第三十七章 おまわりさんと遊ぼう

第三十七章 四つのプロローグ

「竹田さん、梅津さんが呼んでいます」


 安楽警察署裏通り課の自席にて居眠りをしていた竹田香苗は、同じ課の刑事である松本完に起こされて、ふと時計を見てから、絶望と悲嘆のあまり再び机に突っ伏した。午前零時を五分以上過ぎていた。


「とうとうこの時が来てしまった……」

「え?」

「今日、私……誕生日」


 訝る松本に、香苗は呻くように答える。


「へー、おめでとうございます」

「めでたくなーいっ。とうとう三十になっちまったんだあっ」


 社交辞令な賛辞を口にする松本に向かって喚くと、香苗は乱暴な足取りで部屋を出て、洗面所へと向かう。


 顔を洗い、しげしげと自分の顔を見る。


「ふう……これが三十になった女の顔ね……」


 眠たげな自分の顔よりも、子供の頃からのコンプレックスである、癖っ毛の多い頭髪の方に目がいってしまう。癖っ毛が多いのだから短く切れと言われても、変な意地を張ってセミロングにしてきた。ストレートパーマをかけるという手段もあるが、それは負けた気がすると、変な意地を張ってこのままにしてきた。

 突っ張って生き続けてきた結果、香苗はこんな所で生きている。


 取調室へと歩いていく途中、メールが届いているので見る。友人からだ。


『誕生日おめでとー。もう三十なんだからそろそろ本気で婚活するようにね。あんた以外皆所帯持ってんだから、少しは焦りなよ』

「うっせうっせ。こちとら十代からずっと普通じゃない生き方してるし、そんな生き方しかできないってのに。でも普通の生き方したら負けた気がするし」


 ざっくばらんとした性格の友人からの言いたい放題のメッセージを見て、香苗は忌々しげに悪態をつく。

 苛々を募らせながら、香苗は取調室の扉を開ける。嗅ぎ慣れた肉の焦げる臭いが漂う。


「よう、来たか」


 安楽警察署裏通り課係長梅津光器が、取調室の床に仰向けに倒れた男の鼻の穴に、半田鏝を押し込みながら、顔を上げた。


「こいつ、中々根性あるんだわ。ちょっと疲れたから変わってくれ。お前の方が得意だしな」

「最後の一言が余計すぎて、くっそムカつくわ」


 梅津の手から半田鏝をひったくると、香苗は空いている方の手を、被疑者の男の口の中に突っ込み、親指と人差し指で前歯を摘む。


「うびっ!」


 男が変な声をあげる。香苗が手を引くと、上前歯が二本、根元から抜かれていた。


「はい、お口開けたままにして~。痛くないでちゅよ~」


 気だるそうな声で言いながら、香苗は男の上に馬乗りになり、再度男の口の中に手を入れると、手の親指と人差し指の二本だけで男の口をこじ開ける。

 男は必死に口を閉じようとするが、香苗の親指と人差し指はびくともしない。


「消毒でちゅよ~。麻酔なんて無くても、裏通りの男の子だったら我慢できまちゅよね~」

「あがががががががががっ!」


 前歯を抜いた箇所に、香苗は笑顔で半田鏝を押し付ける。


「全部歯を抜いても治らないなら、今度は唇を治療ちまちょうね~」


 嗅ぎ慣れた肉が焼ける臭いが立ち込める中、手馴れた作業を行いながら、ふと香苗は今日が三十歳になった誕生日だった事を思い出す。


「そう……これが今の私。私のリアルよ……。何にも負けまいと、突っ張り続けて生きてきて、こんなことばっかりする毎日で、気がつけば三十路。ぱーぴぱーしゅでーでぃあかーなーえー」

