第六章 3
神谷惣介は母の藍と二人暮らしだ。
父親がどんな人物か、惣介は知らない。親戚付き合いも一切無い。それも当然だろうと、最近になって惣介は理解した。
高級マンションの自宅に帰ると、母親はいつもいた。夜になると仕事へ出て行く。母親がそれまで一切隠していた仕事のことを知ってからというもの、惣介は今までわからなかったいろいろなことを理解できた。
「おかえり」
暗い面持ちでリビングにあがった息子に、努めて明るい声をかける藍。しかし惣介は憎悪に満ちた視線を母親に叩きつける。
それを正面から受け止め、藍は目を逸らそうとはしなかった。慈しみと哀しみが混ざった目で、惣介を見つめる。
今まであらゆる男の心を和ませ蕩けさせてきた藍の視線、表情、振る舞い、仕草、愛撫であるが、我が子に対してはそれらが一切通用しない。少なくとも自分を憎む今の惣介に対しては。
「今日も学校で売春婦の息子だって、散々言われてきちゃった」
立ったまま、冷めきった表情で語る惣介。
「友達とかもう全然いないんだ。遊んでた子も、俺が話しかけても無視するんだよ? 昼休みになると、俺の机に集まって皆で俺のことからかうんだよ。俺のことと、母さんのことをさ」
息子の淡々とした口調による報告に、藍は黙ったまま受け止めていた。何も返す言葉は無い。
藍は自分の子供を苦しめていることを悪いと思いつつも、今の自分を捨てる気は全く無かった。捨てられるわけがない。捨てたら何者でもない自分しか残らない。誰にも評価されない。誰とも触れ合わない。誰の心も掴めない。そんな生き方は受け入れがたい。
「俺、毎日いじめられてるけど、母さんはそれで平気なんだね」
ぽつりとこぼす惣介。返す言葉はやはり無い。自分のせいで惣介に辛い想いをさせておきながら、心の中で謝りつつも、それを改めるつもりも藍には無い。正当化する気も無いし、反論しようとも思わない。
「ねえ、聞いてんだよ。平気なんだね?」
しつこく食い下がる惣介。平気ではない。かつて子供だった頃の自分がそうだったように、息子にも辛い想いをさせてしまうことが、平気であるわけがない。
だが今ある自分の幸福と天秤にかけた場合、どうであるか。それによって藍は選択しているだけだ。否、選択すらしていない。天秤がどちらかに傾いている時点で、選択という問題すら無くなる。
惣介は心の中であることを決めていた。実験台となることと引き換えに願いをかなえてくれるというマッドサイエンティスト――雪岡純子。
その人物に頼んで、いじめっ子達の母親や姉妹も、自分の母親と同様に売春婦にしてもらおうと考えていた。そうすることで、彼等に自分と同じ苦しみを味合わせてやることができないかと。自分の今の境遇もましになるのではないかと。
だがその一方で、根本的な部分が解決しない。売春婦の息子としていじめられても、それでもその売春婦を辞めようとしない母親。その事実がどうしても残る。それは許せない。
それをマッドサイエンティストに頼んで解決してもらうのは、癪に障った。母親が自らの意志で自分のために辞めてくれないと、惣介は許せない。
「そんなに気持ちいいものなの? その仕事って。クラスの奴等が言ってたんだ。男と裸で抱き合って、おっぱいとかちんちんいじりあって気持ちよくしあうけれど、女の方は気持ちよくなってお金だけもらえるからお得だって。で、俺もそうした客の一人の子――」
言葉は途中で遮られた。藍が惣介の頬を力いっぱい叩いたからだ。今までこのやりとりで藍が息子を責めたことも、怒ったことも一度も無かったが、今の言葉だけは聞き捨てならなかった。
叩いてから、藍は凍りついた。自分を睨む惣介から確かな殺気が放たれていたからだ。それは藍が昔にも見たことがあるので、見間違いようがない。目の前で沢山の人間が殺される場面を見せられたあの時のあの男と同じものが、惣介から放たれている。それも、自分に向けて。
「お前なんかから生まれたから……俺は……」
うわごとのように呟いた直後、惣介は手近にあった盾を掴むと、藍の頭を思いっきり殴りつけた。
