第七話:暴君来訪

「ひどいよ。ボクだけ除け者にしてさッ!」

 文字どおり、ぷーっと頬を膨らませて眞琴がぼやいた。

 「ふたりが顔見知りだったのなら、あらかじめ教えてくれてたっていいじゃないッ!」と頭から湯気でも上がってきそうな勢いで翔一郎に詰め寄り、まるで自棄酒でも飲むような格好で炭酸飲料の中身を喉の奥へと流し込む。

「怒んなよ。顔見知りったって、今朝がた会ったばかりだぜ」

 負けじと缶コーヒーをぐいっとやりつつ、翔一郎は言い返した。

 見かけの態度こそ同じようであっても、こちらのほうには相応の余裕といったものが明確にうかがえる。

 いわゆる年の功という奴か。

「第一だな、お前が三澤さんと知り合いだなんて、俺が知ってるわけないだろう」

 違うか、と強い口調で畳みかける翔一郎の理屈は、完全無欠に正当だった。

 だが困ったことに、世の中では正しい理屈が常に感情を御しうるわけでは当然ない。

 眞琴は翔一郎の正論を前にとりあえずは沈黙してみせたが、膨れっ面を素直に納めたりはしなかった。

 下手をすれば親子ほどにも歳の離れた両者の間のそんな微笑ましいやりとりに、ほかの面々からはクスクスという笑い声が湧き起こった。

 「ロスヴァイセ」のミーティング――と言えるほどのものではないが――は、たいてい週末の晴れた夜、それも本気印の走り屋どもがいまだ集まってこないこれぐらいの時間帯に行われているのだ、と翔一郎は加奈子から聞いた。

 ただし、わざわざ深夜に集まってまでしてやることはと言えば、こんな風に輪を作って色々な話題に華を咲かせるのがもっぱらなのだという。

 正直、それは走り屋らしからぬ集会ではあった。

 だから、今宵のような出来事バトルは例外中の例外的なイベントであり、普段はもっとのんびりとお互い時間を浪費して、日付が変わる頃には各々帰路についているらしい。

 倫子ひとりを除いては。

 もともと彼女は八神街道における「ニューカマー」であった。

 そのせいか、「ロスヴァイセ」との出会いも決して友好的なものではなかったようだ。

 それは、「エム・スポーツ」で倫子が見せた取っ付きの悪さから見ても、十分以上に予想がつく。

 しかし、ひとたび目にした彼女の走りにすっかり魅せられてしまった加奈子たちは、そんな倫子を諦められなかった。

 それこそ毎晩のようにこの場所へ通い詰めること数ヶ月。

 先々月になってようやく、ターゲットの撃墜に成功したとのことだった。

 話を聞く限りだが、倫子のほうが根負けしたのだろう。

 あくまで想像の範疇に過ぎないが、なかなかに興味深いシチュエーションではある。

 もっともいまでは倫子の側も、「ロスヴァイセ」の一員であることにまったく抵抗はないようだ。

 最近では、走り屋としては初心者同然とも言えるほかのメンバーに、ドライビングやセッティングの指導を行ったりもしているとのことである。

 ただしそれは、彼女たち三人が同じ立場に就いたということを、少しも意味してなどはいない。

 クルマとの付き合い方について、加奈子や純があくまでも「理解者」の側であるのに対し、倫子は確実に「当事者」たらんと望んでいるのが明白だったからである。

 厳しいことを言えば、倫子にとって加奈子たちは、「仲間」ではあっても「同志」ではないのだ。

 そのことを、彼女らと話しているうちに翔一郎は確信した。

「クルマを通じて克己心を養うとか人格形成を図るとか、そういった綺麗事を謳ううつもりはないんです」

 「ロスヴァイセ」のリーダー格である加奈子がそんな言葉を口にした。

「でも多かれ少なかれ、ひとは何かしら好きな物事に対して熱中するじゃないですか。音楽やスポーツや絵画。普通のひとから見れば、それは時としてナンセンスな行為に映るのでしょうけど、私はそういうのを『素晴らしい』って感じるんですよ。無味乾燥な人生をただ流されて生きることと比べれば、それはもう比べものにもならないくらいに。私たちにとって、『クルマで走ること』こそがそれに当たるんです」

