴は首を回しながら、引き千切られた鎖を懐へと納める。そして、机の上に投げ捨てられた鍵を確かめ始めた。

 その様子に薫は自分がいない方が美鶴にとって動きやすいのではないかとどこかで感じてしまい、気が付けば通信を遮断してしまっていた。

「もしかして、私が弟君の足。引っ張っていたりしてるのかな……」

 彼方も美香も必死に相手を抑えている。しかし、薫だけがオペレーターの役割を完全に果たせないどころか、那月の接近に気が付けず接触を許してしまったのだ。

 読み違いでは片付けられないだけに、薫のショックは大きい。

 そんな薫の様子を通信越しに見ていた彼方は作業の手を止めると、大きく背伸びをする。

「そう落ち込む事はないと思いますよ。いきなりの本番。いつもと、視点が違い過ぎてるんですから調整が追い付かないので普通な筈です。特に行う作業が薫先輩と白浜の行動とで根本的な部分で概念がまったく違うんですから」

 確かに、彼方も薫の実力不足の点がある事は理解している。けれども、それは薫の素質がそれに足らないという意味ではない。それ程までに仕事の難易度が高いだけだ。

 役割の中で最も難しいと言っても過言ではない。

 何故なら、没入者へのプログラミング要素での助言。相手の行動予測。今後の行動方針の決定など、必要とされる技能は多岐に渡る。そんなモノを一朝一夕で身に着けるのは不可能なのだ。

 ただ、一つ言えるのは行動予測と行動方針の決定に関しては上手く回せているという事。

 問題として挙げるとすれば、一人称視点であるFPVとリアルタイムで行動するRTSという全く別の要素の処理を同時に行う事に苦戦しているという事だろう。

 それは両手で全く違う意味合いの作業を同時に行っている事に他ならない。だが、物事を単純化し、効率的な考えを行う事は重要な点を誤認してしまいかねない為、難しい。

 彼方には不可能な芸当。だからこそ、そこまで薫が気に止む必要性を彼方は感じられなかった。

「ゲームで例えるなら、白浜は現実と変わらない視点で任意行動を行うFPVというジャンル。薫先輩はリアルタイムで戦略の応酬をするRTSというジャンルなんです」

 そう言うと、彼方は薫先輩の様子を確認しつつ、眼鏡をそっと直して見せる。

「ただし前者はレーダーの類が存在しなくマップの全容はオペレーターに任せるしかない。そして後者はメインとなるコマが場合によっては命令無視して自分勝手に動き回る上、戦術の要となる武器すらも俺達の技量によって左右される」

 彼方はそう言い終わると、一拍おきこう続けた。

「いきなりは誰にだって出来ませんよ」

 彼方の中では推測でしかないが、相手側のオペレーターも完全に仕事をこなせていないと考えていた。いや、本職は別と言った方が正しいかもしれない。

 プログラムの知識だけではなく、全体を統括的に眺め、的確に指示を飛ばす技量。例えるならば、運動部の司令塔などが近い筈だ。

 確かにこれまでの大会の団体戦でも必要とされたのかも知れない。だが、異なるモノと言う点では絶対にこれまで必要とされていたモノとは別物だと断言出来る。

 そんな中で、薫は何とか熟そうとして来たのだ。それは、並大抵の集中力ではまず、不可能。彼方からしてみれば、十分過ぎる働きをしているように思えるほどに……。

 だが、薫には彼方の言葉は届かない。

「でも、この中で足を引っ張ってるのが私だって思うと……」

「先輩が先輩を信じなくて、誰が信じるんだよ。それとも、俺が薫先輩を信じるって言えば、信じられるんですか? それとも、あの時の言葉は嘘だったんですか」

 彼方の言葉に薫は何も言い返す事が出来ない。いや、返す言葉が見付からないのだろう。

 美鶴も自分の役割を必死でやり遂げようとしている。ならば、今ここで薫が諦める資格など先輩として、誘った人間として存在する筈がない。

 最後まで、自分のすべき事を全うするのがここに立った者としての義務というものだろう。

 薫はそっと、目の周りを拭うといきなり立ち上がり、大声で叫んだ。

 そして、叫び終わるとゆっくりと重力に任せて椅子に座り、にっこりと彼方に微笑んでみせる。

「はぁ、すっきりした。少し、弱気になっていたみたい。けど、もう大丈夫。――私は私に与えられたすべき事をする。やり遂げてみせるから。――だから。さ、彼方も昔みたいに……」

