第三十一話:存在の理由

 見知らぬ橋の上で高山正彦が悲壮な覚悟を決めていた頃、眞琴は自室のベッドに横たわったまま、もの言わぬ天井を身動ぎもせず眺めていた。

 部屋の電気はつけていない。

 窓の外から差し込む月明かり以外には、彼女の姿を照らし出すものは何もなかった。

 高山がこの部屋を飛び出してから、果たしてどれぐらいの時間が経過したのだろう。

 眞琴の中から、すでに時間の感覚は失われている。

 日が没してのち随分経つことを考えると、優に数時間は過ぎ去ったものと思われた。

 頭の中は、いまだに混乱している。

 あの時、高山が自分に向けて取った行動は、すべてが白昼夢だったのではないかとすら思えるほどだ。

 しかし、両の肩には、まだあの重々しく鈍い感触が残されている。

 それが何よりの証拠だった。

 こぼれる涙が止まらなかった。

 男性が女性自身を求めること。

 そして、女性がそれに応えること。

 それは、友人たちの間でも幾度か取りざたされた話題だった。

 すでに親しい異性を有している同級生からは、もっと生々しい体験談を語られたこともある。

「サワタリもさ、いまのうちに覚悟決めておいたほうがいいかもよ。アレって、か・な・り、痛かったりするんだから。いや、マジでマジで」

「でもそれ、結構個人差あるって聞いたよ。ケーコが初体験ロストバージンで痛かったのは、日頃の行いが悪かったからじゃないの?」

 冗談めいた彼女の忠告に軽口で応じた眞琴だが、実際のところ、自分がそういった経験とは縁遠い人間だと、その時は心から信じていた。

 もちろん眞琴も年頃の女性であるから、いつかは誰かとそういう関係になるだろうな、という漠然とした感覚は持っていた。

 同年代の異性から好意を持たれることにさほどの関心は抱かなかったが、それでもその眼差しがまったく気にならなかったというわけでもない。

 容姿を誉められれば素直に嬉しいし、嫌われるよりも好かれるほうが精神衛生上よろしいに決まっている。

 ただし、具体的な話となると全然その気が起きなかったのもまた事実だった。

 眞琴には、幼い頃に定めた目的地があった。

 そこに辿り着くために、彼女は自分自身がきちんと評価されるよう日々頑張ってきた。

 求める地に到達するためには、なんでもいい、自分の足で何かを成し遂げる努力が必要なのだと、常に自分自身を奮い立たせてきた。

 認められたい。

 女性としてではなく、ひとりの人間として。

 そうでなければ、に立つ資格がない。

 これまでの人生、彼女はずっとそればかりを考えてきたのだった。

 だからこそ、高山のたくましい両腕によって抱きしめられた時、眞琴は激しいショックを受けてしまった。

 その大きな身体にのしかかられ、その熱い呼気を耳元で直接感じた時、眞琴を襲った感情は、ある種の絶望感に近かった。

 高山くんは、ボクをセックスの対象として見ている──…

 そう確信した刹那、両目からは滂沱の涙が溢れ出した。

 認められていない。

 ひとりの人間──猿渡眞琴という個人として、いまの自分は必要とされていない。

 彼にとって、自分は性的な欲求の対象でしかない。

 なぜ?

 どうして?

 どんなに頑張っても、ボクはとしてしか存在してはいけないの?