 おかしいですよね、と締め括った彼女の表情には、若干の自己陶酔が浮かんでいた。

 翔一郎は、それを笑うことができなかった。

 むしろ彼女らとは真逆の道を選択した自分自身に対し、嘲りにも似た悪感情が湧いてくる。

 なんだか場違いな空間に座しているようで、正直、妙な居心地の悪ささえ感じてしまっていた。

 少しの間黙り込む自分に向けて、眞琴が不思議そうな視線を送ってきたことに気付くこともなかった。

 そうこうしている間に時は流れ、会話のネタもそろそろ尽きてきたように思われた頃合い、せっかく集まったのだから少しだけ道を流しに行きませんか?、という申し出が降って湧いたように提出された。

 起案者は倫子だった。

 目的地は、街道の九十九坂側出口にあるレストラン、「和食処やまぐち」

 この時間には営業を終えているその店の駐車場で折り返し、ふたたびここに戻ってくるというルートである。

 激しく峠を攻めるというのならいささか長めの行程であるが、それなりにワインディングを楽しむレベルであれば、まずまず手頃な距離だと言っていい。

「いいんですか? 俺みたいなのが混じっても」

 もとよりそんなつもりなどない翔一郎が、思わず周囲の顔ぶれを見渡した。

 突然の提案に困惑の色を隠せないその表情からは、周囲からの拒絶によって労せず不参加の権利を入手しようとする、なんとも姑息な魂胆がうかがえた。

 そりゃそうだ。

 先ほどのことを根に持っている眞琴は、それを見て意地の悪い笑顔を浮かべる。

 仮にも男の身であり、しかもこの中では最も長い運転歴を有しているであろう翔一郎にとって、若い女性陣とともにクルマを走らせその技量を値踏みされるというのは少々気恥ずかしい行為であろう。

