第三十五話:迷走する想い
「おにいちゃん!」と、ひと声叫んで、眞琴は音を立てて跳ね起きた。
バネじかけの人形が飛び出すような勢いで、一気に身体ごと立ち上がる。
ガタンと押しのけられた椅子が直後にある別の机に衝突し、耳障りな騒音をそれまで静かだった教室内に響かせた。
どんよりと淀みきっていた意識が瞬時にして覚醒し、「……夢か」というひと言が眞琴の口からこぼれ出た。
右腕で額の汗を拭きながら、小さくため息をひとつ吐く。
だが、まだ周囲の状況に気を回せるほどの余裕はない。
「変な夢だったなぁ」という思いと「夢でよかったなぁ」という妙な安堵感が、その時の眞琴の心理面を大部分において支配していた。
眞琴が現実へと帰還したのは、彼女の後ろの席に着く早苗の助力によるものだった。
早苗は、小声で眞琴の名前を呼びながら、彼女の腰を筆記用具で突っついたのだ。
文字どおりお尻の部分に小さく刺激を受けた眞琴は、無意識のうちに振り返った。
親友に向けて抗議の声をあげるためである。
だが、その段階で彼女は気付いた。
何事かとばかりに、余すところなく眞琴めがけて集中している教室内の視線。
純粋な驚愕と好奇とに満ちた、まっすぐ極まりない眼差しに、である。
それらはいっさいの言語を用いることなく、いまの眞琴が置かれた状況を強力に彼女自身へと知らしめていた。
どうやら自分は、授業中に居眠りをしでかしていたらしい。
恐る恐る教壇の方向に目を向ける。
そこには、強面で知られる石原という名の男性教師が、いまにも怒鳴り出しそうな雰囲気で、こちらをキッと睨んでいた。
尽生学園高等部、三年二組における午後一時過ぎ。
それは、ちょうど五時間目の授業が始まったばかりの時刻に発生した出来事である。
科目は英語。
いささか乱暴に扉を開け大股で入室してきた石原が皆を前にして一礼し、それに応じることなく延々とうたた寝を続けていた眞琴に向かって短くも強烈なひと声をかけた、その瞬間のことだった。
周囲からの注目を一身に受け、直立したまましばし凝固していた眞琴は、たちまちのうちに大混乱へと陥った。
あわてて机の中から教科書を引っ張り出した彼女は、あたふたとページを開くなり、該当箇所の内容を朗々とした声で読みあげる。
だが、パニックに陥った人間が、咄嗟に合理的行動を選択できるわけもない。
おたおたした眞琴は、まったく完全なる発音で、あろうことか次の言葉を口にした。
残念ながら、彼女が手に持ったそれは選択科目である日本史の教科書だった。
ひと呼吸置いて、二組に在籍する全生徒の口から突発的な笑い声が噴出した。
まさしく爆笑とはこのことだった。
権威的かつ攻撃的な性格で大多数の生徒たちから怖がられる存在である石原までもが、思わず吹き出してしまったほどである。
だが、それもやむを得まい。
何しろ直前に彼らが見せつけられたのは、まるでそれを狙っていたのかと思われるほど、あまりにお約束な反応なのであるから。
いまどきベタベタな学園コメディであってさえも、これほどのシーンはなかなかお目にかかれまい。
もし新人の脚本家が意図してそんな場面を描いたなら、彼・彼女はその独自性のなさを非難の対象とされかねないだろう。
「顔洗ってこい、猿渡」
周りの反応にかえって毒気を抜かれた石原に促され、恥ずかしさに顔を真っ赤にした眞琴が、とぼとぼと足取り重く教室を出ていく。
さすがにその背中からは、従来の彼女を象徴していた瑞々しい精気を感じ取ることはできない。
クラスのムードメーカー的だったその存在感すらが、萎んで小さくなってしまったようだ。
重傷だわ、こりゃ。
親友のそうした姿を心配そうに眺めつつ、早苗は軽く頭を抱えた。
夏休みが終わり二学期が始まる九月。
他者の変化を見るに極めて鋭敏な感性を誇る早苗は、初日から、眞琴の様子がこれまでのものと異なっていることに気が付いた。
その表情全体に、はっきりとわかる「陰」があるのだ。
深刻な寝不足であることが見て取れる疲れた目。
窓の外を眺めながら陰鬱にため息を吐くその様子。
少なくともそれは、「猿渡眞琴」という人物がこれまで他者に与えてきた「陽」の印象とは対称的な姿である。
