第十八章 3
武村咲には二つ上の姉がいた。
咲が十二歳の頃、一家四人車で旅行中、交通事故にあった。前座席にいた両親は即死。姉妹は一命を取り留めた。事故の原因は、対抗車両の酔っ払い運転だった。
親を失くした二人は唯一引き取り手となってくれた叔母の下で暮らす事になったが、咲は事故の際に親だけではなく、記憶まで失ってしまった。両親も、それまでの友人も、全て忘れてしまったのである。
咲の姉の華は、何とか妹の記憶を取り戻そうと、そして家族の絆を取り戻そうと、咲をかまったが、咲からするとそれが鬱陶しくて仕方が無かった。
華は若くして菩薩のような人だったと、咲は思う。誰にでも優しく、度の過ぎた御人好しで、人間の善性ばかりを見ているような人だった。本気で性善説を信じているような人だった。咲と華を露骨に冷遇して扱う叔母にも毎日感謝を示していたし、両親を奪った酔っ払い運転の運転手さえ、許すと言っていた。流石にそれはどうなんだと、咲は常々思っていた。
明るく努力家で常に前向きな華の姿勢に、最初は冷たかった叔母も心を開き、ちゃんと咲と華を家族のように接するようになった。それは華が起こした奇跡であると見なし、咲はその時から華の事を心底尊敬するようになった。
「咲は忘れちゃっているけど、母さんがいつも言ってたじゃない。真心を込めて接すれば、どんな人でも最後はわかってくれるってさ」
叔母が本当の意味で家族となった時のことに触れると、華は照れくさそうに笑いながら言った。
「事故を起こしたあの人だって、泣いて私達に謝ってたじゃない。私の中に怒りが無いってわけでもないけど、それでもあの人を責めたらお母さんが哀しむ気がした。自分の罪を悔いているだけで、それで十分じゃないかな。だから許そうと思うの」
両親の記憶も事故の記憶も無い咲は、姉と悲しみを共有できないのが辛かった。ただ理屈で、姉が優しすぎる事と、両親の命が奪われた怒りと悲しみをその優しさで押し殺している事が、理解できた。
だが最悪の形で、咲は華と同じ気持ちを味わうことになる。
華は三年近く前に他界している。殺されたのだ。八つ裂き魔と呼ばれる連続殺人鬼によって、文字通り体をばらばらにされて。
第一発見者は咲であったため、その時の衝撃と悲痛は忘れられずに記憶に焼きついている。昨日まで元気いっぱいで朗らかだった姉が、手足と首を胴体から切り離されて、無残な屍となって転がっている姿。
咲は――華のように、殺した相手を許せる気には到底なれなかった。事故で命を奪ったわけでもない。明らかに殺すつもりで殺した。このように無残な殺人方法で。
しかも華だけではなく、何十人と殺し続けている連続殺人鬼だ。明らかに命を弄ぶことに喜びを見出している悪魔だ。そんな相手をどう許せというのか?
(姉さんなら、許しているかも)
一方で咲はそうも考える。少女でありながら、菩薩のような人柄であった華を間近で見ていた咲には、どうしてもそう思えてしまう。
(でも……姉さんが許すからといって、私が許せるかどうかは別でしょ? それとも私が犯人のことを憎んでいたら、姉さんは哀しむの? 私を怒るの? 許せと言うの?)
幾度なく繰り返される問いかけ。しかし答えは一向に出ない。
「許す必要は無いだろう。殺したければ殺せばいい。お前の心がそう欲しているのだし」
ある日、咲の目の前に現れたそれは、一目で咲の心を見抜いてそう告げた。
それは人ではなかった。人のような植物のような、奇妙な生き物。頭からは真っ赤な花を咲かせ、背中からは翼のように対になった葉を生やし、脚の先は根のようになっている。サイズは小さい。猫より少し背が高いかどうかというところだろう。
「私と一つになれば、お前の望みをかなえてやれる。お前の体と憎しみを苗床にし、復讐の花を咲かせられる」
「お断り」
あからさまに怪しい雰囲気がして、咲はきっぱりと拒絶した。人の心の闇につけこんだ、悪魔の誘惑そのものに思えたからだ。
「そんなことをしたら姉さんが哀しむもの」
「そうか……では最早これまでだな」
人ならざる者はぺたんとその場に尻餅をついたかと思うと、大の字に寝転がった。
「どうしたの? ていうかあなたは何?」
「何者なのかは、自分でもわからん。気がついたらいた。言葉は人間の会話を聞いて覚えた。一つだけわかっていることは、私は他の知的生命体に寄生する生き物だという事だ。本能と欲求がそれを教えてくれた。年齢が達したら、そうしなければいけない。ただし、双方合意の上でだ。私はどうやらメンタルな部分が、他の生き物より過敏でな。相手が拒絶しても、こちらが嫌だと思っても、寄生できない」
