第23話──闇の中の闇・後編

 亀裂のような笑みを深くしながら、神父は騎士に呪いの言葉を言祝ぐ。


「きっかけは何にしろ、貴方が人の道を棄てた事に変わりは無い。

 貴方には最早、人と同じ時間は流れない。人と同じ糧を得る事は出来ない。

 そんな貴方を他の人間はどう見るでしょうね?

 若く美しい姿のまま歳をとらず、聖体であるパンやワインも拒む身体を抱えて、この先どうやってその本性を誤魔化していくおつもりですか?

 もう、無理なんですよ。

 貴方が人として、人と共に生きる事は。

 だから……」


 神父の瞳が愉悦に輝き、殊更楽しそうに語尾が弾む。


「……ねえ?〈化物〉は〈化物〉らしく、一緒に面白おかしく生きようではありませんか。

 ええ、私達は人の道を外れた存在であって、多くの人間にとって忌まわしく、呪わしいものとして映るかもしれません。

 ですが、同時に彼らの敷いた法則に縛られる事がない、超越した存在でもあるのです。

 私達には力がある。それが人間に対して絶対である限り、私達は彼らにとって神にも近しい優位を誇る事が出来る。

 自分より劣る生き物に、いちいち憐憫の情を懐く必要はありません。

 実際、人間とて己の家畜を屠る時、涙を流したりはしないでしょう?そういう事です」


「……つまり、仲間になれと?そう貴様は言いたいのか」

「んー、仲間というのは、少しばかりニュアンスが違うんですけど……そうとって下さっても構いませんよ。少しずつ手順を踏んでいくのも悪くはありませんから」

「だったら断る」


 片方だけの瞳に強い意志を光らせて、全てを奪われた青年が最後の誇りを胸に、迷い無く断言する。


「こうなった以上……今更人として生きることなど……望んではいない」


 全身から鋭い闘気を発しつつ、残る力で何とか上体を引き起こした騎士は、強烈な拒絶の一言を神父に放った。


「異端の洗礼を受けた時、既に我が人生は対価として捧げたも同然。

 もはや思い残す事など何も無い。

 さあ、殺せ。貴様なら容易に出来るはずだろう。

 でなければ……私が今、この場で貴様を殺す」


 それは最後通牒と言っていい内容だった。

 騎士の目は本気で、だからこそプレラーティは……心底愉快でたまらなかった。


「……何が可笑しい」

 腹を抱え、涙すら流して笑い転げる若い神父に、得体の知れない戦慄を覚えつつ、だがそれは決して表情には出さぬまま騎士が問う。


「だって……はは、貴方があまりにも可愛らしい事をおっしゃるからですよ、閣下。

 私を殺す?貴方が?その身体で?

 無理ですよ。そんなの」

 哀れむような目つきでこちらを見やる神父に、

「やってみなければ……わからないだろうッ!」


 騎士の瞳が朱に染まる。


 ──どんな魔術師であれ、魔術の発動には呪文詠唱が伴う。

 自他共に認める天才的な魔術師であるプレラーティのそれは驚嘆すべき速さを誇るが、どんなに短縮されていようと、実際の攻撃力の解放までの時間差は存在する。

 たとえ人の身では適わぬ数瞬の見極めでも、闇の獣と化した己の五体と感覚ならば──ましてやこの距離ならば、明らかに魔術がこの身を削ぐより早く、相手の懐に飛び込み、息の根を止める事が出来るはず。


 一撃で仕留める──


 怒りのままに全神経を励起させ、伏せっていた床を蹴った。

 相手は目と鼻の先。外す事など考えられない距離。

 神父の唇がおもむろに動く。

 だが遅い──!


 ──獲った。

 傷を無視して身体に負荷をかけた。この後、反動で自分はもうまともに動けまい。だが別に構わない。奴を──奴を道ずれに出来るならば……!