彼女がこれまで一度たりとも指摘されたことのない「居眠り」という行為についても、新学期に入って以降、担当教諭から警告を受けることがもう二度三度ではきかなかった。
夏休み明けのこの時期に、人気の高い女子生徒が重度の精神的落ち込みを見せているというこの状況。
それは、根も葉もない邪推を生み出す元凶ともなった。
水面下では、眞琴の名誉を傷付けかねない中傷レベルの噂話が、まことしやかに語られることすらあった。
とはいえ、どの噂にしたところでそこに確かな根拠があるわけでもなく、何より噂の対象である眞琴本人が我関せず──実は対応する心の余裕がなかっただけなのだが──を貫いている以上、それについて周りが何か行動を起こすというところまでには到っていないのが実情だった。
眞琴について、いま現在わかっていることはただひとつ。
心底何かに悩んでいるのだな、ということのみであった。
もちろん、彼女と付き合いの長い早苗は、その内容が深刻であることを確信していた。
しかしながら、ここまであからさまにそれを見せつけられると、かえって言葉をかけづらくもある。
その一方、根っこの部分で友情に厚い彼女は、今回それを無視することもまたできなかった。
放課後、居眠りの件で石原に呼びつけられた眞琴を、待ち伏せしていた早苗が職員室の出入り口付近で捕まえる。
「絞られちゃったよ、あはは」
どことなく無理矢理感が漂う笑顔で力なく応えてみせる眞琴に向かって、早苗は、自分の思いをまっすぐな言葉で駆け引きなく伝えた。
「サワタリ、何か悩んでるならアタシに相談しなよ。水臭いじゃない」
なんの前振りもない直球勝負のその発言に、眞琴は少し驚いたように刮目した。
が、次の瞬間にはふたたび影のある表情を浮かべ、頭を左右に小さく振る。
彼女は言った。
「大丈夫だよ。最近ちょっとダークなのは、早苗が心配するような理由じゃないから」
その台詞を聞いた早苗は、はっきりとその顔付きを曇らせた。
それは、彼女の知る猿渡眞琴が本当の大問題を抱えている時にとる態度が、まさにいま自分の目にしている態度そのものであったからにほかならない。
眞琴は、どうでもいい問題については割と明け透けに他者へと振るが、事が重大であればあるほど、自力解決を図ろうとする悪癖があった。
そのくせ、自らが大問題を抱えていることについては、それを周囲にわからないよう隠しとおすことが下手ときている。
放っておけるわけなどなかった。
「サワタリ……アタシは本気で──」
「わかってるよ。早苗は優しいもんね」
そう言って、にっと笑顔をこしらえた眞琴は、「ちょっと屋上で頭冷やしてくる」と言い残したのち彼女と別れた。
寂しげに歩いて行く眞琴の姿を無言のままに見送りながら、早苗は心底まずいと思った。
自分の見立てが誤っていたことを、いまはっきりと自覚する。
眞琴が陥った状況は、もはや重傷という生やさしい段階ではない。
致命傷だ。
ただでさえ彼女の周囲にはその存在を虎視眈々と狙う肉食獣どもが多いというのに、あんな見え見えの精神状態のままでは、何かの弾みにぱくっと捕食されてしまいかねない。
どうしよう。
早苗は必死に考えた。
これはもう、自分ひとりで背負いきれる案件ではない。
急いで信頼できる誰かに力を借りる必要がある。
しかし、自分たちのような年代の者たちでは確実に力不足だ。
そういった人間では、仮に眞琴がその胸中を語ってくれたと仮定しても、彼女が納得しうる内容を説得力のある言葉で進言できるとは思えなかった。
自分たちの世代よりもずっと豊かで深い人生経験を持ちつつ、猿渡眞琴からの信頼、もしくはそれに近い感情をがっちりと受け止められそうな人物。
早苗の脳裏に最初に浮かびあがったのは、彼女の中で眞琴の保護者だと位置付けられていた男性、壬生翔一郎の姿であった。
確かに彼であれば眞琴との物理的・精神的な距離は十分過ぎるほど近いし、これまでの感触から察するに、無駄に歳を取ってきた軽い大人でもなさそうだった。
だとすれば素直に彼でもよさそうなものなのだが、早苗はあえてその選択肢を選ばなかった。