人外の口調には明らかに諦観の響きがあった。おそらくはその寄生とやらができないと、命に関わる事なのであろうと、咲には察せられた。
「じゃあいいよ、寄生しても。ただ、私を化け物にしてくれなければ」
姉だったら絶対に見過ごせず、こう言っただろうと思いながら、咲は会ったばかりのその生き物を助けることにした。
「それはお前次第だ。何も望まないなら、私はお前の中で何もしない。だがお前は望んでいるではないか。憎しみを解き放つ事を」
「そうだけど、抑えてるの。だからその事に触れないで。あなた、名前は? 私は武村咲」
「竹が紫? 私には名は無いが、固体名としてはこう呼ばれていたのを覚えている。アルラウネと」
アルラウネと名乗った生き物は、咲の中へと入っていき、それっきりであった。あの生物との遭遇は夢だったのかとさえ思う。
それから二年半が過ぎ、咲はそれまで定期的に聞いていた、八つ裂き魔のニュースを聞かなくなった。
***
睦月は外出する際、一応変装している。帽子を目深に被り、伊達眼鏡をかけ、男装の私服姿である。前のように学ランを着ることも、たまにはある。学ラン自体お気に入りである。
わりと暇人である睦月は、散歩するのが趣味の一つだ。繁華街をぶらぶらと歩き、街のにぎやかさに触れるのが好きだった。
(これも亜希子と同じなのかねえ。俺もずっとあの狭い部屋に閉じ込められて、外に出たいって気持ちもあったし。あったけど……早々に諦めてたけど)
ふと、そんなことを考えたその時であった。
(おや~?)
懐かしい感覚に、睦月の口元が綻んだ。自分に向けられた殺気。掃き溜めバカンスを潰されて、百合の元に居候するようになってからは、初めて感じ取る。
(どちらさんだろうねえ。一応変装してるけど、見破られたのかなあ)
タブー指定されている時点で、自分を討伐しようという者などほぼいないはずだが、同時に多額の集金首もかけられているので、絶無とは言い切れない。また、裏通りの住人や中枢が手出しをしなくても、警察の方は黙っていない。
(あはっ、あれかー。殺気は凄いけど素人だねえ)
横の店舗のガラスを見て、睦月は尾行者の姿を確認する。
(目立つ所で派手にやるわけにはいかないし、こっちから誘導してやるか)
そう思い立ち、睦月は繁華街を出る。
やってきたのは、古い雑居ビルの屋上だ。鍵のかかっていた扉は強引にこじあけた。屋上といっても、特に何も無い。スペースは非常に狭く、戦う際に、頻繁には回避行動を取りづらい場所である。
(もう一つ視線を感じるねえ。でもこちらに殺気は無い。どこだろ……。こっちは巧妙だ)
何者かに監視されている。まるでこれから起こる戦いを見届けるかのようにだ。
殺気を放つ尾行者が、堂々と屋上のドアをくぐる。
(あはは、本当素人だねえ。扉を開いた瞬間に攻撃される危険性とか、まるで考えてないんだねえ)
目の前に現れた、角刈りで額に傷のあるたらこ唇の男を見て、睦月は思わず笑ってしまった。
「八つ裂き魔……やっと会えたな」
恨みに満ちた声で男の口から発せられた言葉に、睦月の笑みが凍りつく。久しぶりに聞く呼び名。テレビでもネットでも、最近は滅多に聞かなくなった言葉。
「俺の恋人を殺した罪は償ってもらう。この時をずっと待っていた! 夢にまで見た!」
男が叫び、憎悪と歓喜が混じった凄絶な笑みを広げる。
(何で俺だとわかったんだろ。警察にも、裏通りの中枢にも知られてないのに)
疑問に思ったが、すぐにある結論が導き出される。
「あはっ……百合の悪ふざけか? 宿題の提出ってこれのことか?」
睦月が呟いたその時、目の前の男の体に変化が起こった。
「うおおおおおおおおっ!」
咆哮と共に男の両腕がまるでチーズのように二つに裂ける。そして裂けた腕が変形し、さらには硬質化し、四本の刃物のような形状へと変化した。
「お前もあいつみたいにバラバラにして殺してやるぅーっ!」
男が真正面から突っこんでくる。
「ぐぎゃあ!」
睦月の振るった蛭鞭の一撃を頭部に食らい、男はあっさりと大の字に倒れた。勝負はそれで決まった。
手加減はしてある。殺す気にはなれなかった。
睦月は青ざめた顔で、倒れた男の体を跨いで扉をくぐり、ビルの階段を下りて行く。
「とんだ宿題だねえ。これは。どうせ一人じゃないんだろう?」
歪な笑みを浮かべ、睦月は吐き捨てた。
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