Section2-3 手の届く羨望

「このガキャア! 一文無しでメシ食おうたぁどういう躾されてんだぁ! ああん!」

 蒼谷市市民公園にほど近い小さな定食屋から、ドスの利いた野太い男の叫び声が響いた。ガラッ! とスライド式の扉が勢いよく開け放たれ、左頬に十字傷のある強面の大男が暖簾をくぐって現れる。紺色のソムリエエプロンには『てんちょー』と丸っこい文字で刺繍されており、リンゴを楽々握り潰せそうなごつい手には青い和服姿の少女が猫みたいに摘み上げられていた。言うまでもなく、美味そうな匂いに釣られて入店した無一文のヤマタノオロチである。

「今度はパパかママと一緒に来るんだな。そんときゃあ、なんでも美味いメシ食わせてやらぁよ」

 ポイッとぞんざいに少女を放り捨てると、店主は踵を返して背中でそう語った。小さな定食屋の店主にしておくには勿体ないくらい豪胆無比な男だった。

《おのれ。人間の雄の分際で吾を摘まみ出すとは。……昔は頼まずとも酒や食料を捧げておったというに》

 これが現代の人間なのか。まるで畏れを知らない。

 ――ふざけている。

 ヤマタノオロチを舐め切っているのはなにも人間だけじゃなかった。野良犬に遭遇しては吠え追い回され、猫には威嚇され、鳥には糞を引っかけられた。本来の力さえ戻ればどいつもこいつも容易く〝霊威〟の支配下に置けるのだが、憎たらしいことに童女の姿では犬っころ一匹退けることもできない。

《なんとかせねば……》

 このままではマズい、そう悟ったところで背後から人が近づく気配を感じた。単なる通行人とは違う。ヤマタノオロチに対して明確な意識を向けている者だ。

 追手かと思い振り返ると――

「こんにちは、山田ちゃん。こんなところでなにしてるの?」

 女神がそこにいた。

 もとい、長く艶やかな黒髪と赤いリボンが特徴の少女――鷺嶋愛沙だった。彼女ははち切れそうなほど様々な食材の詰まった買い物袋を提げ、場を和ませるようなニコニコほんわかした笑顔でヤマタノオロチの警戒心を瞬時に取り払う。

 追手じゃなくてすこぶる安心した。

「山田ちゃん一人? ヒロくんたちは一緒じゃないの?」

《吾を『山田』と……ま。まあ。己にならそう呼ばれるのも悪くないか》

 若くて美人の人間の雌にはとことん甘いヤマタノオロチである。

《ふん。吾があの者どもと仲良しこよしでいられると思うたか? 出てやったのだ。奴らにとっても吾は邪魔な存在だろうからな》

 腰に手をあてて威張る。彼女にならわざわざ声を一つに絞る必要もない。

「うん、今はちょっとぎくしゃくしてるかもしれないねぇ」

 愛沙は否定しなかった。ぎくしゃくという表現こそ生温いが、現状をしっかりと理解している。緩く微笑んだ双眸は節穴ではないらしい。

「でも、ヒロくんたちはいい人たちだよぅ。一緒にいればきっと山田ちゃんとも打ち解けると思うなぁ」

《己の目はよくても。頭は花畑のようだな。吾らが理解し合うことなぞありえん。――己こそ。こんなところでなにをしている?》

「わたし? わたしはお買い物の帰りなのです。明日からたくさんお料理しないといけないから、その準備だよぅ」

《料理……?》

 きゅるるるぅ。

 腹の虫は正直者だった。

《今のは……その。なんでもない。聞かなかったことにしろ》

「あはは、お腹空いてるんだねぇ。お昼食べてないの? あ、お菓子あるけど食べる?」

《食べる!》

 生物である以上、食欲の前にはプライドなど一瞬で瓦解してしまうものだ。ヤマタノオロチはそう開き直ることにした。

 公園のベンチに移動し、愛沙から菓子の入った袋を貰う。薄く切ったジャガイモを油で揚げた菓子。初めて食べたがカリッとしていて大変美味だった。

 夢中になってがっつく。

「そんなに急いで食べなくても誰も取ったりしないよぅ」

 愛沙は世話のかかる妹を見るように苦笑した。聞けば彼女自身、ヤマタノオロチの恐怖を目のあたりにしているらしい。ならばどうして自分を殺していたかもしれない存在にこれほど優しげに、躊躇いなく接することができるのかヤマタノオロチには謎だった。

