Section4-1 夜が明けて

 ……苦しい。

 なんだかよくわからないが、やたらと息苦しい。

 それに目が痒い。鼻がムズムズする。全身が金縛りにでもあったかのように動けない。

 風邪だろうか?

 いや違う。

 寒気はしないし、体もだるくない。なのに苦しい。

 一体自分の身になにが起こっているのかさっぱりわからな――


「ぶあっくしゅん!!」


 自分の盛大なくしゃみで紘也は目を覚ました。ずるり、と鼻水の汚い音がする。

「えっと……どうなってんの、俺?」

 症状が謎だ。風邪じゃないことは目覚める直前になんとなく感じていたけれど……幻獣から変なウイルスでも貰ってしまったのかもしれないと心配になる紘也である。

 わけがわからないまま、とりあえず紘也は上体を起こす。

 みゃー。

 見覚えのある仔猫が紘也の布団に乗っかって丸まっていた。

「……」

 硬直する紘也。

 みゃー、と甘えるように鳴く仔猫。


 紘也 → 猫アレルギー


「ぬわぁああああああああああああああああああああああああああああッッッ!?」

 これ以上ないくらいの絶叫を部屋どころか建物中に轟かせる紘也だった。

「ゴホゴホッ! な、なんれこんなとこに猫ばっくしょん!!」

 逃げるように布団から這い出る紘也だったが、恐ろしいことに対猫アレルギー患者専用生物兵器KONEKOはトテトテと無邪気に追尾してきた。

「よ、よーし落ち着けこっち来んなよ。ゴホッ! 頼むから向こう行ってくれよな? な?」

 みゃー。

 壁際に追い詰められた紘也は必死にあっち行けと手を振るも、仔猫はお構いなしに無垢な目をして近づいてくる。しかも遊んでもらっていると思ったのか、しっしっと振る紘也の手を猫じゃらしに見立てて飛びついてきた。心なしかさっきまで無垢だった目がキランと光ったような気がする。

 んみゃーっ!!

「だぁあああああああああッ!?」

「やめなさい、小鉄」

 間一髪、紘也に飛びつく寸前に仔猫は誰かに拾い上げられた。その誰かの胸に抱かれる形で、猛獣のように凶暴化していた仔猫(紘也ビジョン)は一瞬で安らいだ顔をする。

「ほ、本当に猫が苦手だったのね、秋幡紘也」

 いつの間に現れたのか、機動力重視の黒装束を纏った葛木香雅里がそこに立っていた。笑いを必死に堪えてますよ、といった様子で顔を引き攣らせてプルプル震えているように見えるが――

「……くふぅ」

 少し吹き出した。即座に「笑ってませんよ」とでも言うように平静を装おうとして失敗した表情をする香雅里。マヌケな姿を見られた紘也も羞恥心で顔が火照ってきた。

「笑いたきゃ笑えよ」

「いえ……流石に……失礼だから」

 目の前で笑いを堪えられるのも充分に失礼だと紘也は思う。

 彼女が落ち着かないと話もできそうにないので、紘也も症状が引くまで自分の現状を確認することにした。現実逃避的に。

 グリフォンとの戦闘後、〝王威〟の圧力から解放された紘也たちはすぐに奴を追いかけた。だがグリフォンの姿は影も形もなく、紘也はもちろん、ウロやウェルシュですら気配を感知できなかった。

 それから遅れて戻ってきた香雅里と合流し、紘也たちは詳しい話をするために葛木宗家へと同行した。一通りの状況説明をした後は、夜も遅かったので葛木家宗主――葛木玄永の好意に甘えて泊めてもらうことになったのだ。

 なんとか落ち着きを取り戻したのか、香雅里が小さく息をついた。 

「少しは眠れた?」

「目覚めは最悪だったけどな。それより、愛沙の家の人たちは?」

 愛沙が攫われたのは魔術側が絡む事件だ。これ以上一般人を巻き込むわけにはいかない。そのため、紘也たちはろくに挨拶もせず鷺嶋神社を去っていた。

「そっちは心配ないわ。記憶を少し操作したから、鷺嶋さんがいない状況を自然と納得できる形で収まってるはずよ。今は親戚の家に預けて舞の稽古をしてる、と思ってるみたいね」

