なんとかするにゃん!

太陽ひかる

前篇

     一


 車に轢かれそうになった猫を助けようとしてのことだったと云う。

 その日は朝からよく晴れていた。煙突から立ち上る煙が、風に乗って真っ青な空へと運ばれていく。母の肉体は、きっとあの蒼穹と一つになるだろう。そう思うと、泣きに泣いた赤い目からまた一粒の涙が零れ、九歳の穂村一郎ほむら・いちろうは服の袖で目を拭った。

 この黒い服を着たあどけない子供は、駐車場に独りぽつねんと立って、煙の行方を見つめている。遺族は火葬場のロビーで母が骨になるのを待っているわけだが、一郎だけは一人、父の目を盗んで外に出て来たのだった。

 秋の風が吹いて、火葬場の塀沿いに植えられた木々の色づいた葉がさわさわと鳴り、一郎は濡れた頬に冷気を感じた。雲が太陽の下を横切り、辺りがちょっと薄暗くなる。そのとき足元でにゃあと猫が鳴くのを聞いて、一郎はずっと上向けていた顔を下に向けた。そして目を瞠る。そこには一匹の猫がいつの間にか忍び寄ってきていたのだが、毛並みの色が尋常ではない。

「青い、猫……?」

 そう、これは黒猫にあらず、白猫にあらず、三毛でもぶちでもない、真っ青な毛並みを持つ青猫であった。こんな猫がいるなど聞いたこともない。一郎がもう少し分別のある年齢であったなら、白い毛皮の猫に誰かが悪戯をして青く染め上げたのだとおもったであろうが、九歳の一郎はただただ瞠目していた。

 綺麗な猫だ。耳は尖っており、体つきは細くしなやかで、尻尾も優美である。そんな青猫が前足を揃えて気品よく座りながら、無垢な金色の瞳で一郎を見上げて、にゃあと一声鳴くと少女の声で云った。

「この度は私のために、御母堂にすまないことをしてしまったにゃ」

 一郎は文字通りに飛び上がって驚いた。

「猫が喋った!」

「猫が喋ったらおかしいにゃ?」

 可愛らしく小首を傾げる青猫を見て、一郎は心臓が早鐘を打ち始めるのをどうしようもない。いくら九歳だからといって、これが尋常でないということくらいは判る。

「えっ……と、なんなの? 妖怪?」

「強いて云うなら幸せを呼ぶ青い猫にゃ」

 青猫は得意げにそう答えたが、すぐにがっくりと項垂れてしまった。

「ところが今度ばかりはこの家に不幸をもたらしてしまったにゃん。まことに申し訳なかったにゃ」

 頭を下げる青猫を見下ろして、一郎は今さらながらにはっと心づいた。

「じゃあ、母さんが助けようとした猫って」

「私のことにゃん」

 母は車に轢かれそうになった猫を助けて、自分がその身代わりになってしまったのである。その猫が目の前に現れたとっても、一郎に責める気持ちは起こらなかった。こんな可愛い生き物を、どうして罵倒できようか。

「君の御母堂は君のことを最後まで心配していたにゃん。だからせめて、私は君を幸せにしてあげようと思うのにゃけれど、なにかしてほしいことはないにゃ?」

「母さんを生き返らせて」

 一郎は飛びつくようにそううったえていたが、青猫は残念そうにかぶりを振った。

「それだけは出来ないにゃ。死者を蘇らせるのは私の力をもってしても無理にゃ」

「そっか」

 ざわめきかけた一郎の心は、たちまちのうちに固く冷たく結晶化してしまった。

「じゃあ、してほしいことは、なにもない」

 青猫はそんな一郎の顔をしばらくじっと見つめていたが、やがてにゃあと一鳴きした。

「わかったにゃん。それなら今日のところは帰るにゃん」

 青猫は地面につけていたお尻をあげると、踵を返して音もなく歩き出した。そのぴんと尾を立てた後ろ姿を見て、雌猫だとわかる。それがつと立ち止まって振り返った。

「もうちょっと大きくなって、叶えたい願いが出来たら私を呼ぶにゃん。そのときこそ、私は君を幸せにしてあげるにゃん」

「うん……」

 一郎はこれが夢なのかもしれないと思って曖昧に頷いた。

「君が私を必要とするとき、私は君の前に現れるにゃん」

 そう云うと青猫は走り出した。めてあった車に飛び乗り、それを足場としてあっという間に火葬場の塀の上に躍り上がると、そこから金の瞳で一郎を見下ろして云う。

「またにゃ」

 その言葉を最後に、青猫は塀の向こうへと姿を消してしまった。

 そして雲が動き、秋の日がまたなにごともなく一郎を照らし出す。風は物柔らかに吹いていた。今のは白昼夢であったのか。一郎がそう疑ってためしに頬を抓ってみたとき、今度は人間の足音が近づいてきた。