 それは、絶対的な敗北感だと言い換えてもよかった。

 眞琴にとり、親しみの対象から女性を要求されたという現実は、自分自身を一切合切否定されたのと同じ意味を持っていたからだ。

「翔兄ぃ……」

 無意識のうちに眞琴は翔一郎の名を呟いた。

 それが彼女のすがる最後の藁であるかのごとくに。

 彼女のスマホが軽快な着信メロディを奏でたのは、ちょうどその時のことであった。

 少女の身体が、弾かれたように飛び起きる。

 その曲を割り当てられた対象が、壬生翔一郎であったからだ。

 そうでなければ、いまの彼女はその着信に、居留守を決め込み無視していたに違いない。

 まるで溺れる者のごとき慌ただしさで携帯電話に取り付いた眞琴は、そこでいつもとまったく変わらない翔一郎の声を耳にした。

 ただそれだけで他愛ない日常が心底実感できる──そんな思いすら湧き上がってくる声だった。

 先ほどとは別種の涙があふれそうになる。

 電話の向こうで、翔一郎は眞琴に告げた。

『眞琴。いまから八神街道に行くんだが、付き合わないか?』

「うん、行く!」

 眞琴は、翔一郎からの誘いをふたつ返事で了承した。

 彼が、いったいいかなる理由をもって自らを八神街道に誘ったのか。そんなことを考える余裕は微塵もなかった。

 とにかく眞琴は、いまの状況から一刻も早く逃げ出したかったのだ。

 このままでは、自分の中の大事な何かが壊れてしまう。

 そう思った彼女は、その治療に必要となる薬剤を強く強く求めたのである。

 あたふたとラフな私服に着替えた眞琴は、翔一郎が待っているという自宅の玄関先へと一目散に飛び出した。

 玄関扉を開けて身を乗り出した時、勢いが余って空中でクロールを描きそうになる。

「お待たせ!」

 意識して元気な声を出す眞琴。

 それが空元気であることは、素人目にも明らかだった。

 翔一郎の表情が咄嗟に曇った。

 踵を返して愛車のもとへ戻ると、彼は後部座席に置いてあったスポーツタオルを眞琴にぽいと投げ渡す。

「酷い面だな。とりあえず、それで拭いてだけおけよ」

 翔一郎は眞琴に告げた。

 いつものごとく、ぶっきらぼうな口調だった。

 彼が自分の何を目の当たりにしたのかを察して、眞琴は軽く赤面する。

 思えば、相当な時間ずっと泣きとおしていたのだ。

 きっと思っていた以上に凄い顔になっていたのだろう。

 顔ぐらい洗ってくればよかった、と後悔するもあとの祭りだった。

 照れ隠し半分、受け取ったタオルでゴシゴシと顔を擦る。

 気が付けば、不思議と先ほどまでの胸苦しさは軽減されてしまっていた。

 変わらない。

 手の中のタオルをまじまじと見詰めながら眞琴は思った。

 翔兄ぃは、いつでもどこでもボクの翔兄ぃのままだ。

 改めて彼女はそう確信する。

 それが、救いに感じられた。

 それが、嬉しく感じられた。

 眞琴が愛車の助手席に収まったあとになっても、翔一郎は何も聞いてこようとはしなかった。

 ひとりの少女が目の周りを腫らすほどに泣いていたわけだから、とんでもない何かがあったことぐらい、彼にはお見通しのはずだった。

 しかし翔一郎は、翔一郎らしく、決してそのことで彼女の主導権を奪おうとはしなかった。

 いままでもそうだった。

 翔一郎は、眞琴に向けて助言はするが強制はしない。

 いかなる重要議題でも、彼は彼女の判断と決断とを常に尊重し続けてきた。

 たとえ無意識のものであったとしても、あるいは意識してのものであったとしても、それが眞琴の望む「壬生翔一郎」のスタンスであることに変わりはなかった。

 時に彼女を子供扱いすることはあっても、翔一郎が眞琴を「ひとりの人間」として認めてきたこと自体は、否定できない事実であった。

 でも──ふと、眞琴の胸中に不安が芽生えた。

 実際に彼は、自分のことをどのように思ってくれているのだろう。

 妹?

 幼馴染?

 それともただの隣人?