《己は……吾が恐ろしくないのか?》

 だから訊ねた。この童女の中身がヤマタノオロチだと知っているなら、寧ろ秋幡紘也たちと同じ反応をする方が普通だろう。

 愛沙は変わらずニッコリと微笑んで、ヤマタノオロチの口元をハンカチで拭った。んむ、と思わずヤマタノオロチは呻く。

「恐いよ。でもそれは山田ちゃんがあの時みたいにみんな壊そうとした場合。今はそんなつもりないんだよね?」

《う。うむ……》

「なら全然恐くないよぅ」

 破壊したくてもやれないのが真実なのだが、愛沙に疑いのない笑顔を向けられるとなぜだか否定できなかった。

 ――人間の期待を裏切ることを躊躇った? この吾が?

 相手が人間の雌だからか? それとも菓子一つで簡単に懐柔されるほど落ちぶれてしまったのか?

 わからない。わからないが、この娘といると徐々に心が清浄化されていくような感覚に苛まれてしまう。緩々の空気が闘争心を消沈させてしまう。

 はたと気づく。ヤマタノオロチは鷺嶋愛沙によってすっかり毒気を抜かれてしまっていたのだ。

「そういえば前にもウロちゃんとこんなことがあったなぁ。あの時もこの公園だったっけ」

 懐かしそうに愛沙は天を仰いだ。それは当然、ヤマタノオロチには知らない話だ。

《金髪と?》

「うん。ヒロくんとウロちゃんが喧嘩しててね。ウロちゃんがこの公園で一人で泣いてたんだよ」

 その光景は是非この目で拝見したかった、とヤマタノオロチは心の中で舌打ちした。

「いろいろとお話を聞いて、相談に乗って、途中でウェルシュちゃんが襲ってきたりもしたけど、最後は誤解も解けてみんな仲良しさんに戻ったんだよぅ」

《……なぜ。そんな話を吾にする?》

 明るく語る愛沙の意図が読めず、ヤマタノオロチは眉を顰めた。

「きちんと話し合えば、ヒロくんたちは山田ちゃんのこともわかってくれる。仲直りできる。わたしはそう信じてるってことかな」

《いや。直るもなにも仲良くなった覚えはないのだが……》

「じゃあ、これから仲良しさんになればいいんだよぅ。ウロちゃんとウェルシュちゃんみたいに」

《……》

 ヤマタノオロチは想像してみる。彼らの輪に加わり、笑い合っている自分の姿を。家を飛び出す直前までの楽しげな団欒を……。

 気持ち悪かった。

 ありえないと思った。

 だが少なくとも、独りでいるより不自由がないことはとうに悟っていた。気が遠くなるほど長い時間を封印という孤独の中で過ごしてきたヤマタノオロチにとって、あの空間は眩し過ぎたのだ。封印される前は人間の雌を大勢侍らせて娯楽を供にしていただけに余計そう感じた。

 奴らに対し怨恨があるのは事実だが、同時に羨望の感情もあったのだとこの時になって気づく。家を飛び出したのだって、彼らが眩過ぎて目を灼かれてしまわないうちに逃げたかったのかもしれない。

 手を伸ばせば届く距離。少々、意地を張り過ぎていたようだ。

《人間の雌――愛沙と言ったな。頼みがある》

「うん」

 愛沙は優しく頷いた。胸の内に秘めた想いを彼女に告げるのに、もはやなんの躊躇いもない。

《吾の友になってくれ》

「もちろんだよぅ。ちゃんとそう言えたから、ヒロくんたちともすぐ仲良くなれそうだねぇ」

《あ。いや。奴らと仲良くする気はさらさらないぞ》

「ふぇ? どうして?」

 驚いたように愛沙は目を丸くした。どうしてもこうしても、ヤマタノオロチに現在最大の悩みを与えたのが奴ら――主に金髪だからだ。奴らの関係が羨ましくあってもその輪に加わりたいわけではない。ならばヤマタノオロチにはヤマタノオロチの輪を作ればいい。その最たる者が鷺嶋愛沙だ。