「一郎」

 まだ幼い感じのする、しかし凜とした少女の声に、一郎はさっと顔を振り向けた。あおぐろの髪をおかっぱにした、切れ長の目の美少女がこちらへ歩いてくるところだった。背丈は九歳の一郎よりはずっと高く、顔立ちは恐ろしいほど整っている。今日は黒いワンピースを着ているのだが、それがために白皙の肌が普段よりずっと白く輝いて見える。乳房はいつのころからか膨らみ始めて、それなりに大きかった。

「お姉ちゃん」

 一郎はそう呟いたが、実姉というわけではない。一郎は一人っ子である。ではこの娘は何者かというと、一郎の隣の家に住んでいる年上の幼馴染・御劔龍子みつるぎ・りょうこであった。学年は三つ上だが、九月生まれの一郎に対して二月生まれであるため、このとき十一歳である。実姉ではないが家族同然ではあるため、この火葬場まで同行しているわけだ。

 龍子は一郎の傍までくると、夜空の色をした瞳に一郎を映じて云った。

「勝手にいなくなるな。心配する」

「うん」

 一郎は返事をしたあと、龍子を見上げて舌足らずな声で云った。

「猫が……」

「猫?」と龍子は小首を傾げた。その拍子に、黒髪がざらりと動いた。

「青い猫が喋った」

 すると龍子はたちまち憐憫の満ちた顔をして、一郎を抱きしめてきた。

「そうか」

 一郎はその行為に息を凝らした。抱きしめられると、龍子の柔らかい乳房が顔に当たる。それがなんだか気恥ずかしくて、一郎はそれこそ猫が身をよじるように龍子の腕のなかから抜け出すと、また青空へと目を上げた。

 龍子がくすりと笑って一郎の隣に立ち、その手を握り締めてきた。それから彼女は一郎と同じように空を見上げて、ちょっと眩しげに目を細めた。

「おばさんには、吾が子のようによくしてもらった。剣道も教えてもらったし」

 一郎は繋いだ手から、龍子の手に出来ている竹刀胼胝しないだこを感覚した。一郎の母親は昔から剣道をやっていて、一郎も龍子も当然のように剣道を仕込まれてしまったのだ。

「おばさんが剣道を通して私を鍛えてくれなかったら、私はぐれていた」

 一郎は首を傾げるようにして龍子を見上げた。龍子は風で顔に打ちかかった髪を直しながら、自分を嗤っている。このときの一郎には、龍子がなにを自嘲しているのかなどわからなかった。母親が結婚もせずに子供を産んだこと、しかも幼い自分を捨てて行方をくらましたこと、ために母方の祖父の手によって育てられているものの大変な貧乏をしていること。これらが十一歳の少女の心をどのように形作ったのか、九歳の子供に想像が及ぼうはずもない。

 突然、龍子は晴れ晴れと笑って声高に云った。

「あの人への恩返しだ。おまえは私が一人前の男にしてやろう」

 その言葉は一郎の心の表面を撫でていっただけだった。九歳の子供にとっては、他人がなにを考えているかなどどうでもよいことなのだ。

 一郎はただなんとなく相槌を打つと、また空を見上げて母を喪った悲しみに浸った。


     二


 あれから五年が経った十一月某日、東海地方は見事な秋晴れの空に恵まれていた。

 この日、放課後の活気づいている中等部二年の教室で、穂村一郎は粛々と帰り支度を整えていた。皆、寄り道や遊びの予定について楽しげに話し合っている。運動部員は運動部員で、気持ちの良い青空の下で練習ができることを喜んでいるようだった。それを尻目に教室を出た一郎は、昇降口で靴を履き替え、校庭に踏み出したところで、後ろから駆けてきた誰かに勢いよく背中を叩かれた。

「よう、穂村。一緒に帰ろうぜ」

 振り返ると、友人の友坂航平ともさか・こうへいがそこにいた。詰襟の学生服を着込んだその姿はこれといって特徴がない。背丈は低すぎず高すぎずの一六六センチ、髪型も体型も指摘するべき点はなく、顔つきもいたって平凡、強いて云うなら眼鏡をかけていることくらいか。

 一方、十四歳になった一郎は一七七センチと背が高く、制服越しにも体つきのがっしりしているのが見て取れる。髪型は三分刈りの坊主頭で、精悍な顔つきをした男前であった。

 二人はまったく違う趣味趣向をしていたが、地元が同じという共通点があったために仲が良く、帰路を同じくすることもしばしばあった。

 一郎は友坂に向かってしかつめらしく云う。

「いいけど、寄り道はできないぞ。急いで帰って課題やって、明日の予習もやらないと」

「おお、真面目だねえ」

 友坂はそう一郎を冷やかしながら、肩を並べて歩き出した。

「好きでやってるわけじゃないさ」

 一郎がそうぼやくと、友坂はなにかに心づいたように云った。

「御劔さんか」

「おう」

 一郎は一つ首肯うなずいた。


 ――おまえは私が一人前の男にしてやろう。

 あの葬式の日に御劔龍子から云われた言葉の意味を、一郎は実に五年の歳月をかけて、骨身に叩き込まれることになった。

 龍子はまず一郎の父に対して、一郎の面倒は自分がみるとはっきり宣言した。父とて母が亡き今、一人息子を監督する者がいなくなって心配だったのであろう、龍子に礼を云って一郎をよく頼んだ。