なぜなら、翔一郎は直接の意味で自分との接点を持たない人物であったし、何より彼はあくまでもオトコであってオンナではないからだ。
彼女は自らの直感から、親友をいままさに押し潰そうとしているそれが、いわゆる男女関係の軋轢ではないかと疑っていた。
もしそうなら、依頼すべき助言者は可能な限り同性でなくてはならない。
それが早苗の結論だった。
詰み筋は開いた。
早苗はすぐさま踵を返すと、その足ですぐさま保健室目指して走り出したのだった。
◆◆◆
尽生学園の校舎は三階建ての鉄筋建造物として造られてあった。
見かけとしては、特に奇をてらった構造でもない。
巷において、ごくあたりまえに見られる複数棟からなる施設である。
もともと水田の広がる郊外地のど真ん中に設けられた建物であるせいか、その周囲には同等以上の高さを持つ人工物が存在しない。
そのおかげで、最上部たるその屋上では、遮るもののない心地良い風を存分過ぎるほど満喫することが可能だった。
特に、まだ晩夏の趣を色濃く残すこの時期には──…
今日は天気も晴れている。
気温も二十度台の後半に達していた。
夕方から徐々に崩れて雨に変わるという気象予報も出ていたが、少なくともいまの状況を見る限り、とてもそうなるとは思えなかった。
眞琴はそんな屋上の片隅で、呆然と流れる雲を見詰めていた。
立ったまま外縁のフェンスに背中を預け、頭の中を空白にする。
ゆっくりと天空を征く羊雲を何も考えず目で追っていると、不思議と心のもやが薄れていくよう感じられる。
ある意味でここは、独りで考えごとをするには絶好の場所であったと言えるのかもしれない。
そうした好ましい環境に包まれて眞琴は、先ほど自分が夢に見た情景をぼんやりと反芻していた。
子供の頃の記憶がモザイク状に組み合わさった、なんとも形容のしがたい夢であった。
全体像については、多くの夢がそうであるように、覚醒したいまとなってはどうにもはっきり思い出せない。
だがそこで展開されていたたったひとつの状景だけは、彼女の脳裏にくっきりと刻み付けられ残されていた。
深夜の公園と、そこで泣き叫ぶ翔一郎。
その彼に向かって必死に何かを訴える自分。
でもその声は、一向に翔一郎へは届かない。
許す、許すよ。ボクは許す。
夢の中の自分が、いったい彼の何を許そうとしているのかがわからなかった。
実を言うと、同様の夢は最近になって幾度も見るようになっていた。
胸中の淀みが睡魔に抗う夜であれば、それは毎晩のことだと言えるほどだ。
きっかけは明白だった。
あの日の夜、翔一郎が口にした短い告白がそれである。
「軽蔑してくれて構わない。俺は『ひと殺し』なんだ」
ひと殺し。
重い言葉であった。
そのひと言は、眞琴にとって想いを受け止めてもらえなかったことを上回る圧倒的な衝撃となって押し寄せてきた。
なぜなら眞琴には、あの翔一郎が適当な言いわけとして口からでまかせを発するとは到底思えなかったからである。
確かに翔一郎は、憎まれ口をよく叩く。
無理に悪人振ることだってしばしばだ。
だがしかし、軽口を除く会話の中で質の悪い「嘘」を吐くことだけは決してない。
もし「嘘」を吐かねばならない状況に追いやられたとしたら、彼はむしろ沈黙をもってそれに対応するだろう。
「翔兄ぃ……」
不意に涙がこぼれそうになって、眞琴は思わず天を仰いだ。
「むかしの翔兄ぃに、いったい何があったの? それって、ボクが知ってちゃいけないことなの? ボクが触れちゃいけないことなの?」
自分が心底情けなかった。
ほんの数ヶ月前まで、自分は翔一郎にとって唯一無二の存在なのだと思っていた。
その人物について知らないことなど何もない。
そのことを確信すらしていた。
だが、現実は違っていた。
自分が実のところ「壬生翔一郎」という人間のことを何も知らないに等しかったのだと、何度も痛烈に思い知らされた。
伝説の走り屋。
八神の魔術師。
「ミッドナイトウルブス」のミブロー。
彼が積み重ねてきたそれらの「逸話」
しかし、その物語の中に「猿渡眞琴」という存在は一文たりとも記されてはいない。
