016
モリスは気分よくキャデラックを西へ西へと走らせていた。カーステレオからはディック・デイルの『ミザルー』が景気よく流れている。砂漠の真ん中ならオープンカーで大音量にしていようと、誰にも文句を言われることはない。
ただし、同乗者を除いて。
「ねえ、ちょっと、音量を下げてもらえないかしら」
「あァ? なんだって? 何を言っているのか全然聞こえねえ」
「音・量・下・げ・て!」
「だからなんだって? もっとデカい声でしゃべれ」
「ああ、もう!」ローラは苛立たしげに、自分の手でカーステレオのスイッチを切ってしまった。
「ひでえことしやがる。いきなり切っちまうとは」
「おだまりなさい。ロックは趣味じゃないのよ。冒涜的だわ」
「おまえさんはたぶんロックを誤解してるぜ……。だが奇遇だな。おれだって本音を言えば、ジャズとかカントリーミュージックのほうが好きなんだ。別にロックも嫌いじゃないがね。まったく、ほかに聴きたい曲があるならそう言えって。ほら、何が好きなんだ? チャーリー・パーカーか? セロニアス・モンクか? それともジャンゴ・ラインハルトか?」
「そんなのどうだっていいわ。……それより聞こえない? この声」
「あァ? 声ェエ?」
言われてみれば、エンジン音にまぎれて、何やらうめき声のようなものが聞こえる。それと何かが車体をたたく音も。てっきりこの振動は道が悪いせいだと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
「……そういや、あの運び屋っぽい連中が何を載せてたのか、確認してなかったな。すっかり忘れてた。てっきりマリファナだと思ってたんだが」
「ねえ……わたしのカンチガイでなければ……コレ、人の声よね?」
「まァトランクには、人ひとり入れるスペースは充分あるが……」
もし本当にそうだとすれば、この炎天下のなか、トランクに長時間押し込められていたことになる。下手をすれば死んでいてもおかしくない。ゾンビでもないかぎり、少なくとも生きているようだが。
「ゾンビぃ? 嫌なこと言わないでよ。鳥肌が立ってきちゃったわ」
「バンパイアがゾンビを怖がるなよ。ゾンビがかわいそうだ」
「カンチガイしないでくれるかしら。別に怖がっているわけじゃアないわ。ただ単に気持ちが悪いだけなんだから。――ああ、どうしよう! ゾンビに噛まれたら、わたしまでゾンビに! うげえっ」
「まァ、ゾンビがバンパイアになることはなさそうだな。――さて、トランクの住人がホントにゾンビになっちまう前に、さっさと助け出してやろうぜ」
車を停車してふたりとも降りる。エンジンが止めてみたら、声がハッキリ聞こえるようになった。何を言っているかはわからないが、若い娘の声のようである。
「いいか? 開けるぜ。ワン、ツー」「ま、待って。まだ心の準備が」「スリー!」「ああーッ!」
トランクを開け放つと、篭もっていた熱気でふたりはむせ返りそうになった。なかにはひとりの女がスッポリと収まっていた。両手足をロープできつく縛られ、猿ぐつわを噛まされている。衣服は汗でびしょ濡れ。殴られたのか、ところどころのアザと裂傷が痛々しい。
何かを必死で訴えているようなので、猿ぐつわを外してやると、
「アンタら誰? あのふたりは? ううん、ていうかそんなことは今どうだっていいの――いいかげんトイレ行かせて! おしっこもれちゃうゥ」
モリスは何ごともなかったかのように、トランクの扉を閉じた。
「いやいや、何をしているのよ」
「いや、あんまり息が臭かったもんだから、つい」
「女の子相手にひどい言い草ね。いくら汗臭いとはいえ。でも放っておいたらよけい臭くなるわよ。ションベン臭い車を運転したいなら話は別だけれど」
「冗談じゃない。おれはゾンビよりもそっちのほうが嫌だ」
ふたたびトランクを開ける。有無を言わさず汚い物でも触るように、モリスは女を外へ放り捨てた。
「よし、これでおれのキャデラックは大丈夫だ」
「ちょっと! このまましろっての? 冗談じゃないわ。頼むから早くロープを解いて――うくぅ」
「もらしたけりゃア勝手にもらせ。だが、もし人間らしく最低限体裁を整えたけりゃア、おれの質問に答えろ」
女は今にもちびりそうな――事実その通りなのだが――泣き顔でチラチラとローラのほうを見る。同じ女のほうが同情を引きやすいと思ったのだろう。ましてやシスターとくればむべなるかな。