 薫の雄叫びに彼方は苦笑いを浮かべるモノの吹っ切れた様子にほっと胸を撫で下ろす。

 だが、まだ試合自体が終わった訳ではない。気を抜くような余裕はない。まだまだ、佳境。

 時間を確認すると、そろそろプログラム容量制限が段階的に解除される時間だ。

 つまり、ここから先は更に攻防が激しくなる。勝負の行く末を決める天王山と言っても過言ではない。

 勝負を賭けるのは一瞬。かけられるのも一瞬。

 それを判断する事が出来るのはオペレーターである薫だけなのだ。

「何の事を言っているのか分かりませんけど?」

 彼方はそうはぐらかすと目の前の画面と対峙する。

 これまでは適当な罠を張りながら後半に使用する罠の備蓄を続けていたからだ。

 しかし、解放されると同時に使用するつもりはない。仕掛ける為に効果的な場所、他の罠との組み合わせを調整して最大限の効果を発揮してくれる場面で使う。

 そう考えると彼方は思わず深い溜息を吐いてしまった。

 完全に薫に乗せられてしまっているからだ。しかも、薫はどこか嬉しそうに彼方を見つめている。

「安心した。今回、どんなに誘っても彼方は断るって思ってたから……。でも、ようやく吹っ切れたんだね。お姉さんの事……」

 吹っ切れてなどいない。プログラム、ネットワークと言う存在が嫌いだという思いは決して彼方の中から消え去った訳ではない。いや、より深くなったと言える。

 けれども、そんな中で愉しむという気持ちを思い出し始めたというのもまた、事実だった。

「違いますよ。勘違いしないで下さい。俺は今でも憎いですから」

 彼方はまるで仮面を被ったかのように表情の無い顔でそう薫に告げると、これまでのペースがお遊びだったかの如く、罠を作製する速度を上げていく。

 その怒涛の勢いに何も言わず、ただ横で二人の会話を聞いていた美香は驚愕するような素振りを見せながらも、彼方に一言こう忠告するのだった。

「あんまり張り切り過ぎて私の使う容量も食い尽くさないでよ。私の方でも色々と作って配置しているんだから」

 これまで、罠を作る事よりも相良達の作成した罠の解体に力を注いでいた為、目立った活躍は見せていないがこれまでも十全すぎるほど裏方として動いている。

 確かに、相良達の罠を解体する片手間で作成している為、那月の移動速度を減退させる程度の簡単な罠を張るに留まってしまっていた。

 美香の誇る技能を最大限に活かす形での作戦。相手に癖を知られ切っているからこそ、彼方に頼る形になってはいるが、美香も何もしていなかった訳ではない。

 その言葉の意味を汲み取った彼方は完成させた罠の一部を破棄し、容量に余裕を作る。

「分かってますよ。向こうだってバカじゃない。そろそろ、こっちが二人とも手を抜いている事がばれる頃だろうし、俺のやり口も見透かされてる頃合いでしょうからね」

 癖を見抜ければ、そこから大体の推測が出来てしまう。それを逆利用するという手もあるにはあるのだが、随分と離れていた彼方にそこまでの技量。今はない。

 ここから先は彼方と美香の連携が重要になる。

 そう思った時、ふと前々から気になっていた事を彼方は美香に尋ねた。

「そう言えば、何で美香先輩は白浜をメンバーへ推薦したんですか? 先輩はそんな博打を打つよりも確実性を重要視する人間の筈だ。さっきの場面もまるで動揺しなかったですし……」