 骨と骨がぶつかり合い、軋む鈍い音と衝撃が拳に走った。


「な……」

「残念ですね。閣下。

 並みの魔術師だったら、今の一撃で命を落としていた事でしょう。

 ですが、私は並みの魔術師ではないのです」


 プレラーティは涼やかな表情でその掌中に収めた騎士の拳を見やると、


「貴方は『人間の騎士』としては一角の人物かもしれません。しかしながら、私から言わせれば、吸血鬼としての能力は、むしろ下から数えた方が早いくらいなのですよ。

 その身を霧や炎に変える事も叶わず、人や獣の心を操る事も出来ない。

 これでも私は、今まで他の退魔師が手に負えないような化物共をうんざりするほど相手にしてきたのです。

 それとくらべたら……万全の状態の貴方でさえ、脅威には感じない」


 言って握ったままの拳に軽く力を込めると、そこを支点として、あっさりと騎士の身体が宙を舞った。


「うっ……」


 受身も取れず背中から石畳の上に叩きつけられ、騎士が一瞬息を詰まらせる。

 相手が事態に対処出来ぬ間に、神父はどっかりとその上に腰を下ろすと、改めて不届き者の手を取った。


「綺麗な手ですね。剣を取るよりも、絵筆や楽器を持つ方がよくお似合いだ」

「………………ッ!」


 ぱきり、と。

 何気ない仕種で、中指が折られた。瞬間、延髄を走る痛みに、騎士の全身が痙攣し、力を失った碧い瞳が見開かれる。


「ふうん……これでも悲鳴は上げませんか。育ちが良いのに大したものです。

 さぞかし牢番共も甚振り甲斐がなかったでしょうね」


 そしてまた、ぽきりと。

 造作もなく薬指が同じ要領で動かなくなった。


「っぐ…………!」

「参りましたね……正直、ここまで強情だとは思いませんでした。

 では、これで如何です?」


 ぶらぶらと、折れて腫れ上がった指を弄んでいたプレラーティの目が妖しい光を帯びた次の瞬間。


「……ッ!ああああああああああッ!」


 固く結ばれていた騎士の唇から、とうとうのどが破れそうな悲鳴が上がった。


「そうそう。その声が聞きたかったんですよ。流石に痛かったですか?」


 のしかかる相手に対し、嬉しそうに話しかけるプレラーティの手に握られていたはずの騎士の手は──もはや原型を留めておらず、そう大きくはない掌の中で、赤黒い肉塊と化していた。


「お可哀想に……これでもう、剣も槍も握れませんね」


 呟き、流れ出た鮮血をうっとりと見つめた後、長い舌で味わうようにぞわりと舐め上げ、神父は恍惚とした表情を浮かべた。


「さあ、閣下。如何致しますか?

 貴方の攻撃は私には届かない。

 ですが、もしかしたら──五体が満足に回復さえすれば──万に一つの可能性ではありますけれど、一矢報いる事も出来るかもしれません。

 急げばまだ右手を取り戻す事が出来ますよ。

 その為に必要な糧は、ほら、すぐそこに転がっているではありませんか──」


 青白い顔に脂汗を浮かべ、とうとう己の意志では指一本動かす事も叶わなくなった囚われの騎士を、プレラーティはそれだけで飽き足らず、なおも言葉で嬲り続ける。


「──さあ、啜りなさい人の血を。

 その口で。その喉で。惨たらしく。誇らしく。

 受け入れなさい。己の呪われた性を。

 人ならざる者達の祝福を」


 既に相手が彼に対して抵抗出来る手段は唯一つ、輝きに不可侵の誇りを秘めた視線のみと知り、神父の嗜虐心はより煽られ、その行為は箍を外してますます増長した。

 プレラーティは青年の露になった首筋をゆっくり焦らすように嘗め上げると、尖らせた舌先を耳朶に運び、挿し入れては、気の向くままに弄び始める。


「ふふ……お望みとあらば、口移しして差し上げてもいいんですよ?」


 その一方で色艶を失った唇に指先を伸ばしたかと思うと、形にそってやんわりと愛撫した。

 騎士の下肢には知らぬ間に蛇のようにプレラーティのそれが絡み付き、欲望を隠そうともしない奔放な腰が繰り返し彼のそれへと擦り付けられる。


「強がるのもいい加減になさい。

 たったそれだけの事で苦痛から解放されるのですよ?

 貴方にとっての享楽の美酒がすぐ目の前があるのというのに。

 何故そこまで拒むのです。

 もう楽になりましょう?

 それを選ぶ事を責める者など、どこにもいないのですから」


 熱い吐息と一緒に甘くかすれた声音で吹き込まれる堕落への誘惑。

 だがこのような極限の状況にあっても、神父の言葉は騎士の心胆を挫くには至らなかった。


「……同じ事を何度も言わせるな。

 貴様の妄言に従うつもりはない。さっさと殺せ」


 冷たく告げると、ここに至るまでずっと神父を睨みつけていた視線をあっさりと外し、覚悟を決めたように騎士は静かに瞳を閉じた。


「………………」


 ──その行為はすなわち、プレラーティの存在自体を完全に無視すると、そう宣言したも同然であった。

 憎まれるのは良い。一向に構わない。むしろ大いに結構である。

 強く憎まれれば憎まれるほど、彼の感情の中心に自分は在り続ける事が出来るのだ。

 だが無視するというのは──己だけをはるか高みにおいて、この自分を心に留める価値も無いものと決めつけるのは──


「──赦しません」


 熱に浮かされていた神父の言葉に、それまでとは違う剣呑な空気──氷刃のごとき怜悧さが篭る。


「そんな事は絶対に、赦しません……!」


 ──言って、プレラーティは、やおら虜囚の貴人の纏っていた着衣に手をかけ、既にあちこちに解れをきたしていたそれを、魔術で強化された恐ろしい怪力でもって、殆ど一息に破り棄てた。