 ましてや、そのことで彼女らよりも自分の運転技術が劣るなどという結果を得るのは、できれば避けて通りたいに違いない。

 付き合いの長い眞琴には、翔一郎のドライビングを熟知しているという自負があった。

 公務員という職種に対して世間一般が抱くイメージのとおり、翔一郎の運転は実に堅実で、石橋を叩いて叩いて初めて渡るという慎重居士のそれであった。

 もちろん、決められた法定速度を金科玉条のものとしているかといえば、そこまで頑固なわけでもない。

 しかしながら、前走車との車間距離も必要と思われる分はきっちり取るし、周囲の状況に対する安全確認もかなり神経質なほうだ。

 当然のことながら、免許証には優良ドライバーの証、金色の帯が標されていた。

 それは本来、賞されるべきことではあっても非難される筋合いなどないことである。

 だが、意図的に法定速度を無視する、つまりはルール破りを前提としている公道レースの場において、その美点はむしろ欠点として評されるのが明白なのも事実であった。

 だから眞琴は、翔一郎が「ロスヴァイセ」のメンバーよりも「車を走らせるのが下手」であろうということに、いっさいの疑いを持っていなかった。

 確信していたとすら言っていいだろう。

「クルージングじゃ、一番ひとが先頭を走るのがセオリーだね」

 わざとらしく明るい声を出しながら、翔一郎に眞琴は告げた。

「だったら、翔兄ぃが一番前に出なきゃ」

 あからさまな眞琴の嫌味に、翔一郎の表情がムッとしたものへと変化する。

 眞琴としては、してやったりといった瞬間だ。

 実のところ、眞琴の知る壬生翔一郎という男性は、思いの外負けず嫌いな人物だった。

 普段から常識人ぶった台詞を常用している割に、何かの弾みでバッと熱血漢の顔を出す。

 いまみたいに軽い挑発をスルーできないこともしばしばであった。

 眞琴は、自分の目論見が成就したことを確信した。

 これで翔一郎が不戦敗を選択する可能性は消えたはずで、だとしたら彼は、まもなく恥をかくことになるだろう。

 ささやかな意趣返しとしては、まずまず十分な成果である。

「決まりですね」

 倫子がひと言言って立ち上がった。

 翔一郎が少しだけ眉間に皺を寄せた時、彼女がかすかにほくそ笑んでみせたことについて、ほかの面々は誰も気付いていない様子であった。

 何はともあれ、それをきっかけとしてなし崩し的に隊列の順序が決定される。

 セオリー?に従い、先頭を行く翔一郎の「レガシィB4」に続くのは、倫子の「MR-S」、加奈子の「アルテッツァ」、純の「スターレット・グランツァ」という順番だ。

 また、自分のクルマを持たない眞琴は、所有者から直々に促されたことで「MR-S」の助手席に座ることとなった。

 「お邪魔します」と短く告げて眞琴が乗り込んだ「MR-S」の車内は、翔一郎の「レガシィ」とは明確に一線を引いたスパルタンな装いで彼女を迎えた。

 そこは可能な限りの内装がはぎ取られ、至るところで無機質な金属の地肌がむき出しになっている。

 軽量化のためだ。

 オーディオやエアコンといった快適装備も車内にはない。

 一般的な快適性というものは、完全に無視されていた。

 世間の大多数を占める人々は、このクルマでのドライブを間違いなく忌避するだろう。

 倫子と彼らとではクルマに求める価値観というものが完全な別次元に位置するのであるから、それはある意味仕方のないことでもあった。

 ただし、眞琴は思いのほかこの「MR-S」の内装を気に入っていた。

 何かを得るために別の何かを犠牲にする。

 その潔さが、何事にも一本気な彼女の琴線に触れたのかもしれない。

「正直、驚いたわ」

 ウインカーを点灯させゆっくりと公道に出ていく「レガシィ」に愛車のノーズをを追従させつつ、倫子は左隣の眞琴に言った。

「今日、お店で会ったばかりのお客さんが、なんと眞琴ちゃんの言ってた『英雄ヒーロー』さんだったなんてね」

「リンさん! 翔兄ぃには言わないでくださいよ。絶対ですからねッ!」

「ええ、約束するわ」

 暗い「MR-S」の車内であってもはっきりとわかるくらいに赤面する眞琴。

 そのコミカルな態度におかしさを覚えた倫子が、思わず笑いを噛み殺す。

 倫子のことを「リン」と呼ぶのは眞琴だけではなく、「ロスヴァイセ」の面々に共通の行為であった。

 言うまでもないが、倫子という名前の「倫」の文字を音読みにしたのがその由来だ。

 彼女自身が自分の名前を教える際に倫理の倫と書いて云々と説明したことが発端なのだと、眞琴は加奈子から聞いていた。

 そんな会話を交えているうちに、先行する翔一郎の「レガシィ」が速度を上げつつ最初のコーナーへと進入していく。

 見せてもらいましょうか。

 眞琴には聞こえないようそう呟いて、倫子は「レガシィ」のテールランプを注視した。

 下り坂ではあるが、決して難しいカーブではない。

 曲率は四十五度を越える程度か。

 軽い減速からターンイン。

 失った速度をアクセルオンで回復させながら脱出。

 速度域がさほどでないことを考慮に入れても、非常に安定したコーナリングだ。

 その姿勢は小揺るぎもしていない。

 実は、この走行がスタートする時点で、翔一郎から「ロスヴァイセ」のメンバーにひとつの条件が提出されていた。

 それは、「絶対にセンターラインを割らないこと」である。

 その条件を満たしている限り、確かに対向車を巻き込むような大事故は起こりにくい。

 あとはスピードにさえ気を配っていれば、何かでミスを犯しても、せいぜいガードレールに車体を擦る程度で済まされるだろう。

 公務員らしいと言えばそのとおりな、安全志向の提案だと言える。

「あははッ、結構楽しそうに攻めてるじゃん」

 いくつかのコーナーを抜けたあたりで、眞琴がそんな感想を口にした。

 先行するB4のテールをまじまじと見ながら、喜びの色を隠そうともしない。

「ほーんのついさっきまで、難しい顔して交通ルールがどうとかこうとか言ってたくせにさ。ムッツリスケベならぬ、ムッツリ峠族かぁ。ねえ、リンさん。翔兄ぃあのひとって、意外と走り屋の資質持ってるって思いません? テクニック云々の話じゃなくって、クルマの運転が好きそうなってところで」