 直接尋ねるには、やはり若干のためらいがあった。

 しかし、先ほどの出来事による心理的な不安定からまだ立ち直ってなかった眞琴は、この時、ついその質問を口にしてしまった。

「ねぇ、翔兄ぃ」

 目的地に向かうさなか、信号で停車した合間を利用して、翔一郎に眞琴は尋ねた。

「翔兄ぃにとって、ボクって何?」

 その問いかけを放った瞬間、眞琴は即座に後悔した。

 翔一郎からの返答が、まったく予想できなかったからだ。

 もし思いも寄らない答えが返ってきたら、と思うと、どうしても心臓の鼓動が早鐘を打ってしまう。

 結論から言うと、確かに翔一郎からの返答は眞琴の予想を越えていた。

 彼は、ほぼ即答と言っていい反応速度でこう言い切ってみせたのだった。

「目覚まし時計」

 これを聞いた眞琴は、目を丸くするどころではなかった。

 翔一郎が一体全体何を言いたいのかすら、ちっとも判別が付かなかったくらいだ。

 絶句する少女を尻目に、しかし翔一郎は畳みかけるように言葉を放つ。

「それから、掃除機に、電子レンジに、洗濯機に、蛍光灯に、パソコンに、携帯電話、その他諸々ってところだな。とてもじゃないが、ひと息には言い切れん」

 彼は言った。

「早い話が、だ。まあ、いてもらわないと俺が困る。そんなところか」

 いてもらわないと困る。

 その台詞が耳に届いた直後、眞琴は思わず吹き出して、あはは、と大きく笑い声を上げた。

 座席の背もたれに身を預け、挑戦的に言い返す。

「そうか。そうだよね。翔兄ぃはボクがいないと生活不適合者一直線だもんね」

 ちらりと彼の横顔に目をやった眞琴は、わざとらしく何度も深く頷いた。

 頭の後ろに両手をやって、憎まれ口を口ずさむ。

「仕方がない。そうまで言われたら、ボクが責任もってこれからも翔兄ぃの面倒をみてあげるよ。本当に駄目な兄貴なんだから。少しは進歩してみせてよね、まったく」

「うるせぇ。偉そうに」

 そう翔一郎が悪態を吐いた時、眞琴の中に滞留していた暗い淀みは、ほぼ完全に払拭されてしまっていた。

 「レガシィB4」が八神街道の頂上付近に辿り着いたのは、それから間もなくのことであった。

 路上にはまだ若干のクルマが行き来しているが、駐車場内にクルマの影はない。

 いや一台だけ先客がいた。

 それは、ゆっくりと進入してきた翔一郎の愛車に反応してエンジンを始動。

 次いで、ひとりの男性をその運転席からはき出した。

「高山くん」

 ヘッドライトに照らされて浮かびあがるその男性の姿を見て、眞琴は軽く息を飲んだ。

 高山正彦であった。

 不意に先ほどの体験が眞琴の中で蘇る。

 血走った両目。

 荒々しい呼吸。

 彼の両手に鷲掴みにされた両肩にあの感覚が生々しく復活し、少女はその身を硬直させた。

 翔一郎は「レガシィ」を規定の位置に停車させると、エンジンを切ることなくクルマを降りた。

 目で促され、眞琴も恐る恐る翔一郎のあとを追った。

 無意識のうちに、彼を高山からの盾とするよう身を置いてしまう。

 翔一郎はそんな眞琴を顧みることもせず、ずんずんと高山との距離を詰め、ほとんど一足歩の位置でようやくその足を止めた。

「電話で大半の内容は聞いた」

 立ちすくむ高山と真っ正面から対峙して、翔一郎は言い放った。

 厳しい口調であった。

 背後に立つ眞琴からは確認できなかったが、その眼差しも想像以上に冷たく鋭い。

「君は男として、否、ひとりの人間として、どれだけ恥ずかしい真似をしたのか自覚しているはずだ。そして、いま君自身が何をしなくてはならないのかも」

 その会話は、初めて顔を合わせた人間同士で成り立つ類のものではなかった。

 眞琴にとって極めて意外な展開だった。

 彼らふたりが接点を有していたなんて、まったく思いも寄らないことだったからだ。

「なんで翔兄ぃが高山くんのことを知っているの?」

