第三十三話:告白

 「レガシィB4」が終点に着く。

 ゴールである和食処「やまぐち」の駐車場には、ほかのクルマの影はない。

 すっとスムーズに停車位置へとクルマを進めた翔一郎は、ひと呼吸置いてエンジンを止め、落ち着いた動作でシートベルトを外した。

 やはり、それなりの緊張感に晒されていたのだろう。

 快い開放感を軽い吐息で周囲に示す。

 高山の「プリメーラ」が姿を現したのは、それから少し経ってからのことだ。

 それは、翔一郎の「レガシィ」と若干距離を置いた場所で足を停める。

 ヘッドライトが消えエンジンが止まった。

 「プリメーラ」の主である高山正彦が愛車を離れ、足早に翔一郎のもとへ訪れる。

 翔一郎もまたそれに応え、速やかにクルマを降りた。

 渋々といった感じを匂わせた眞琴がそのあとに続く。

「不合格」

 目の前で直立不動の姿勢を取る「弟子」に向かって、翔一郎はひと言告げた。

「赤点とまではいかないが、まだまだ基本的なことができていない。走り込みが足りない証拠だな」

「ありがとうございます」

 翔一郎の下した評価に、高山は深々と一礼して応えた。

 垂れた頭をそのままに、湧き上がる感情を噛み締める。

 それは悔しさではなかった。

 そもそも勝敗など最初から明らかだ。

 それは十二分にわかっていた。

 だから、この戦いで勝利を掴めなかったことへの悔恨は、いまの彼の胸中にはない。

 代わりに彼の背筋を這い上ってきたのは、正式に「敗者」となれたことによる伏し難い充実感であった。

 かつて何かの本で読んだことがある。

 現世には三種類の人間がいるのだと。

 それは、形はともあれ「戦い」に臨む勇気ある者たち──その勝者と敗者。

 そして現実から目を反らし勝敗から逃げ回る腰抜けども。

 少なくとも、自分は望んでこの「戦い」に挑んだ。

 敗れることを恐れずに戦場へと身を投じ、結果として敗れた。

 だが、敗れることで自分は新しい経験を得ることができた。

 深夜の八神街道において、おのが「師」である壬生翔一郎が語ったとおりに。

 いまは、そんな自分を誉めてやりたくて仕方がない。

 ただ、これまで培ってきた師弟関係が途切れてしまうのだけは、心底残念でならなかった。

 もっと多くのことを教えて欲しかった。

 もっと色々なことを学ばせてもらいたかった。

 その機会が失われることは、いまの高山にとって痛恨の極みとさえ評していい。

 思わず涙腺が決壊しそうになる。

 だが、彼は必死にそれを堪えた。

 格好の悪い自分の姿を、翔一郎に見られたくなかったからだ。

 そんな少年の頭上から、思いもかけぬ師匠の言葉が降ってきた。

 それは彼の後頭部を強かにノックし、伏せたままの顔を表に引き上げる効果をもたらした。

「次回からは、実走中心のメニューを組まなくちゃな」

 驚愕の表情を浮かべる高山に向かって、翔一郎はまるで何事もなかったかのような面持ちでそう告げた。

「いまのままじゃ、俺に勝つなんて夢のまた夢だ。八神の攻め方をもう一度基本からみっちり叩き込んでやるから、そのつもりでいろよ」

 一瞬、高山は翔一郎が何を言っているのかがわからなかった。

 言葉による反応が果たせず、惚けたような目をおのが「師匠」に向けることしかできなかった。

 そんな高山の状況を素早く察して、翔一郎は軽く嘆息してから彼に言った。

「おいおい、今週末もここにくるんだろ? 俺はもうそのつもりで予定を組んであるんだから、いまさらキャンセルするってのはなしだぞ」

 右手を腰にあて「困った奴だ」とでも言いたげな表情を見せる翔一郎を前に、高山は思わずぼろぼろと落涙した。

 すべてを水に流す。

 翔一郎はそう言ってくれているのだ。

