020

 北欧神話で雷神トールはウートガルザ・ロキに幻術で海を酒と思い込まされ、水位が減るほど飲んでしまった。バンパイアはトールほどではないにしても、ドラゴンの眷属であるからにはやはり大酒呑みウワバミに違いなく、一方バーにある量では海に及ぶべくもない。

「もう1軒行こうよ。もう1軒」

 当然、すべて飲み干してもモリスを酔い潰すには足りず、別の店へ移動したがそれでも足りず、3軒めにしてようやく成果が見えてきた。

「鯨ってやつは不思議な生き物だ。鯨の骨格標本を見たことがあるか? 実際あの見た目からは想像もつかないぜ」

「『ブレードランナー』でルトガー・ハウアーがいきなりパンツ一丁になってるのが意味わからん」

「ドラキュラは金毛羊の夢を見るか?」

「ああ、窓に! 窓に!」

「塀の上にいるハンプティ・ダンプティに向かって、ハンプティ・ダンプティが落ちて元に戻らなくなる詩を読むアリスって実際サツバツだよな」

「ニンフェットじゃなくてロリータのほうが定着したのは、ナボコフ的に相当不本意だと思うんだが」

「十力の金剛石はただの金剛石みたくチカチカうるさく光らない。きらめくときもある。かすかににごることもある。ほのかにうすびかりする日もある。あるいは洞穴のようにまっくらだ。春の風よりやわらかくある時は円くある時は卵がた。霧より小さなつぶにもなればそらとつちとをうずめもする。百千のつぶにもわかれ、また集って一つにもなる」

「おれはジーザのところへ行きたい。おれはクリーズといっしょに行きたい。おれはジーザといっしょに行ける。ほんとにおとなしくしてれば」

「アンはギルバートの脳天に、モーゼの十戒が刻まれた石版モノリスを叩きつけた。するとギルバートは歌い始めた。デイジー、デイジー、答えておくれ」

「おれは知識と悦びと輝かしい栄光を与え、人心を酩酊でかき乱す蛇だ。おれを崇拝しようと思うなら、おれがおれの預言者に告げるつもりのブドウ酒と一風変わった薬剤を採り上げて、それから酔っ払っちまえ!」

 モリスの足元はおぼつかず、目はすわり視線がさだかではなく、言動が支離滅裂になっていく。もうかなり酔いがまわっているようだ。

 ここまでたどり着くのは容易ではなかった。意図的に酔いつぶそうとしているのを悟られないためには、自分たちも一緒に飲むのが一番だ。ローラたちも途中からビールに切り替えたが、それでもかなりキツかった。正直、先に酔いつぶれてしまうかと思ったくらい。しかし、何とか理性を保てている。少なくとも自分自身の認識では。

 これほど大量に酒を飲んだのは、ローラも久しぶりだ。気分が悪いわけではない。かと言って昂揚しているわけでもない。ただ何となく身体が軽いような、宙に浮いているような、そんな感覚。今は翼を出していないのに。

「ローラ、大丈夫?」

「――平気よ。そういうあなたは? ムリしていない?」

「実はチョット気持ち悪い。油断したら吐くかも」

「もう少しだけ頑張りなさい。頑張るのよ。あとほんの少し耐えれば、きっとわたしたちが勝てるから」

 そう告げるローラのほうに、とうとう睡魔が襲いかかって来た。意識が遠のく。何とかこらえようとするが、わらをつかむように頼りない。

「眠いの? だったらとっておきの方法があるよ。昔、知り合いの元軍医に教えてもらったんだけど、これをやればイッパツで目が醒めるって」

 イングリッドの親指が、ローラの眼窩の上側の縁に押し当てられる。そして思い切り力を篭めてきた。

「痛たたたたたたたたたたたたたたたたたたたぁ――っ!?」

 ローラはあまりの激痛にもだえ苦しんだ。刃物で刺されたり、銃で撃たれたりするのとは別種の痛み。

 そして気がつくと、眠気どころか完全に酔いが醒めていた。

「ホント、すごい効き目だわ今の。ありがとうイングリッド。おかげで気分がスッキリ爽快。お礼に今度はわたしがあなたにしてあげる」

「いや、アタシのほうは別に眠いわけじゃア……」

「あそこまで力を篭めなくてもよかったのではないかしら。わたしの顔をよく見て。ほら、青アザになってない?」

「いや、バンパイアが何言っ――ちょ、待っ、ストップストップ! その怪力でやられたら、青アザどころか目が潰れ――って、アレ? モリスは?」

「エッ?」

 隣の席に座っていたはずのモリスが、いつのまにかいなくなっていた。あわてて店内を見回すと、ほかの客のテーブルのほうへ移動している。筋肉モリモリマッチョマンの3人組――例えるならアーノルド・シュワルツェネッガー、ドルフ・ラングレン、シルヴェスター・スタローンのトリオ。おそらく非番の軍人だろう。