手で頭を防ごうとしたものの、手の隙間から盾の角がこめかみへと渾身の力でもって振り下ろされ、意識が一瞬飛ぶ。
(あの盾は……)
銅製の盾は、惣介が小学一年生の頃の夏休みに、近所の文化センターの催しの親子で金魚すくい大会の優勝商品としてもらったものだ。目の前で惣介が大喜びしていた時の顔が、鮮明に思い浮かぶ。
「お前なんかが俺の母親だったから! 俺を生んだのがお前だったからっ、こんな!」
崩れ落ちた藍の頭部めがけて、盾が何度も何度も振り下ろされる。瞼の隙間から、悪鬼の形相で盾を振り下ろしてくる我が子の姿が映る。
(やめて……神様、ここで私を殺さないで。私がここで死ぬと、この子は……)
死の恐怖と、息子を親殺しにしてしまうことへの恐怖に包まれる。心の中での制止の声は、惣介に対してではなく、とびきりの悪意でもって悲劇のストーリーを作ろうとしている、運命の操作者へと向けられていた。
藍の体はもう動いてくれない。意識が薄れていくのを実感する。
動きが止まり、反応が無くなった藍を見て、惣介の動きが止まる。
「あ……」
横向けに倒れて、完全に動かなくなった血にまみれた母親の姿を見下ろし、惣介は正気に戻った。手にしていた盾が鈍い音と共に床に落ちる。
「母さん?」
我に返った惣介は、怒りに任せて行った己の行為による結果を見て戦慄した。
(まさか……? 殺した? 俺が母さんを)
認めたくない現実。受け入れたくない現実。ほんの数分前と今とで大きく狂ってしまった運命。
愕然として膝をつき、横たわる母の体を揺する。何の反応もない。仰向けにして胸に顔を押し当てる。心臓の鼓動は聞こえない。口元に手をかざす。呼吸も無い。
「母さん……嘘でしょ……」
なおも藍の体を揺さぶりながら、惣介の顔が歪み、涙声になる。
一体どうしてこんなことになってしまったのか。母親が売春婦だと言われて突然いじめられるようになって、そこから何もかも狂いだして、そして今、こんなことになってしまっている。それ以前は、何もおかしいことなんてなかったのに。
しばらく惣介の嗚咽が室内に響き続けた。時間をほんの数分だけでもいいから戻してほしいと切に願った。それだけで全て救われるのだ。ほんの数分前と今とで、まるで別のものになるはずだ。
そもそも何で自分はあそこで自分の感情を抑えきれなかったのか。抑えがたい怒りにとらわれて、あんなことをしてしまったのか。惣介自身にすらわからない。
泣き終えた後、不意に惣介はある存在を思い出す。実験台となる代償に願いをかなえてくれるというマッドサイエンティスト。藁にもすがるような思いでネットを開き、メールを送る。
そこに書いたメールの文章の内容は、至極簡潔でわかりやすい要求であった。
『母さんを殺してしまいました。俺はどうなってもいいから、母さんを生き返してください』
***
神奈川県において暗黒都市指定されている薬仏市は、東京都の多摩方面の幾つもの都市を併合して作られた安楽市同様、東京湾湾岸部の無数の都市を併合して作った巨大都市である。面積は安楽市よりやや狭く、人口に至っては半分未満だが、裏通りの凶悪さにおいては安楽市を大きく上回る。
その薬仏市の繁華街の一つにある店――『クラブ猫屋敷』。十数年前に閉店となったその店舗は、その後売れ渡ったものの、外観も内装も全く同じままで残っていた。
ミラーボールも、カウンターも、DJミキサーやターンテーブル等の機材までそのまま残されたまま。唯一違和感があるのは、ホールのあちこちに、用途不明の機械が無数に置かれていることだった。
くぼんだフロアに並べられたソファーには、数人の人影が見える。テーブルの上にはパソコンが置かれ、巨大なホログラフディスプレイを投影していた。ディスプレイの前には、全身真っ白な猫がちょこんと座り、ディスプレイを見上げている。
「で、今回の国際マッドサイエンティンスト会議では、いよいよ御大お披露目と?」
テーブルの上に長い脚を投げ出して、バイパーがからかうような口調で言う。
『いいや。時期的にまだそれは早い』
ボイスチェンジャーでもかけたかのような歪な響きの声が応える。