 おのれそのものを真っ向から受け止められ、なおかつその無礼を許されるということがどれほど嬉しいものなのかを、生まれて初めて高山は知った。

 無言のまま、勢い良く頭を下げる。

 そして、ふたたび顔を上げると同時に、少年は藪から棒な質問を師匠めがけて投げ付けた。

 それこそが、もとより彼の目論んでいたクライマックスの幕開けだったからだ。

「お尋ねします。壬生さんには、いまお付き合いしている女性はおられますか?」

「なんだって?」

 翔一郎は絶句した。

 困惑を隠そうともせず、理由の吐露を高山に促す。

 そんな師匠をまっすぐ見ながら、高山はもう一度同じ言葉を口にした。

 引くつもりは毛ほどもないようだった。

 翔一郎は、傍らに立つ眞琴のほうにちらりと視線を向けたあと、いらついたように頭をかいた。

「俺がオンナにもてるオトコに見えるか?」

 ほとんどやけっぱちな風情で翔一郎は吐き捨てた。

 「おまえさんのようなイケメンとは違うんだぞ」と嫌味な台詞を投げ付ける。

 その告白を耳にした眞琴が、小さく胸を撫で下ろした。

 心のどこかで確認しておきたかった情報を、本人の口から語らせることができたからだった。

 予想、と言うよりは期待していたとおりの内容を聞くことができ、彼女は自身の翔一郎評が間違っていなかったことに安堵する。

 そうだよ、ボクの翔兄ぃが彼女なんて作れるわけがない。

 そんな眞琴を、続く高山の発言が痛打した。

 ただし、それは彼女に向けて放たれた台詞ではない。

 高山は、あろうことか翔一郎に対し、眞琴との交際を懇願したのだった。

「だったら、猿渡と付き合ってやってください!」

 叩き付けるような勢いで高山は言った。

 青天の霹靂とはこのことだった。

 眞琴は、しばしあんぐりと口を開けたまま立ちすくみ、次いで、激しく両者の会話に割って入った。

「た、た、た、高山くん。なんてことを」

 想定外の現状に直面して、少女は理性的な対応を取ることができなかった。

 幾度も舌を噛みながら、かろうじて制止の言葉を口に出す。

 高山が、なぜそのようなことを言い出したのかはわからない。

 しかし、それが他愛のない冗談とは明確に異なるものであることを、彼女ははっきりと理解した。

 それは、発言者たる高山の目が真剣そのものであったからにほかならなかった。

「理由は?」

 おそらく、そんな彼の姿勢を眞琴よりも早く見抜いていたのであろう。

 翔一郎は、努めて冷静な口振りでそう尋ねた。

 普段の彼らしい、いわゆる「お茶を濁す」ような言動は、すっかり影を潜めている。

 刹那の空白をもって回答を促された高山は、大きく息を吸い込んだのち、すっと背筋を伸ばして断言した。

「猿渡が、あなたを好きだからです」

 誤解の余地がまったくない言葉を用いて高山は答えた。

 翔一郎は顔色ひとつ変えずにそれを受け止め、眞琴は思わず両手を口元に運びそのままの姿勢で沈黙した。

 時がその歩みを停めたかのような数秒間が経過した。

 硬直状態を最初に打破したのは、かすかに表情を崩した翔一郎だった。

 彼は、まるで何事もなかったかのような素振りで眞琴のほうに顔を向け、「そうなのか?」と、不躾な問いかけを彼女に放った。

「……うん」

 下方に視線を泳がせながら、少女は小さく頷いた。

 赤くなった頬をわずかに膨らませ、もじもじと胸の前で両の手を揉む。

 なぜか、高山の言葉を否定したり誤魔化したりする言葉は発しなかった。

 あるいは、咄嗟のことで思わず本心がこぼれただけだったのかもしれない。

 眞琴は、ちらりと翔一郎の顔を見た。

 まったくいつもどおりの彼だった。

 わずかに口元を綻ばせつつ、優しげな眼差しを向けてきてくれている。

 いまにもその口から、普段と同じ軽口が放たれる──そんな雰囲気すら漂っていた。