 少しだけ紘也は安心する。鷺嶋家の親戚というと、鷺嶋神社よりずっと大きい神社を経営していると聞いたことがある。詳細は知らない。

「でもそんなに長く隠し通すのは無理ね。鷺嶋霊祭の当日に主役の鷺嶋さんがいない。そんなことになったら一発でバレるわ」

「あと二日か。――いや、そこまで余裕はないな」

 周りの人たちならともかく、家族はそれよりも前に絶対に気づく。親戚に連絡でもされたらジ・エンドだ。それに――

「愛沙がいつまでも無事でいられるとは思えない。早く『黎明の兆』を探し出さねえと」

「そうだな」

 肯定の言葉は開け放たれた襖の向こうから聞こえた。

「あと二日とか一日とか、そんなリミットは関係ない。オレたちは一分一秒でも早く愛沙を助け出す。そういうことだろ、紘也?」

「孝一、なんでここに?」

 紘也の親友――諫早孝一だった。彼はユニコーンに蹴られて重傷を負った、と紘也は思っていた。けれど奇跡的に怪我は打撲や切り傷程度と軽く、紘也たちと一緒に葛木家で簡単な治療を受けていたのだ。

「いや、紘也の悲鳴が聞こえたから」

「悪い、アレはなんでもないんだ。聞かなかったことにしてくれ」

「……くぷぅ」

 香雅里がまた吹き出しそうになって顔を逸らした。まったくもって忘れてほしい黒歴史である。

 自分で掘り返すのも嫌なのでスルーしておこう。

「なあ孝一、本当に体は大丈夫なのか? 壁突き破る勢いで蹴り飛ばされてただろ」

「昨日何度も言ったろ。この通りピンピンしてるんだから問題ないさ。紘也こそ、もう動けるのか?」

「まあ、俺は魔力を消費し過ぎただけだし」

 その魔力も一晩休んだらほとんど回復してしまった。この回復力が父親譲りなのか若さ故なのかウロボロスと契約したせいなのかは不明だが、状況が状況だから非常に助かる。

「今すぐにでも動きたいところだ」

「焦るなよ」

「わかってる」

 冷静さを欠いて飛び出すほど紘也は愚かではない。ヴァンパイアの時だってなんとか情報を掴むことができた。あの時と状況は違えど必ず好機は訪れるはずだ。不要な行動で無駄に体力を浪費してしまえば、勝てる戦にも勝てなくなる。

「とりあえず」と香雅里が割り込む。「朝食の準備ができてるわ。話の続きはそっちでしましょう。あなたの契約幻獣もさっき叩き起こしておいたから」

「オレもその話に加わっていいのか?」

 孝一が確認する。香雅里は短い溜め息を吐いた。

「本当はただの一般人のあなたには遠慮してもらいたいところだけれど、どうせなにを言っても聞かないでしょう? 今さらよ。諦めてるわ」

「ははっ、わかってるじゃないか」

 はにかむ孝一に肩を竦め、香雅里は踵を返した。紘也と孝一は彼女の後に続いて大広間へと案内される。

 みゃー。

 食事の場には入らないよう躾けられているのか、小鉄は香雅里の胸から飛び降りて自由気ままにどこかへ行ってしまった。

 天敵がいなくなったことで紘也が心底ほっとしていると――

「……おはようございます、マスター」

 一番下座の座布団にちょこんと正座していたウェルシュが、いつ通りの無表情で挨拶してきた。

「ああ、おはよう、ウェルシュ。……あれ?」

 紘也は眉を顰めた。高級そうな幅広の木製机には人数分の料理が並んでいる。焼き鮭、卵焼き、漬物、味噌汁。絵に描いたような和の朝食は、見ただけで寝起きの胃を活発化させてしまう。早く流し込めとばかりに空腹が襲ってくる。

