第3話

その日の午後からは雪が降ったり止んだり降ったり止んだり関西で言うところのアホみたいな天気でなんだか俺はムシャクシャしていた。昔から中途半端は嫌いな質で、気象で言うならば梅雨や夕立とかなんかも俺の毛嫌いするところである。梅雨は高気圧か低気圧か競り合ってないではっきりしてほしいし、夕立はどうせ降るなら一瞬のような短い時間じゃなくずっと降っていてほしい。たまにそういうものを情緒があっていいとか抜かす人たちがいるけど、俺は理解に苦しむし理解したくもない。あんな中途半端なものはなんだか気持ち悪くないだろうか。だから俺はそういう人たちも中途半端な人間だと思って疑わない。中途半端な光景にある種のシンパシーを感じるというのならきっとそれはどこかその人間にも中途半端な部分があって、心の深い部分、深層心理で共感しているのだろうと思うからだ。同時に不快を感じる自分は中途半端でない人間なのかともたまに考えるけど、それはよくわからない。この世に完全な人間なんていないのはわかる。中途半端でない=完全ってわけでもないだろうけど、中途半端でないというのはたぶん凄く立派なことなのだ。俺はそんな立派な人間なのか? そんな風に考えていると余計にムシャクシャするのでますます中途半端が嫌いになるんだ。

家にいると俺はムシャクシャするしお袋もそんな俺を見てムシャクシャする。大抵お袋はパートで休日のこの時間帯はいないのだけどどうやら今日は別みたいで俺が部屋から出て飲み物を取りにリビングに向かうとお袋がソファを占拠している。うざいから素知らぬ顔で冷蔵庫を漁るけど、冷蔵庫の中は調味料と缶ビールがあるだけで他には何もない。野菜室に入れておいた俺のゼリー(280円、高い!)もない。ゴミ箱を開けるとゼリーが抜かれたプラスチックの容器が丸まった紙の蓋を中にして、底の隅に転がっている。俺はそれを指でつまんでソファに横になっているお袋の元まで持っていく。

「おいババア、また俺のやつ勝手に食ったやろ」

「え、あんたのやったぁ?」

お袋はテレビの韓国ドラマから目を逸らさずに言う。日本じゃまったく見ない無名の役者同士がハグしあっていて、たぶんこのドラマの見せ場なんだろうけど俺はますますムカついて言う。

「俺のやって普通わかるやろが家2人しかいんし」

「なんなんあんたその口の利き方さっきから」

「話そらすなや食ったんやろが」

「それがなんやって言うんよ」お袋の声に苛立ちが帯びるのがわかる。「結局私の金で買ったんやないか」

「お前の金にしろ買ったんは俺じゃ、お前に食う権利ねーわ」

「この家にいる限り家にあるのは全部私のもんや、あんたやって毎日食わしてやってんのは私やろが」

「うっせえわ、それでも守るべきモラルっちゅうもんがあるやろが、謝れや」

「なんなん中学上がって難しい言葉使って、親に感謝もせんくせに」

「謝れ!」お袋が俺にジロリと目をやるから条件反射的に俺は萎縮してしまうけど怒鳴ることは絶対にやめない。「謝れボケ、クソババア!」

お袋は何も言わずにソファから立ち上がり近くの窓を閉める。また始まった。お袋はこのアパートにある窓を全部閉めて密閉状態にして自分の部屋からいつもの竹刀を持ってくる。今すぐに謝りたい衝動に駆られるけれど俺は決してそうしないし謝る理由もない。俺は悪くない正しい。

「いっつもそうやって近所の目気にするくらいならやらんかったらええんじゃ」

そこで勢いをつけた竹刀が俺の腹に垂直に飛んでくる。腹の中の空気が一気に抜かれて痛みが身体中に悲鳴を上げ俺は床にうずくまって倒れ込む。立ち上がろうとするも、それでもバチンバチンと繰り返して俺の背中にお袋は竹刀を振るい俺は床から離れられない。痛い。痛い。痛い。背中のどこかに竹刀が当たる度にガラスがひび割れたような痛みは音よりも早く痛覚という痛覚に飛んで回る。お袋が俺の上着を無理矢理に脱がしてまた裸の背中に竹刀を振るう。さっきよりも重たい痛みが足の指先まで鋭敏に届く。

