箱庭にも知る人

精華忍

問答

「『完全な世界』。そう聞いて、君はどんな風景を思い浮かべる?」

 彼は器用にカレーを口に運んだ。というのも、その手に握られているのは銀色に輝くスプーンではなく、漆塗りの黒い箸なのだ。

「なんだ、唐突に」

 ぼくはつい、箸でつかんでいた麺をずり落としてしまう。ちゃぽん、という音とともに乳白色のスープがはねた。すでに半分ほど食べ進めている彼に比べ、ぼくはまだ二口ほどしか食べていない。常連客の彼が、注文に時間をかけなかったこともあるが、ぼくが相当な猫舌であることが大きい。

「……なんでも願いが叶う世界、かな」

 ぼくは答えた。欲しいものがなんでも揃う。好きなことができる。そんな世界があればだれも不幸にならないし、だれも悲しむことはないはずだ。いきなりそんな不可解な問いをしてきた彼の反応が見たくて、彼の横顔を凝視した。

「なるほど。確かに、それは悪くない世界だな」

 彼は含みのある言い方をした。ぼくのムスッとした顔に気づいたのか、彼はすぐに口を開いた。

「いや、いくの答えを批判しているわけではないよ。ただ――それは『都合のいい世界』だ」

「都合のいい?」

「郁はきっと、完璧=幸せ=願いが叶うというプロセスを経てその答えを出したのだと思うけれど、それはあまりに楽観的な答えだ。」

 楽観的?

「正解……というか俺の考えは、こうだ」

 そう言って、彼は空になったコップを指さした。ぼくの手元にも同じものがある。セルフサービスの水を入れる容器だ。何の変哲もない、プラスチック製のコップだ。もしやと思って中をのぞき込んだが、やはり何もない。

「コップ、だよね?」

「別にこっちでもいい」

 彼はさらに空になったカレーの容器を指さす。おい、いつの間に食い終わったんだ。

「そんなにぼくの食の遅さを馬鹿にしたいのか」

「そんなわけあるか。重要なのは、空になっている、ということだ」

 彼――山猪峠やまいのとうげは指さしていた手をもとに戻した。

「……で、空になった容器がなんだっていうんだ」

「『完全な世界』そのものさ」

「はぁ?」

 ぼくはこれでもかというくらい眉をひそめた。もっと言えば、「なんだこいつ。気でも触れてしまったのか」という反応だ。

 そんなぼくを見て、峠はこう切り出した。

「郁、いま欲しいものはあるか」

「目の前のむかつく野郎をぶっ叩くハリセンが欲しい」

「そうか。ならそのハリセンがここに出てきた」

 おい、ぼくのわかりやすい感情は無視か。

「次に欲しいものはあるか」

「その口をふさぐマスクだな」

「そうか。ならそのマスクがここに出てきた」

 次は、とそのあと数十回にわたって峠は同じ質問を繰り返した。その度に、ぼくは挑発的な返しをしていたが、それもついにネタ切れになった。

「なんだ、もうないのか」

「いったいなんなんだ。その質問になにか意味があったのか」

「気づかないのか、俺たちは今まさに『完全な世界』の再現をしていたのさ」

「なんだって?」

 すでに冷めきってしまったスープをすくい損ね、再び乳白色の水玉が宙を舞った。

「キミが最初に答えた、なんでも願いが叶う世界。確かにこれは『完全な世界』と呼べる。キミは正解を言っていた」

「なんだ、今更負け惜しみか。この十数分における攻防は、あっけなく答えを出されてしまった意趣返しか」

「違う。キミは本当に楽観的だねえ。少しうらやましいくらいだ」

「……」

「悪かった。結論からいこう。キミの答えは正解のひとつの側面にすぎない、ということさ」

「側面?」

「見えているものが、聞いているものが、触れているものが、感じているものが、常に正しいとは限らない。コインの表と裏を、鏡も使わず同時に見ることができないように、それが本当の姿とは限らない」

 哲学のような語りを始めた峠。その表情はどこか悲しげで、危うい。目は据わっており、薄ら笑みを浮かべている顔は、今は真剣そのものだ。

「俺の考える『完全な世界』――それは」

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