「ん?」


 笑顔から虚ろな顔になって歌いだす香苗を見て、梅津は不審げな顔になった。

 それが現在の話。


***


 安楽市。とある工業地帯。午後八時。


 建ち並ぶ倉庫。その灯りはほとんど消えている。倉庫内に人気は無いように見えるが、そんなはずはない。彼等はいるはずだ。灯りは漏れないようにしているのだろう。

 夜の闇に紛れる者達、複数。彼等は灯りのついていない倉庫から出てくる。大きな荷物を運んでいる。 


 アドニス・アダムスは、向かいの倉庫の陰に身を潜めている相方に視線で合図を送る。すでに銃を手にして構えている。

 一方、相方の相沢真は一見して徒手空拳だ。もちろん懐には銃を忍ばせているであろうが、今はまだ出す気は無いらしい。


 真が音も無く駆ける。道に躍り出て、空のコンテナの陰まで走って身を隠す。荷物を運ぶ者達に一気に接近した。


(無茶しやがる)


 アドニスが口の中で呟く。呆れると同時に、頼もしくも感じる。


 今回の仕事は、ただターゲットを殺せばいいというわけにはいかない。ブツの運搬をしている証拠を抑えないとならない。

 真は至近距離から赤外線カメラで、それを映すのが役割である。アドニスは遠方からサポートだ。まだアドニスの出番にはならないはずだが、もしもの時を考え、いつでもブッ放せるように身構えておく。


 ふとアドニスは、コンテナを運搬する男達のさらに向こう側を見た。

 物陰から人影が移動している。真同様に遮蔽物を伝って。


 アドニスは別段慌てない。味方だからだ。その人物はアドニスの依頼者だ。依頼者自身も働いているし、人手が欲しいということで真がまず声をかけられ、腕利きの始末屋はいないかと問われ、真はアドニスを推したという経緯だ。


(あの男は戦場経験が長いと聞いた、確かに無駄の無い動きだ)


 そう思った矢先、インカムを通じて連絡が来た。


『こっちの撮影は終わった。これから李磊リーレイと一緒に潜入する』

「気をつけて行けよ」


 真の報告を受け、アドニスは一言返し、移動を開始した。


『ここから先は胸糞悪い光景を見て、我慢しなくちゃならないのか』

『そういう指令なんだよね。気持ちはわかるけど抑えてくれよ』

『保障できないな。目の前で人を殺されてる場面を見て、助けないでただ撮影とか……』

『まあ正直言うと、俺も堪える自信は無いんだよね』


 真と李磊の会話が、アドニスの耳にも届く。


 おぞましい殺人現場を見ても、撮影するだけで見過ごさなければいけない。まず現場の証拠を撮るというのが、この任務の必須事項であるが、自分がその係を担当しなくて済んだ事に、アドニスは密かに安堵していた。


 男が数人がかりで運ぶブツ。それが乗せられる予定のトラック。その行き先を突き止めるのがアドニスの役割だった。


 アドニスが離れた場所に置いてあるバイクへと向かう途中、二台の車が向かいからやってくるのを見た。


(こんな場所に? 何の車だ? しかも申し合わせたかのように、今この時間帯に……)


 嫌な予感がした。アドニスはインカムに向かって車のことを報告する。


『こっちからも確認した。不味いぞ。警察だ』


 真が報告する。顔馴染みの裏通り課の刑事の姿を確認したのだ。


『ていうかね、堂々と突入していったんですけど……。あいつら……』


 李磊が泣きそうな声を出す。この時点で、こちらの計画は完全におじゃんになったと思われる。


『オイコラーっ! 警察だーっ! 動くなーっ!』

『動いた奴はブッ殺す! 動いたな! 死ねーっ!』


 真と李磊の無線越しに聞こえた怒号。そして銃声。


「撃ち殺したのか?」

『一人、頭を撃ち抜かれた。裏通り課だからな。手始めに一人殺してビビらせて、刃向う気力を無くすのは、奴等の定石だよ』


 アドニスの問いに、真が答えた。まるでアメリカみたいだと、ちょっと故郷を思い出すアドニス。


『おい、俺達も見つかっちゃったけど』

『抵抗しない方がいい。アドニスは何とかそこから逃れてくれ。もし見つかっても刃向うなよ』

「わかった……。冥福を祈る」


 半ば冗談、半ば本気でアドニスは言うと、バイクに乗った。

 それが三時間前の話。


***


 それは二十年前の話。


 虹森夕月にじもりゆうげつは曽祖父の死に目を見届け、その凄惨な最期に心底震え上がり、トラウマとなってしまった。

 曽祖父は単に寿命で逝った。痩せ細り、寝たきりになり、食事も受け付けなくなり、糞尿もおむつに垂れ流しになり、昼夜問わず体のあちこちが痛い痛いとすすり泣き、任務に赴いた父や、何年も前に任務で命を落とした祖父と会いたいと、泣きながら訴えた。