「いっつもいっつも反抗ばっかりしよって!」

息を切らしながらお袋が怒鳴る。竹刀の雨を絶やすことなくお袋は怒鳴り続ける。

「全部あんたが悪いんや!お父さんが出て行ったんも全部あんたのせいや!あんたさえ生まれんかったら、生まんかったら......」

「謝れクソババア」俺は心の中か口の外かもう判別がつかない。でも変わらず暴力は飛んでくるのでもうどっちでもいいんじゃないだろうかとも思う。倒れ込む俺の上でアホの一つ覚えみたいにお袋は怒鳴って殴ってしているけど、もしかしたらその時泣きもしていたように思う。なんで泣く? 俺はなにもしていない。何もかもお袋が悪いのだ。なのになんで俺を痛めつけながら泣くのだ?

それから俺は數十分間止むことのない暴力に耐えた。蹴られもしたし水もかけられた。無心で耐えて気づいた時には俺は家の玄関から締め出されていて上半身は何も着ていない。青アザだらけの腕を撫でながら俺は1人これからどうするか考えている。


今までにもこんなことは両手の指じゃ足りないほどあって、その時々で対応してきたけど一度半裸状態で街を歩いたときは児童相談所や警察に通報されかけてビックリして逃げたことがあったからこのまま外は歩きたくない。前々からうちの家の近隣の方々はなんとなくお袋の俺への虐待に気づいていて通報したのか、たまに相談所の連中がうちに訪ねてくることがあるからうちはマークされているのだ。要注意な人間をまとめたブラックリストってやつがあればそこに記載されている自信は十二分。奈津美に笑い話でそのことを話したときには「そのまま保護されちゃえばいいのに」なんて真顔で言われたけど俺はそういう関連の施設にいくのはまっぴらごめんだし関わりたくもない。そこはお袋も同じだろうし少しシャクな気持ちもあるけど俺はこの米原に友達はいるし今までどおりに接して遊んだりしたいし虐待がバレたりして変に気を遣われたくない。俺は俺の日常を壊したくない。あくまで普通の人間でいたい。

格子状の手すりの隙間から差す空は眩しくてじんわりと暑い。俺は腰掛けている室外機のカバーを外して上半身に纏って、例えるならクレープみたいになってアパートの階段をくだる。歩道を歩いてるとすれ違いにジロジロ見られるけどさすがにまだ中学生だし通報はされないだろうと踏む。信号を渡ってシャッター通りと揶揄される赤星商店街の坂道をまっすぐ駆け上がり毛細血管のように先分かれしていく裏路地に入ると手前の民家の平屋根の上にちょこんともう一つ八の字の屋根が乗っていてその分青空が隠れてる。寺の屋根だ。その屋根に近づくよう管状の細道を選択していくとすぐに善行寺の石段の前に出た。ぽん、ぽん、ぽんって一定の調子を自分の中に刻んで杉とかケヤキとかの影が光彩艶やかに踊る石の上を飛び跳ねていく。冬の冷たい風に背中を押されながら。そのうちに焦げ茶色でボロっちい建物が視界の上から大きくなってきて近づいてくる。えっほえっほ夢中になって石段を2段飛ばしで登っていく。次に足の踏み場がなくなった頃、俺の前には石畳がずらっと並んでいてようやく境内についたのだとわかった。石畳の奥にはどっしりと構えた古寺、善行寺がある。突っ立っていると耳の後ろから木々の間を抜けてくるさわさわした音が俺の頬の痣とか擦り傷を包んでまたしばらくするとどこかに吹いて過ぎ去って行く。少しの間俺はそれが気持ち良くてそうして体を自然に委ねる。無心になる。