 背後に立つ眞琴が、すがるような視線を翔一郎へと向けてくる。

 語尾がかすかに震えるのを押さえ切れない。

「ショップの主人に頼まれてな」

 少女の疑問を先読みして翔一郎が答えた。

「ちょと前から彼にドライビングを教えていたのさ。言わばおまえの兄弟子だな」

 それを聞いた眞琴がなんらかの反応を示すよりも早く、高山は行動を起こした。

 叩き付けるような勢いで両膝を屈し、そのまま両手を地面に付ける。

 深々と腰を折った彼は、その額をアスファルトの舗装面へと擦り付けた。

 土下座だった。

 言うまでもなく、日本文化において最上級の謝罪表現である。

「猿渡、ゴメン!」

 その姿勢を頑なに維持したまま、高山は眞琴に言った。

 ほとんど絶叫と言っていいほどの声量であった。

 彼は、なおも詫びの言葉を口にする。

「俺、どうかしてた。大事なおまえにあんなことをするなんて、本当に人間失格だ。だから許してくれなんて言わない。でもお願いだ。せめて謝ることだけは受け入れてくれ!」

 高山が見せたそれら一連の行動に対し、眞琴はいっさいの言葉を発しなかった。

 だが、彼の誠意がその心に寸分も届かなかったというわけではない。

 むしろ、彼があらわにしたその真摯な叫びは、彼女の胸を確実に揺り動かしていた。

 しかし、眞琴はそんな高山に対してどんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。

 初めて目にした本気の謝罪に、つい困惑してしまっているという表現が正しかったかもしれない。

「眞琴」

 そんな彼女を動かしたのは、翔一郎のひと言だった。

 彼は半歩退いて眞琴の背を叩くと、穏やかな口振りで彼女に告げた。

「大の男がここまでやっているんだ。勘弁してやれとまでは言わないが、何か言葉をかけてやってもいいんじゃないか?」

「うん」

 渋々といった風情で小さく頷いた眞琴は、地に額を付けたままの高山へと歩み寄り、自らもまたその場でゆっくり膝を折った。

 いささか余所余所しさは漂うが、それでもなんとか彼に向かって声をかける。

「高山くん。わかったからもういいよ」

 そう告げて眞琴は右手を伸ばした。

 その指先が高山の手の甲にそっと触れる。

 わずかだが誰にでもわかるだけの笑顔を、眞琴は高山に向けて形作った。

「ボク、君に怒ってなんていないから。忘れよう。それがきっとお互いのためだよ」

「ゴメンよ、猿渡」

 再度、高山は謝罪の言葉を口にした。

 しかし、まだ顔は上げない。

 小さくその肩が震えているのは、彼が慟哭しているからなのだろうか。

 高山がゆっくり立ち上がったのは、数秒の時を経てからのことだった。

 彼は翔一郎のほうに向き直り、今度は感謝の意を口にした。

 礼儀正しく腰を曲げ頭を下げる。

 翔一郎は難しい顔を崩さないまま、高山の謝意を受け止めた。

 そして一度だけわざとらしい咳払いをすると、半ば叱るような口振りでこう言い放った。

「物事って奴は謝ったからってすべてが終わるわけじゃない。そこのところを忘れるな」

 そう言ってのける翔一郎の姿は、これまで高山を指導してきた教官役としての立場そのままであった。

 明らかに芝居がかっている。

 あるいは、それを意識してやっているのかもしれない。

 彼はさらに発言を続けた。

「反省は言葉じゃなく、これからの行動で示せ。眞琴が許したから一件落着だなんて思っているようなら、君はそこまでのオトコだ。評価するに値しない」

 頑張って精進しろよ、と彼は言葉を結んだ。

 そのひと言には、高山に対する明らかな期待と優しさが込められていた。

 少なくとも高山本人にはそう感じられた。

 思わず涙が溢れそうになる。

「お手数をおかけしました」

 その事実を隠すため、高山はふたたび頭を下げた。