 曽祖父は厳格な人物で、虹森家を長らく支えてきた最古参長老として、虹森家の中でも絶対的権威として君臨していた。

 そんな曽祖父が、死ぬ時はあんなに惨めな姿を晒して、散々苦しんで死んでいった。

 寿命なのだから仕方がない。人間の最期はああいうものだと、家族も親族も言っていた。しかし夕月は、受け入れられなかった。そして恐怖はトラウマとして残ってしまった。


 確かに死ぬのは仕方ない。しかしあんな風に無様に、何より長らく苦しんで死ぬのだけは御免だ。それだけは避けたいと、そう切に思うあまり、夕月は己の生き方を変えた。


 夕月は自分の為に戦う生き方を選んだ。それは死ぬ為の生き方でもあった。天寿など断じて全うしたくは無い。かといって自殺する気も無い。理想は――己を極限まで鍛え上げ、そのうえで戦って戦って戦い抜いて、さらに強い敵と巡りあい、死力を尽くした後に戦って死にたい。夕月は真剣にそう望むようになる。


 虹森流剣術を受け継ぐ虹森家の継承者は、代々星炭流妖術の当主の護衛として仕える事が義務付けられている。しかし夕月は虹森流の継承者の座を放棄し、虹森を捨てて裏通りで生きる道を選んだ。

 星炭当主の護衛役としての虹森の役割は、自分の為に生きるわけでも死ぬわけでもない。それが夕月には不満と感じたのである。


 自分の為にただ戦って死にたいという、そんな意地のために、ひたすら修羅場に身を投じ続けること二十年。

 今になってもまだ、夕月は生きている。自分の命を脅かす程の強敵とも、幾度となく巡り合った。際どい勝負も何度もあった。だが夕月は生きている。


 夕月は恐怖している。このまま生き延びて、戦いで命を落とすことなく、畳の上で死ぬことを。あの曽祖父のようになる事を……。


***


「僕、竹田さんのことが好きだっ」


 異性から告白されたのは初めてではないし、相手が誰であろうと、真剣な気持ちをぶつけられれば、心はときめく。


 しかし今の香苗には、とてもそれを受け入れられる事などできない。

 香苗の心は深く傷ついていた。そんな自分の気持ちを、彼はわかっていないのだろうと香苗は思う。そしてそれも仕方ないと、諦めている。


「ありがとう……。でも、今そんなこと言われても……とても受け入れられない……。ごめん……」


 自分よりはるかに背が低く、年齢もずっと下の――通っていたらまだ小学生程と思われるその少年を見下ろして、できるだけ傷つけないように配慮したつもりの台詞がこれだった。


「そ、そうだよねっ……。僕なんか末端のパシリだし、まだ小さいし、頭も悪いし、何の取り柄も無いしっ……」


 そういうわけじゃないと言いたかったが、今の香苗にはその気力も無い。


 先日の抗争の後片付けは済んだが、アジトにはまだ血の臭いが漂っている。その血の臭いの中には、二度と戻らない者達の血が沢山混じっている。

 香苗は意識する。この臭いの中には、自分をかばって死んだあの人もいると。自分が恋心を抱いていたあの人もいると。


 心が砕けそうなこんな状態で、告白されて、それでも嬉しい気持ちもあるが、受け入れられるはずが無い。


 少年は泣きながら部屋を出ていった。彼は特殊学級にも通っていたそうだし、少し知恵遅れ気味で、他者への配慮が欠けるのも仕方ないとして、大目に見ていた。


「ごめん……別にお前のこと、嫌いじゃない……」


 少年が去ってから、香苗はもう一度謝った。

 それが十三年前の話。

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