「……わたし思うのだけれど、女の子がおしっこガマンしている姿って、なんというか……その……そそるわ……」
「エリエリレマサバクタニィーッ!」
モリスは腹を抱えて笑いをこらえながら、「神は死んだ。おまえさんの憐れさに同情しすぎたせいだ。助かりたかったら、自分が超人にでもなるんだな」
「なに? お金? お金を払えばいいの? そうなの?」
「質問に質問で返すな。今はおれが質問しているんだ。なんでトランクのなかに閉じ込められていた?」
しかし女はまるで耳を貸さず、こちらが訊いてもいないことを好き勝手にベラベラ語り始めた。よほど尿意が限界まで達しているのだろう。
はたして、それはモリスたちにとって実に興味深い話だった。
「お金なら――ある! あるわ! 今ここには持ってないけど、隠し場所まで案内してあげる。アタシは大金持ちなんだから。ウソじゃない」
「……へえ、そいつは驚いた。とても上流階級のお嬢さんには見えないがね」
「こう見えて、アタシは大ドロボーなの。まァ今回はちょっとドジっちゃったけど……とにかく、今まで盗んだ物は全部ある場所に隠してあるわ。たぶん最低でも100万ドルはくだらない、かも……」
「……なるほど、イイことを聞いた。もしおまえさんの言っていることが本当だとしたら、おれは一夜で大金持ちだ」
「でしょ? だから早くこのロープをほどいて!」
「いいぜ。ただし、隠し場所をしゃべってからだ」
「――い、嫌だね。このロープをほどくのが先」
「いいや。先に教えろ」
「
「――やかましい! うっとおしいぞこのアマ! おれは女が騒ぐとムカつくんだッ!」
モリスはホルスターからリボルバーを抜いて、女の脳天に銃口を突きつけた。カチリと撃鉄を起こす。
「いいからさっさと吐け。死にたくなけりゃアな」
女は小刻みに身体を震わせる。おびえているのか、それともさすがに膀胱の限界が近づいているのか。
「ダメ。アタシだってバカじゃない。言ったら殺す気でしょ? そのくらいはわかるっての。口が裂けてもらさないから。――あ、もれる。膀胱が裂けちゃうっ」
「ピストルを持ち出したのは失敗だったようね」ローラは
「確かに、充分堪能したって顔してるな」
「何のことかしら?」
「ヒャッハー! もうアタシを縛るものは何もないんだァーッ!」ようやく自由を手に入れた女は、大慌てで立ち上がり駆け出そうとした。
しかし長時間拘束されていたのと、不安定な砂の地面に足を取られて、数歩で転んでしまった。「あうっ!」
カラカラに乾いていた砂漠は、滅多に味わえない極上の美酒を、あっという間に飲み干してしまった。
「これはまさしく神の思し召しだな。従わない手はねえ。善は急げだ。さっそくお宝を頂戴しに行こうぜ」
ローラは顔をしかめる。「ちょっと待ちなさい。それじゃあキンスキーのことはどうするの?」
「おいおいシスターさんよ。ローラ・リーさんよ、わかり切ったことを訊くな。かたや凶悪なバンパイアと戦って10万ドル、かたや女を脅すだけで100万ドル、考えるまでもない」
「けれど、あの凶人を放置しておくわけには」
「だろうな。まァ放っておくわけにはいかない。だから、ここでオサラバとするか? 別におまえさんまでついて来る必要はない。たったひとりでキンスキーと戦えばいいさ。正義の味方はまかせる」
「……焦らなくても財宝は逃げないわ。別に、キンスキーを仕留めてからでも遅くはないでしょう」
「確かに財宝は逃げないが、このションベン女は逃げるぜ。かと言って四六時中連れ回すわけにもいかない。キンスキーと戦うとき足手まといになる」
「くっ――」ローラは歯噛みした。100万ドルもの大金が一度に手に入るチャンスを、みすみす逃すなんてできるわけがない。しかし復讐を優先させるなら、あきらめるしかないのだ。
キンスキーを倒すのに、モリスの協力は必須ではない。もとはひとりで成し遂げようと思っていたことだ。いや、そもそも困難さがなんだ? 成功の可否で復讐を語る理性が残っているのなら、最初から復讐に向いていない。
そうだ。ハムレットのように、たとえ何を犠牲にしたとしても、復讐を遂げるべきなのだ。オフィーリアの屍を踏み越えて、すべて置き去りにして。復讐とはそうでなければならない。
しかし――ああ! しかし!
