第二十三話:リアルvsレジェンド

 フロントガラスの向こう側で、「魔術師」の駆る「レガシィ」が左コーナーへと突入した。

 狂ったようなコーナリング速度だ。

 ひとむかし前のWRCばりに車体を滑らせ、けたたましいスキール音を辺り構わず鳴り響かせる。

 その闇夜を切り裂くテールランプをアナリストの目で眺めつつ、「弾丸野郎バレットクラブ」二階堂和也は無意識のうちに舌を巻いた。

 冷徹に評価しようと努めるものの、鮮やかすぎる敵手の姿に嫌でも魅了されてしまう。

 凄えなんてもんじゃねェや──それが素直な感想だった。

 いったいなんだよ、このコーナリングは。

 カミカゼばりのハイスピード突っ込みから、最小限の減速だけして爆発的に加速してく。

 肝になってんのは左足ブレーキだ。

 間違いなく奴は、限界領域での姿勢制御に左足ブレーキを使ってる。

 コーナリングの真っ最中、点灯するブレーキランプがその証だ。

 エンジン回転をパワーバンドから外したくねェから、右足でアクセルペダルを踏んだまま、左足でブレーキ踏んでリアの荷重を抜いてやがるんだ。

 コーナリングラインだって完璧じゃねェか。

 サーキットで鍛えたこの俺の目で見ても、非の打ち所なんざどこにもねェ。

 「インをデッドに攻める」どころか、ガードレールすれすれのところを最短距離で抜けて行きやがる。

 ドリフト気味にクルマを滑らせてんのは、タイヤのキャパが足りねェからだ。

 あれだけの速度でコーナーをクリアするには、いくら最新のハイグリップタイヤでも二一五二百十五ミリ幅じゃあ力不足なんだ。

 そしてタイヤが受け入れられるだけの横Gにコーナリング速度を落とすのが嫌だから、初めからタイヤを流してコーナーに入るって寸法か。

 いや、おそらく理由はもうひとつあるな。

 ワイドレンジの四速ミッションに加えフロントにLSDを装着してねェオートマの「レガシィ」だと、四駆とはいえ立ち上がり勝負じゃ分が悪ィからだ。

 だから無駄な減速をしねェよう、高い平均速度アベレージを維持できるよう、わざわざ意識してああやってんだ。

 眼前の難敵に追従しながら、二階堂は心の中で独り叫んだ。

 その相好に浮かんでいるのは、誰の目にも明らかな喜色満面の表情だ。

 背筋を駆け上るバトルの愉悦に身を震わせ、「ランエボ使い」が言葉に出さず吼え猛る。

 畜生。

 理屈はわかるが、だからって百キロ超えるスピードでガードレールをかすめるなんざ、もうクルマの性能がどうとかって問題じゃねェぞ。

 桁違いだ。

 どうやったら、限界域であんだけ正確なコントロールができんだよ。

 これが『伝説』って奴の実力かァ、クソッタレ!

 しかも野郎、実のところなんにも突飛なことなんかしてやがらねェ。

 そのやることなすことのことごとくが、端から見りゃあ冗談みてェに教科書どおりだ。

 徹底的なアウト・イン・アウト。

 最大効率のスロー・イン・ファストアウト。

 それらのどこにも、スペシャルなんざ見当たらねェ。

 まるで、「必殺技」なんてものは所詮餓鬼の妄想だ、とでも言いたげな走りじゃねェか、ええ?