 だが、彼方の言葉に美香は一切返答しない。それどころか眉一つ、動かす事がなかった。


「ようやく、戻って来ましたか。薫先輩」

 薫との通信が再び繋がった事を確認すると、読んでいた本を途中で閉じて戸棚へと戻す。

『ごめん。ところで、卒業アルバム読んでいたみたいだけど何か分かった?』

 読んでいたのは卒業アルバム。だが、これと言って収穫はなかった。

 それだけに聞かれたところで答えることがない。ただ、はっきりと分かったのは答えが卒業アルバムではないという事だ。それだけは確信を持って断言出来る。

 そうなると、問題は社会科資料室からの風景から何が判断出来るのかという事だ。

「分からない事が分かりました。流石に、卒業アルバムが答えって言うのはないですよね。だって、どの写真にも必ず生徒が写ってるんですもん。良く考えてみれば、生徒が写ってない風景写真なんてモノが乗っている筈なんてある訳がないですよ」

 写真と言う点から卒業アルバムが気になり、調べていたのだ。その事に気が付いた薫は少し考え込むと写真を開き、別視点でその写真を確認する。

『なるほど。弟君、意外といい線いってるんじゃないかな?』

 確かにヒントとなるのは写真。既に推論でその写真は過去の写真であるという結論を出している。――つまり、考えられる可能性として卒業アルバムはあながち間違いではない。

 問題は卒業アルバムが人物を写しているという事だ。ならば、学校の歴史が記された物。例をあげるとすれば、学校史などがあげられるだろう。

 写真と現実を見比べた際に見えて来るモノがあるとすれば、時代の誤差。そこで、薫はある事に気が付いた。この写真のモデルがいつなのかを割り出す方法を――。

『確かに特徴的なビルではなく、平均的な鉄筋コンクリートだから判別は難しそうだけど、写っている年代別に並べてそこから有り得ない候補を除けば……。あっ、これだと確定は無理なのか』

 いくつかの可能性には絞り込めたものの、建物があるパターンとないパターンは撮影の方向でも数パターン出来てしまう為、一歩手前で足踏みをしてしまう。

 だが、お蔭で薫は今回の答えに確信を持った。

「やっぱり、確定するには景色からの確認が必要って事ですか?」

 それが意味をするのは那月と再び、相対するという事だ。しかし、それは薫としても美鶴としても出来れば避けて通りたい道なのだ。

 特にあの那月のデバイスの能力上の欠点を美鶴は発見したものの、何度も突けるようなレベルではない。言うならば、針に糸を通すような念密な計算を行ってようやく成り立つようなものだ。

 しかも、相手は那月。一度でも失敗すれば即座に対応する。そして、二度目はない。

 情報を手に入れる事。那月との戦闘を回避する事。

 この二つを天秤にかけ、どちらかを選択する。いや、どちらも達成できる必要十分条件を探す。

 だが、なかなかうまい答えが見付からない。そんな中、薫がこんな事を美鶴に尋ねた。

『弟君、高い所って得意だったりする?』

「いや、別にそんな事はありませんけど? いきなりって、あぁ、そう言う事ですか」

 社会科資料室に入る事無く、景色を確かめる方法。

 それを美鶴の手の中にある道具のみで可能とする。確かに、危険だが他に手段はない。

 社会科資料室よりも上の階から同じ高さまで移動し、そこから景色を確認する。無茶苦茶な方法ではあるものの、これならば那月達の予想の外を突けるだろう。

 しかし、問題はある。もしも、景色がその窓からの風景を見た場合のみ変わる場合だ。いや、それだけではない。窓の位置が完全に把握できていない以上、たまたま降りた際に那月とばったりという可能性も無きにしも非ず――。