 モリスは何食わぬ顔で3人のテーブルへ近づくと、背後から手を伸ばしてフライドポテトをひとつ奪った。そのまま何も言わず立ち去ろうとする。

 むろんマッチョマンたちはだまっていない。「おい待て金髪豚野郎ブロンディ

 その声にモリスは周囲を見まわして、「おれか? おれに用なのか? 誰に言っているんだ。おれに用なのか?」

「すっとぼけてんじゃねえ。今オレらのポテト盗っただろうが」

「やれやれだぜ。証拠もなしに人を泥棒扱いするのはよくねえな」

「現行犯が何を寝ぼけたこと抜かしていやがる」

「ふざけやがってこの盗っ人野郎」

「だから、おれがいったい何を盗んだって言うんだ? ほら、よく見ろ。どこにも盗んだ物なんて持ってねえ」

「だからポテトだって言ってるだろ! 俺らのポテト食っただろ!」

「ポテトポテトうるせえ。そんなにポテトが食いたかったらなァ、マクドナルドにでも行けってんだクソッタレ。ここはガキの来るところじゃねえ」

「SEALにケンカを売るとはイイ度胸だクソガキ」

海軍特殊部隊ネイビーシールズだァ? 嘘つけ。砂漠に海軍基地なんかないぜ」

「パラシュート降下訓練で来ているんだよ」そう言って、男は二の腕に彫られたタトゥー――錨、ハクトウワシ、ピストル、三叉槍トライデントの組み合わせ――を見せびらかした。SEALのエンブレムだ。

 それを見たモリスは鼻で笑い、「その使いにくそうなフォークがどうかしたのか」

「野郎っ、ぶっ殺してやる!」

「やれるもんならやってみろ。だがハッキリ言っておく。おれは不死身だ。魔女の予言によれば、女の股から生まれたヤツにおれは殺せねえ」

「残念だったなマクベス。オレは帝王切開で産まれた」

「ハァ? いきなり何を言ってやがる。おまえさんが帝王切開だろうとクローン人間だろうと知るか。ところでおれの弱点はアキレス腱だ」

「……どうやらこのアホはマジで死にたいらしいな。ひとがせっかくてめえのノリに合わせてやったってのに」

「まともに取り合うなよバカ。しょせんヨッパライのタワゴトだ」

「あァン? 誰がヨッパライだって? おれは酔ってねえ。たかがあの程度の量で酔うか。おれは酔ってねえ」

「ヨッパライはどいつもこいつもそう言うんだよ」

「どうでもいいから、さっさとコイツやっちまおうぜ」

 SEALの一人が、丸太のような両腕で背後からモリスを羽交い絞めにする。これではサンドバッグも同然だ。

 モリスは鼻で笑いながら、「3対1とは卑怯な。イエス・キリストとクリス・カイルの顔に泥を塗るつもりか?」

「イエスを語るなら三位一体トライデントくらい知っとけ。今宵この場は俺たち3人が神だ。つまりちゃんと1対1だ」

「礼儀を知らない田舎者を、たっぷり教育してやろう。言っておくが、謝るなら今のうちだぜ」

「やれよ。楽しませてくれ」

「――マッシュポテトにしてやらァ!」

 軍人の鍛え抜かれたボディブローが、モリスの鳩尾に突き刺さる。内臓破裂しない程度に手加減はしたようだが、それでも1発でノックアウトされかねない破壊力だ。普通なら飲んだ酒をすべて吐き戻してもおかしくない。

 だが、下手にパンチ力があったことは、むしろ仇になった。男は拳を抱えて悶絶する。骨が砕けたのかもしれない。固い鱗を思い切り殴りつけたら、当然そうなる。

「クソッタレ! 何か腹に仕込んでやがったなこの野郎ォ――」

「だから最初に言っただろ。おれは不死身ダイハードだって」

 モリスは拘束を怪力でアッサリ振り払うと、ロードローラーのような体格の男を軽々と放り投げた。もうひとりにぶつかってテーブルが巻き込まれ、粉々に割れたグラスや皿が床へ散乱する。

「ヘナチョコめ。パンチはこうやって打つんだ」そして拳を傷めた男には、渾身の右ストレートをお見舞いした。男は窓を突き破って外へ吹っ飛ばされ、ボールのように路地を転がった。

 噂に名高い基礎水中爆破訓練BUD/Sをクリアしただけあって、SEAL隊員はありえないくらいタフだった。意識を失うどころか誰の手も借りず二本足で立ち上がる。「SEALをなめるなよ、クソッタレのイカれ野郎!」

 ほかの2人も闘志がみなぎっている。やる気マンマン。

 ――というか結局のところ、この3人も完全に酔っているのだった。

 さすがにこの状況で止めに入ろうとする勇者はいなかった。ほかの客は遠巻きに眺めているか、巻き込まれないようさっさとバーから出た。

 そしてなかには、警察に通報した者もいたらしい。遠くからサイレンの音が近づいてくる。この店では非番のSEAL隊員がよく騒ぎを起こすので、もとから目をつけられており出動も早かったのだ。

「やばいサツだ」「ずらかるぞ」もちろん、SEAL隊員のほうもこの手の状況には慣れている。モリスからアッサリ興味を失くして、脱兎のごとく逃げ去ってしまった。

「なんだなんだ……? 口ほどにもねえヤツらだぜ。これだから最近の若造は。……運動したらのどが渇いたな」

 モリスは手近なテーブルにあったビールをつかんでイッキ飲みすると、突然床へ仰向けに倒れた。このタイミングでようやく酔いつぶれたらしい。

 シスターの姿にふさわしくそれなりの慈悲を篭めて、ローラは彼にささやく。「金の夢を見ろ」

 やがて警官が到着し、バーにいた人々に事情を聴くと、高いびきで眠るモリスに手錠をかけてパトカーへ放り込み、そのまま連行してしまった。

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