 その問いかけに素っ気なく「そうね」と応え、倫子もまた、翔一郎の挙動に集中する。

 走り屋ロードレーサーとしての鑑定眼が、黒いセダンに湯水のごとく注がれた。

 彼女が見詰める「レガシィ」の後ろ姿。

 そこからは、「峠を攻める」というイメージがもたらしてくる激しさなど、これっぽっちも感じられなかった。

 むしろ、のんびり流しているんじゃないかという余裕さえ感じ取れてしまう。

 しかし倫子は、そうした感触に違和感を覚えた。

 「ロスヴァイセ」は、今回のゲストである翔一郎の意向を汲んで対向車線にはみ出ない安全走行ルールを約束した。

 翔一郎が夜の峠道とは縁遠い人種に見えたことによるわずかばかりの優越感も、加奈子たちにはあったかもしれない。

 だが、倫子は違った。

 彼女は、この「遊び」に近い走りの中で、ぜひとも確認しておきたいひとつの疑念を抱いていたのである。

 とうのむかしに脚を洗いましたよ、と本人は断言した。

 もう、そういった類の話に興味はないんです。むかしむかしの錆びた刀にいまさら無理言わないでください、とまで言ってのけた。

 だが、何かの本で読んだことがある。

 本当に優れた刀は、一見錆びついてなまくらになったように思えても、ひとたび研ぎを入れればたちまちのうちに全盛時の切れ味が蘇る、と。

 あんな言葉だけでは納得しない。

 音に聞こえた名刀が本当に切れ味を失ったのかは、わたしがじかに確かめてやる。

 そして、そうした想いを抱いていたからこそ、彼女は気付くことができた。

 翔一郎の「レガシィ」に続く自分の「MR-S」が、コーナーを抜ける都度、わずかだが、そうほんのわずかだが引き離されているという現実に、だ。

 気のせい? 最初は確かにそう思った。

 だが、愛車のほうがその感覚を明確に否定する。

 彼女の「MR-S」が搭載しているエンジンは、加奈子たちと時の表情とは明らかに違う一面をのぞかせ始めていた。

 それは、明らかに堅気の「MR-S」が奏でるエンジン音ではない。

 それもそのはず、倫子の「MR-S」は、その心臓部を本来搭載されている1ZZ-FEから、カタログ値で三割以上も高出力な2ZZ-GEへと換装していたのだ。

 しかも彼女の愛車に載せてあるそれは、競技用エンジン並みの圧縮比と八千回転を軽く上回るレブリミットとを与えられたコンプリートエンジンであった。

 馬力はおそらく二百を越える。

 非力なはずの「MR-S」が先だってのバトルの序盤、登りの行程で対戦相手に追従できた理由のひとつがこれだった。

 ゆえに、立ち上がりでの遅れが「レガシィ」との出力差に由縁するものだとは到底思えない。

 さらに言えば、彼女の愛車に奢られていたのは、中古とはいえ競技用のセミスリックタイヤであった。

 そのグリップ性能は、ハイグリップラジアルのそれを確実にいち段上回る。

 考えれば考えるほど、ネガティブな要素などどこにもなかった。

 では、なぜ?