 こうして後ろ楯を得た龍子は、まず剣道を通して一郎を鍛え上げようとした。

「精神を鍛えるには、武道をやるのが一番いい」

 それはいい。一郎とて元々剣道をやっていたからだ。しかし生活態度から勉強、食事、趣味や交友関係に至るまで、なにかにつけて厳しく口を出してくるようになったのには閉口した。

 それでも龍子を慕っていたから一郎はよく頑張ったけれど、小学校を卒業したときにはついに爆発して、竹刀を龍子の前で叩きつけると云った。

「もう剣道なんかやらない! やめる!」

 すると一郎は龍子に問答無用でぶたれた。竹刀を叩きつけるとは何事か、今まで剣道でなにを教わってきたのか、と叱りつけられた。しかしそのあとで龍子は云った。

「おまえが剣道をやめるというなら、それは仕方がない。無理に続けさせはしない。だが男子には体を鍛える義務がある。これからも最低限の鍛錬はしてもらうぞ」

 実際、毎朝のロードワークや毎夕の筋力トレーニングは、龍子の監視のもとで怠りなく続けられた。勉強についてもやはりよく見てもらって、龍子と同じ中高一貫の私立校に通うことになったのである。食事は抜群に美味い手料理を毎日振る舞ってもらっていたが、代わりに間食は許されなかった。また趣味や遊興に関しては自由なようでいて抜き打ち検査があり、たとえば友人から回ってきたあの手の本は、猥褻物だとして取り上げられてしまった。インターネットも禁じられていたし、携帯電話は緊急時に必要ということで所持こそ許してもらえたが、子供用の最低限の機能しかないものである。坊主頭にしているのも龍子がそうせよと云うからだ。

 このようにして龍子の陶冶がなり、一郎は成績も運動も抜群という、端から見れば素晴らしい男子に成長したわけだが、どうにもこうにも息苦しい日々を過ごしている。

 ……。

 友坂とともに帰路を辿っている一郎は、このようなことを全部ぶちまけたわけではなかった。愚痴は男らしくないからである。それで当たり障りのないことだけを選んで話したのだが、それが一段落したとき、友坂が青空を見上げて憧れるようなため息をついた。

「いいなあ。あんな美人と事実上の同居生活、羨ましいぜ」

 前述の通り、龍子の家は祖父一人孫一人という家庭であるから暮らしは貧している。それで龍子が一郎の面倒を見ているうちに、自然と半同居のような形になってしまったのだ。たとえば夕食は龍子が作ってくれるが、材料費は穂村家持ちで、食卓には両家の四人が揃うことも珍しくはない。洗濯や風呂についても同様だった。

 奈辺の事情を知らない友坂が気楽そうに云う。

「怖いって噂もあるけど、それも含めていいよな。ギャルゲーみたいでさ」

「ぎゃるげえ?」

 一郎が小首を傾げると、友坂はなにかを思い出したように云った。

「そういえば穂村はゲームとか一切やらないんだっけ」

「まあな」

 アニメ・漫画・ゲームの類は精神が軟弱になるというので、龍子から一切禁止されている。それを話すと、友坂はさすがに気の毒に感じたのか、同情的な口ぶりで云った。

「厳しそうだもんな。知ってるか? 高等部じゃ鬼姫とか呼ばれてるんだぜ、あの人」

「知ってる」

 素晴らしく美人なのに恐ろしく厳しい、ゆえについた綽名が鬼姫である。もう少し肩の力を抜いた方が楽に生きていけるのではないか。どうしてあの人はあそこまで頑なに厳格なのか。おかげで友達も少ないようである。一郎は龍子の生き方を憂いて眉を曇らせ、黙り込んだ。一郎の表情が陰ったのを見て、友坂もまた黙る。

 二人はしばらく無言で帰路を辿った。秋は日の落ちるのが早く、辺りには仄かな暮色の気配がある。辺りはそれなりにビルが建っているが、繁華街というほど賑わってはいない。近くに小学校があるのか、一郎たちの目の前を、ランドセルを背負った男の子たちがのびのびと駆け抜けていき、青信号の点滅している横断歩道を渡っていく。急がなかった一郎たちは赤信号に遮られて立ち止まることになったが、その折に友坂がやっと沈黙を破った。