ふと下に目を落とすと裸足の親指の先を尾がオレンジ色をしたイモリだかヤモリだかがその体をくねらせながら這いまわっていたから俺はそいつをパッと捕まえる。捕まえられたその生き物は危機を感じたのだろうか、手の内でもがいて時には理由なく先の分かれた舌を口から出して俺に見せた。表情はない。カラフルな尾に中指を当てると余計にもがいて暴れる。こういう爬虫類は尾が取れるってどこかで聞いた事が頭をよぎったから、その通りに尾を引っ張ってみる。だけど力を加えても取れないからイライラして俺はそいつの尻尾を無理やりな力任せに千切った。するとぶぢって音がしてドロドロした濃い緑色の体液がつつと手の甲に伝う。なんだか気持ち悪くなって俺は反射的にそいつを石畳の上に叩き落としてしまう。濃い緑色の体液は石畳に大きなバブルマークを描いて中心に倒れ込んでいるそいつは目に見えて、でもしかし微かにうごめいてどこかに向かおうとするけど1分もしたら徐々に動きは弱まって、動かなくなる。昔ゼンマイ式のブリキの人形を持っていたけどまるであれみたいだ。あれも今は壊れてしまった。もう捨ててしまったかな。どうだった? 俺はその場に屈んで体液に指をつけてみる。温かくもないし冷たくもない。舐めると雑草みたいな匂いが鼻を抜けて思わず地面に唾液と共に吐き出してしまう。まずい。境内を見渡すと水の溜まったバケツの上に蛇口があって俺はすぐさま駆け寄って蛇口をひねり水を出して口の中に入れていった。まずい。まずいまずいまずい。クソまずすぎる。いくら水で舌を洗い流しても俺の舌は体液を忘れない。まずいまずいまずいまずいまずい。立ちくらみがして視界が真っ暗になって俺はわけがわからなくなってしまう。体液は俺の中に染み付いてしまった。周りの森の景色や音が遠く、加速しながら離れていく。でも確かにそこにあるのに、俺は世界に見失われ忘れられ1人恐れながらうずくまり真っ暗になった目の前を見つめた。まぶたの裏のような視界。俺は段々と怖くなって、泣いた。心の中で恐怖を叫びながら目から涙を流して泣いた。でもいつまで経っても世界は唸るような轟音と共にどこかに行って飛び去っていってしまう。世界は回転を続けて全てはそれと行為を共にして俺は真っ暗な闇の中に置いていかれるのだ。すぐそこをものすごい音が鳴り止まず俺の鼓膜をうるさいくらいに打ち鳴らしているのに俺はなにがどこにあるのかわからない。俺の周りには何もない。俺はただただ泣いて泣いてそれが無意味だったから懺悔した。神はいないけど、目の前に広がる果てしない暗闇に懺悔をした。俺は最低だ。最低だ。ただの自分のエゴであの生き物を殺した。俺はあいつだったのに。あいつと何も変わらなくてむしろ同一ともいえる存在だったのに。俺は俺の勝手なワガママで俺を殺した。いつもそうだ、俺は救いようもないくらいにアホだ。死ねばいいのは俺だったのに、今俺は死のうともしないし。ただ自分が怖いというからあいつを殺したことに後悔の念をようやく覚えている。震えが止まらない。ごめんよ、ごめんよ。ごめんよ。全部俺が悪いんだ。俺が死ねばよかったんだ。

俺は泣いて、泣きに泣いた。そうしていると音はゆっくりと消えていって、涙の底には光が少しずつ戻ってきた。俺は未だに止まらない震えを両腕で抑える。体の温もりが腕を通して頭に響いて、そっとまた立ち上がるとさっきと何も変わらない寺と寺の境内達はそこにある。青空は頭上にある。水が穿つバケツの滝壺もある。世界は確かに、そこにあると俺は告げられる。今まで俺は死んでいたのだ。でも生き返った。

落ち着くまで肩で息をした。鼻をすすると匂いはなくて代わりに鼻水がずずずっと喉を通り、腹の内側に落ちていった。涙を手で拭うと下まつげに何か付いたから、指で取ってみるとそれは濃い緑色をしたあいつの体液だった。また蛇口をひねって水でそれを落とした後、俺はあいつの死骸の元まで歩いて向かう。それはまだそこにあってまるで変わらず動いてもいない。石畳の横の地面を軽く掘って穴を作り、俺は死骸を掴んでその中に入れる。土をかけると死骸は地面の中に潜って見えなくなってしまう。俺は仏教を信仰しているわけじゃないけど、パンと手のひらを合わせて地面に向けて拝んだ。