 予想以上の横G。

 予期せぬ挙動に眞琴の口から短い悲鳴が飛び出した。

「リンさん、ちょっと!」

「ごめん。黙ってて」

 眞琴の抗議をひと言で制し、倫子は唇を真一文字に引き締めた。

 同乗者が怪訝な表情を浮かべるのにも一顧だにしない。

 やや緩めの左カーブ。

 角度的には、くの字に近い。

 静かにブレーキを踏み、何事もなかったかのようにその場をクリアしていく翔一郎。

 倫子の「MR-S」が、そのあとを追ってコーナーに進入する。

 だが、先行する「レガシィ」の走行ラインに愛車をぴたりとトレースさせられない。

 本能的に身体のほうが反応し、「MR-S」は先導車と異なる独自のラインを通ってコーナーを抜けていく。

 MRと4WDという駆動方式の違いを考慮に入れても、それは山道を流す程度の速度域では考えられない現象だった。

 そんなはずは、と咄嗟にスピードメーターを見る倫子。

 コーナーを脱出した直後のそれは、時速百キロに迫る値を指していた。

 確かに倫子にとってなら全力とは言い難い速度かもしれないが、片側の一車線だけを使用するという走行ラインが限定された状況を考えると、そうそう素人が出せる速度域であるとも思えない。

 事実、加奈子や純はこのペースに付いてこられていなかった。

 ふたりの愛車ははるか遠くに引き離され、もはやバックミラーに映ってさえいない。

 加えて、あれだけ破綻のないクルマの挙動は、ドライバーがそれだけの速度を決して無理矢理に絞り出していないという証左であるとも言えた。

 間違いない。

 自分の中のスイッチを切り替え、倫子は軽く息を飲んだ。

 翔一郎は熟知しているのだ──八神のやまをどのように走ればいいのかを。

 あるコーナーにおいて、自分の愛車がどの走行ラインを、どの程度の速度で走ることができるのかを、彼は経験則で知っている。

 だから怯えない、恐怖心がない。

 当然だ。

 それが「できる」とあらかじめわかっているのだから、そんな負の感情が心中に芽生えようはずもない。

 コーナーの立ち上がりで彼の「レガシィ」が自分の「MR-S」を引き離す理由もはっきりした。

 翔一郎がとった走行ラインは彼と彼の愛車にとってのベストラインであり、この速度域において、ほかのクルマにとってのそれとイコールには成り得なかったからだ。

 やはり、走り込みの量と質が桁違いだ。

 そうでなければ、こんな片側一車線などという限定された条件におけるベストラインなんて描けるはずない。

 この切れ味!

 誰が錆びた刀ですって?

 とんでもない!