《まあ。奴らがどうしてもと土下座で吾に平伏せば考えてやらんこともない》

「素直じゃないんだねぇ」

 くすっと笑いを零す愛沙。なんか勘違いされたようだが、否定するのは億劫だし愛沙には嫌われたくない。だからそういうことにしておこう。

《愛沙。もう一つ頼みがある》

「なにかな?」

《吾を愛沙の屋敷に住まわせろ》

「わたしの?」

 愛沙は少し逡巡するように「う~ん」と唸り、聞き分けのない子供を諭すような口調で言う。

「それはダメ。山田ちゃんのお家はヒロくんちなのです」

《ぐぬ。だが》

「ヒロくんちなのです」

《……承知した》

 ふわふわの笑顔に不思議な威圧感を覚えてヤマタノオロチはつい承諾してしまった。そしてわかったことがある。愛沙はどうしてもヤマタノオロチを秋幡紘也たちと仲良くさせたいのだ。

 愛沙は外面こそおっとりしていて危なげだが、芯は強いらしい。だからその想いはヤマタノオロチがなにを言おうとも曲がらないだろう。

《なら。条件がある。せめて己だけでも吾のことは別の呼び名で頼む。やはり『山田』は嫌だ》

 呼び名改正で妥協することにした。

「じゃあ、『ヤマちゃん』」

《ヤマちゃん……うむ。悪くない。気に入ったぞ》

 微笑むと、愛沙も微笑み返してくれた。封印から解放されて以降、初めて誰かと心の底から純粋な感情で笑い合った瞬間だった。

 そのまま他愛ない会話を続けた後、愛沙はおもむろに公園の時計を見上げた。

「そろそろ帰ろっか。えっと、一人で帰れる? 送ってく?」

《ふん。馬鹿にするな。吾はこのような姿だが子供ではない。来た道くらい覚えて――》

 ヤマタノオロチは言葉を途中で止めた。

 止めざるを得なかった。

 極度に弱体化しているが、ヤマタノオロチとて竜族の幻獣である。多少なりとも魔力の気配を察知する能力は残っていた。

「ヤマちゃん?」

 様子を一変させたヤマタノオロチに愛沙が不安げな声をかける。ただの人間に幻獣の魔力は感知できない。

 ――どこだ?

 曖昧な探知能力をフル稼働させ、敵意の出所を探す。

 探す。探す。探す。

《上!》

 見つけた瞬間、上空から複数の影が隕石のように落下した。凄まじい衝突音と共に、着弾した箇所から爆発的に粉塵が巻き上がる。

 周りにいた人間どもが悲鳴を上げて散っていく。

 ――個種結界を張らない? いや。張れないほどの雑魚か。

 粉塵の中の影が逃げ行く者を追う気配はない。ただただまっすぐに敵意をこちらへ向けている。

《吾に喧嘩を売る気か? 己らはどこの阿呆だ?》

 強がりは重々承知していた。相手がどれほど雑魚だろうとも、今のヤマタノオロチはそれ以上の雑魚なのだ。

 バサッ!

 巨翼の羽ばたく音。刹那、突風が吹き荒れ粉塵が中から掻き消された。

 姿を現したのは三体の怪物だった。

 牡鹿のような頭部には枝分かれした立派な角が生え、地を力強く踏みつける四足は蹴られれば即死しそうなほど逞しい。胴体は鳥のそれで、孔雀のように巨大で鮮やかな翼を広げ威嚇している。

 どう観察しても獣だ。しかし不思議なことに、奴らの影は人型に見えた。

《なんだ。己らは?》

 警戒するヤマタノオロチの問いには答えず、三体の幻獣は高々と雄叫びを上げた。


 市民公園で秋幡紘也の契約幻獣を諭した直後に襲撃に遭う。

 愛沙にとっては強い既視感だったが、あの時とは決定的に違う箇所があった。

 あの三体の幻獣は、紛れもなく、敵。

 つまり、一般人の愛沙も躊躇いなく襲うということだ。

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