ごめん。

拝んでいると後ろで「あっ」って声がするから俺は振り向く。

ちり取りを持った老婆がいる。

だから俺も「あっ」ってつられるように口を開けて言ってしまう。お寺のお堂から繋がれた渡り廊下を続いて民家があって、そこは寺の住職一家の住む住居なんだけど、どうやら老婆の風体から察するに今から掃除をせんと家を出てきたばっかりのようで今まさに異物を発見したらしい。それはクレープ状の風呂上がりにバスタオル巻いてるような格好をした小汚い中学生。老婆の両の瞳は一向に変わらず俺に据えられてる。面倒だな。俺はお堂の裏手にある墓地に行くために歩き出した。何もする様子がなかったから行きがてら軽くお辞儀をして。鐘台とすれ違いぐねぐねな褶曲を描いた坂を向かう。森の木々の下にかっぽりと開けられたようなデコボコな坂は自然のトンネルとも形容できそうでなんだか腸を歩いている感覚だった。森の腸だ。道は細く脇を見るとそれなりに高低差があって坂をあがるごとに段々とその差は大きくなっていく。墓地に着くと気のせいか雲が僅かに頭に近くなったよう。墓地にはステレオタイプの墓がひしめくようにずらりと並び立ち、俺は中央付近の墓石を見る。

祖父と祖母が眠っている。

近くの水汲み場で桶と手酌を取り桶のいっぱいまで水を溜め、こぼさないように慎重に運ぶ。墓石はこのところ大分来てなかったせいもあってかなり汚れている。枯葉や腐りかけた小枝がそこらに散らばって、以前盆の時に置いた花々は枯れて見る影はなく、しかし茎は痩せ細り萎れながらも形を持ってそこにある。まぶしいくらいに色を放っていた茎の青臭さは死んだ。手酌で水をすくって墓石に投げるようにかける。上に纏っている室外機のカバーを脱いで雑巾代わりに墓石を拭く。御影石でできた石の光沢は水の輝きによって蘇った。何度も繰り返し墓石を拭いていく。墓石の下には祖父と祖母が仲良く並んでいる。俺はずっとさっきの事を考えてる。

トカゲかヤモリだかわからないあいつは死んでどこへ行ったのだろう。

人間には天国があるとしても動物にもそういう感じのがあるのか。


なら茎の青さは死んでどこに?


俺は手酌を置いて、もう一度ゆっくり枯れ果てた茎を見る。誰に殺されたかわからない茎は何も変わらない。突然生き返ってめきめきと元の青さを取り戻したりはしない。答えのない、あってもわからない、どうにもならないことをどうするわけではないが俺は考える。茎に触れようとするけど、奇跡のような何かで保たれているそれが崩れてなくなってしまう気がして俺はそうしない。ああこれはまだ生きている。死んでないな。

落ちているであろう花弁を探すけれど見当たらない。とりあえず手酌で水をすくって花立の底に静かに、少しずつ注いでいく。別にこうすることがどうというわけではない。でも俺はそうした。そうしたかった。水はみるみるうちに膨れ上がり傘を増し手酌の中の水がなくなるころにはいっぱいになっている。

俺は墓石に目を向ける。それは雫を糸を引きながらこぼしていて輝いてる。鈍く暗く息を殺すように。そこにある石ころのうちなるべくシャープなやつを取って俺は墓石に突き立てた。縦にがりがりと削ってやがてそれは長い一つの白線になる。線の真下には石の粉が小山のように盛られていて、俺はそれに指を置き、着いたものを口に運んだ。まずくはない。また舐める。舐める。舐める。

そんなに量もなかったから瞬く間に粉の山は無くなって食べ尽くしてしまう。俺は唾を口内に出して濯いで飲み込んで口の中の粉も全部腹に入れる。

うん。

なんだかどうでもよくなって地面に座り込んで半裸てぼーっと惚けているとカタンカタンと坂の方から音がして、誰かが来たんだとわかる。眠たかったから背中の段差を背もたれにうとうとしながら足音に耳を澄ましていたら足音は段々と近づいて、最後に俺のすぐそばでピタッと止まる。寝たふりをしながら注意をそこに向けているけど、止まってからまったくと言っていいほど動く気配がない。一体誰だろう。