「確か、重力は現実と同じなんですよね? 一応、確認しておきたいのですが」

 一応、最初に確認したもののアレは軽過ぎるモノだ。風と言う概念が無かった以上、一定の力が地面方向へとかかっているとは限らない。そうなれば、計算そのものが狂う事になってしまう。

 職員室に置かれていたパンフレットを片手に図書室へと向かい始める。

 問題はどうやって、同じ高さまで移動するか。そして、気が付かれずにどのようにして図書室までよじ登るか。この二点という事になる。

 もしも、誤って手を滑らせてしまえば、地面へと落下。叩き付けられる。

 システム上は現実の身体に直ちに影響はないとなっているが、本当に何も起こらないとは言い切れない。身体には影響がなくとも、精神に何らかの後遺症が残ってしまうかもしれない。

 危険過ぎる。それが、薫の出した結論だった。

『確かに、重力の値はGで一定。でも、やっぱり危険過ぎる。他の方法を考えましょう』

 しかし、現状は手詰まり。何の手がかりもないのだ。

 そんな他に方法がない状況で薫の進言を美鶴が飲む筈がなかった。

「別に問題ない筈です。それ以外に今の状況を打開する方法はありませんよ」

 三階へと上がる階段の途中で美鶴は立ち止まると、そこから窓の景色を眺める。完全に再現された世界。だが、所詮は紛い物であり、創られたモノ。

 だからこそ、世界の法則も塗り替える事が出来る。思うままに書き換える事が出来る筈だ。

 美鶴の中で何故かそのような言葉が囁かれる。他ならない美鶴自身の声で、

 だが、この世界に対する設定はレベルコードによって雁字搦めに固められ、変更は不可能。そのような事が出来るなど有り得ない。いや、どのような事にも抜け道がある……。

「力の向きを逆方向で加えて巻き上げる? 空間の物理は変更できなくとも、自分で作成した物質に関しては適用されないだろ。それなら、那月のあの鎖の不自然な動きも納得がいく。つまり、命令系統を調整して上手く物理演算と相互させれば容易に相殺出来る」

『美香ならその位の調整は問題なく行えるだろうけど……。本当にそんな事が可能、なの?』

 考え方自体は間違ってはいない。だが、その制御式は微細な調整を求められる。そして、それがレベルコードの適応範囲外になるかどうか分からない。

 もしも、プログラムにミスが発生した場合、落下速度から計算するとほぼ一瞬。そんな短時間にプログラムを書き換えられる人間は存在しない。

 全ては美香にかかっている。ミスが起こるとは思えないが、他に手段がないのも事実。

 問題の山積みに唸り声を上げる薫に美鶴は盛大に溜息を吐くとこう助言する。

「なら、ロープの長さを調整して絶対に切れないように重量を指定すればいいだけです」

 力がかかるのは窓枠と結び目。美香が自身の体重を知っていると確信を持って言える美鶴からすれば、そこの強度調整は難なく熟せると信じていた。

 それを行えればあとはどこかに結び付け、窓から飛び降りれば何の問題もない。

 色々と問題はあるが様々な状況を考慮すれば、一番確実かつ現実的な行動だろう。

『確かにそれはそうだけど……。でも、ここは弟君次第だよね。選択権はオペレーターである私ではなく、没入してる弟君にある訳だから……もどかしいけど』

 薫としては友人の弟であり、先輩としてあまり後輩である美鶴には危ないマネをさせたくない。

 しかし、今いる階層が違うだけに代わりに引き受ける事は出来ない。美鶴はその薫の言葉に初めて、アイリスの苦難の重さを実感する。

 アイリスも今の薫のように今回の件に関しては近くにいたとしても何の手出しも出来ない現実に苦しんでいたのだ。それを分かっているからこそ、負ける訳にはいかない。

「大丈夫ですよ。そんなヘマはしませんから」

 美鶴は薫にそう言ってのけると図書館の鍵を開けた。

 書物の香りが広がる古めかしい空間。差し込む西日が本棚を照らし、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。鍵がかかっていたので中には当然、他の人間の気配はない。