 そして、今度は強い意志を込めた視線を目の前の翔一郎に向けてまっすぐに放つ。

 それは、あのどこだかわからない橋の上で決めたことを確実な形とするための宣言だった。彼は言った。

「壬生さん。恥の掻きついでにお願いがあります。僕と戦ってください!」

 それを聞いた翔一郎は無言で高山の双眸を見詰めた。

 ひと目で彼は、そこに揺るぎない決意を感じ取ることができた。

 だから、翔一郎は少年の意志を否定することなく、「理由は?」と彼に問いかけることでこれに応じた。

「最初にお話しした『僕の倒したい相手』があなただからです」

 単刀直入に高山は答えた。

 そして彼は、自分がなぜ「八神街道の走り屋」を倒したいと願うようになったのかをとうとうと語った。

 他人に伝えるにはいささか気恥ずかしい内容もそこにはあったが、それでも彼は包み隠さずすべてを口にした。

 それが翔一郎に対する最低限の礼儀であると高山は信じて疑わなかった。

 眞琴はかすかに息を飲んだ。

 同級生のひとりとしか思っていなかったこの少年から、それほどの感情を抱かれていることを初めて実感したからだった。

 言葉だけの告白とは一線を画する、行為をともなった想いの発露。

 女性としては素直に嬉しい。

 しかし、それを受け止めることはできなかった。

 むしろ、高山のその決意がまったく無意味なものであるようにすら思えて仕方がなかった。

「そんなことでひとの気持ちを動かせると思っているのか、君は?」

 眞琴の心境を代弁するかのように翔一郎が高山に尋ねた。

 だが、それは彼の言動に呆れ果てた末に発せられた台詞ではない。

 意志の確認を求めてのものであった。

「ケジメです」

 首を左右に振り、高山はそう言い切った。

「もちろん最初は違っていました。でもいまは自分に対するケジメを付けるために、それだけのためにあなたと戦いたい」

 その言葉に込められた高山の真剣が、翔一郎の胸に深々と突き刺さった。

 はるかむかしに経験した光景が、翔一郎の脳裏にまざまざと蘇ってくる。

 それは、彼が忘れようとしても決して忘れることのできない、とある出来事に通じる一枚の扉であった。

 同じだ、と翔一郎は思った。

 いまの彼は、あの時の俺と同じだ。

 あの時の俺も、おのれ自身の想いと決別するために、あえてとの戦いを望んだ。

 合理的な判断じゃない。

 そう、俺たちにはしかなかったからだ。

 あの時、おまえは困ったような、それでいてどこかうれしそうななんとも言い難い顔をしていたっけ。

 比較して、いまの俺はどうなのだろう?

 あの時のおまえと同じ顔をしているのだろうか。

 教えてくれ、たかし

 翔一郎は軽く目をつぶった。

 そしてひと呼吸置くとまぶたを開け、「わかった。受けよう」と高山に告げた。

 それは挑戦の承諾以外の何物でもありはしなかった。

「翔兄ぃ!」

 眞琴の口から驚愕が声となって飛び出してきた。

 当然だろう。

 ミブローという渾名で知られる伝説の走り屋が、いまだ若葉マークの取れない駆け出しとの対戦を受けたのだ。

 勝敗など最初からわかりきっている。

 確かに、翔一郎が芹沢聡に挑んだ時も周りは同様の感想を持った。

 しかし、あの時とは完全に状況が異なる。

 芹沢とのバトルにおいて、実のところ翔一郎の実力はまったくの未知数であった。

 それを周囲が低く評価していたのは、「八神の魔術師」としての壬生翔一郎を誰も知らなかったがゆえの結果だ。

 翻って、初心者たる高山にはそういったイレギュラーが存在していない。

 想定をひっくり返すための要素など皆無に等しかった。

 それは、もはや弱い者いじめの範疇にすらない。

 眞琴は、翔一郎がそんな戦いに手を出す意味を理解できなかった。

 第一、運転が未熟な初心者に公道バトルをさせるというのは、日頃から口にしていた台詞と矛盾しているではないか!