 なのに、席に着いているのはどういうわけかウェルシュだけだった。

「ウロと山田はどうした?」

「ウロボロスはまだ寝ています」

「はぁ? なんでまだ寝てるのよ? ちゃんと起きたはずでしょ?」

 香雅里は信じられないといった顔をしたが、紘也には納得だった。ウロは基本的に朝にめっぽう弱い。一度目を開いて返事して立ち上がったくらいでは目覚めた内には入らないだろう。

「二度寝だそうです」

「……アイロンじゃ弱かったかしら?」

「……」

 ツッコまない。紘也はツッコまない。アイロンをなににどんな風に使ったのかなんてツッコまない。スルースキル上級者の嗜み。

「あー、山田も二度寝か?」

 こんな時にあいつらは、と少々気合を入れてやる必要性を紘也は感じ始めた。

「いえ、山田ならそこにいます」

「えっ?」

 ウェルシュが指差した先に、確かにそれはいた。

 部屋の隅っこ。一体なにをしているのか、青い和服を纏ったヤマタノオロチが壁を向いて丸まるように座っている。


 幼女の姿で。


《やはり。やはり夢ではなかった。せっかく力を取り戻したというに。また童女に戻ったなどと……くそう。くそう》

 怨念を唱えるようになんかぶつぶつ呟いている。山田の周囲だけ空気が青黒く沈んでいる風に紘也には見えた。

 紘也の魔力を受け取ったことで本来の姿に戻っていたヤマタノオロチだったが、それは一時的なものに過ぎなかった。グリフォンとの戦闘で調子に乗り、与えた魔力のほとんどを使ってしまったせいだろう。あれだけ水流砲を乱れ撃っていたら魔力だってなくなる。ヤマタノオロチが大人モード(紘也が勝手に命名)になれていた時間は数分程度だった。

《このような姿でなにができる? また金髪に馬鹿にされるではないか。どうせ吾なんて。吾なんて……》

 落ち込み方が尋常じゃない。大人モードになった時の浮かれようを思えばわからないでもないが、とても話しかけづらい。

《なんだと? 金髪が我を馬鹿にする前に。金髪が寝ている間に悪戯して逆に馬鹿にすればいい? フフフ。フフフフフフ。そうかそうか。それは名案だな。己は天才か》

 大変だ。見えてはいけないなにかと会話し始めた。たぶん心の中の悪魔とかそんな感じの存在と。

「山田、メシが冷めるぞ」

 当たり障りない言葉を選んで声をかけると、山田は覇気のない顔で振り返った。それからたっぷり十秒ほどぼんやり紘也を眺めていた山田だったが、唐突にハッとした様子でホオズキ色の目を見開いた。

《己! 人間の雄! 丁度よいところに来た!》

「な、なんだよいきなり」

《吾に魔力を寄越せ!》

「葛木、『黎明の兆』の居場所についてなんだが」

《無視か!?》

 思ったよりは元気そうだった。もう放っておいても大丈夫だろう。

《ぐうぅ。人間の雄め。無視とはふざけた真似を……。己が寄越さぬなら吾が喰ろうてやる!》

「うわっ」

 くわっと大口を開いた山田が紘也に飛びかかり、肩車をする形で後頭部に貼りついた。それから乳歯の並んだ口で思いっ切り紘也の頭にかぶりつく。

「痛っ……くはないけど」

 寧ろいい具合に頭皮マッサージになっているけれども――


 ガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジガジ。


「鬱陶しいなもう!」

 頭を振って振り落すことにした。畳に尻餅をついた山田は「ぎゃん」と悲鳴を上げたが、すぐにまた飛びかかろうとしたのでウェルシュに命じて取り押さえさせた。

《お。覚えていろ人間の雄!》

 悪役の捨て台詞みたいなことを喚く山田はスルーし、紘也は適当な席に座る。見れば孝一は既に朝食に手をつけていた。相変わらず他人の遣り取りを文字通りおかずにする親友だった。