 だがそうさ、そのとおりさ。

 あんたは何も間違ってねェよ。

 何事においても「奥義」って奴は、積み重ねた末にしか辿り着けねェ代物なのさ。

 あんたがいま見せてるとおり、「基本」って奴を極めた者しか「頂点」って場所には至れねェのさ。

 ああ、はっきりと認めるよ。

 誰がなんと言おうと認めざるを得ねェ。

 あんたは確実に俺より上だ。

 純粋に「走り屋」としての腕前は、いまの俺が及ぶところじゃねェ。

 「敵いません」って白旗掲げることだって、求められりゃあ、やぶさかじゃねェよ。

 だがな、バトルって奴の神髄は、あくまでも腕とクルマの総合力だ。

 つまりあんたのは、そのクルマレガシィB4で俺の挑戦を受けたことに尽きるってわけさ。

 ミブローさん。

 あんたは確かに、そのクルマの持つ百のスペックを百パーセント絞り出してるよ。

 その「技術」は、俺なんかが到底真似できる代物じゃねェ。

 いまの俺の実力じゃあ、せいぜい出せて八十パーセントってところか。

 もっとも、どんな上手い走り屋だって、普通は出せて半分ってところなんだがな。

 ただしだ。

 俺の「ランエボ」の戦闘力は、甘く見積もってもあんたのクルマの五割増しだ。

 百五十のスペックの八割を出せりゃあ、その数値は百二十。

 あんたの百を余裕でぶち抜くことができるのさ。

 そうだ。

 あんたがいま目の前で立証しているように、この世の中に勝手都合のいい「必殺技」なんてものは存在しねェ。

 この世のすべては「理論」と「法則」の掌の上。

 ドライバーがどんな神がかりを発揮しようとも、マックス百馬力のエンジンから三百馬力を叩き出すなんて芸当はできやしねェのさ。

 現実は漫画やアニメじゃねェんだからな。

 「技術」が「物理」を凌駕するなんて現象は、この世じゃ絶対起こり得ねェ。

 詰まるところ、奥深すぎる「科学」の結晶って奴なのさ、ドライビングって奴の本質はな!

 二階堂が勝負に出たのは、二台のクルマがコースの中盤に差し掛かった、ちょうどその矢先でのことだった。

 ムキ出しの傾斜を右手に見る中速域の右カーブ。

 八神街道ではこのあたりから、山の手側の路肩部分にフタのない側溝帯が出現する。

 幅はおおよそ三十センチ。

 あたりまえに通行するだけならなんということはない排水用の溝だが、疾走する走り屋のクルマにとっては落とし穴ともなりかねない危険極まる存在だ。

 スピードが乗ったまま深さ五十センチの側溝にタイヤを落とせば、良くても足回りは全損状態。

 下手をすれば、それ以上の惨禍がクルマと搭乗者とにもたらされるだろう。

 落とし穴、という表現は、まんざら比喩的なそれと言うわけでもないのである。

 ゆえに、よほど車体感覚に自信を持っている走り屋であっても、この区間に関してだけは、たっぷりと安全マージンを取ってくるのが八神における一般的なセオリーだった。

 そしてそれは、の「八神の魔術師」であろうともまったく同様のことであったらしい。

 アウト・イン・アウトを貫く「レガシィ」の軌道が、微妙なレベルで外へと膨らむ。

 側溝との距離に余裕を持たせた分、コーナリングラインの自由度が狭まったためだ。

「もらった!」

 その現実を見届けた「弾丸野郎バレットクラブ」が、ぐいっと右にステアを切った。

 減速して後落したと見えた「ランエボ」のノーズが、きっちり「レガシィ」のイン側を捉える。

 その強引なコーナリングを支えたものは、「エボキュー」の履く二六五二百六十五ミリ幅のSタイヤと最先端の電子装備だ。

 AYC──アクティブ・ヨー・コントロールに代表される統合制御システムが、このハイパワー四駆にオン・ザ・レールの旋回をもたらす。

 コーナー出口でインを突いた「ランエボ」の車体が、B4の右サイドへと滑り込んだ。

 圧倒的なパワーに支えられた尋常でない加速力が、「魔術師」の繰り出す最適化の壁を薄紙のごとく撃ち抜いたのだ。

 続く左コーナーへと至るまでの短い直線。

 パワー差を活かしたエボが、大外から強引に「レガシィ」を押さえる。

 前に出られたB4に、抵抗する術などこの段階ではなかった。

 進行方向をブロックされ、退却の二文字を強制される。

 それはまさしく、「力」が「技」を圧倒した瞬間であった。

 続けざま、先行を奪い取った二階堂の「ランエボ」が獣のごとく吼え猛った。

 4G63エンジンの放つ轟きが、高らかな勝利宣言のようにさえ聞こえる。

 その光景を目撃したギャラリーたちが「ああ……」と思わず嘆息を漏らすのも、ある意味やむを得ない状況と言えた。

「勝負あった、だ」

「やっぱりエボには勝てなかったか」

「いくら『伝説の走り屋』とはいえ、オートマのレガシィでエボキューが相手じゃなァ……」

 そうした第三者による感想を、この時、当事者である二階堂もまた共有していた。

 おのれの勝利を確信していた彼は、アクセルをテンション高く踏み締めたまま「八神の魔術師」へと語りかける。

 その口振りは、もはや挑戦者チャレンジャーの放つそれではなかった。

「哀しいねェ。馬の差って奴はよ」

 王者の余裕が迸った。

「あんたの伝説にケチ付けたA級戦犯は、紛れもなくそのクルマレガシィB4さ。もしあんたがもっと上のクルマに乗ってたら、この勝負、どっちに転んだかはわかんなかった。少なくとも、まだこの先に続きはあったはずだ。