それのすべてが、眞琴の知らない翔一郎が眞琴の知らない世界の中で築きあげてきた物語であったからだ。
そして、その文中に語られる彼の呼び名に、先日新しいひとつが加わった。
殺人者・壬生翔一郎。
彼女の中に付け足されたその一項は、これまでの眞琴をある意味で支えてきた主柱を大きく揺るがすことに繋がった。
翔一郎が自らを「ひと殺し」と称したこと。
もしそれが真実であったとしたら、そんな重大事をすら知ることのできなかった自分とは、いったい彼にとってのなんなのだろう。
何よりも、彼が自称したそれを確実な言葉で否定できなかった自分は、これまで「壬生翔一郎」のいったい何を見てきたのだろう。
もしかして──眞琴は思った。
もしかして、いままで自分が目にしてきていた「壬生翔一郎」とは、彼が意図して装ってくれていた仮の姿だったのではないだろうか。
まだまだコドモの自分に合わせて、意識的に被ってくれていた偽りの仮面だったのではないだろうか。
そこまで想像して、少女は一瞬身震いした。
自らがその役に立ちたいと熱望し常にその傍らにいたいとまで思い詰めた相手が実は道化を演じた役者に過ぎなかったなどと、彼女には認めることができなかった。
できようはずもなかった。
ふと無意味な光景が脳裏をよぎる。
それは、おそらくいまから数年後の未来。
翔一郎が、近所の路上で偶然出くわした眞琴に向かって親しげに声をかける。
「よお、眞琴。元気にしていたか?」
微笑みながらそう言った彼の側に、幼子を抱いた女性がひとり、寄り添うように立っていた。
顔の見えないその女性。
しかし、彼女が翔一郎の選んだ大切な大切な伴侶であることは、誰の目から見ても明らかであった。
そして、たおやかな彼女の胸でぐずってみせるふたりの愛の結晶をあやしつつ、翔一郎は微笑みながら去っていく。
眞琴のほうを振り返りもせずに。
それは、彼が眞琴の知らない場所で出会い、そして眞琴の知らない場所で育んできた彼自身の人生を、見事なまでに見せつけていた。
ぞっとした。
いまの眞琴には、それが非現実的な未来だなどとは思えなくなっていたからだ。
いやむしろ、このままならそれが現実化しても不思議ではない。
そう確信できる自分を感じるようにすらなっていた。
「やだよ」
この場にいない誰かに向かい、眞琴は小さく呟いた。
「そんなの、ボク、絶対にやだよ……」
眞琴の名を呼ぶ者が登場したのは、ちょうどその時のことであった。
聞き覚えのある男性の声。
呟きを聞かれたかと思った眞琴は咄嗟に貯まった涙を拭い、声の主へと顔を向けた。
高山正彦であった。
「押忍」
努めて気楽な態度をこしらえて、眞琴は軽く右手をあげた。
「どしたの? こんなところにきたりして」
「グラウンドから君の姿が見えたから」
心配そうな表情を隠し立てせず、高山は告げた。
そして、間を置くことなく短い質問を投げかける。
「あれから壬生さんとはどうなっているの?」
「そっちこそ、翔兄ぃに何か変わったことある?」
「全然」
高山は小さく首を振った。
「拍子抜けするくらい、これまでどおりだよ」
その返答に対し、眞琴は「じゃあ、同じだね」と短く応じた。
眞琴が、大事な想いを
あいかわらず朝は眞琴に叩き起こされ、眞琴の作った朝食を黙々と食べ、いままでと変わることなく軽口を叩いてみせる翔一郎。
それは、ある意味で眞琴が望んでいた平和な日常そのもののはずではあった。
しかしいまとなっては、むしろそれが重みに感じられる。
それだけ自分の存在が翔一郎にとって軽いものであったのだろうか、と思えてしまうからだ。
あるひとに「好きです」と伝えて、すぐさま「ごめんよ」と拒絶され、その直後に「ところで今日の晩飯何?」とあたりまえのように続けられること。
それは時間が経つにつれ、じわじわと心の奥に効いてくるダメージだった。
ボディブローに近い。
だが、完璧に拒まれたほうがマシかと言われたなら、それもまた違うような気がする。
複雑な心境だった。
そんな眞琴の心境を、高山はある程度正確に把握していた。
もちろん、彼も当事者の片割れとして、あの夜あの場所で翔一郎の発言を耳にした一員なわけだから、それも当然なことだと言える。
