第七章 17
累の言いつけにより、綾音はチヨに文字の読み書きを教えていた。
チヨは大人しくそれに従っていたし、綾音も丁寧に指導していたが、綾音の本心は、チヨへの指導などよりも、自分のことをしたかった。修行なり勉強なり。
「お姉ちゃん、チヨのこと嫌いなんだね」
唐突に口走ったチヨの言葉に、綾音は表情が凍りつく。
チヨはあっけらかんとした顔だった。悪意も何も無く言い放った言葉。だからこそ綾音にとっては余計に衝撃があった。
確かに綾音はチヨのことを疎んでいる。しかしそれをおくびにも出してはいない。
「チヨにいなくなってほしいと思ってる。あの人を取られちゃいそうで」
自分の心を読まれ、己の心の醜い部分を指摘されて、かつそれをずけずけと口に出され、綾音は羞恥と怒りに頬を紅潮させる。
綾音の様子を見てチヨははっとして、申し訳無さそうにうつむく。どうやらチヨにも多少の気遣いはできるようだと見て、綾音の怒りも少し和らいだ。同時に、己の未熟さを恥じる。
「ごめんなさい。チヨも人の心読みたくないけれど、勝手に流れ込んできちゃって」
「悪いと思うのなら、たとえそれがわかっても、相手に伝えるのはおよしなさい」
チヨの頭を撫でてたしなめる綾音。そうすることで綾音は自分の気持ちを抑え、制御を試みていた。
「だって……いなくなれって思われるのはもう嫌だから」
口減らしに売られたことを言っているのだろうと思い、綾音はチヨに憐憫の念を抱く。
「わかりました。もうそう思わないように心がけます」
泣きそうな顔になるチヨの頬を撫でる綾音。
「お姉ちゃん、あの人と離れ離れになるんだね」
泣きそうな顔のまま、また綾音の心に突き刺さる言葉を発するチヨ。
「オシッコ様のこと大好きなのに。追い出されちゃう。チヨと同じになっちゃう」
「追い出されるのではありません。巣立ちなのです。私が大人として、一人前の妖術師として、この先歩いていくための」
「違うよ。オシッコ様は別の理由でお姉ちゃんを追い出そうとしてるんだよ」
「知っています」
力なく微笑み、綾音は言った。
父が自分と別れようとする本当の理由。それがわからないはずがない。父のためにも、自分は父の側に無理にでもいた方がいいとも思うが、綾音の性格上、そこまで押し切ることが出来ない。
「そうだ。チヨがオシッコ様に頼んでみる。お姉ちゃんを追い出すなって。チヨは家が飢え死にしそーで仕方なく売られたけれど、お姉ちゃんはそういうんじゃないもん」
「おやめなさい」
「どうして?」
「父上の下した決定に背いてはなりません」
「だからどうして?」
しつこく食い下がり、口を尖らせるチヨに、それ以上返す言葉が見つからず、困った顔になる綾音。
「チヨが言ったところで……父上が折れることはありませんし、たとえチヨの言うことを聞いて私を側に置いたとしても、それは父上を苦しめることになるからです」
しばらく間を置いてから、綾音は答えた。
「今の父上では駄目なのです。今の私でも駄目なのです。私も未熟者ですし、父上も己の迷いや悪しき心を断ち切れていません。そう……互いに成長してからでないとね」
いつも心の中で己に言い聞かせていることを口にする綾音。そう思い込むことで己を納得させようとしているというニュアンスはあったが、あながち間違ってもいない。
「でも辛そうだよ。おかしいよ。絶対おかしー。何か違うー」
なおも食い下がるチヨ。
「チヨ、思うんだ。生まれてきたってことは、ここで自由に遊んでいいってことなんだって。山も川も道も街も家も全部遊び場なんだって。チヨ、村から追い出されたけれど、自由になったよ。好きな風に生きる。オシッコ様は好きだから一緒にいる。もし追い出されようとしても、今度は追い出されない。オシッコ様に逆らってでも一緒にいる。だから……」
チヨが綾音の手を取る。
「お姉ちゃんもそうしよー?」
チヨの純粋な眼差しを直視できず、綾音は目を背ける。目頭が熱くなっている。
「私にはできません……」
感情の波が体の外へあふれ出すのをこらえようとするが、すでにそれは頬をつたって流れ落ちていた。