『今回の会議で、あの糞共の度肝を抜く土産は持っていくつもりなのですがね。純子や霧崎みたいなカス共と、いつまでも同列みたく並べられているのも、いい加減不愉快だしな』
「ミルクが直接姿を見せる方が、よっぽど仰天すると思うにぅ」
バイパーの向かいの席にいる、水玉模様の寝巻き姿の細身の少年がにこにこと微笑み、口を挟む。
ソファーの座面に腰掛けているのではなく背もたれの上の部分に腰を下ろし、裸足の足をぷらぷらと交互に振っている。歳は十五、六といったところだろう。幼さを過分に残した容姿に、愛嬌に満ちた明るい笑顔が非常にマッチしている。頭の上に猫耳アクセサリーなどつけているが、それが全く違和感無く見ることができる紅顔の美少年である。
彼の名は
『別に私の正体晒して愚民共を仰天させたところで、私の実績とは無関係でしょ。それに最近は私が外出することも多くなったせいか、個人レベルで知る人も多くなったし』
どこから発せられているかわからない歪な響きの声が発せられた後、白猫が欠伸をする。
「ああ、そうだ。バイパー、また人殺ししてきたにぅ。パトカーがいっぱいだったにぅ」
「はっ。人? あれって人なのかよ。違うだろ? 体は人間でも、何かの間違いで蝿かゴキブリの魂が人間の体に入っちまったような人間のふりした別物だろ。だから人殺しじゃねーよ」
ナルの指摘に、バイパーは白い歯を見せて笑い飛ばす。
「ま、薬仏警察署は以前バイパーにぼっこぼこにされた過去があるし、騒いでるだけで手出しはしてこなさそうだけどにゃ」
「そもそも奴等は裏通りやマフィア相手に、一切手出ししねーだろ。芦屋や梅津のいる安楽市なら話は違ってくるだろうがよ。同じ暗黒都市でも警察の質が違いすぎるな」
「安楽が薬仏に比べて裏通りの住人が大人しいのも、警察の差があると思うにぅ。ま、薬仏は移民が多いのも難だけどにゃ」
「おいおい、俺もその移民の血を引いてるんだから、難とか言ってくれるなよな」
怒った風もなく笑顔のまま言うバイパーに、ナルはごめんねと舌を出す。
深刻な少子化に伴い、二十一世紀半ばより日本は移民を受け入れざるをえなくなったものの、予測されていた通りに治安は悪化した。
旧ヤクザ組織の大半が消滅し、より先鋭化された非合法ビジネスを営む裏通りが台頭した原因は、かつての大規模な移民流入政策が引き金とも言われている。
移民達の中にマフィアが混ざって入り込み、日本に根を下ろそうとした際、旧極道組織は必死に抵抗したが、マフィア達に太刀打ちしきれずに敗北し、移民を推奨する為政者達の圧力で警察も手を出さなかったが、その後派生した裏通りの住人達が海外マフィアを駆逐し、侵入を食い止めた。裏通りの存在が必要悪として認められる原因となったエピソードの一つである。
だが薬仏市は未だに、移民と混じって入ってきたマフィア組織が大量に根を下ろしており、日本の裏通りの住人達と、日々抗争を繰り広げている有様だ。表通りの住人もその被害に巻き込まれることが多い。
「ま、殺された相手もチンピラみたいだし、きっとお咎め無しで終わるにぅ」
『その方が警察としても楽だしな。それより動物園行くぞ』
「またにゃ? 四日前行ったばかりにぅ」
どこから発せられているかわからない声での要望に、苦笑を浮かべるナル。
「しかもこいつ、水族館か鳥類のコーナーで延々と時間潰すからな。何が楽しいんだか」
そう言ってバイパーが立ち上がり、椅子の裏に横倒しになって無造作に置かれていたピクニックバスケットを手に取ると、テーブルの上でディスプレイを眺めていた猫の襟首を掴み、バスケットの中へと入れて蓋を閉じる。一方でナルは手早く着替えを済ませていた。
「つくしと繭も連れて行くのか?」
『まだ寝てるのでしょ? 寝かしとけばいいし』
「あいよ」
返答した直後、バイパーは白猫を入れたバスケットを、大きく三度ぐるぐると回してみせる。
『殺すぞ、糞が』
怒気に満ちた声が発せられたのを聞いて、バイパーとナルは朗らかに笑いながら、猫屋敷の外へと出た。
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