Section3-5 必死の頼み

 小鳥さえずる爽やかな朝。時刻は八時に到達しようとしていた。

 紘也はリビングで食後のコーヒーを啜りながらぼんやりとテレビを眺めていた。本日は土曜日だが、ゆとり教育を撤廃した蒼洋高校では午前中のみ授業があるのだ。

 テレビでは、事件レポーターが海上に墜落した『FLORA240便』について語っていた。奇跡的に死傷者ゼロだとか、勇敢な乗客が犯人を取り押さえたとか、そのうちドキュメンタリー番組にでも取り上げられそうな内容だった。

「世の中には本当にヒーローみたいな奴がいるんだな。――っと、そろそろ時間か」

 制服には着替えているし、教科書などの準備も済ませている。いつもならばあとは学校へ行くだけなのだが……

「起きろこのぐーたら蛇がっ!」

 紘也は天井裏へ登っていた。薄いかけ布団に包まったペールブロンドの美少女が安心しきっただらしない顔で寝息を立てている。それだけ見せられると心臓が早鐘になりそうなものの、足の踏み場を奪っている床一面のカードが色気を大幅に軽減している。遅くまでデッキ調整に勤しんでいる姿が目に浮かんだ。

「起きろ」

 とりあえず蹴ってみた。

「んん~、むにゃ、あと三十日」

「……」

 紘也は一度下へ戻り、イヤホンと携帯用テープレコーダーを抱えて戻ってきた。どちらも妹の部屋から拝借したものだ。

 イヤホンをウロの耳にセッティングし、再生ボタンを押す。

「ううん……にゃむん!? な、あ、お、おっさんがおっさんでおっさんの――ハッ!?」

「おはよう、ウロ。楽しい夢を見たようだな」

「あ、紘也くんおはよう。なんか、いろんなおっさんが無理矢理渋い声でカッコイイ台詞を延々と吐いてる夢見たよ。しかも全裸……おえ」

 ウロの顔は血が通ってないのかと思うほど蒼白していた。紘也が即座に背中に隠したテープの内容は、オヤジ好きの妹が集めた『シビレる大人のボイス集その三(男性オンリー)』である。なお、六割ほど父親が演じていたりする。

「起きたのなら五分で支度しろ。メシはキッチンに用意してあるからな」

「ふわぁ、紘也くん報告れふ。これよりウロボロスさんは冬眠、もとい夏眠に入りまふ」

「おい大変だウロ、このカードよく見てみろ」

「ほえ? なになに? 致命的な傷でもついてるの?」

 ――グサッ!

「目から火花ぁあああああああああああああああああああああああああっ!?」

 というわけで、ウロの目を強制的に覚まさせた紘也は天井裏を後にした。

 一階に下りると、玄関に意外な人物が立っていた。

「朝っぱらからなにやってるのよ、あなたたち」

 蒼洋高校の制服に、二つ合わせたら陰陽を表す太極図になる髪留めをした少女――葛木香雅里である。彼女は呆れた視線で紘也を見据えていた。どうやらウロの悲鳴が聞こえていたらしい。

「アホ蛇を起こしていただけだ。それよりなんの用だ? てかインターホン鳴らせよ」

「鳴らしたけど出ないから勝手に入らせてもらったのよ。なんの用かは単刀直入に言うわ。あなたの護衛よ、秋幡紘也」

「俺の?」

「そう。昨日逃した妖魔の居場所はまだ見つかってないの。〝旦那様〟とやらが余程の曲者のようね。あの妖魔たちはあなたを狙ってるのだから、葛木家として護衛するのは当然よ」