「坊、なにしとるんや?」

しゃがれた声。俺は目を瞑りながら返す。「墓参り」

「おん?」

「だから墓参り」

「あぁ、坊ちゃんは早瀬さんとこの子かぁ」

「うん」

「どーしたんやその格好」

「暑いから」

「今冬やでぇ」

「知ってる」

「暑いかぁ、ほうかぁ」

「そうや」

「アザだらけやで、そりゃケンカでもしたんか」

「そんな感じ」

「痛ないかぁ?」

「ちょっとは」

「ほうか、ほうか」

またカタンカタン音が動いてその人物は墓石の前まで移る。俺はわからない程度に目を見開く。そこには地面があり草が生えてる。

「またけったいなもんで墓拭いたなぁ」

「うん」

「なんやこりゃ?」

「あー、うちの室外機のカバー」

「はぁ、室外機ねぇ」

ざっざっざっざっと背後で何かを始めたから振り向くと先ほどの老婆が俺んちの墓周りを掃除していた。真新しい雑巾で墓石も拭いていく。腰は曲がってなくてしゃんとしていて、老婆が掃除を終えてこちらを見て俺も老婆の顔を見た。白髪のパンチパーマ。皺のたくさん入った顔。

「さ、行こか」

「え?」

「上着貸してあげるから、ついておいで」

「えぇ?」

老婆はちり取りと箒をそれぞれ両手に抱えて坂のほうへ向かっていく。あれ、行く流れ? ぼけっとそのまっすぐな背中を眺めていると老婆は思い出したように言う。「桶らは返しておいでー」

「わかったー」俺も俺で返事をしている。あれ、どうしてこうなったんだろう。俺は舐めたあいつの体液と墓石の粉を思い浮かべる。もしかしたら今の俺は理性だとか人間性だとかいうものが麻痺かなにかしているのかもしれない。今の俺はいつもの俺じゃないようでさっきから体を謎の浮遊感が包んでいるような気さえする。まぁたまには流れに身を任すのもいいだろうし何より眠くて仕方が無い。俺は立ち上がって桶と手酌、ついでにカバーを持つ。また考え悩むのには野外という空間は適当ではなく屋内のほうがずいぶんとマシなはずだ。なんにせよ、今の俺には時間が必要だ。

だから老婆の家に入って庭園の傍にある居間に布団が敷かれた時は正直すごくありがたかった。老婆は皿の上に薪みたいに重ねられた5個のドーナツを居間の机の上に置いた。「お腹空いてるやろ、食べや。寝たかったら寝てもええし」

俺がお礼を言うと老婆はうんうん頷いて渡り廊下の方へ歩いていった。お腹も空いてたけど、俺は自分でも驚くくらいのスピードであっという間に皿の上のドーナツを平らげる。

裏の山のよくわからない鳥の声を聞きながら俺は布団にゴロンと横になって寝る。意識はすぐに睡眠欲の濁流に飲み込まれて流れていく。そして俺は夢を見た。そこでは俺の殺したあいつとあいつの尻尾が二階建ての民家ぐらいの大きさで並んでいてお互い日本語を喋っている。お袋もいたけどギャーギャーうるさいからあいつにパクっと食べられて、吐き出された時には肉が削がれた骨だけになっている。ざまあみろ。俺は笑っていたけど同時に泣いてもいて、骨の一本一本を手にとって眺めていた。これはお袋のいつかなんだ。ありふれた将来の一つなんだ。あいつの尻尾が縮んで俺の口に飛び込んでこようとするけど、俺は骨でそれを叩き落とす。バチン! そうしたら後ろのあいつが怒って怒鳴る。「なにやっとんねん!」俺はうんざりしながら言う。「いつまでやるつもりやねん」「お前かてそうやろが!」「まだ冷静になったよ、お前もいい加減変わらんか」「うるせえ!」「聞いてるやろ」「うるせえんじゃボケ!」「もっぺん殺したろか」「それはなんも意味ないやろが!」「あるわアホ。今のお前なら意味あるわアホ」「あ? お前裏切るんか?」「裏切るもクソもねーわ。お前があかんことやろうとしてるから止めるんじゃ」「......」「うん、ゆっくり考えよ。まだ時間はあるし」