 倫子はその事実を認識した瞬間、身体の芯がかっと熱くなるのを感じた。

 先刻の「シルビア」には感じようもなかった、圧倒的な高揚感だ。

 彼女は、麓の折り返し地点である「和食処やまぐち」の駐車場内で、翔一郎の行く手を愛車の車体で遮った。

「いきなりどうしたんです、リンさん?」

 突然のことに驚きを隠せない眞琴を置き去りにしてコックピットから飛び出した倫子は、同様にクルマから降りてきた翔一郎に向けて、自らの意志をはっきりと伝えた。

「壬生さん、わたしと張ってもらえませんか?」

 それは挑戦の表明にほかならなかった。

「不躾な提案ですね」

 あからさまに口元を歪め、翔一郎は腕組みをする。

「俺は走り屋じゃないんですよ」

「いまのあなたが走り屋じゃなかったら、いったい誰が走り屋だっていうんですか、ミブローさん?」

 倫子は翔一郎を「ミブロー」と呼んだ。

 それが「ミブ・ショウイチロー」を縮めた呼び名であることは明らかだったが、眞琴はこれまで翔一郎の知人友人がその名で彼を呼ぶのを耳にしたことはなかった。

 だが、倫子からそう呼ばれた翔一郎は、いかにも不愉快そうに顔全体をしかめてみせる。

 それは、彼がそんな渾名で呼ばれていたことのある何よりの証左であるよう眞琴には思えてならなかった。

「勝手に決めつけないでもらいたいな」

 組んだ腕を解いて翔一郎が前に出る。

 本人も気付いていないのか、倫子に向けての言葉使いがそれまでと異なっていた。

「むかしはむかし、いまはいま。そちらが俺のことをどう思おうとも勝手だけど、いまの俺は──」

 翔一郎は対峙する倫子に向けて何事かを言おうとした。

 声が一段階低かった。

 いつもの彼とはどこか違う、ただならぬ雰囲気だった。

 眞琴の知らない翔一郎がそこにいた。

 だが、倫子はそんな翔一郎の一面を知っているかのごとき態度をうかがわせている。

 眞琴の胸中にモヤモヤとした暗雲が湧き上がってきた。

 自分の知らない翔一郎。

 倫子の知っている翔一郎。

 いったいそれはなんなのだろう?。

 そして気が付いた時、彼女はふたりの間に身体ごと分け入っていた。

 ストップ、と叫びながら両腕を大きく振り回す。

「いまのリンさん、ちょっと変です。翔兄ぃみたいなド素人にバトル挑むなんてどうかしてますよ!」

 無意識のうちに、翔一郎ではなく倫子のほうに抗議の矛先を向ける眞琴。

 ようやく追いついてきた加奈子と純も、すわ何事かとばかりにクルマを降りていち目散に駆け寄ってくる。

「そう、眞琴ちゃんは知らないかもね。どうやら壬生さんのほうも教えてなかったみたいだし」

 倫子は眞琴と翔一郎の顔を交互に見やりながら、心底うれしそうに口元を綻ばせた。

 そして、への字口を隠しもしない翔一郎に向けて興奮気味に言い放った。

「壬生さん、さっきのクルージング、見事でした。あなたがいくら否定しても、わたしはあれで確信しました。あなたはいまでも間違いなく現役の──」

 しかし、会話はふたたび第三者によって遮られた。

 周囲に爆音を轟かせながら、十台近い数のクルマが「和食処やまぐち」の駐車場へと雪崩れ込んできたからだ。

 傍若無人なその態度。

 それは、まるで暴走族の一団のごとき連中だった。

 煌々としたヘッドライトの流れが一帯を明るく照らし、無闇に甲高い排気音が威嚇するかのようにあたりの空気を震わせた。

 ロータリー・サウンド。

 先頭に立つ銀色のクルマが放つ独特のエンジン音を耳にして、倫子が咄嗟に目を見開いた。

 マツダFD-3S「RX-7」

 日本を代表するピュア・スポーツカーだ。

 生産年度からするといささか古びたイメージを持たれるかもしれないが、その妥協を知らない走行性能と曲線を主体とした美しいシルエットからは、いまだに多くの人々を魅了してやまない不動のカリスマが感じられた。

 その「RX-7」に従者のごとく付き従う複数のクルマたち。

 巨大なリアウイングや車体側面に貼り付けられたステッカーの類が目立つ。

 どれもこれもが典型的な走り屋のクルマらしく、これ見よがしに自らがチューンドカーであることを強烈に主張している。

 彼らは、まるで狙っていたかのように倫子たちのもとへと群がり寄って脚を止め、半ば取り囲むようにしてヘッドライトの光を浴びせかけた。

「『カイザー』だ」

 各々のクルマに張ってあるチーム名のロゴを見て、眞琴が呟く。

「大鳴の走り屋がなんで?」

 その呟きが終わらぬうちに「RX-7」のドアが開き、ほかのクルマからの光線をバックにして背の高い遊び人風の男が姿を見せた。

 年齢は二十台の前半だろう。

 金色に染め上げた頭髪に派手なメッシュを入れ、鼻と耳には複数のピアスを通している。

 その男のことを倫子はよく知っていた。

 芹沢せりざわさとし

 県境にほど近い大鳴山を根城とする走り屋チーム「皇帝カイザー」──いい意味でも悪い意味でも広くその名を知られた集団に、いまトップとして君臨する男の名前がそれだった。

