第3話──〈シノンにて〉聖女と騎士の邂逅・中編
「あら、そんなことがあったのですか?」
「……ええ。
あの後、貴女はすぐに陛下と二人で込み入ったお話をされていたようですから、御存知ないでしょうが……」
初対面でしでかした己の痴態を思い起こして、ジルは照れ臭そうに頬をかく。
白磁のごとき肌をほんのり朱に染めて、はにかんだ微笑みを浮かべる様は、美貌故に、冒し難い神像のような印象を受ける青年に人間らしい体温を与える。
孤高の騎士が心を許した相手にだけ見せる無邪気な少年の横顔。在りし日も少女の前では度々見せていたそれに、とりわけこの聖女が愛しさを覚えていた事を、彼は知らない。
「今思えば、あの瞬間、もう私は貴女に恋してしまっていたのでしょう。
ただ、実際に私がそれを自覚するのは、ずっと後になっての事でした──」
◆◆◆
──衆目が聖女の降臨に息をのむ中、一人、これまで感じたことがない感情に心をかき乱されながら、ほうほうの体で回廊に抜け出た若い男爵は、頬を撫でる夜風の冷たさに、ようやく己を取り戻した。
額の汗をぬぐい、襟元を開くと、深々と息を吐く。
見上げれば満天の星空。眼下に望むのはヴィエンヌ河の滔々とした流れ。宵闇と静寂に包まれた歴史ある孤高の城塞。少し離れた場所に物見番が立っている。
石壁に背を預け佇むジルの耳に聞こえてくるのは、足元を照らす松明のはぜる音ばかり。
いつもと変わらない一日の終わり。退廃と策謀にまみれ、ただ悪戯に時間を潰すだけの──さながら、現在のフランスという王国そのものの──宴の晩のはずだった。
「……あれは……あの光は一体……」
あれが、東部の片田舎から出てきた農民の娘だと?
貴族にしこまれた余興の為の人形だと?
これまでどんな聖職者にも感じたことがなかった神威を纏ったあの女性が?
まさかそんな──そんなつまらないものであるはずがない──!
今や聖女の存在を最も疑っていた一人であろう彼自身が、逆にこのフランスに起きようとしている奇跡をより強く確信せざるを得ない状況になっていた。
おそらく、あの大広間に居た者の中で、本当の意味で聖女の力というものを感じ取った人間は、自分をおいて他にはいないだろう──そう、魔性に侵された、聖性というものとおよそ対極の位置にある自分以外には。
──土塊を食み、泥水を啜りながら、死体の中を這い回る。
常に片足を棺桶の中に踏み入れつつ、ぎりぎりの一線で命のやり取りが続く戦場で、己が天命を追い求める中、ジルが神の教えに背を向け、人としての時を悪魔に差し出してから、既に6年の月日が経とうとしていた。
人間が持つ幾つかの楽しみや歓びを犠牲にして手に入れた、『
その中には常人には感知し得ない、同じ『人ならざる者』の気配を読み取る能力も含まれる。
元来の聡明さと屈強な精神に加え、これらを有効に活用する事で、多くの戦場で彼は他の将兵を圧倒してきた。
そんなジルだからこそ、現れた瞬間、大広間を包み込んだ高徳の持ち主に全身が畏怖を覚え──我知らず取り乱してしまったのだろう。
頭を振って迷いを絶つ。
そうだ、そうに違いない。
でなければ、あんな可憐な少女に、大の男である自分がここまで踊らされてしまうはずがない。
ただ、退屈な宮廷の中で少し気が緩んでいただけだ。
少し頭を冷やしていこう。それで全て元通りだ。
……未だ、『恋』というものを知らない青年は、己に言い聞かせた。
何故、ここまで自分が必死になって言い繕っているのかも分からないまま。
「おーい、男爵。大丈夫かー?」
ぼんやりと夜空を見上げている青年貴族に、松明をかかげながら近づいてきた影がある。
「……エチエンヌ殿。
ああ、この通り。大事ない」
見るからに『歴戦の勇士』といった印象の男である。
上背は長身のジルと同じかそれよりわずかに高く、横幅に関しては一回り以上大きい。燃え立つような赤毛と髭は短く刈り込まれ、全体に宮廷の優雅さとは縁遠い、男臭さが際立つ容姿である。
しかしながら、いかつい顔の中心に据わる怜悧な刃を思わせる落ち着いた灰色の瞳のせいか、暑苦しさや野暮ったさよりも勇ましさや頼もしさが全面に出ている為、妙な風格があり、不思議と貴族の高級騎士達の間にあっても見劣りしない。むしろその威容で周りを制し、何食わぬ顔でこの宮廷にも溶け込んでいた。