***
雫野累と山田右衛門作。まだこの二人が出会ってそう年月が経たぬ頃の話。
畳の上に等間隔で並べられた六つの小さな樽。その全ての口からは、白い靄のようなものが、天井まで立ちのぼっている。
「むう……」
額に脂汗を滲ませて右衛門作が唸る。集中がそろそろ途切れてきた。樽から立ちのぼる靄が揺らぎはじめ、心なしか薄くなっているようにも見える。
「意識を緩めず……しかし力むことなく……維持するのです」
同じ部屋で絵を描いていた累が、右衛門作の方を見ることもなく告げた。
言われた通りにする右衛門作。すると揺らいでいた靄がまた一直線に戻る。
四十を越えた身で妖術を学ぶなど尋常ではないと、前もって言われてはいた。故に右衛門作もそれなりに覚悟を決めていたが、日々の修行の辛さが、流石に堪えていた。
一方で累は絵を描いているだけの日々だ。累に言わせれば右衛門作は不出来な弟子だが、右衛門作からすると累は非常に優れた弟子である。右衛門作はこの関係に劣等感を抱くようなことはなかったし、逆に気楽とすら感じている。
「ぬ」
再び唸る右衛門作。家の中に紛れ込んだウマオイが、右衛門作の前を羽ばたいて横切ったのだ。
「駄目……ですね。まだ初歩の初歩という段階なのに……なかなか進まない」
やはり右衛門作の方に目をくれぬまま、累はその様子を実際に見てとったかのように言い、嘆息した。
「最終的にはその程度の術……一瞬で発動させるに到らないといけないのです……よ」
そう言われ、途方も無い話だと右衛門作は感じた。果たして自分がそこまで到ることができるのかどうかと疑問に思い、決意が揺らぎかける。
直後、右衛門作の中で己に対する怒りがわきおこった。
望んでやまなかった神秘の領域。人智を超えた領域。そこに足を踏み入れることができるのだ。いや、もう踏み入れている。そして自分の時間も限られている。泣き言を言っている余裕すらない。
右衛門作が求めた神秘の領域。最初はキリスト教にそれを求めたが、ただの南蛮宗教でしかなく、満たしてはくれなかった。諦めかけていた所で、雫野累という妖術師と出会い、自分が南蛮画を教える代わりに、妖術の基礎を伝授してもらうことになった。
「せめて……若返りの術で肉体年齢を……二十歳ほどまで戻せば、吸収もいいでしょうに」
「それだけは受け入れられませぬな」
累が何度も口にした言葉を鼻で笑う右衛門作。歳を操作するなど、彼の美学すらすればぞっとする。累が幼い姿を維持していることも内心せせらわらっている。
集中力が完全に途絶え、右衛門作は力を抜いた。樽から立ちのぼっていた靄が霧散する。靄状に実体化していた霊魂が、樽の中に入っていた死体の中へと戻る。
累の方へと視線を向ける。相も変わらず一心不乱に絵を描いている。その澄みきった顔と眼差しを見て、右衛門作が目を細める。自然と笑みがこぼれた。口元が歪んだ、下卑た笑みが。
欲情の視線が降り注がれていることに、累が気づかないわけもないが、気にしてはいなかった。気に留めぬほど集中していた。
己によからぬ感情を抱き、それを隠そうともしない右衛門作だが、累は歯牙にもかけぬよう振る舞っている。野伏せり時代からそのような視線を浴びせられることには慣れているが、右衛門作のそれはあまりにも露骨すぎて、不快で仕方なかった。しかしそれを訴えるのも躊躇われ、気にしていない振りをし続けていた。
(いずれはワシのものにしてくれよう。あれこそワシが追い求めていた美。力を得て、大業を果たした暁に得られればなおよい所だがの)
野望の一つに組み込むことで、より己を奮い立たせる。
「手段を問わぬ私と、あえて美学を通さんとするお前……」
累が呟く。
「お前の方が、考え方としては近い……ですね。死んだ私の師に」
その言葉に対し、反射的に右衛門作は悔しさに似た感情を覚えた。美学を通し死ぬならそれはそれでよいではないかと右衛門作は思う。だが累の口にした言葉は、何故か小さな刺となって右衛門作の心に突き刺さった。
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