「ウロボロスがいないけど、そろそろ話を始めてもいいかしら?」

 上座に腰を下ろしつつ香雅里が聞いてくる。ウェルシュに踏みつけられた山田がまだなんか叫んでいるが、なにも問題ない。

「ああ、頼む。まず『黎明の兆』の居場所はどうやって探るんだ?」

「いきなり一番の問題を突いてくるわね」

 言い難そうに顔を顰めて香雅里はお茶を啜った。紘也も割り箸を割って卵焼きを摘まむ。

「そんなに難しいのか? グリフォンの言葉が本当なら、奴らはまだ蒼谷市近辺にいるはずなんだ」

「連盟が取り逃がして発見できずにいたのよ? 探知系の術式を遮断するなにかを連中が持っていると見るべきね」

「そうか」

 紘也たちも感覚を頼りにグリフォンを追えなかった。となると、遮断するのは魔術だけではなさそうだ。

「一応、大がかりな探知術式の準備を今お爺様が進めているわ。でも期待はできないから手探りで見つけ出した方が早そうね」

「じゃ、オレも後輩たちにそれとなく情報募ってみるか」

 食事を中断した孝一が携帯を取り出して席を立った。友人の多い孝一の情報網は一般人とはいえ馬鹿にできない。実際にヴァンパイアの居場所を発見した実績がある(葛木家という怪しい集団を発見しただけだが)。

「そういうわけだから秋幡紘也、今回はあなたたちの手も借りたいの。具体的に動いてもらうのはウロボロスとウェルシュ・ドラゴンだけど」

「ウェルシュですか?」

 食事の席に戻ったウェルシュがアホ毛を『?』にして小首を傾げた。山田が座布団代わりにされているのは見なかったことにしようと思う紘也である。

「ええ、あなたとウロボロスは飛べるでしょ? 空から探ってほしいのよ。敵の拠点が地上にあるとは限らないから」

「……了解です」

「空だけじゃなく地下の可能性もあるなら探索範囲が広すぎるぞ」

 地下だった場合、魔術に頼らずどうやって見つければいいのか見当もつかない。ダウジングでもすればいいのだろうか?

「だから、一番の問題点なのよ」

 香雅里は疲れたように嘆息した。今のところ探知術式と人海戦術による手探り以外に方法は思いつかない。魔術が効かないなら科学方面の技術で探す手もないわけではないが、恐らくそれはとっくに連盟が試している。

 良策を考えている時間的余裕はない。

 無意味に停滞するよりは、今ある方法を片っ端から試すべきだろう。多少体力を浪費することは覚悟した方がよさそうだ。ウロとウェルシュに飛び回ってもらうことについても、紘也に異論はない。

「わかった、ウロは後で俺が起こして伝えとくよ」


「その必要はありませんよ、紘也くん」


 大広間の入口に当のウロボロスがパジャマ姿で立っていた。

 ただし、瞼はほとんど閉じかけ、体はフラフラと危なげに揺れていたが。

「話は全部聞いてました。ええ、聞いてまひた。……にゃ。地中を飛べば、いいんでれねムニャムニャ」

「うん、まだ寝てるみたいだから起こしてくる。あ、葛木、わさびかからしがあると助かるんだけど」

「起きてます起きてます起きてますとも!! ウロボロスさんはジャボフビョーンって感じに全力で覚醒していますからわさびもからしも必要ありませんですよ!!」

 ビクゥ! と飛び跳ねて姿勢よく直立するウロ。まったく都合のいい耳をしている。紘也は心の中で舌打ちした。

 そんな紘也たちに頭痛でも覚えたのか、頭を手で押さえながら香雅里は言う。


「ふざけてないで、食事が終わったらすぐに探索を始めるように。いいわね」

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