ローラは気づいてしまった。なぜ自分はこれほどまでに悩んでいるのか。本来なら悩む必要などないはずなのに。復讐だけを考えていればいいはずなのに。それができないのはなぜ?
答えはあきれるほどカンタンだ。
世のなかには、金よりもはるかに大事なことがある。
――ただし、それは復讐ではない。
「……わかった。確かにあなたの言うとおり、こんなのは考えるまでもない。ええ、本当にそう」
だがそうなると、モリスとの同盟も潮時ではないだろうか。ローラ自身は、あくまで復讐はあとまわしにしているだけのつもりだが、モリスは違うだろう。大金を手にしたら、キンスキーを狙う意欲はなくなっているに違いない。ならばもうこれ以上、協力関係を継続する意味はない。
だいたい、女に金の隠し場所まで案内させるだけなのだから、仲間などいても分け前が減るだけだ。50万ドルより100万ドルのほうが多いことは、子供でも計算できる。モリスとてその事実に気づかないはずはない。やられるより先にやらなければ。
すると問題は、いかにしてモリスを始末するか。ローラにはとっくにその目星がついていた。ジークフリートにとっての菩提樹の葉の跡、アキレスにとってのかかと、バルドルにとっての
ジークフリートはドラゴンの血を浴びるとき、目を開けていただろうか。血を浴びるだけではなく、口から飲んで消化器官の壁にまで行きわたらせたのだろうか。クリエムヒルトもブリュンヒルトもトロニエのハゲネも、その可能性にはついぞ気付かなかったようだ。
鱗はあくまで体表を覆う組織に過ぎない。つまり口のなかはガラ空き。まぶたも開いているうちは、光以外のものも素通りする。
ただしモリスは四六時中葉巻をくわえていて、口を大きく開くことがないし、鱗よりも硬い歯が邪魔だ。それに弾丸が口蓋から脳天へ突き抜けるならともかく、水平方向に貫通した場合は仕留め切れない可能性がある。その点、眼窩から侵入した弾丸は脳髄を引き裂き、確実に頭を粉砕してくれるだろう。
今ならまだ、モリスは油断しているはずだ。時間の経過はこちらの不利にしか働かない。裏切りを実行するなら、早ければ早いほういい。
それこそ、まさしく今、この時に。
ローラはホルスターのワルサーPPKに手を伸ばしながら、確実に仕留められる射程へ近づこうとする。
――と、爪先に何かが引っかかった。気になって足下を見てみると、ガラガラヘビの抜け殻が落ちていた。砂に埋もれかけたそれを、なにげなく拾い上げてみる。
よく観察してみて、ローラは衝撃を受けた。
その抜け殻には、目の部分にも鱗があったのだ。
彼女としたことが失念していた。使徒言行録でも、サウロの目から鱗が剥がれ落ちていたではないか。であれば、きっとモリスも同様に違いない。両の目もまた、絶対の城壁に守られているのだ。
実に危ないところだった。もしこの事実に気づかなければ、あえなく返り討ちに遭っていただろう。
これはまさしく天啓にほかならない。ローラはこの身を生かそうとする神の意志を感じた。今ここに救済の確信を得た。
神はおのれを選んでいる。ならば何を恐れることがあろうや。焦らずチャンスを待つとしよう。
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