「な……」


 肌が外気に触れる冷たさに、驚きで騎士の目が再び見開かれる。

 その視界に入ってきたのは、嘲りと怒りに唇を歪める背徳の魔術師の禍々しい微笑みだった。


「貴方が悪いんですよ閣下……貴方が自分の立場というものを全く理解しようとしないから、こういう事になるのです。

 せっかく優しくしてあげようと思っていたのに──

 言葉で言い聞かせても分からぬのならば、いいでしょう。

 私の機嫌を損ねた報い、思い知りなさい」


「……ッ!」


 本能的に己の身に降りかかろうとしている災厄を察知した獲物が、身をよじって縛めから必死に逃れようとする。

 しかしそれを鳩尾に容赦のない一撃を加える事であっさりと黙らせ、狩人は不気味な笑みを張り付かせたまま、無防備な脇腹に爪を立てた。


「が……はっ!」

「楽には殺しませんよ。

 元より、下級であるとはいえ、吸血鬼である貴方を、『完全に』滅ぼし尽くす事は、魔術師でも難儀な作業ですからねぇ。

 貴方のように分からず屋な方には、しっかりと教育をしてあげなければいけないようです。

 ですから閣下、今から貴方にはその意思とは関係なく、泣いて叫んでも永遠に安息が訪れない生き地獄を味わって頂きます。

 いっそ狂ってしまった方が幸せと思えるような……そう、魔女の釜の底のような毎日をね」


 言ってプレラーティは、柔肌に食い込ませた爪をぎりぎりと、切り刻む感触を味わうように、ゆっくりと引いた。

 傷口から玉のような血がじわりと滲み出す。

 そして組み敷いた青年の身体がのたうつ度、露わになった肌のそこかしこに赤い線が刻まれていった。


「さあ、またあの可愛らしい悲鳴を聞かせて下さいよ。

 つまらないじゃないですか」


 苦悶に歪む騎士の顔に頬ずりするプレラーティの口元は、淫らな興奮によって震えている。

 最早その嗜虐の趣味を諌めるものは誰もいない。生贄を存分に弄り尽くす事が出来る条件が揃った今、彼は最高潮に達したその欲望を速やかに発露させた。


「……うっ!?」


 騎士が思わず息を詰まらせ、身体を仰け反らせた。

 下肢から凄まじい悪寒が這い上がってくる。何かが最も触れられたくない場所を、更にその奥を目指して押し入ってくる。


 ──その時彼の脳裏に浮かび上がる一つの光景。

 ならず者共に襲われ、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した農村。この時代では良くある出来事だった。

 遊び半分で槍や剣で串刺しされる男達。彼等の遺骸の前で家から引きずり出され、犯される女達──同じ人間に、人間が誇りも尊厳もなく殺されていくあの悲劇を止めたくて、大切な者をもう失いたくなくて、剣を握り、この身を戦に捧げたはずなのに──他ならぬ自分が、彼らと同じ暴力の元に屈しようとしている現実に、呆然とした。


「やめ……放…せっ!……」


 託し込まれた指が蠢き、ほぐす様に内側へ擦り付けられる。

 拒絶する身体が吐き気を催し、そんな自分を嬉々として見つめる不躾な視線を感じるが、どうする事も出来ない。


「……吸血鬼が吸血鬼と呼ばれる所以は、知っての通り、血液を媒介として命と力を吸い上げる事にありますが、別に媒介とするのは何も血液でなくても良いんですよ。

 傾向としてその場合が『多い』というだけで、他のものでも代用出きる。あまり知られていない事ですがね。

 それが『これ』です」

「………………っ!」


 指よりも遥かに凶暴な質量を誇示するものがそこへと捩込まれ、体内を蹂躙される圧迫感と、先程までとは比較にならない苦痛に、騎士が目を剥いた。


「っぐぁ……あっ……!」


 自然に逆らう形で無理矢理身体をこじ開けられ、男の性を受け止めきれずに鮮血を滴らせる青年の秘部の様子を見て、うっとりとしながらプレラーティが呟く。


「……ああ、まるで破瓜の血のようですね。

 『彼女』も実に綺麗な血を見せてくれましたよ。

 『神に遣わされた聖女』という噂は怪しいものですが、とりあえず『処女』であるというのは、紛れも無い真実だったようですね」


 貫かれる痛みと嫌悪とに翻弄され散り散りになっていた青年の意識が、神父の一言で、一箇所に集約される。


 ──今、なんと。


「感じませんか?『彼女』の残り香を──ふふふ──」


 問うより早く、神父が愉悦に堪え切れず、狂ったような高笑いを上げながら応える。


「──くくくっ──はははッ!