 だからよォ、あんたがもっといいクルマに乗り換えた時、そんときにもういっぺん、ちゃんとした勝負をしようぜ。こんな勝ち方じゃあ、俺のほうだって納得いかねェ。テクじゃなく、クルマに勝たせてもらったようなもんだからな。

 俺はな、あんたとはフェアな次元で決着付けてェんだよ。そうでなけりゃあ、とてもじゃねェがあんたに勝ったって胸張るわけにはいかねェからな。

 要するに、だ。今宵の勝利は、俺にとっちゃあ暫定勝利。あんたとの本当の決着は、次の機会までのお預けってわけさ。

 あばよ、『伝説の王者ミッドナイトウルブスのミブロー』 再戦の機会を心から楽しみにしてるぜ!」

 二階堂のエボが増速した。

 先頭に立つことにより、それまで封印していた本当の実力を一気に解放できたからだ。

 四十キロを超えるエンジントルクを、四つのタイヤが余すことなく路面に伝える。

 その圧倒的な力強さは、マシンスペックに劣る翔一郞の「レガシィ」にとって到底真似のできる代物ではない。

 バックミラーに映るヘッドライトが、コーナーの向こうに隠れて消えた。

 完全に振り切った!

 胸に抱いた確信が、現実によって裏打ちされる。

 その瞬間、二階堂の心中でバトルという認識がタイムアタックのそれへと切り替わった。

 後続する黒いセダンの存在感が、勢い空虚なものとなる。

 戦いの決着はすでに付いているのだ。

 残すところは、どれだけベストを尽くせるかのみ。

 刺すまでもないトドメをあえて刺す──その容赦のない決断こそが、八神の伝説に捧げられる最良の敬意なのだと、この時の二階堂は固く信じていた。

 だがしかし、その思い上がった認識はすぐさま打ち砕かれることになる。

 十数秒を待たずして、翔一郞のB4が互いの距離を詰めだしたからだ。

 徐々に徐々に、確実に接近してくる後続車の姿。

 ミラーを覗く二階堂の目が、驚愕に大きく見開かれた。


 ◆◆◆


「思ったとおり、エボがレガシィを抜いたそうよ」

 中盤区域に陣取っていた「エム・スポーツ」の常連客、そのひとりから受け取った報告を、三澤倫子は仲間に伝えた。

 およそ脚色などない率直な内容。

 肩入れしている人物壬生翔一郞が劣位に立ったというにもかかわらず、その口振りは極めてクールでどこか他人事の趣すらある。

 ほくそ笑みつつ彼女は言った。

「ほら、あの落石注意の看板がある右コーナー。完璧なカウンターアタックだったって」

「それって壬生さんでも、あの『ミッドナイトウルブス』のミブローでも、やっぱりエボには敵わなかったってこと?」

 そんな倫子に純が尋ねた。

「そりゃあスペック的に考えれば、オートマのレガシィがエボキューに勝てる道理なんてどこにもないんだけどさァ……」

「純さん。スペック的に考えるんなら、オートマのレガシィが芹沢のセブン四百馬力のFDに勝つことだってありえない話なんじゃないですか」

「そりゃ確かにそうだけど……」

「クルマのスペックだけで勝敗がはっきりするんなら、最初からこんなバトルなんて辞めてしまえばいいんです」

 肩をすくめて倫子は応えた。

「確かにマシンスペックは勝利を呼び込む最大要素ではありますけど、そういう要素を平気で覆す人間がいるからこそ、この走り屋の世界ってのは面白いんですよ。違いますか?」

「リンさん。ボクにもひとつ質問があります」

 続いて伺いを立ててきたのは眞琴だった。

「リンさんの言いたいことはわかるんですけど、翔兄ぃのB4で、どうやって二階堂のランエボを抜くんですか?」

「あら、眞琴ちゃんまで壬生さんのこと疑っちゃうの?」

「そうじゃないですけど」

 ためらいがちに彼女は言った。

「いくら翔兄ぃのクルマがチューンナップされてるとはいえ、直線だけならいざしらず、旋回速度やら立ち上がりの加速やらでレガシィがランエボの相手になるなんてボクには到底思えないんです。そのストレートですら若干劣勢なくらいなのに、コーナリング勝負だと相手が大ミスでもしない限りもう絶望的なレベルじゃないですか。前に出られなきゃ、バトルの勝ちはないんですよ」