「そんで、俺を囮に誘き出して連中を叩くってことだな」

「なんだ。ちゃんと理解してるじゃない」

 香雅里は満足げに微笑した。話が早くて助かる、と顔に書いてある。

「でも昼間っから襲ってくることはないだろ。蝙蝠は夜行性だ」

「飼い主はそうじゃないかもしれないわよ。それに――」

 香雅里は玄関の扉を開けて天を指差した。いつ雨が降り出してもおかしくない曇天だった。『夕焼けの翌日は晴れ』という諺は嘘かもしれない。

「こんな天気だったら夜行性でも行動できるんじゃないかしら?」

「……まあ、確かに」

 相手は幻獣だ。地球上の生物と同様に考えてはいけない。

「あなたにはウロボロスがいるし、別に四六時中監視するわけじゃないから安心しなさい。それと、ボタンはきちんと全部留めるように」

 ビシッと指摘され、ここは学校じゃないのに、と思いつつ紘也は渋々服装を正す。

「悪魔の風紀委員長にずっと睨まれてちゃ、俺の精神が擦り切れそうだ」

 皮肉げに言うと、香雅里はふんと鼻を鳴らした。凍りついたバラのように刺々しい。だからあまり友達ができないのだ(と言ったら殴られるだろう。たぶん)。

「そうそう、一つ訊きたいことがあったのよ」

「なんだ?」

「あなた、昨日妖魔をカバンで殴り倒した時、なにかした?」

「というと?」

「ただのカバンで殴って死ぬほど妖魔は脆くないってことよ。あなた、本当は魔術使えるんじゃ――」

「待ってぇ紘也くん、学校行くなら一緒に行こうよ。おや? なんでかがりんがいるの?」

 パジャマ姿のウロがふらつく足取りで階段を下りてきた。あれだけやったのにまだ意識は完全覚醒していないようだ。トロンとした目にだらしなく開いた口、パジャマのボタンは全て外れており、ノーブラの胸が一部エロティックに露出して――

「――って! シャキッとしろよ早く着替えろよ目のやり場に困るんだよ主に俺が!」

 そのまま瞼が落ちそうになるウロを、顔を赤くした紘也は慌てて二階へと押し戻した。

「本当に、なにやってるのよ……」

 背中に香雅里の冷たい視線が突き刺さった気がした。


 ウロの準備を数分で終わらせ、紘也たちは急いで家を出た。

 横一列に並んで通学路を歩く。

 護衛対象の紘也は必然的にウロと香雅里に挟まれる形となる。この二人はどちらも外見だけは目の覚めるような美人なのだ。そんな彼女たちを両手に花な状態で連れていると……すれ違う人々の視線が痛い。

 しかも――

「紘也く~ん♪」

「くっついてくるなよ狭っ苦しいんだよ!」

 ただでさえ居心地が悪いというのに、隙あらばウロが腕を絡めようとしてくるから油断ならない。その度に香雅里が監視するような睨み目を向けてくるのも困りものだ。

 これで敵が襲ってきたりしたら最悪だな、と紘也は心中で深く嘆息するのだった。

「……紘也くん紘也くん、なにか聞こえませんか?」

 特に何事もなく蒼洋高校の学生寮前を通過した時、ウロがそんなことを口にした。彼女は目を閉じ、探るように耳を澄ませている。

「なにかって……廃品回収の呼びかけが遠くから聞こえるくらいだが?」

 紘也は香雅里を見る。彼女も『聞こえない』と言うように首を横に振った。

 ウロの様子に緊迫感はない。だから幻獣関連ではないと思う。しかし、紘也や香雅里に聞こえない音を幻獣である彼女は捉えているのかもしれない。

「聞こえるよ。寂しそうな、悲しそうな声が……あっち!」

 そう言うと、ウロはピョンとブロック塀の上に飛び乗った。それからこちらを一瞥すらしないで家と家の隙間を駆け抜けていく。恐らく〝声〟とやらがする方向に。

「なんだよ、あいつ。あんな真剣な顔して」

 幻獣と戦闘している時ですら飄々とした態度を崩さないウロが、まるで人命救助をするレスキュー隊員のように表情を引き締めていた。

「追うわよ、秋幡紘也」

「ああ」

 香雅里も今のウロの様子になにかを感じたのだろう、学校の始業時刻が近づいているにも関わらず追跡することを選んだ。

 割とすぐにウロは見つかった。

 およそ道とは呼べない狭い路地の入口に彼女は立っていたのだ。

「おいウロ、一体どうしたんだよ」

 その肩を紘也が掴むと、ウロは今気づいたかのように体ごと振り返った。彼女はなにかを大事そうに胸に抱えている。それは――

 みゃー。

「仔猫?」

 だった。眉を顰めて呟いた香雅里と同様に、紘也も怪訝な表情になって路地の奥を覗き込む。

 そこには大き目のダンボールと一緒に『どなたか拾ってください』というプラカードが置いてあった。それで大体の察しがつく。捨て猫だ。

 みゃー。

 捨てられてから時間が経っているのだろうか、仔猫の鳴き声に力はなかった。紘也の隣で香雅里が頬を染めて「かわいい」と漏らしているが、そんなことより紘也は次にウロが言うだろう台詞をなんとなく予測できていた。

