第十章 3
梅津が最悪のタブーと呼ばれる男の名を口にした時、当人はその梅津から2キロも離れていない場所――安楽市絶好調繁華街にて、悠然と歩いていた。
街中のカメラには映し出されているし、そのうち通報されるだろうと、谷口陸と行動を共にする少女、進藤由紀枝(しんどうゆきえ)は思う。かつて日本を出る時からその服装は変わらず、サイズのあわない大きなブラウスだけを上に着ているため、ぱっと見にはブラウスしか身に着けてないようにも見えてしまう。彼といるようになった時からずっと変わらぬ格好だ。
由紀枝はつい最近十三歳になったばかりだ。陸と行動を共にするようになったのは、二年半程前からである。その間、由紀枝は一切人を傷つけるようなことはしていないが、陸が盗んだ金や物は使ってきたので、犯罪の片棒担ぎをしているという意識はある。しかし罪悪感は一切無かった。
「空腹値20、性欲値16、睡眠値12、退屈値74、うん、そろそろ刺激が欲しい所かな」
陸が不意に足を止めて呟き、周囲を見渡す。しかしその両目は閉じたままにも関わらず、まるで見えているかのような仕草である。
また何かやらかすのだろうと、由紀枝は察した。陸が自分の状態を数字で表した時は、その前触れだ。
谷口陸はこの世界を現実だとは思っていない。目の前の光景は全てゲームの中の世界であると認識している。
陸は日本中をふらつきながら、殺人、強盗、強姦をしながら生きてきた。それによって自分の中の数字を満たしていく。もしくは下降させる。陸自身こそがゲームのプレイヤーであり、この世界のほとんど全ての人間は、ただのプログラムされたNPCと思い込んでいるので、何の躊躇もなく殺せる。犯罪を働いて警官に追われても、そういうゲームシステムと思っているだけだ。
由紀枝の予想に反し、陸は特に何をするでもなく歩いていき、そのうち繁華街を出て住宅街に入った。
「排泄値90」
足を止めて陸が呟いた言葉に、由紀枝は今度こそ陸の次の行動が予想できた。
不意に進行方向を変えると、陸はすぐ横にある住宅の中へと入っていく。まるで全て見えているかのような手つきで、簡単な錠のかかった小さな門の錠を開き、ドアのノブに手をかける。しかしその目の瞼はわずかたりとも上がっていない。実は薄目で見ているということもない。
ドアに鍵がかかっているのを確認すると、陸は白昼堂々とピッキングツールを取りだして、開錠にかかる。カードや指紋や瞳等による認証式の場合は、銃を取り出して撃ち抜いて強引に開く。鍵穴の有無も陸にはわかる。例え見えてなくても。
あっという間に鍵を外し、陸は家の中へと上がっていった。由紀枝も無言でその後に続く。これもいつもの事だ。
「トイレトイレ、と。ここかな?」
二つのドアがあるうちの一つには、御丁寧にもWCと書かれていたにも関わらず、陸はそちらを無視して、逆の扉を開けた。
「な、なんですか! 貴方は!」
中は居間で、老人が一人いた。無断侵入者に仰天し、怒気と怯えが混じった叫びをあげる。
「一般ぴーぷるかっこじじいが現れた。攻撃、バックハンドブロー、頭部」
呟くなり、陸は老人に容赦の無い裏拳を見舞う。老人の首があっさりとあらぬ方向に折れ曲がり、その体が崩れ落ちる。
「一般ぴーぷるかっこじじいをやっつけた。経験値6を手に入れた」
老人の骸を見下ろし、淡々と告げる陸。
「ここがトイレみたいだよ」
由紀枝が声をかけ、WCと書かれた扉を指す。当然、由紀枝は目で見てそれがわかった。
「排泄値0。せっかくだからこの家の探索でもしてみるか」
トイレから出た陸が呟く。
壁にぶつかることもなく、階段があるのもちゃんと把握している様子で、躓く事なく昇っていく。