「しかしなんだ、おまえもそのうち御劔さんみたいに、鬼の穂村とか呼ばれるようになるのかねえ」

「ならないよ」

 一郎は友坂の言葉を一笑に付した。それは龍子に育てられたようなものだからその薫陶を受けているのは間違いがない。しかし一郎と龍子とでは、決定的な違いがある。

「俺はあの人ほど自分に対して厳格じゃないからな」

「自分に厳格?」

「そうだ。お龍さんは誰に対しても厳しいが、一番厳しいのは自分に対してだ。あの人、遊ぶってことをしないんだよ。暇があれば勉強してるし、剣道だって、部活のない日は地元の道場に通って昔なじみの先生に稽古をつけてもらっているんだ。俺もお龍さんに色々やらされてきたけど、お龍さんは俺の三倍は努力している。とても叶わない。俺なんかお龍さんの目がなければ怠けていただろうし、本音を云えば、もっと遊びたいと思ってるよ」

「ふうん。じゃあこのあと一緒に来るか? 繁華街とか、行こうと思うんだけど」

 友坂がそう云いながら目顔で示したのは、遠目に見えてきた地下鉄の駅だった。まっすぐ帰るのなら、地下鉄でターミナル駅まで行き、そこで地上の電車に乗り換えて地元の駅に向かうことになる。一方、友坂は繁華街の駅で降りて、日が暮れるまでは遊ぼうというのだろう。

「行きたいな」

 一郎は憧れるように呟いていた。友坂が快闊にわらう。

「じゃあ来いよ。俺と一緒にぶらぶらしようぜ」

「いや……」

 一郎は眉宇を曇らせてかぶりを振った。友坂は少し拍子抜けしたようだった。

「なんだよ、御劔さんが怖いのか?」

「それもある。だがそれ以前の問題として……」

 一郎は羞恥心から言葉を濁したが、結局は云った。

「金が無いんだ」

 すると友坂は呆気に取られた顔をした。

「今月の小遣い、もう使っちまったのか?」

「いや、そうじゃなくて、財布はお龍さんに管理されてる」

 信号が青に替わり、横断歩道に踏み出しながら、一郎は自分の財布事情を友坂に話して聞かせた。つまり父から一郎に与えられる小遣いは、一度龍子が預かり、必要に応じて一郎に与えられているのである。自分の自由になるお金がない。龍子に云わせれば、これが一郎が道を踏み外さずに済んだ一番の理由なのだそうだ。

「そりゃひでえな」

 地下鉄の階段を下りながら友坂が顔をしかめた。

「仕方ないさ」

「ええ? 俺だったら堪えられんわ、そんなの。あの美人がおっぱい揉ませてくれるなら別だけど」

「そういうことを云うな!」

 一郎が友坂を大喝すると、友坂はへらへら笑いながら一足先に階段を駆け下りて、そこから一郎を見上げてきた。

「だってあんなでかいおっぱい見せつけられたら……なあ? 学校中の男子が一度でいいからあの乳を揉んでみたいと思ってるぜ。おまえだってそうなんだろ?」

 真正面からそう問われ、一郎はにわかに赧然となった。

「そりゃまあ……でも駄目だ。あの人をそういう目で見ることは俺が許さん」

「へいへい。で、御劔さんって何カップ?」

「おまえは一度、殴られたいのか?」

 一郎が最後の警告とばかりに軽く拳を掲げると、友坂はさすがにもう軽口を叩こうとはしなかった。

 階段を下りて地下鉄の駅構内に入ると、空気の匂いが地上のそれとは少し変わった。どことなく冷たい、音の感覚も少し違うなかを、二人はともに改札を通り抜けてゆく。そのまま同じホームから同じ電車に乗ったが、友坂の方が先に繁華街の駅で降りることになるだろう。一郎は友坂が下車したあとももう少し乗って、ターミナル駅まで行くはずであった。

 ところが繁華街の駅に着こうというとき、突然友坂が一郎の手首を掴んで云った。

「やっぱ行こうぜ。茶くらいおごってやるからさ」

「えっ?」

 目を丸くする一郎を、友坂が少し馬鹿にしたようにわらう。

「御劔さんが怖いんならいいけどな」

 そう云われては男の矜恃が火を吹くというものだ。

「別に怖くはない。いいだろう、行こうじゃないか」

「よし、決まり!」

 こうして一郎は友坂にそそのかされるまま繁華街で遊び、夜の七時に帰宅を遂げた。


     三


 龍子は本当に美しい。

 五年前におかっぱだった髪は、頭頂部で高く結い上げてなおせなに余るほど長く伸びている。背丈も一七〇センチあったし、乳房も大きく膨らんで、尋常でない迫力を具えていた。一方、切れ長の目や白皙の肌は昔時のおもかげを如実に残している。

 かくして絵に描いたような女武者に成長した龍子は、今、青い半袖のシャツに黒い長ズボンという姿で、穂村邸の庭で竹刀を手に素振を繰り返していた。女性ながら腕はよく鍛えられており、立ち姿は元より、素振をする姿も実に美しい。

 そんな龍子の姿を、一郎は縁側に立って夢のように見つめていた。

 時刻は既に午後八時を回っている。月の明るい夜空の下、穂村邸の庭は虫のすだきに満ちていた。縁側の硝子戸は開けられており、湯上がりの火照った肌を秋の夜風が冷ましていく。