エチエンヌ・ド・ヴィニョル。もっとも、その本名よりも通り名である『
よりきな臭い戦場に好んで姿を現すこの男と、ジルも度々轡を並べてきた。粗野な部分はあるものの、豪快で歯に衣着せぬ物言いは、腹の探り合いばかりしている貴族の世界ではむしろ心地良く、口さがない官僚や騎士達の中には彼を侮蔑する者もいたが、ジルはどうしても嫌いにはなれなかった。
年齢は一回り以上離れているが、ジルにとっては数少ない、本当の意味で『戦友』と呼べる人間の一人だった。
「……だから俺を本名で呼ぶのはお前さんぐらいだっつーの。
頼むからその、背中が痒くなる名前で呼んで下さるなよ、男爵殿」
「実の名で呼ぶ事の何が悪いのか私には分からぬが……まあ、確かに貴公の持つ信仰に私がとやかく言う権利はない」
うんざりした顔で大げさに肩を落とす、その名も高き傭兵隊長に、悪びれる事もなく神妙な顔で答えるジル。
「……いや別に信仰とかそういうわけじゃないんだが……」などとぶつぶつ言っている声には構わずに、先程までの慌てふためいた様子は微塵も感じさせない涼やかな表情で問いかける。
「……それで、広間の方はどうなった?」
「んお?件の聖女様にみんな大騒ぎさ。
おかげ様でどこぞの男爵様が、血相を変えて広間を退散したのに気が付いた人間は殆どいなかった、というわけだ」
にやりと男臭い笑みをいかつい顔に浮かべるラ・イールに、ジルも苦笑いで返すしかない。
「でもよ。真面目な話、戦場で矢が刺さっても平気で剣を振るってるお前さんが、胸を押さえたまま、あれだけの勢いで飛び出してったんだ。
本当に何ともないのか?得体のしれない病でも抱えてんじゃねえだろうな?」
「まさか。
隊長、忘れたのか?私はもう人ではないのだよ。
黙示録に伝わる第四の騎士すら、私を避けて通っていくさ」
豪放磊落な傭兵隊長は、ごく傍に仕える従者達を除けば、ジルの身体の秘密を知る唯一の人間だ。
今年で25になるというのに、初めて出会った時と殆ど変らない、未だ少年を脱したばかりのような若者の姿をしているこの男爵に、正体を知ってなお、変わりなく接してくれている。
「……だから、私の身体の方はいい。
それより、陛下達は──」
「そうそうその話だ。
あれから陛下は急に元気になっちまってよ。
お前さんにあの聖女様を預けると。で、アランソン公を司令官に据えて、オルレアンに向けて軍を出すそうだ。
もちろん、俺も一緒にだ」
「……オルレアンに……」
ジルが碧の瞳を見開く。めったに表情を変えない事で有名な青年貴族だが、今日に限ってはそうもいかない。
この宮廷に何がおこっているというのだろう。度重なる救援要請が届こうとも、梃でも動かなかったあのシャルルが、ついに派兵を決断したという。
フランスの国土を南北に分ける要所・オルレアンは、イングランド軍に捕らわれた当代の領主に代わり、妾腹の弟である
オルレアンが落ちてしまえば、そこからイングランド軍は一気に南下し、フランスはあっという間に彼らに飲まれてしまうだろう。
もはやこの国は、その喉元に刃の切っ先を突き付けられ、かき切られるのを待つだけの状態だったのだ。
「……信じられん」
「ああ、そうだよなぁ。
確かにあの聖女様は別嬪だし、街を連れて歩くには鼻が高いだろうけどよ。戦場で役に立つとはとても……」
「彼女はどれくらい馬を扱える?剣を握った事はあるのか?」
「なんでもヴォークルールからこのシノンまで、申し訳程度の護衛と一緒に馬で敵地の中を抜けてきたらしいからな……しかも10日ちょっとの間にだぞ?女にしちゃあ相当なもんだろうよ。まったく大した度胸だぜ」
「ふむ……馬がそれだけ扱えれば、隊列から遅れる事はないか……強行軍に耐えるだけの体力や忍耐もあるなら言う事は無い」
「そうだなー……って、お前さん、本当にあの娘を連れてオルレアンに行くつもりか !? 」
顎に指を添えてあれこれ考えをめぐらしながら、何やら不穏な笑みを浮かべる男爵に、傭兵隊長が思わず声を上げる。
まだ年若いが有能な指揮官として知られ、また自分自身これを認めている沈着冷静を絵に描いたような青年貴族であれば、この王の気まぐれとも言える命令に対し、まず最初に反対するだろうと考えていたからだ。
「ああ、そのつもりだが。隊長殿は不服なのか?」
「当たり前だろう!