高山は少年らしい素朴な責任感から、前置きなく眞琴に向かって頭を下げた。
「ゴメン。俺のせいだ」
彼は言った。
「俺が早まってあんなことを言わなければ……」
「そんなことないよ。どうせいつかはボクが言わなきゃいけなかったことだし」
高山の目をまっすぐ見詰めて眞琴は答えた。
「それよりも、ボクのほうが高山くんに謝らないといけないね」
「え?」
眞琴の意表を突いた申し出に、高山は驚いたような表情を浮かべた。
それに構わず眞琴は続ける。
「好きなひとに好きだって伝えて、でも断られて、それなのに、そのひとは平然とそれまでどおりに接してくる……それが結構ヘヴィだなぁって実感したの。そしたらね、思ったわけ。ああ、これってボクが高山くんにしていたのと同じ態度だなって」
「猿渡……」
少年は言葉に詰まった。
もっとも、眞琴のほうでもいまの台詞に応答を求めていたわけではないらしい。
両手を腰の後ろで組んで、くるりと回れ右をする。
ポニーテールが弧を描き、天に向かって左右の拳が突き上げられた。
「あーあ、こんな気持ちになるくらいなら、あの時、高山くんの告白にオッケーしていればよかったよ」
眞琴は言った。どことなく、自分自身に言い聞かせるような口振りで。
そしてひと呼吸置いたのち、ふたたび高山のほうに向き直った彼女は、下から覗き込むようにして質問を放った。
「高山くんは、まだボクとお付き合いしたい?」
高山にとり、その発言は不意打ちにすら近かった。
彼の頭脳は的確な対応を見出せず、その肉体に刹那の沈黙を強いてしまう。
そんな少年の状況を一顧だにせず、眞琴は畳みかけるようにこう言った。
「だったら、ここでちゅーしてくれる? ボクのファーストキスでよかったら、だけど。もししてくれたなら、その時からボクが高山くんの彼女になってあげるよ」
間に一歩だけの距離を残し、高山と対峙する眞琴。
彼女は、思い詰めた表情で一度だけ頷いてみせた直後、その細い顎をあげ、ゆっくりと両眼をつぶった。
高山は狼狽した。
過程こそまっとうではないが、かつて自らが渇望した状況への入り口が、いま目の前に大きく扉を広げているのである。
おいおい、今度は相手のほうから誘っているんだぜ。いったい何を拒む必要があるんだい?
高山の中に棲む小さな悪魔が、ふたたびその耳元で囁き始めた。
だが、彼はその甘美な誘惑を完膚なきまでに一蹴した。
「やめろよ猿渡!」
眞琴の両肩をがっしり掴んで、高山は断言した。
「俺の知っている猿渡は、自暴自棄になってそんな真似をする
彼には理解できていた。
先の言葉が、彼女の本心などではないということをだ。
もちろん、それを承知で少女の身体を抱き締めることもできたであろうし、いまなら彼女もその現実を受け入れたかもしれない。
それはそれで、きっと素敵な未来には違いないだろうと思う。
しかし、素直な欲望に任せてそんな行為に及ぶほど、いまの高山は「少年」のままでいることができなかった。
いまの眞琴は、無理矢理自分を誰かに押し付け、その庇護を受けることで自らの想いに封をする道を選択したのだ。
いわば「高山正彦」という個人は、その対象に選ばれただけに過ぎない。
逃げ道。
眞琴の立場からすれば、それは、そう言い換えることも可能だ。
だが高山は、断じて自らがそうありたいとは思わなかった。
彼は、心の底からそう信じていた。
仮に力及ばず撃退されることがあっても、それを唯諾々と受け入れるほどに諦めのいい女性ではない。
考えられるすべての方策を試し尽くし、そのうえで渋々了承するのでない限りは。
高山はそう確信しているがゆえに、消極的な理由で差し出された好意をかしこまって受諾するつもりなど毛頭なかった。
彼にとって「猿渡眞琴」という少女は、いつも眩しいほどに輝いている存在であった。
ただ一心に目的地を見据え、脇目も振らずまっしぐらにその道を征く。
その姿勢を羨ましいとすら思っていた。
だからこそ、その想いを欲した。
その存在を自分だけのものとしたかった。
打ち棄てられたそれをただ単に拾うことなど、彼自身のプライドが許しはしなかった。