 あるとき、素振の数が切りの良いところに達したのか、龍子が竹刀を収めて縁側に立つ一郎を振り仰いだ。美しい瞳に捉えられ、一郎はたちまち驚懼した。

「なにか用か」

「あ、風呂、空きましたよ」

「見ればわかる」

 その棘のある口吻からして、龍子はあきらかに怒っていた。それというのも一郎が寄り道をしたからだ。

「これから今日の課題と明日の予習をやるわけだな」

「はい」

「それから寝るまでのあいだに、筋力トレーニングをする時間があるのか」

「ありません。もう風呂に入りましたし、今から汗を流すのは……」

 一郎の声がだんだんと尻すぼみに消えていった。龍子が冷気を放っているのがわかったからだ。

「おまえが寄り道などしなければ、こんなことにはならなかった」

 その云い草はいかにも大袈裟だと思った。たった一日、鍛錬を怠けただけである。それを『こんなことにはならなかった』とは。

「でもお龍さん。俺だって毎日毎日、同じことの繰り返しじゃ飽きますよ」

「それなら久しぶりに竹刀を握らないか? おまえもそろそろ剣道が恋しくなってきたころだろう」

「だから……」

 一郎は思わず天を仰いだあと、思い切って龍子に眼差しを据え、勇を鼓して切り出した。

「はっきり云いましょう、お龍さん。俺はもう剣道なんかやりたくないし、勉強と体力作りばかりの毎日にはうんざりなんですよ。遊びたい、遊びたい、遊びたい」

「駄目だ」

 いっそ冷徹なまでの言葉が一郎の願いを斬って捨てた。解っていたことだが、一郎はがっくりと項垂れた。

「お龍さんは、遊びたいとか思ったことはないんですか?」

「無いな」

 一郎は顔を上げた。そこを捉えて龍子が云った。

「私はこの五年間、おまえを一人前の男にするために自分のすべてを費やしてきた。そのおまえが全部抛り投げるというのなら、私の五年間も水の泡だ」

 それは一郎の胸に刺さった。一郎は龍子に架せられた課題をずっとこなしてきたが、裏を返せば龍子もずっと一郎に付き添ってきたわけだった。二人は一蓮托生だったのである。

「それでもいいなら好きにしろ。もっとも、そのときは私とおまえの関係も終わりだがな」

「絶交ですか」

「そうだ」

 涼しげな声音で放たれたその肯定の言葉に、一郎は剣道の面を打たれたときのような鮮やかな衝撃を受けた。

 絶交。

 それは厭だった。剣道をやめたあとだって、そのあとに男子の義務として架せられた体力作りは、結局受け容れた一郎である。勉学にも努めたし、それ以外のことでも龍子の求める理想の男性像に必死に自分を当て嵌めてきた。

 そこまでしたのは、なぜであるか?

 ――俺は。

 だが龍子に向けられた情熱が迸ることはなかった。それこそ、関係がすべて壊れてしまうような恐怖がある。

 一郎は顔を強張らせて云った。

「わかりました。部屋に戻って、宿題をやります」

「それだけか?」

 一郎は少し躊躇したものの、結局自分の甘えを自分で打ち砕かねばならなかった。

「今日はすみませんでした。二度と寄り道はしません」

結構よろしい。風呂はもう少し汗を掻いてから使わせてもらう。明日もいつも通り、五時起きだ。十時までには寝ろ」

「はい」

 一郎が龍子に一礼して頭を上げたときには、早くも素振の素晴らしい風切り音が鳴った。龍子はどうやらしばらく素振りを続けるつもりらしい。


 龍子に云われた通り、一郎は午後十時になると眠ることにした。毎朝五時に起きて家の掃除をしたあと、約五キロのロードワークに出かけるのが日課になっているから、早く眠らないと起きられない。それで自室として使っている二階の和室に布団を敷き、父に就寝の挨拶をしてから床についたのだが、今夜に限ってはなかなか寝付けず、仕方なしに布団から起き出すとなんとはなしに窓を開けた。涼しい夜風が面を吹いていく。隣の御劔邸では、やはり二階にある龍子の部屋の窓にまだ明かりが点いていた。一郎は窓の桟に肘をつき、龍子の部屋の窓明かりに向かってうっそりと呟いていた。

「もうちょっと、こう、なんとかなりませんかね……?」

「交尾したいにゃん?」

「そりゃしたいよ」

 そう答えてから、一郎は愕然と気づいた。

「えっ、誰?」

 声は後ろからしたのではない。前から聞こえた。一郎が開けている窓の下、一階の屋根のところに、一匹の猫がちょこなんと座ってこちらを見上げている。

 その青い体躯、こちらを可愛く見つめる金の瞳、それらを一目見た瞬間、一郎は記憶の蘇りとともに目の醒めるような想いがした。

「おまえ……!」

「お久しぶりにゃん」

 青い猫はそう挨拶をしてきた。

 猫が、喋っている。

「あれは夢じゃなかったのか」

 猫が喋るなんてあるわけがない。青い猫がいるはずがない。長じるにつれて一郎はそうした理性の薫陶を受け、また記憶が砂の城のように崩れて曖昧模糊としていくのを受け、あれは白日の夢だったのだと想うようになっていた。