ゴジラみたいなそいつは縮んでオレンジ色の尻尾を握ってどこかへ行ってしまう。そこで俺は目が覚めた。掛け時計を見上げるとまだ数十分程度しか経っておらず、布団から立ち上がって御堂に行くと、だだっ広い空間の向かいには徳の高そうな顔をした金色の観音が蓮の上に立っていたから、俺はよく見るために真ん前まで行って座る。観音は何も語らないし俺も何も言わない。御堂は半分腐りかけた畳の匂いが満ち満ちていて、じっとり臭いし自分にもカビが移りそうな不思議な気持ちになるのだけれど、何故だか俺はこの匂いが好きで呼吸する度に心が落ち着くようだ。

そうしていると渡り廊下から老婆がゆっくりとやって来て、座っている俺に真っ白い布を放り投げた。上着だ。老婆は着るように促して俺もその通りにする。身体中をまばらに出来た青アザは白い上着に包み込まれ温められた。痛いけど、いつもの自分に戻ったみたいだ。

「あんた早瀬さんの孫やったなぁ」

俺が頷いたのを見ると老婆は優しく笑って観音像の後ろ、段差を越えた御堂の奥にいって、こちらからは見えないけれどしばらく何かを探すような仕草をして、おおあったあったと大きな声で言う。そして手に持った二つの写真立てを俺の手前に置いた。

「これ、いつやったか預かっててって言われてなぁ。ここに置いてたんよ」

それぞれ写真には祖父と祖母が写っていた。遺影だった。

「拝むんならおじいちゃんとおばあちゃんもいたほうがええんちゃうか」

「そうかなぁ、まぁ一応」

俺は祖父と祖母とあと金色の観音に向かって拝んだ。まぶたを閉じて自ら恐れながらも暗闇を望んだのである。燃料とエンジンを積み込んだ飛び去っていく何かの音が聞こえてくるような不安を感じなくもなかったけれど、また特別な質量を持ちながら触れ得られざる観音の存在は俺に零れ落ちんばかりの平穏と安らぎをもたらしてくれる気がした。しばらくしてまぶたを開いて老婆が僕に語りかけた。

「落ち着いたやろう」そう老婆は顔の皺を一層深くしながら微笑をたたえている。俺の手前には大きなどんぶりみたいな鐘があって、俺はその中の小ぶりの棍棒と見紛いそうな気の鐘つきを手に取る。年季の入って全体が黒ずんだ鐘つきはちょうどよく俺の手に馴染み摩るとすべすべして気持ちいい。

「俺は仏教徒じゃないけど、悪くないよ」

「ええこっちゃ」

「なぁ、この鐘つきどういう時に使うん?」

「あぁそれなぁ」老婆は胸の前で手を動かして鐘をつくフリをする。「うちは法事のときに、拝むときに金を鳴らすようにしてもらってるんよ」

「わざわざなんで?」

「うん、これは婆の考え方やけどな、死んだ人に聞かせるためにや思うねん」

「死者に?」

「私はここにおるでーって知らせるんやな、もしかしたら死なった人の魂とかはそこらにふわふわ浮いてるかもしれんね。魂も音聞こえてたら安心するかもしれんや」

「魂に耳もないんちゃうの」

「まぁもしもや。ほうやって思っとったら残された人らも少し楽にもなるしやなぁ。やることの全部ほんまの意味なんて難しすぎて考えてたらいくら時間あっても足らへんや」

老婆はそう言って自分の手をこすり合わせる。小さなシミだらけの手。

「一つ一つ、自分なりの意味をはめてくしかないんやでな」

俺はその言葉にハッとするような心境で老婆を見た。自分なりの意味。自分なりのか。

「俺が生まれたのにも意味がある?」

「そうやね、あるかどうかは婆にはわからんけど、考えていく一つやな。根深い話やで、難しいけどな」

「どやって考えればええん?」

「好きなふうにすればええよ。ほうな、坊が成長してく中で色んな経験して、自分に吸収したときにもう考えは出てるんちゃうか」

「面倒くさいな」

「そんなもんや、人生面倒な事ばっかりや。でも、生きるってほういうことやでな」

「なら今考えてる俺も生きてるんやな」

「生きることはなんにでも通じるねんで」

俺はずっと老婆の言うことを考えていて、抑え込んでいたはずの自分の中に膨らんでいく感情はいつの間にか横隔膜のあたりにまで達していた。俺は無自覚に揺らいでいたんだ。拒絶されるかもという恐ろしさと入り混じった、言わば理解されたいという願望は止められるはずのない重みを含んだ言葉となって唇を割いて放たれた。