「紘也くん、この子、飼ってもいいかな?」

 ウロがいつになくしおらしい声でお願いしてきた。仔猫の頭を優しく撫でながら、上目遣いで紘也を見詰めてくる。だが――

「無理だ」

 予測していた紘也は、一秒も逡巡することなくはっきりと告げた。

「なんで? 紘也くんはペット禁止のアパートに住んでるわけじゃないじゃん。面倒はあたしが見るからさ」

「無理だ。ダメなんじゃなく、無理なんだよ」

「意味わかんないよ! この子、飼い主に捨てられて、拒絶されて、一人ぼっちなんだよ! 誰かが手を差し伸べないと生きていけないんだよ! 紘也くんはそれを見捨てるって言うの!? あたしにはできないよ!!」

 ウロらしからぬ剣幕に気圧されて紘也は半歩後じさった。敵幻獣を笑いながら屠るウロボロスが、なぜ捨て猫に対してこうまで必死になるのか紘也にはわからない。ただ、そこには単なる優しさや同情といった類ではない、もっと深い気持ちがあるように感じた。

 それでも、紘也にだって猫を飼育できない理由がある。

「アレルギーなんだよ、俺」

 そう、紘也は猫アレルギーなのだ。昔、妹が今のウロのように猫を拾ってきたことがある。その時に喘息に近い発作が起こってアレルギーだと判明した。

 アレルギーを舐めてはいけない。もしも処置が遅れてしまうと命を落とす危険性だってある。そんな死神のような存在を身近に置くなど、とてもじゃないが許容できない。今だってレッドゾーンギリギリの距離を保って喋っているのだ。

 しかし、アレルギーと聞いてもウロは引き下がらなかった。

「……どうにかして克服してよ」

「無茶言うな」

「じゃあさ、今からこの子飼ってくれる人探そうよ。ねえ、そうしよ?」

「学校はどうすんだよ?」

「ねえ、ちょっといいかしら?」

 言い争い寸前の二人に、香雅里が割り込んできた。彼女はちらちらと仔猫を見ながら、どこか言い難そうに、

「わ、私がその子、飼ってあげてもいいわよ?」

「かがりんそれ本当!?」

 香雅里の提案にウロの表情が、ぱあぁ、と輝いた。

「え、ええ、丁度、ペットが欲しいって思ってたところだし」

「捨てないでよ?」

「そんなことしないわよ」

「さっすが、かがりんは優しいね!」

 仔猫を貰ってくれることが余程嬉しいのか、ウロはテンションを跳ね上げて香雅里の手を掴み、ブンブンと大げさに上下へ振った。

「ちょ、放しなさいよ! こんな往来で、恥ずかしいじゃない」

「フッフッフ、往来? よいではないかよいではないか。なんならハグとかしちゃいますよ。今のウロボロスさんはそれほど感激しているのです」

 流石に抱擁までは交わさなかったが、香雅里はウロから仔猫を受け取ると携帯でどこかに電話をかけた。

「――うん、そう、仔猫。八時五十分に校門まで引き取りに来てくれないかしら? うん、ありがと」

 どうやら葛木家の許可も下りたようだ。新しい主人が見つかったことを仔猫も感じたのだろう、みゃー、と嬉しそうに猫目を細めて鳴いた。

「よかったですね、紘也くん♪」

「いいのか、お前。自分が飼いたかったわけじゃないのか?」

「いいんですよ。あの子を大切にしてくれる人が見つかればあたしは満足です。それに、あたしの我がままで紘也くんに迷惑はかけられないしね」

 もう充分に迷惑かかってるけどな、とはウロの本当に安堵した表情を見た紘也には言えなかった。

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