 ところが夢のはずの青い猫が、今ふたたび一郎の前に現れたのである。

「夢なんかじゃないにゃん」

 青猫はそう云って軽やかに跳躍し、一郎が肘をかけていた窓の桟に躍り上がった。一郎はわっと驚いて後ろへよろめき、畳の上に尻餅をついてしまう。そんな一郎を青猫が目で笑った。もはや明かりを消した薄暗い部屋のなかにあって、その金色の目は魔力を秘めているかのように光っている。

「どうして、今になって現れた……?」

「君が私を必要とするとき、私は君の前に現れる。そう云ったはずにゃ。君も十四歳になって、そろそろ願い事の一つや二つ出来たはずにゃん。たとえば――」

 青猫は首を後ろに伸ばすようにして背後を振り返った。その視線の先には、龍子の部屋の窓明かりがある。

「君はあの龍子という娘のことが好きにゃん?」

「あ、ああ」

 答える傍から一郎の頬は赧然と燃え上がった。青猫が顔を一郎に戻す。金の猫目が妖しげな光りを放つ。

「それならあの娘に恋の魔法をかけることもできるにゃん。そうしたら彼女は君にめろめろにゃん」

「えっ……」

 一郎はその夢のような言葉を反芻したのち、慌てて立ち上がると青猫を制しにかかった。

「いや、それはまずいだろ!」

「どうしてにゃん?」

「どうしてって……人の心をねじげるようなことはよくない」

「でも交尾したいにゃん?」

 一郎は思わず両手で顔を覆った。わっ、と叫びたい気分だった。そのまま十秒ほど経ったろうか、一郎は頭を掻き毟ると、青猫をとっくりと見つめて口を切った。

「つまりおまえは、俺の願いを一つだけ叶えてくれるっていうわけだな?」

「そういう約束にゃん」

 信じがたい。信じがたいが、目の前で猫が喋っているのは事実である。一郎は迷いを断ち切るように大きく息を吸うと、胸を張って云った。

「それなら叶えてもらおうじゃないか。しかしさっきも云ったように、あの人に恋の魔法をかけるのは無しだ」

「じゃあどうするにゃ?」

「うーん……」

 一郎は胸の前で腕を組むと首を傾げてしまった。

「急に云われてもなあ」

「だから本能に素直になってあの娘とやりたいと云えばいいにゃん」

「だからそれはまずいって。動物じゃないんだから、順序を踏まないと」

 一郎は腕組みをやめて、畳の上や敷いたばかりの布団の上をうろうろと歩き回り始めた。

「だいたいにして、あの人は隙がなさすぎるんだよ。いつも鉄壁っていうか、氷みたいだ」

「にゃん」と青猫は相槌を打った。

「もうちょっと可愛くなってくれたらいいんだけど。そう、たとえば――」

 一郎はそう話しているうちに答えが透かし見えてきて、青猫の上に視線を置いた。窓の桟の上に前足を揃えて行儀よく座っている青猫は実に可愛らしい。その姿こそ答えだった。

「そう、たとえば、おまえみたいに」

 すると青猫はちょっと驚いたようだった。

「私が可愛いにゃん?」

「猫は可愛いだろ、普通」

 一郎は窓辺に歩み寄ると、青猫の頭を撫でてやり、それから顎の下を指でくすぐってやった。青猫が気持ちよさそうに目を閉じる。

「にゃんにゃん……やめるにゃん」

 一郎はちょっと笑って手を引っ込めた。それから青猫にはっきりと云う。

「お龍さんにも、おまえみたいに可愛くなってほしいってことさ」

「わかったにゃん。願いを受理したにゃ。あのを私みたいに可愛くするにゃん」

「えっ」

 一郎がその言葉に目を丸くしたときには、青猫はもう身を翻して窓から飛び出し、その下に張り出している屋根の上へと音もなく下りていた。

「ちょっと」

 今ので願いが受理されただって?

 あまりの早手回しに目を白黒させている一郎が窓辺に飛びついて窓から顔を出すと、そこを捉えて青猫が云う。

「それじゃあ明日を楽しみに待つにゃ」

「ええっ」

 ――いや、ちょっと待ってくれ。

 一郎は青猫を止めようとしたが、それに先んじて青猫が屋根を蹴って夜の庭へと飛び込んでいく。

「青猫!」

 やっとまともな声が出たときには、もう遅い。蒼い影が夜の庭を横切ったように見えたが、いくら目を凝らせど、もうその姿を見つけ出すことはできなかった。


     四


 目覚まし時計がけたたましく鳴り響く。一郎は手探りで時計の頭を叩いてそれを黙らせると、一二の三、と数えて枕から頭を離し、布団の上に体を起こした。

 窓の外はまだ暗い。この頃は朝の来るのが遅かった。

「もう十一月だもんな……あふ」

 一郎は欠伸をすると、布団の上で物思いに耽った。眠いのではない。この五年間、ずっと毎朝五時に起き続けているのだから、今さら眠くて起きられないということはなかった。ただあの不思議な青猫のことが寝ても醒めても頭から離れないのである。

 ――夢だったんだろうか?