「俺お袋に憎まれてるんや」

俺の心のどこかにある強い感情はまた言葉を続けさせる。「なのに誰も俺を見てくれへん」

老婆は黙って俺の顔を見つめていた。俺の余計な感情の波はざばんざばんとうるさいくらいに俺の頭を揺さぶって俺は泣くまいとするけれど涙腺は無視して緩まって熱くなってくる。視界が水中みたいにぼやけて見えにくくなる。呼吸をしようとしてもいつものようにはならなくて震えて声を出そうとすればするほど泣き声みたいになって格好が悪い。あぁこれは泣いてしまう。中学生にもなって。えええなんで俺はこんな知らない婆さんの前で泣くんだろう。情けないけど涙はアホみたいに垂れてくる。俺はトカゲを見つけたときから、体液を舐めた時から何かちょっとおかしくなっているのだ。

「ううっ」変な声が出て息が苦しくなる。ついでに咳も出た。ぼたぼた床の畳に涙が落ちて鼻水も落ちるからますます格好悪い。なんでだよなんで泣くんだよ。「離婚してからお袋おかしくなったんや」

そうやって俺が泣いていると老婆は俺の横にきて背中を撫でてくれた。そんなことをしてくれるから俺がまたなんか泣いてしまって止まらない。またしばらくして俺が落ち着きかけたら老婆が言う。

「もう大丈夫か?」

俺がボロボロの顔で首を縦に振ると老婆は俺の頭にポンと手をやった。

「苦しかったんやねぇ」

「うん」

「ほうかほうか」

俺はもう一度泣いた。声をあげて泣いて泣いてまるで自分が赤ん坊にでもなったみたいだ。今は泣くしかないから遠慮なく泣こう。老婆が優しく見守ってくれているその間はそうしようと俺は決めたのだ。

大方の涙を出し尽くして一息つくと、やけに顔が熱くてまるでぼうっとつむじから湯気でも出ているようだ。触らなくとも目がパンパンに腫れているのがわかる。背中をさすってくれる老婆を片手で制すると老婆は離れてよっこらせと段差に陣取った。

「俺どうすればええんかなぁ」

「どうするって何をや?」

「やからさぁ俺まだ中学生やしさ、自立なんて無理やし、これからもお袋といなあかんやん」

「うん」

「なんていうかさ、こう、お袋とどう接すればええんやろう」

ほうやねぇ、と呟いて老婆は視線を宙に巡らせた。沈黙の長さにしてはいかにも気楽そうで、質問の重さにしてはまるで晩御飯の献立をどうしようかというような重みのない表情である。寺の外、街の遠くから聞き慣れたメロディの音がここまで響いた。夕方に決まって流れるえらくポップな新世界より。続けて女の声がして良い子の皆は家に帰りましょうと言う。毎日聞いていたはずのいつものことなのに、俺の耳はそれを懐かしいとかって感じている。長いこと忘れていたそれが、ふっと目の前に現れたような。

「婆はな、子供が四人おるんや」

老婆を見ると、目を瞑って口角を上げていた。放たれた言葉がなければ眠っていると誰かに言われても何ら疑いを持たなかっただろう。そう、眠っているようだ。

「多いな」

「ほうでもないで、昔は皆こんなもんや」

「俺も兄弟いたら、なんか違ったんやろか」

「違ったやろうね」

俺は適当に相槌を打って、何と言ったかはわからない。そうか、とかふうん、とかそういう類の相槌なんだろうけど、それらに感情が入っているということはなくて、もうどうにもならないことを考えて漠然とした虚無感に身を浸している。