「悪いけど、そいつはできない相談だな」

 さらりと翔一郎は言い切った。

 その言葉を発するにあたり、悩む素振りはいっさい感じられなかった。

 それはいかにも事務的で、とてもではないが重大事を相手に告げる、そんな態度に見えはしなかった。

 誰が聞いても疑いようのない、明確過ぎる拒絶の言葉。

 それを直接耳にした眞琴は一瞬大きく目を見開き、口元を真一文字に引き締める。

 硬直し身動ぎひとつしない少女の、しかしその膝だけがかすかに震えていた。

 高山は、そんな彼女がいまにも倒れるのではないかと思った。

 その姿が、彼の知る「猿渡眞琴」とは似ても似つかない、あまりにも弱々しいものであったからだ。

「なぜです?」

 それが意味のないことだと薄々感じながら、それでも高山は翔一郎に噛み付いた。

 あなたは、僕の想い人からの好意を台無しにしてしまうつもりなのか──そんな不条理な怒りも、その内部には含まれていた。

 そこに計算が働いていない以上、彼の抗議は激烈だった。

 いまにも掴みかからんばかりに、どんどんと足を踏み出す。

「納得できる理由を答えてください。壬生さんは、猿渡のどこに不満があるんですか?」

「いや、不満なんてものはないぞ」

 高山から発せられた感情の奔流を、翔一郎は正面切って受け止めた。

 ただし、その圧力に後退りはしない。

 真っ向から高山と目を合わせ、淡々とした口振りで彼に応える。

「総合スペックで眞琴を上回るオンナなんて世の中にそうはいないさ。俺の目から見ても、問題点なんてひとつもない。くちうるさいのは珠に傷だが、それは好みの問題だしな。あいつに認められて男女の付き合いのできるオトコは実に幸せ者だ。本気でそう思うよ」

 発せられた翔一郎の言葉は、いささか要領を得ないものであった。

 不満はないけど付き合えない。

 それは、いまだ十代の学生に過ぎない高山にとって、易々と受け入れられる回答でありはしなかった。

「きちんとしたわけを聞かない限り、僕はここを動きませんよ!」

 高山はなおも得心できず、激しく翔一郎に迫った。

 「どうしてもか?」という確認に「もちろんです」と言い切って、彼を嘆息させてしまうほどに。

 翔一郎は両手を腰に置いたまま、しばらく何かを考え込んだ。

 発言内容を咀嚼しているのだろう。

 唇が奇妙なねじれを描いて見せる。

 眉間のシワが、苦悩の様子をうかがわせた。

 肩越しに、その目が眞琴のほうを向いた。

 見詰めてくる彼女の視線と彼のそれとが、自然と複雑に絡み合う。

 哀しい眼差しであった。

 常に壬生翔一郎を見続けてきたと自認していたひとりの少女がこれまで一度も見たことがないと確信したほどの、絶望を秘めたその眼差し。

 翔一郎はふたたび高山に顔を向けると、噛み締めるように言葉を発した。

「罪を、犯したからさ」

 翔一郎は告げた。

「絶対に許されることのない、極めつけの奴をね」

「罪?」

「ああ」

 彼は言った。

「俺はむかし、ひとを……殺したんだ」

 特に強い意志が込められた口振りではない。

 しかし、その言葉は高山の、そして眞琴の精神を強かに殴打した。

 ひとを、殺した。

 その短い言葉にはそれだけの衝撃度が内包されていた。

 ふたりの若者は自分の耳を疑わざるをえなかった。

 それが冗談の類だとは、到底思えなかったからだった。

 自嘲気味に笑う翔一郎が、小さく首を左右に振った。

 駄目を押すように、彼は言った。

「軽蔑してくれても構わない。俺は、『ひと殺し』なんだ。オトコとして眞琴から慕われるのは光栄だけど、その想いを受け入れるわけにはいかないよ」

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