 あのあと、一郎が呼べど叫べど青猫は戻ってはこなかった。そのうちに龍子が窓を開けて「夜中になにを騒いでいる」と叱るので、一郎は仕方なく床に入ったわけである。そしてその夜に見た夢のなかに青い猫が出て来たことも相俟って、目覚めてみるとなにもかもが夢のなかの出来事であったように思えるのだ。

「あいつ、お龍さんを可愛くするって云ってたけど……」

 一郎がそう独りごちたとき、五分が経過して、また目覚まし時計が鳴り出した。

「おっと」

 いつまでもぐずぐずしていてはまた龍子に叱られてしまう。一郎は時計を静かにさせると、布団から起き出し、きびきびした動きで身支度を始めた。


 掃除を手早く終えた一郎は、青いジャージに着替えて履き慣れた運動靴を履き、早朝の冷気の漂う家の前に出て来た。五キロという距離を走るのには、実はそんなに時間はかからない。龍子などはロードワークのあとで朝飯を掻き込み、剣道部の朝練がなければ、ついでに二人分の弁当を拵えてくれる余裕もあるほどだ。それにしても朝の空気のなんと清々しいことか。深呼吸をするだけで、胸が隈無く清められそうである。

 そうして一郎が朝日を仰ぎ見ながら微笑んでいると、御劔宅の玄関の扉の開け閉めされる音がした。一郎はそちらを見て、黒ずくめのジャージ姿の龍子に胸をときめかせた。

 いつもロードワークに出かけるときはそうだが、龍子は長い黒髪を、首の後ろで無造作に縛っている。特に化粧をしているわけでもないのに、その顔は清らかで美しかった。それでいて射干玉ぬばたまの瞳は一郎を厳しく睨みつけている。昨日怠けた分だけ、今日は飛ばすつもりであるのに違いない。

 それで一郎はやや緊張気味に挨拶をした。

「おはようございます、お龍さん」

「ああ、おはようにゃん。いい朝だにゃん」

 ……。

 時間が止まった。

 その無限の停滞のなかで、一郎は我が耳を疑っていた。一方の龍子も、自分がなにを口走ったのか解らないというように、あどけない子供の目をして、片手で口元を押さえている。

「えっ?」

「にゃっ?」

 一郎と龍子の声が重なった。

 目を丸くしている一郎の視線の先で、龍子は一歩後ろによろめくと白い喉を押さえながら早口で云った。

「いや、なんでもないにゃん。妄言にゃん。忘れるにゃあ」

「ええっ?」

 一郎はいよいよひっくり返った声をあげた。自転車の会社員が鈴を鳴らしながら二人の横を通り過ぎていく。

 龍子は蒼惶と狼狽をきたしながら、両手で喉を押さえて大きく息を吸い、そして発声した。

「あ、あー、あー、あー」

 いつもの龍子の美しい声だ。龍子は一つ頷いた。

「よし、声は出るにゃん」

 が、言葉はまたしても『にゃん』だった。龍子は一郎を振り仰いで、一郎が今どんな顔をしているかをとっくりと見つめたのちに、云い訳をするように叫んだ。

「声が、喉の調子がおかしいにゃん!」

「いやっ、声とか喉の調子とか、そういう問題じゃなくて……にゃん?」

「にゃん」

 鸚鵡おうむ返しにまたにゃんと云った龍子は、いよいよ我が身に尋常ならざる大異変が降りかかっていることを理解したらしい。一郎が今までに見たことのない、うろたえきった様子で吾が胸を押さえている。

「こ、これはどうしたことにゃ?」

「いや、俺に云われても。お龍さん、どうしたんですか。鬼の霍乱ですか?」

「こっちが聞きたいにゃん! こんな、こんな……」

 龍子はわななく両手で頭を抱えると、身も世もないといった様子で声を張り上げた。

「にゃん語でしか喋れなくなってるにゃん!」

 かくして、その日のロードワークは中止になった。


 一郎は恐慌をきたした龍子を宥めつ賺しつして、ひとまず自分の部屋へと連れて行った。そこで改めて龍子の症状について二人で確かめていったところ、やはり猫のような言葉遣いでしか喋れなくなっている。ためしに国語の教科書を朗読してもらったが、すべて『にゃん語』に翻訳されてしまって、一郎は身悶えしてしまった。

 ――か、可愛い!