陸は盲目だが、何故か周囲の空間にある物の形も、さらには動きさえも、正確に見る事が出来る。それどころか後方にある物の形ですらわかる。後方で物体が動く様もわかってしまう。後ろから殴りかかられたり銃で撃たれたりしても、陸には全て見てとれる。
銃弾の速さですら、陸には視えてしまう。コンセントの服用によって感覚を鋭敏化し、銃口と殺気で銃弾の軌道を読むのとは次元が違う。銃弾そのものの速さに追いついて、その動きを完全に捉え、脳で処理しているのだ。
目が見えずとも、通常の人間以上に、周囲の空間を掌握できる。三次元空間をあらゆる視点から、あらゆる面から認識が可能。その情報処理能力の速さでもって、戦闘時に敵の行動の先読みが可能だった。半径10メートル以内であれば、どこに何があるか全て認識でき、脳内で再現される。
ただし距離が伸びると、認識できる対象の数が少なくなり、伸びるほどにぼやけていく。普通の人間と比べ、遠くのものほど判別が難しくなる。50メートル以上先の物は一切見えない。わからない。遠くの物を認識するには、由紀枝の補佐が必要だ。
また、壁などで完全に隔絶された部屋の中や、蓋で閉ざされた箱の中の物まではわからない。それに加え、光の識別も不可能であった。よって色の識別もできず、画像、映像、文字等、二次元のものは視る事が出来ない。平面状の物も極めて判別が難しい。陸に判別できるのは、三次元の物質の形と動きだけだ。
由紀枝も陸が光と二次元の認識が出来ない事を知っているので、その部分も補佐するように努めていた。
そして、ある意味常人以上に物が見えるため、盲人によくある嗅覚や聴覚の発達のような事は、陸には無かった。
二階の扉の一つを開けると、中には陸と同年齢ほどの痩せた青年がパソコンに向かっていた。
「ジジイ、またノック無しに……うわっ!」
最早陸と由紀枝には見慣れたリアクション。家の中に不法侵入された人間の同じパターン。
「由紀枝以外は皆同じ反応だな。使い回し多すぎ。マジ手抜き糞ゲー。一般ぴーぷるかっこガリが現れた。攻撃、回し蹴り、首」
椅子に座って半身だけ振り返って驚いている青年に向かって、陸は宣言通り回し蹴りを首に向かって放った。先程の老人同様、首をおかしな方向に曲げた状態で、青年は椅子から転がり落ちた。
「うわ、この人エロゲーしてたんだ」
宙に映し出されたディスプレイを見て、由紀枝は眉を潜めた。
「俺にはわかんないや。いい加減俺の光と色が見えないバグ、何とかしてくれないかな」
文字や画像が一切見えない事や、色と光の認識ができない事に対して、陸自身はゲームのバグと解釈している。
「ついでだから今日はここに泊まるかな」
「やだよ。別の家に行こうよ。一階で殺しているのに二階でも殺しちゃったじゃない。どっちか片方で殺してよ。二階にいる時は一階に連れていって殺してっていつも言ってるのに。臭いよ。死体運ぶのも面倒だし」
陸の提案に、由紀枝が反対した。由紀枝は陸の殺人を全く何とも思っていない。陸の殺人は由紀枝にしてみれば日常の一部である。しかし無闇に人を殺すと動きづらくなるのが面倒だと思っている。由紀枝は陸のように人を殺すことは無いし、彼の行いが悪で有ることも理解している。
「つい忘れてたよ。確かに臭いのは嫌だな。移動しよう」
淡々とした口調で告げると、陸は部屋を出る。由紀枝もその後を追う。
「メインクエストが終わるまではあまり暴れない方がいいと、わかってるけどさ。つい殺しちゃうんだよね。退屈値が高くなるとさ」
「人間の感情は単純な数字じゃないと思うし、我慢すればいいんじゃない?」
陸にとっては全てが虚構だ。起こり得る事も全てゲームのイベントとして解釈する。だが由紀枝はあまりそのノリには付き合わない。
「このゲームをしているとね、時々わからなくなるんだ。プレイヤーの心と、プログラムされたキャラクターの数字の境界がね。退屈値ってのは確かに数字としてあると思うんだけどさ」