「そうね。確かに眞琴ちゃんの言うとおりかもしれないわね」

 倫子の表情がかすかに緩んだ。

「ある程度実力の拮抗した走り屋同士がバトったら、性能のいいクルマに乗ってるほうが勝利に近い。常識的に考えれば、まさにそのとおりよ。事実、周囲のオッズもそうした流れに乗っかるでしょうね。でも──」

「でも?」

「そういう流れを平気でひっくり返してきたからこそ、あのひと翔一郞は『八神の魔術師』って呼ばれてるのよ」

 「青い閃光シャイニング・ザ・ブルー」は、を輝かせつつ少女に告げた。

「あのひとの目論んでる戦術をいまのわたしは説明できないし、仮に説明できたとしても、あえてそれを口にする気はないわ。ひとつだけはっきりしてるのは、壬生さんがあなたたちにこの場所を指定して、そしてホンモノのバトルを見せてやるって宣言したことよ。彼の用意した答えは、もうすぐわたしたちの目の前で起こる現実がいやでも語ってくれるはず。ただ残念なことに、手品のタネをあれこれ想像するだけの時間はなさそうよ。だったらせめて、バトルの推移を黙って見学させてもらいましょ」

 敬愛する女性にそう説かれてもなお、眞琴は疑念を崩さなかった。

 遠くから、激しいスキール音が遠雷のごとく響いてくる。

 導かれるように、少女はそちらへ目を向けた。

 わからない──…

 困惑する頭で眞琴は思った。

 普通に考えたら、「レガシィ」ごときが「ランエボ」相手に善戦できるはずもない。

 性能が違いすぎて、勝敗なんか初めから見えてる。

 「ランエボ」のドライバーが素人か何かでない限り、百人に聞けば百人ともがエボの勝利を請け負うだろう。

 だけどこれとおんなじ雰囲気は、以前に経験したことがある。

 言うまでもない。

 それはあのひと翔兄ぃがバトルの代役を買って出た、あの夜のことだ。

 あの時もまさにこうだった。

 対戦相手はエリア屈指の走り屋で、乗っているのは四百馬力のピュアスポーツ。

 素人目に見たって、勝ち目なんかこれぽっちもあるはずない。

 みんながみんなそう思ってた。

 カナさんたち加奈子と純もそう思ってた。

 ボク自身ですらそう思ってた。

 ただひとりだけがそうじゃなかった。

 三澤倫子シャイニング・ザ・ブルー──あそこにいたたくさんのひとたちのなかで、リンさんだけが無邪気なまでに翔兄ぃの勝利を信じてた。

 あの時だけじゃない。いまだってそうだ。

 このひと倫子は「八神の魔術師」の、「伝説の走り屋」の、「ミッドナイトウルブスのミブロー」の勝利を心の底から信じてる。

 ボクの知らない「壬生翔一郞」の実力を、もう全面的に信頼しきってる。

 その根拠はいったい何?

 どこから来るものなの?

 というより、どうしてそこまでボクの翔兄ぃを盲信できるの?

 付き合い長いボクですら、このとおり半信半疑だっていうのに──…

 なんかムカつく。

 わけわかんない──…

 乱れ始めた少女の胸に、もやっと敵愾心に似た感情が湧き上がってきた。

 唐突に視線を動かし、すぐ隣に立つ姉貴分へとそれを向ける。

 近付いてくるエキゾーストノートに惹かれたものか、倫子もまた、微動だにせず夜の街道を眺めていた。

 端正に整ったその美人顔は、来たるべき歓喜に備えじっとエネルギーを蓄えているように見える。

 眞琴の唇にきゅっと力がこもったのは、その瞬間のことだった。

 無自覚な衝動のもたらした、極めて些細な心の表れ。

 ただし、なぜそんな態度を取ってしまったものかは、彼女自身にも皆目見当が付かなかった。

 改めて、深夜の峠に目を向ける。

 頭脳ではなく細胞が、倫子と張り合う位置に彼女を立たせた。

「負けないもん」

 知らず知らずのうちに、眞琴の唇がそんな呟きを放った。

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