 一郎が感激のあまり目が眩みそうになっていると、龍子がやにわに教科書を畳に叩きつけた。

「どうするにゃん!」

「まあまあ、いいじゃないですか。くくっ……」

 一郎の忍び笑いを聞きとがめてか、龍子は涙の溜まった目に角を立てた。

「なに笑ってるにゃん? 私のことが心配じゃないにゃん?」

「いや、もちろん心配ですよ」

 一郎は口元を必死に引き締めながらそう答えた。しかし本心では、全然心配していなかった。龍子の身になにが起こったか、一郎にはもう解っていたからだ。

 つまり、あれは夢ではなかった。

 これは青猫の仕業に違いない。青猫は龍子を『私みたいに可愛くするにゃん』と云っていた。その結果がこれなのだ。龍子は、こんな風にしか喋れなくなってしまった。

 ――でかした!

 一郎は胸中で青猫に快哉を叫んでいた。今この場にあの猫がいれば、抱きしめて頬ずりをしてやりたいくらいだ。一方、龍子は一郎が内心欣快至極であるとは露知らず、正座をして膝頭を両手で掴み、畳の目に執念深そうな目を注いでいた。

「これは誰かの呪いに違いないにゃあ……」

 うっそりとしたその声に、一郎はちょっと背筋が寒くなった。なるほど、あの青猫はある意味で龍子に呪いをかけたといえる。してみるとその呪いを依頼したのは自分なのだ。その点に気づかれてはたまらないと、一郎は急いで別の話題を探した。幸いにして、時計の針は午前七時になんなんとしている。

「お龍さん、そろそろ学校に行く支度をした方がいいんじゃないですか?」

「にゃっ?」

 そう切り出した一郎も、意外そうに一郎を見返してくる龍子も、まだジャージ姿のままだ。

「制服に着替えましょうよ」

 すると龍子は差し俯いて、元気なくかぶりを振った。

「いや、今日は休むにゃ」

「えっ? 今なんとおっしゃいましたか?」

「だから、今日は休むにゃ。こんな風になってしまって、学校なんか行けるわけないにゃ」

 萎れた花のようにうなだれる龍子に対し、一郎はすっくりと立ち上がると云った。

「それは駄目です」

 龍子が一郎を見上げて瞠然となった。しかし立場が逆であれば、必ずや龍子はこう云ったはずである。

「ずる休みは許さん! と、お龍さんはいつも云っていたじゃないですか」

「これはずる休みじゃないにゃ! 病缺びょうけつにゃ!」

「病気なんかじゃありませんよ。熱があるんですか? 咳が出るんですか? 体がだるいんですか?」

「いや、別にそういうわけじゃないにゃ」

「じゃあ行きましょうよ。ただちょっと喋り方がおかしくなっただけじゃないですか」

「いやっ、うにゅ……」

 龍子は逃げ場を求めて右に左に視線をさまよわせたが、結局は袋小路にいることがわかったのであろう、一郎を鋭く睨みつけてきた。

「おまえ、楽しんでないかにゃ?」

「そんなことあるわけないじゃないですか」

 一郎は燦爛たる笑顔で本心を韜晦とうかいすると、朗らかに掌を二回打った。

「さあ、さあ、お龍さん。いつも通り、俺に手本を見せてくださいよ。もしどうしても学校を休むっていうのなら、俺も一緒に休みます。二人でずる休みしましょう」

 すると龍子の顔つきが変わった。悄然としていたところにさすがの気魄が漲ってくる。一郎にずる休みの口実を与えるわけにはゆかぬとばかり、龍子は凜乎として立ち上がった。

「わかったにゃ! 行くにゃ! 行けばいいにゃ!」

 凛々たる表情と気骨のない言葉の乖離に、一郎は堪えきれずに大笑いした。


 詰襟の学生服に着替えた一郎が家の前で待っていると、ほどなくして紺のセーラー服に身を包んだ龍子が出て来た。黒髪はいつものごとくに結い上げており、学生鞄を持っている。それが浮かぬ顔をしているのを見て、一郎は勢いよく声をかけた。

「改めて、おはようございます! じゃ、行きましょうか」

「待つにゃ」

 歩き出そうとしていた一郎は、まだ龍子が登校を渋る気なのだろうかと思って身構えた。龍子はそんな一郎にするすると身を寄せると、自分から腕を組んできたのだった。

「えっ?」

 その行為、腕にあたる乳房の柔かな感触もさることながら、一郎が今までに見たことのない、龍子の憂いを帯びた顔が新鮮であった。

「なんか不安にゃ。腕を組んで行くにゃ」

「おお……!」

 龍子の隣家に生まれて十四年、いつも弟のごとくに扱われていた自分に、龍子が縋る日が来ようとは思いもよらなかった。

「一郎」

「はい」

「おまえだけが頼りにゃ」

「任せてください!」

 一郎は輝くばかりの笑顔になり、龍子の手を握り締めて歩き出した。

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