「息子が二人に、娘二人でな、一人除いてみんなそれぞれ違うところで自立しとるわ」

また相槌を打った。老婆は語る。

「息子の一人がここのお寺継いで、坊も見たことあるやろけど、ほら、眼鏡の痩せた河童みたいなおっちゃん、あれなんやけどな、今はあんなふうに立派にやっとるけど昔は手の焼ける子やってなあ、うん、まぁ色々反発もしよったし喧嘩もしたよ、でもな、婆がいつも正しかったわけじゃないでな、そのときは頭に血いのぼって怒るけど、今になってみれば婆が間違ってたのもあったなぁって気づくこともあるでな、もう謝りもせんし向こうも覚えてるかどうかもしらんけど、こやって今は婆が養ってもらっとるし、我が事ながら上手くいくもんさね」

「俺が大人なっても、お袋と暮らせる自信ないで」

「それでええんや、婆が言いたいことはな、誰かて時には間違うんやってことや。母親やって人間やで、何考えて、何思ってるんかは本人しかわからんね。なにがあったかは婆はよう知らんけど、喜びとか悲しみも、他の人が思ってる以上に持ってるんやで。母親だけやのうて誰かてそうや。あんたのお母さんが、あんたの思ってるようになったんかてきっと理由があって感情があってそうなったんや。理解しろって言っても、考えてどうにかなることちゃうけどな」

「うん、わかるけど、まだわからんわ」

「今はほれでええのや。でも、いくらどうなったって親子は親子やで、なんかの巡り合わせがあってほうなったんやってことはわかっときな。ほんでまた巡り合わせなんやから、なんかの縁や。縁やからって思って、寛容を持てるようになればええけどな」

俺は少し笑った。縁? 縁ね。

「それは仏教の考え方?」

「いやいや、これは婆が勝手に言っとるだけ。仏様の教えはもっとすごいで、全ての人に愛と寛容を持つようにってな、えらいことやでまったく」

「そんなん、絶対無理やわ」

「おん、もちろん婆も無理やで。まぁ、そう思っとけっちゅう話や。婆かて長いこと生きてきたけど、誰かにくそったれ思ったり死んでまえなんて思ったことなんていっぱいあるで。そう思ったときに、仏様がそう言ってたって考えるとな、あぁそうしよかってな、楽になるんや」

鐘つきを握っていると内側からじんわりと汗が木に染み込んだ。俺はその手で握ったまま、目の前の鐘に向かって振り音を鳴らす。腹の底から振動で震えるように体を揺らすのはなんだろうか。拝むとそこらへんで漂っているあいつの魂が反応した気がした。

「仏様ってすごいな」

「ほんまや、敵わんで」

そうして落ち着いて気が済んで、俺は立ち上がりもう一度鐘を打った。先程死んでいった色んな魂に向けて。もう夕方だったから老婆が晩御飯を食べていくように勧めてくれたけど、俺はそれは断って、その代わりにもう一眠りさせてもらうことにした。ほんの数分だけ。起きても夢はみなかった。

布団から起きて俺は老婆の家を出ると、石段の付近で老婆が掃き掃除をしていた。俺は寄って老婆に声をかける。

「もう帰るよ」

「ほうか、泊まっていってもええんやで?」

「また今度頼むわ」

俺は笑いながらそう言って石段を降る。

「がんばりなせ」

石段の上で老婆が言う。

「あの、また観音様拝みにきていいですか」

老婆が優しく頷いたのを見て俺は石段を降りて帰路につく。目の前にはオレンジ色の俺の街とオレンジ色の夕焼けが広がってまぶしくて仕方ない。俺の悩みはまだまだあるし今現在もお袋を許せないでいる。でもこれからも一緒に住むのはお袋であるし、お袋が俺のお袋だということどう頑張ったって覆しようのない事実だ。俺が俺である限り、お袋はお袋なのだ。だからというわけでもないけど、お袋への接し方も他にもあるのではないだろうか。もちろんまだ見ぬ問題や苦難はあるのだろうけど、もっとマシな展開になる接し方。きっと今こう考えているのも一時のことだろうけど構わない。進化しない人はいないし何より俺はまだ中学生なのだ。俺は考えすぎて疲れたのでもう悩むことはとりあえずしないことにした。それでも夕焼け空は当分は続くし見ていてもやっぱり良いもんじゃない。まぁでも、この夕焼けにももう少しだけ優しくすることができるのかもしれない。それを見ているのは俺なのだから。

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