今のオルレアンがどれだけヤバイ場所かは、子供にだって分かるはずだ。
その最前線に女を連れて行く?一緒に戦わせる?冗談がキツイにも程がある。
お前さんだって見ただろ。
あの細っこい身体で鎧を着て動けるのかね。剣なんて持った事もなかろうよ。
いくら口で立派な事を言っても、いざ荒くれ者の前に出れば、涙目で家に帰ると言い出すのが関の山だ!」
ジルの正気を疑うように、畳み掛ける傭兵隊長。
ラ・イールが言う事も理解出来る。それがごく普通の感覚というものだ。
実際、自分の妻は武器にも全く触れようとしないし、馬もろくに乗りこなせない。
「だが、全ての女がそうであるとは限るまい?男よりも勇ましい、気が強い女はいくらでもいる」
「そりゃ……まあ、そうだけどよ」
「中には男より馬術の腕が優れる女もいるかもしれないぞ?ただ、その才能を披露する場所がないだけでな」
「確かに筋は通っているが……」
「あの陛下を奮い立たせた女だ。それだけでも見所はある」
どういう魔法を使ったのかは知らないが、あの王の重い腰を上げさせて、オルレアンへ出兵する機会を与えてくれただけで、軍人のジルとしてはありがたい事だった。
いくら自分達軍人がオルレアンへの救援を進言しようとも、主君であるシャルルその人が首を縦に振ってくれなければ、それは叶わない事だったからだ。
これまで、何度か戦局を巻き返す機会があったとしても、王が頑なに動かなかったせいで、ずっと歯痒い思いをしてきたのだ。経緯はどうであれ、今、オルレアンに向かう事が出来るのは、フランスを救う最初で最後の好機になるかもしれない。
『ロレーヌの乙女』がランスでの戴冠に言及した衝撃はさぞ大きかったのだろう。この言葉はシャルルを支持する貴族達の心をしっかりと掴んだはずだ。
歴代のフランス王は全てかの地で聖別され戴冠式を迎える事により、神の恩寵の下に一種の超越者として国を治める者になる。その尊い権利を天が聖女の存在によって保証すると言っているのだ。何とも心強いではないか。
今のフランスに決定的に足りないのは、這い蹲ってでも勝利をつかもうという闘志である。何より国の先頭に立ってイングランドと戦うべき王太子シャルルにその気が無かった。実母である王妃イザボーに廃嫡を宣言され、戦は負け続き。すっかり正当な王位継承者としての自信を失ってしまっていたのだ。
本当に、このフランスは変われるかもしれない。
何かが始まろうとしている予感に、言い知れぬ高揚が、ジルの心を満たしていく。
「楽しそうだなあ、男爵。
可愛い面しているくせに、本当にお前さんは戦う為に生まれてきたような男だねぇ」
大貴族の指揮官でありながら真っ先に敵陣に斬り込む、優雅な容姿に見合わず危うい程猛々しい青年に向かって、こちらも獰猛な笑みを刻む赤毛の巨漢。
何のかんの言いつつも、この男、心底戦が好きなのだ。
「そんなことはない。
私は許されるのであれば、史書と絵筆だけを友に暮らしていたいとずっと思っているよ」
「やめろよ。才能の無駄遣いだ。
……ま、男爵閣下がそこまで聖女様を推すなら仕方がない。
陛下から娘っ子を託されたのはお前さんだ。
俺は俺の兵を集めてオルレアンに行くだけの話さ」
「私とて、大事な兵を無駄死にさせるつもりはない。
ただ、聖女様には聖女様としての役目を全うしてもらいつつ、私の戦を進めさせてもらうだけだ」
聖女の威光を確かに感じつつも、ジルとて彼女の存在を妄信していたわけではない。それはオルレアンへの進軍を命じたシャルルも同じだった。
今は、この意気消沈したフランス軍に希望を与える存在となってくれれば、それでいい。
聖女はあくまでも象徴だ。うら若き乙女が前線を縦横無尽に無双する事など誰が期待しよう。
このありがたい聖女様の導きの下、存分に剣を振る理由さえ得られれば、今のフランス軍には十分だったのだ。
「貴方が、ジル・ド・レイ男爵様、ですか?」
──故に、この時は誰も予想していなかった。
『フランスの勝利と平和の象徴』となるべき、美しくたおやかな聖女に、大の男達が──こと戦場にあっても優雅さを失わない玲瓏たる美貌の男爵が、ひたすら振り回され続けるようになる事を。
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