どうでもよさそうに語る陸。それを聞いた由紀枝も心底どうでもよさそうにノーリアクションだ。
「最初はね、ここがゲームの世界だって俺も気が付かなかった。色や光が見えなくなった時にわかったんだ。ああ、ここはゲームの世界で、バグってこうなったんだ――ってね。バグのおかげで気がつくなんて皮肉だけどさ」
陸の家庭は夫婦喧嘩が絶えず、鬱憤晴らしに両親が子に暴力を振るう荒んだ環境だった。毎晩繰り返される家庭内暴力を目の当たりにして、陸は段々とおかしくなっていった。現実逃避して空想の住人と語り合うようになっていった。ゲームにばかりのめりこむようになった。
ある日父親の暴力で頭をしたたかにうち、その際に失明したが、同時に頭部への刺激のせいか、周囲の空間を視覚的に把握して、脳内で処理する不思議な力が覚醒した。
この世はゲームであり、自分がそのプレイヤーだと信じるようになったのも、その時からである。以来、一切の良心の呵責なく人を殺せるようになった。
まず手始めに両親を殺した。罪悪感は全く無かった。むしろ爽快感に包まれていた。魂の無いプログラムのNPCと疑わない時点で、誰を何人殺したところで、罪悪感など生じるはずもなかった。
陸はゲームの成長要素と解釈し、己を鍛え上げた。殺人を犯し、わざと警官達を呼び寄せて銃撃戦を行った。裏通りにも関わり、裏通りの住人達を殺してまわった。
タブーの一人として、裏通りの生ける伝説の一人として恐れられるほどの強者となったのは、ゲームと割り切って自ら修羅場を作りだして鍛えたせいもあるが、視力を失った際に覚醒した空間認識能力の存在も大きかった。周囲の物質の運動が、脳内で鮮明に処理される。どんなに速い動きにも対応できる。また、人間の動きなら大抵、次の行動を予測できる。
「メインクエストをこなしていけば、俺も由紀枝もいずれは現実に戻れるし、その時は製作者に文句言ってやろう。ゲームの中に閉じ込めるのはいい。使い回しが多かったり、バランスがすげー狂っていたりと、糞ゲーな部分もまあ目を瞑ろう。でもバグ放置はたまらないよ。ずっとバグったままゲーム進行させられるとかさ」
「明日の美香のライブ、行きたいな」
クエストという言葉に反応し、由紀枝は陸がしようとしている事を思いだした。月那美香の殺害というクエストを行おうとしていた事を。
陸の思い込みにつけいる形で、ゲームのメインクエストだのサブクエストだのと称し、陸に指令を出している人物がいる。
陸はそれをあっさりと信じ、その人物の指令に従って動く事が多いが、完全に言いなりというわけでもない。気に入らない指令はあっさりと拒否している。由紀枝は直接会った事は無い。電話でのやりとりを聞いているだけだ。近々出会うと陸は言っているので、その時由紀枝もその人物と初めて対面する事になるだろう。
由紀枝からすると、その人物は陸を都合よく利用しているペテン師としか思えなかったが、陸に対して何も言わないでいた。どうせ何を警告した所で、陸の思い込みは崩せない。加えて、陸の事を特に心配もしない。陸が見る事が出来ないものを代わりに見て教える補佐役であり、相棒であるが、一方で傍観者でもある由紀枝だった。
「じゃあライブを楽しんで、終わってから殺そう」
一応、由紀枝を気遣ったつもりで陸はそう言ったものの、由紀枝は何も反応しなかった。
「彼女にも伝えておくかな。メインクエスト明日やる、と」
電話をかける陸。もしこの時、わざわざこの報告をしなければ、彼はこのクエストをしくじることなく遂行できたかもしれない。
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