「夜の駐車場でオトコとオンナが何やら言い合ってると思ったら、おまえだったのかよ、倫子。随分と探したぜ」

 膝上までしかないズボンのポケットに両手を突っ込み、芹沢は第一声を口にした。

 他者を見下すように顎をしゃくり上げる。

 攻撃的な印象とは無縁に思える垂れ気味の目尻が却って嫌味たらしく映るのは、彼の全身から放たれる不遜な空気のせいであろうか。

「八神くんだりまでわざわざ脚を運んだ甲斐があったってもんだ。やっぱ、俺たちふたりにゃ『縁』って奴があるんだろうぜ」

「お金持ちのドラ息子がなんの用?」

 眞琴と翔一郎を下がらせるように左腕を振り、倫子は毅然として芹沢と対峙した。

 言葉からすると、どうやら両者は顔見知りの間柄らしい。

 だが、それは双方の関係が友好的であることを意味するわけでは当然なく、むしろその真逆の関係であるらしかった。

 これまでになく倫子の視線が鋭い。

 睨み付けていると評してもいいだろう。

 たちまちのうちに緊張感がみなぎる。

 それは、チームメイトであるはずの加奈子と純が、遠巻きに様子を窺うことしかできないほどのものだった。

「なんだ、この連中?」

 状況を少しでも把握しようとして翔一郎は眞琴に尋ねた。

 小声で。

 彼は、この状況下においてもなお平常心を保っているようだ。

 その声や姿勢に動揺の色は見られない。

 社会人としての場数がものを言っている。

「『カイザー』っていう走り屋のチームだよ」

 変わらない翔一郎の態度に安心してか、眞琴のほうも落ち着いて答える。

「柄が悪いらしくって、地元でも評判が良くないんだ」

「確かにチンピラの同類にしか見えないな」

「でも、速い走り屋だってことも確かなんだよ。特にあの芹沢ってひとは、富士スピードウェイで上位のラップタイムを保持してるそうだから。でもなんで『カイザー』のトップがリンさんを……」

「さあな。そいつを知りたけりゃ、あとで本人にでも聞くしかないんじゃないか?」

 そんなふたりのやりとりなど眼中にないかのごとく、芹沢は倫子との距離を縮めてニヤリと笑う。

 邪悪と言えば言葉が過ぎるが、それと間違いなく同方向に位置する何かを色濃く含んだ笑みだった。

「相変わらず気の強いこった。だが俺とおまえの間柄でそういう言い方はないんじゃないか。そうだろ?」

 ポケットから抜かれた右手が好色そうに倫子へ伸びる。

 「図に乗らないでよッ!」と倫子はその手を払い除けた。

 パシッと短く音が弾ける。

 大袈裟に顔をしかめて、芹沢が叩かれた手をぶらぶらと振った。

 「むかし仕事で付き合ってあげたからって、いまでもあんたのオンナ扱いされたらたまらないわ!」と、嫌悪感をそのまま言葉の槍へと凝縮し、彼女は相手の胸元へと突き付ける。