 だからさぁ!テメェの女をヤった男に掘られておっ勃ててる気分はどうだい?騎士様よぉ!?」


 青年が鼓膜を叩いたその言葉を理解するのに、わずかだが時間を要した。

 頭では直ぐに思い立ったが、心が現実を事実として認めるのを拒んだからだ。


「き……」


 そして思考が焦点を得た時、あまりの事に目の前が真っ暗になり──続いて沸き起こった怒りというのも生易しい感情の業火が視界を真っ赤に明滅させた。


「…………き、貴様ぁアアアアアッ!」


 端麗な顔を悪鬼の形相と化して吠えかかる青年の首に手をかけ、呼吸の流れを遮ると、神父はとどめとばかりに言葉をたたみかけた。


「かはっ……」

「ああそうさ!生意気なことばかりほざくあの女もこうして奥まで突っ込んでやった!

 悔しいよなぁ?哀しいよなぁ?

 ひひっ、その無様なツラ、最高ッ!にそそるぜぇええ!!」


 もはや言葉もない青年を、僧衣の悪魔が嘲笑う。


「結局テメェがご大層に語る正義や騎士道じゃ何も救えやしねぇんだよ、この童貞野郎。

 せいぜい自分の無力と不運を呪いやがれ」


「……っが……あ、ああッ!」


 深奥をえぐられ、耐え切れずに青年の整った唇から喘ぎが漏れ、瞳からは涙が零れ落ちる。


 一度口火を切ってしまうと、男が中で動く度、意思に反して喉からは勝手に啼き声が流れ出し、相手をいたずらに悦ばせるだけのそれを必死に噛み殺そうとすればする程、己のものとは俄かに信じ難い甘ったるい声が頭蓋に反響する。

 また時間の経過と共に、辛うじて正気を保たせている痛みすら、ぞくぞくするような快感へとすり代わってゆく感覚が、より彼を絶望させた。


 いくら騎士が乞おうとも、もはや肉を抉る速駆けも、それによって己の身体が拓かれてゆくのも止められない。


「──ああ、とても良い表情になってきましたね。

 淫らで惨めったらしくて、実によくお似合いですよ。

 では、愉しませてくれたご褒美をさしあげましょうか」


 俄かに中を磨り上げる動きが激しくなり、耳元で獣が歓喜の叫びを上げるのを聞いた刹那、最後の誇りすら打ち砕かれた青年もまた、おぞましい熱が形を得て迸るのを感じつつ、これ以上ないほどの屈辱と未知の感覚に脳髄を灼かれながら意識を手放していた。



              ◆◆◆



……騎士が再び意識を取り戻した時、身支度を整えた悪魔が何事もなかったように背を向けて、牢を出て行こうとするのが、完全に視力を取り戻した『両目』に映っていた。

 見れば、砕かれた拳も完全ではないがその機能を復元しつつある。

 ただ、鈍痛が走る腰と、擦れた呻き声しか発さない喉は遺憾ともしがたく、厭が応にもこの身に起こった出来事を思い知らせた。


 背後で衣擦れの音を察した神父が、涼しい顔で振り返る。


「自分で言うのも何ですが、極上の魔力が詰まった精です。

 見た目の傷はだいたい回復出来たようですが……体力的にはまだ厳しいようですね。

 それではこれからは趣向を変えて、好き者を毎日二、三人あてがって差し上げる事に致しましょう。

 上手く彼らに媚を売って、沢山注いでもらう事です。

 ああ、大丈夫。

 心配しなくても貴方、充分その『素養』はありますよ──初心であれだけ乱れるなんて。この賢者気取りの淫売が。

 今からどれだけ堕ちていくのか楽しみで仕方がないですねぇ。はははははッ!」


 蒼褪めたまま、何も言い返す事が出来ない青年をそのまま残して、来た時同様、軽い足取りでプレラーティは光がさす世界へ戻っていった。


「……ジャンヌ……あ……ああ……」 


 ──今度こそ本当に唯一人、暗い闇の中に取り残された騎士はしばし自失の状態にあったが、


「……あああああああああああああああッ!」


 静寂に己の呼気以外、何の気配も感じられなくなると、全てを賭しても救えなかった少女の命に慟哭した。

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