 だが、そんな眞琴の心情に気付くことなく、翔一郎は高山にバトルのルールを口頭で伝えた。

 それは俗に「先行・後追方式」と呼ばれるルールだった。

 要するに、前を走るクルマに対しその直後を走るクルマが追従できなくなった時に勝敗が決するというルールだ。

 後追側が振り切られてしまった場合はいうに及ばず、先行側との車間距離を著しく広げられてしまった場合にもやはり追従できなかったものと見なされるのが一般的であった。

 翔一郎は、その基本を少々弄った形でのルールを高山に提示した。

 勝敗は一本で決定する。

 使うのは八神の表ルート、そのダウンヒル区間。

 先行は翔一郎が務める。

 そして、その一本で高山が負けなければ翔一郎が自らの敗北を認めるという変則的な勝利条件が定められた。

 加えて、最大速度は法定速度以内、走行ラインは中央線を越えないことなど、細かい条件がそのあとに続く。

 一見してフェアな条件ではない。

 圧倒的に翔一郎の側が不利だ。

 というより、そこには初めから高山を互角の対戦相手と認めていない節すら感じられた。

 これを聞いて、さすがに高山が抗議の声をあげようとした。

 自分は対等な真っ向勝負を望んでいるのにハンディキャップマッチとは何事か、というわけだ。

 しかし、翔一郎はまっすぐ正面に右手を突き出し、遮るようにその発言を制止する。

「この条件が不公平に過ぎると言うのなら、そいつは俺に対する明確な侮辱だ」

 翔一郎は真剣な面持ちで高山に告げた。

「これは俺と君との対戦がゲームとして成立するために必要な最低限の条件だ。正直これでもまだ俺が有利過ぎると思っているくらいなんだけどな。それに──」

「それに?」

「こいつは俺にとって端っからバトルじゃない」

 有無を言わせない迫力をもって、翔一郎は断言した。

「どこかの本の受け売りだが、これはセミナーだ。文句があるなら俺に勝って発言を撤回させてみせろ」

 高山は無言で力強く頷いた。

 それが公正なルールでないにせよ、翔一郎が正当に雌雄を決する場を与えてくれたと悟ったのだった。

 翔一郎はこの戦いを「セミナー」と呼んだ。

 しかし、彼はその単語を脳内で「テスト」と読み替えて認識した。

 敬意を抱ける人間は、その人生において決して多くはない。

 少なくともそのうちのひとりから試練を与えられたのだ。

 いまはそれを誇らしくさえ思う。

 翔一郎は愛弟子が「プリメーラ」の運転席に収まるのを確認したのち、眞琴を助手席へと呼び込んだ。

 少女は呼ばれるがまま「レガシィ」に乗り込むと、運転席に着く翔一郎の横顔をちらちらと見やりながらシートベルトを着用する。

 カチッと金具がロックしたことを示す音が、妙に大きく車内に響いた。

「ねえ翔兄ぃ」

 少し間を置いて眞琴は尋ねた。

「高山くんの言ったケジメって何? 翔兄ぃはそれを聞いたから、このバトルを受けたんでしょ」

 言葉どおりに受け取れば「ケジメを付ける」とは「物事の区別をはっきりさせる」という意味になる。

 もちろん「責任を取る」という側面もそこにはあるが、いまの高山が口にしたのは前者の意味合いを強く持ってのことだろう。

 過去の自分と決別する──それが彼の示した意志だった。

 翔一郎はそれを察し、ゆえにこそそれに応えた。

 男気の発露とでも言い換えればわかりやすいか。

 しかし翔一郎は、それを明解な言葉で彼女へ伝えることができなかった。

 それが真っ当な理に則った代物ではなかったからだ。

 男気などという非合理極まりない理由を口にしたところで、眞琴がそれを理解できると翔一郎には思えなかった。

 だからこの時、翔一郎は「わからないならそれでいい。いつかわかる時がくるからな」と眞琴の問いを煙に巻いた。

 それを聞いた眞琴は小さく肩をすくめ、翔一郎から視線を外した。

 そして寂しげにふぅと息をつき、引き寄せた両膝を抱え込む。

 心なしか、その存在がふた回りほど小さく見えた。

 出所不明の疎外感が、眞琴の胸中に木枯らしにも似た寒風を吹き込んでいく。

「それって、ボクが女の子なのが理由なのかな……」

 膝の間に半分ばかし顔を埋め、誰に言うでもなく彼女はぼそりと呟いた。

「もしボクが男の子だったら、翔兄ぃが理解できたみたいに高山くんをわかってあげられたのかな……」

 翔一郎はそれには答えず、ゆっくり愛車を発進させた。

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