 顔も見たくない、とばかりにその口元が引き締まった。

 その態度に接した芹沢が、ひゅうと口笛を吹いておどけてみせる。

「俺も随分と嫌われたもんだな」

 小刻みに肩を揺すって彼は言った。

 倫子と芹沢、あるいは「カイザー」との間には、どうもなんらかの因縁がある様子だった。

 それも、できれば他者の介入を許したくない範囲で、だ。

 確かに壬生翔一郎個人としては、三澤倫子という魅力的な女性の過去にそれなりの好奇心を持たないわけでもない。

 とはいえ、彼女自身があえて口を開くのならばともかく、このまま赤の他人が黙って聞き耳を立てているというのもどことなくはばかられた。

 翔一郎は、心配そうに身を乗り出す眞琴を押し込むようにして、まずは加奈子たちと合流する路を選んだ。

 ただし、いざとなったら倫子の身の安全を図らねばならない。

 それが、こちら側唯一の男性である自分が最低限やるべきことだ、と彼はきちんと自覚していた。

 だが、幸いにして芹沢率いる「カイザー」が、倫子とそれ以上の摩擦を引き起こすことはなかった。

 踵を返したリーダーからの命令一下、クルマの群れは続々とこの場をあとにし夜の闇へと撤収していく。

 数分後には、重々しい沈黙だけがあたり一面を覆い尽くしていた。

「ごめんねみんな。不快な思いさせちゃって」

 改めて周りに集まってきた面々に向かい、倫子は憔悴したような声でそう言った。

 事情を説明するのが筋なのは、彼女のほうもわかっていたらしい。

 第三者にほどよく近い翔一郎があえて突っ込みを入れるよりも早く、倫子は芹沢との関係を手短に語り出した。

 彼女はしばらく前、夜の街でアルバイトをしていたことがあったのだそうだ。

 当時、工業系の専門学校へ通っていた彼女にとって、それが学費と生活費とを自分自身で稼ぐための選択であったということに対し、翔一郎たちも異論はない。

 芹沢は、そんな彼女が働いていた店の常連客だったのだ、と倫子は言う。

 両親が地元でも有名な資産家である彼は、倫子のことがよほど気に入ったのか彼女目当てにほぼ毎晩のように店を訪れ、二年に満たない短い期間で高級車が新車で買えるほどの金を落としていったらしい。

 そのせいなのかはわからないが、彼の倫子への執着はいまだ根強く続いているのだという。

「前にいた峠から八神へと移ってきた理由のひとつがそれなの」

 そう締め括ってから倫子は、俯きながら肩を落とした。

「でもみんなには迷惑はかけないから。あいつとは決着をつける」

「決着って、何をするつもりなの?」

 聞き役に耐え切れなくなったのか、加奈子が倫子に詰め寄った。

「バトルよ」

 その質問に彼女は答えた。

「来週の土曜日の夜、あいつとわたしが対戦するわ。八神の表コースでね」

 八神には表と裏、ふたつのコースがある。

 そのうち表コースというのがいましがた翔一郎たちが走ってきたルートのことで、スタート後、若干の登りを経たあとは延々と下り坂が続く、中速コーナー主体のテクニカルな構成となっていた。

 八神のメインコースと言っても過言ではない。

 ちなみに裏コースというのは単純に表コースのスタートとゴールを入れ替えただけのものなのだが、高低の変化がまるで逆になるために攻略面ではまったくの別物であった。

 倫子が表コースを戦場として選んだ最大の理由が、「RX-7」と「MR-S」とのパワー差を極限するためであることは明らかだった。

 先の「シルビア」とのバトルがそうであったように、序盤を除けば下りの続く表コースなら、相対的に非力なクルマでも十分以上に勝機がある。

 これが登り主体の裏コースならば、馬力の差を技術で補うのはかなり難しいこととなるだろう。

 彼女の選択、それ自体に間違いはない。

 だが……

「あんなこと言ってたけど大丈夫かな?」

 帰りの行程で、「レガシィ」の助手席に座る眞琴が不安げにこぼした。

「バトルで勝てば相手は手を引くって話だけど、それってつまり、負けたら相手の言い分を聞くってことでしょ」

 だろうな、と言葉短く翔一郎が答えると眞琴は、理不尽だよ、と声を荒げる。

「リンさんがいくら上手くたって、芹沢のRX-7とMR-Sじゃクルマの差があり過ぎる。噂じゃ、あのFD-3SRX-7は四百馬力以上出てるって話だし、峠の下りが戦場だとしても、あまりにも勝ち目が薄いよ。フェアじゃないッ!」

「でもな」

 一時の眞琴の爆発を最後まで受け止めてから、翔一郎はあくまでドライに言い切った。

「その提案を彼女は受けたんだ。いまおまえが言った諸々の条件を承知のうえで、な。だから、卑怯もへったくれもない。そいつがオトナの世界って奴だ」

「冷たいね、いまの翔兄ぃ」

 反論できずにしゅんとする眞琴の頭をぽんと叩いて、翔一郎はひと言だけ付け加えた。

「三澤さんを信じるんだな」

 無言で眞琴は頷いた。

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