ましてや、彼女が本当にその心を寄せている存在を知り、それに向け明白な敬意をすら抱いているいまとなっては。
「猿渡は疲れているんだ」
高山は眞琴に言った。
「ほら、どんなコースだって、いつもエンジン全開で走っているだけじゃ速く走ることなんてできやしないだろ? コースにはコーナーもあるし、それが公道だったりしたら、信号や何かでこちらの意志とはまったく別に停められてしまったりもする。
素早くゴールに向かうにはきちんと速度調整することも必要だし、場合によっては燃料を補給したり、疲れた身体を休ませたりだってしなくちゃいけない。
人生だって同じさ。
きっと猿渡は、いつだってアクセルを踏みっぱなしで生きてきたんだと思う。だから、たぶんいろいろなところが疲れてしまっているんだよ。
ブレーキを踏んでもいいじゃないか。休憩をとってもいいじゃないか。休むことだって立派な努力のひとつだよ。必死な強行軍だけが『ひと』の生き方じゃないんだから」
そう熱く語った少年の姿に、眞琴は思わず「……かっこいい」と呟いた。
「ちょっと感動しちゃった」とまで付け加える。
真顔で。
真剣な眼差しでそう評された高山は、しかしいささか体裁悪そうに頭をかくと、苦笑いしながら真実を告げた。
「ゴメン。そう言ってもらえるのはうれしいんだけど、実はこの台詞、別のひとの受け売りなんだ」
「誰? そんな臭い台詞吐くひとって。ボクの知ってるひと?」
純粋な好奇心に駆られて高山に尋ねた眞琴に向けて、彼は若干ためらいながら「……壬生さん」と短く答えた。
「翔兄ぃかぁ」
あはは、と声をあげて眞琴は笑った。
なんとも言いようのない複雑な印象の笑顔だった。
相好を崩しながら少女は語る。
「翔兄ぃはね、ボクの前だといつでもどこでも駄目兄貴なんだよ。それなのに、どうしてほかのひとの前だと凄いひとになれちゃうんだろうね。それってさ、きっとボクに正体を知られたくないってことだよね。改めて実感したよ」
眞琴の表情に、段々と別の感情が忍び寄ってくるのを高山は察した。
それはある種の絶望だった。
異変を感じた高山が眞琴に声をかける暇もなく、ものの数秒のうちに彼女の表情はぐしゃぐしゃな泣き笑いへと変化する。
誰に向けてでもなく、眞琴の口から押さえきれない何物かが言語となって漏れだした。
「やっぱり、翔兄ぃはボクの翔兄ぃじゃなかったんだ……」
彼女は、統率不能な自分自身を持て余した。
ぽろぽろと大粒の涙をこぼしつつ、高山の手前なのか、それでも必死になって笑顔の構築に尽力する。
それを目の当たりにした高山は、しかし具体的には何もすることができなかった。
混乱の極みにある女性を落ち着かせるためにいったい何が必要なのかを、彼のこれまでの経験は教えてくれなどしなかった。
いまの高山ができることと言えば、少女が顔を埋める胸板を黙って貸してやることぐらいだった。
彼は自分の無力さを心底呪った。
こんな時、壬生さんならどうしただろう。
思っても詮なき疑問が頭をよぎる。
そんなふたりのもとに新たな来訪者が出現したのは、それから十秒も経たないうちの出来事だった。
軋む扉を開けて屋上の空間へと侵入してきたその人物は、重なり合う眞琴と高山の影を認めるや否や、のんびりした口調で「あら? ひょっとしてお邪魔だったかしら」と場違いにも聞こえる台詞を投げかけてきた。
おっとりと優しげな女性の声であった。
突然背後に現れた第三者の存在に思わず身体を震わせた高山と、顔全体を涙と鼻水とにまみれさせた眞琴の視線とが、次の瞬間には発言の主を捕捉する。
それは、尽生学園の養護教諭、河合理恵の姿だった。
理恵は、一見してただならぬ関係に映ったであろうふたりの現況にはいっさい触れず、ただ眞琴に向けてだけ包み込むような温い声で次のように告げた。
「猿渡さん。もしよかったら、これから先生のドライブに付き合ってくださらない?」
微笑みながら小さく上げた彼女の左手には、キーホルダーを付けたクルマの鍵が無造作にぶら下がっていた。
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