 念の為に扉の鍵をかけ直すと、美鶴は図書館の窓からの景色を一つ一つ確認し、その中の一つで足を止める。そして、写真とその窓から見える風景を見比べた。

「ここですね。恐らく、ここが写真を撮影した上の階の窓だと思います」

 完全に一致する訳ではないが、写真に写っている建物らしきものが確認出来る。確信までは至れないが、高確率でこの場所だろう。しかし、どうやって確かめるか。

 この下の部屋には恐らく、那月がいる筈なのだ。だが、どの位置にいるか分からない。

 最悪の場合、降りた瞬間に目撃され確かめる余裕もないという事も有り得る。それだけに、美鶴としても薫としても慎重に行動しなければならなかった。

「問題はどの位置を向いているか。しかも、振り向かれて視認されないか――」

 だが、なかなかそれを打開する策が思い付かない。美鶴の中で自身の光屈折率を変えて一時的に風景と同化するという案もあがったのも確かだ。けれども、それは却下だ。

 何故なら、それが美鶴自身に適応出来るか分からないからだ。

 それに加え、那月も美鶴が抜けだした事に勘付いていない筈がない。周囲にソナーを放ち、こちらの動きを探ろうと考えているかもしれない。それだけに危険だ。

『そう言えば、向こうの動きを誘導すればいいんだよね? 三十秒程度ならなんとかいけるかも』

 薫はそう美鶴に告げると、美香へとある事を相談し始める。

 ソナーがあるのならば、逆にそれを利用出来ないかという事だ。いや、無かったとしても那月は神経を研ぎ澄ませている筈。ならば、その集中を逆利用して陽動する。

 姿が見えない以上、それを確実にする方法は確認する為に社会科資料室の外に那月を誘導するほかない。足りない要素は多いが、それが最も確実な策と言えるだろう。

 そして、美香がそれを可能だと承諾したらしく、薫は美鶴に説明を始める。

『これまでの状況から判断して、弟君の行動を気にしていると思う。だから、廊下で話し声が聞こえたら確かめに出て来る可能性が高い。分かるよね。元々、最初からいなければいいの』

 美鶴はその言葉をすぐには理解する事が出来なかった。

 いないのならば存在しない。しかし、そこまで考えた結果、ある一つの結論に行き着いた。

「なるほど、確かにそれなら可能なのか。声だけなら最初から見えない以上、問題ない」

 元々、部屋の中にいる那月を誘き出すのだ。廊下にいる人間の姿が見える筈がない以上、美鶴は必要ない。ただ、こえだけで十分陽動が成り立つのだ。

『必要な音声データは建物情報から解析して足音を作れば問題ない。声に関しては今から録音したモノを使えば問題ない筈だから……お願いできるかな?』

「任せますよ。録音が終わった後、窓から飛び降りる合図はそちらに任せますね」

 薫の台本通りの音声データ収録が終わると、いつでも飛び降りる事が出来るように目的の窓を開け放つ。本来なら、ここで風が図書室内に吹き込むのだろうが、今はその風もない。

 チャンスは一度。一瞬だけだ。

 飛び降りて一瞬でも景色を確認する事が出来れば、なんの問題もない。視認させ出来れば、後はその画像データと比べるだけで判断は可能だからだ。

 美鶴は美香が作成したロープと近くのパイプに固定し、自身にキッチリと結びつけると窓の縁に座りいつでも飛び降りる事が出来るよう、深く深呼吸し、精神を落ち着ける。

 安全具を付けているとは言え、高い場所からの落下だ。潜在的な恐怖から心拍数があがり、動悸が激しくなってしまう。しかし、冷静にならなければ失敗する。

 そうなれば、色々とまた面倒な事になる。今回の策はもう使えない。

「大丈夫。何の問題もない。落ち着け、落ち着くんだ。俺――」

 美鶴は自分に言い聞かせるようにそう何度も呟くと薫の指示を静かに待った。

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