第五話:切り傷だらけのワルキューレ

 その日の午前も終わりに近付いてきた十時過ぎ。

 いったん自宅に帰宅した翔一郎が改めて足を運んだのは、馴染みにしている一軒の「クルマ屋」だった。

 「エム・スポーツ」という名を持つその店は主要国道の沿線に店舗を構えており、店主の人脈が豊富なこともあってか客の入りは上々だった。

「あ、壬生さん。いらっしゃい」

 文字どおり、ふらりと入店してきた翔一郎を、この店の主である水山みずやまが出迎えた。

 年齢は、おおよそ三十代の前半から半ば。

 身の丈は、上背のある身長百八十センチ翔一郎とほぼ同程度。

 肩幅の広いがっしりした体躯を紺の繋ぎに押し込み、どことなくだが、人好きのする愛嬌をその容貌に備えていた。

「この前付けた脚の調子はどうですか?」

 翔一郎に歩み寄りつつ、水山が尋ねた。

「オーリンズのPCVダンパーにスウィフトのバネを組んだんで、乗り心地は悪くないと思うんですけど」

「いいですよ。思った以上に」

 翔一郎が即答する。

「少なくとも、助手席から文句が出たことはありませんね。ゴツゴツ感が消えて、しなやかなフィーリングになりましたから」

「純正のビルシュタインは特に固めの味付けがしてありましたからね。オーリンズも基本的には固い脚なんですけどサブピストンでシリンダーのオイルを制御してますから、減衰特性はずっとスムーズになってるはずです。ちなみに車高を落とした分、コーナリング特性はもっと化けてますよ。壬生さん、ひょっとしてむかしの血が騒いでるんじゃないんですか?」

「よしてくださいよ。もう十年以上も前の話じゃないですか」

 苦笑いを浮かべた翔一郎は、右手を振って彼の発言を否定した。

「ブレーキを強化したのも車高調を入れたのも、基本はドライビングフィールを向上させるためで、それ以上の意味はありませんから」

「ははは。まあ、そういうことにしときますか。今日はATFとリアデフオイルの交換でしたね」

 翔一郎の手から「レガシィ」のキーを受け取り、水山はいったん会話を打ち切った。

 作業指示を出すために、雇用しているメカニックの名を呼ぶ。

 何度かこの店を訪れている翔一郎だったが、それはこれまでに聞いたことのない名前だった。

 事務所に隣接するガレージから短い返事とともに姿を現したのは、上背のあるスマートな女性だった。


挿絵

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 歳の頃は、せいぜい二十代の前半といったところか。

 さっぱりと短くまとめた髪の毛を軽く茶色に染めている以外には、まったくと言っていいほど化粧っけがない。

 にもかかわらず、すっと通った鼻筋と切れ長の目尻とが印象的な、なかなかの美人である。

「壬生さんにはまだ紹介してませんでしたが、今週からウチで働いてもらってる三澤みさわ倫子のりこさんです」

 倫子と呼ばれたその女性は、水山から促されて軽く頭を下げた。

 あまり愛想のいいほうではないらしい。

 翔一郎の名前──壬生という名字が珍しかったためか口の中で再度疑問符とともに繰り返した以外は、まったくの無言だ。

 翔一郎も一礼するが、こちらはきちんと名を名乗る。

 このあたりは、さすがに社会経験の差であろう。

 その後、倫子は水山から言われるがまま翔一郎の「レガシィ」をガレージへと入れ、黙々と整備作業を開始する。

 ほとんど無駄口をたたかずてきぱきと流れるように手を動かす彼女のさまは、まるでベテランの作業員を思わせた。

 とても新人のそれには見えない。

 店外の自販機で購入した缶コーヒーを片手にその様子を黙って眺めていた翔一郎だったが、時間がたつにつれ暇を持て余すことに飽きたのか、唐突に倫子の背中へ声をかけた。

「手慣れたものですね。以前どこか別のショップで働いておられたんですか?」

 仕事柄、プライベートな面々以外には意図して丁寧語を用いる翔一郎の言葉遣いは、客の立場から発せられたものには聞こえない。

 妙な馴れ馴れしさを排除して間に明確な一線を引いているその問いかけに、それまで他者の存在を無視するような熱心さで作業に没頭していた倫子が肩越しに振り向いて答えた。

「趣味で、よくクルマを触っていましたから」

 額の汗を拭いつつ、彼女は言った。

「変ですか? 女なのにクルマが趣味だなんて」

 それは、どこか非難めいた口振りだった。

 確かに、メカニックという世界は世間一般で女性の存在が似合う世界だと思われていなかったし、それはまたある程度の事実ですらあった。

 おそらく、彼女がこの道を自らの意志で選択した時、それをスムーズに受け入れた者は極少数派であったろう。

 なかには明らかな拒否反応を示す連中もいたかもしれない。

 仮に彼女に向けて好意的な態度をみせた面々であっても、その努力評価の先頭に「オンナの割には」という枕詞を付け加えていた人間が大半だったはずだ。

 そんな男世界の真っ只中、倫子がどれだけの努力をこなしてきたのかは、その両手を見るだけではっきりとわかる。

 同年代の女性たちには決して付かないであろういくつもの火傷や切り傷の跡が、その油に汚れた両手には克明に残されていたからだ。

 その存在を見て取った翔一郎は、「男だろうが女だろうが、好きなものは好き、でいいんじゃないですか」と答えた。

「あくまで個人の趣味なんだから、あまり余所さまの目を気にしていてもそこは面白くないでしょう。クルマ好きの女性、僕は全然アリだと思いますけどね。

 実は僕の知人にもひとり、クルマ関係にハマっている女の子がいるんですよ。まあ、女の子と言うよりは小娘とでも言ったほうがぴったりくるタイプではあるんですが」

 身振り手振りを加えながら、翔一郎は倫子に語る。

 最初は、なんだコイツ、とでも言いたげな眼差しを向けていた倫子だったが、しばらくすると、徐々にではあるが話の内容に耳を傾け出してきた。

「わたしの知り合いにもいますよ、そういった

 気のせいか、どこか気恥ずかしそうに倫子は言った。

「まだ高校生なんですけど、ウチのグループによく遊びにきてるんです。見ているこっちが元気になりそうな、そんな明るい女の子ですよ」

「へェ」

 まるで眞琴のようだ、と内心で思いながら翔一郎は相槌を打った。

 そして、「高校生、それも女の子が興味を持ってくれるようなら、この業界も安泰だ」という言葉を口にしたあとで、さらにもうひと言を付け足した。

「願わくば、そういったが走り屋なんかを目指さないよう祈るばかりです」

「走り屋のことは、お嫌いですか?」

 ふと表情を曇らせて倫子が尋ねた。

 ひと呼吸置いて翔一郎はそれに答える。

 どこか影のある口振りだった。

「少なくとも、世間一般に胸を張れる存在じゃあないでしょう」

 彼は言った。

「いくら格好付けたところで、しょせんは暴走行為の実行者に過ぎませんから」

「そうでしょうか」

 倫子がそれに反論する。

「クルマの『走り』、あるいはその『速さ』を追求しようする彼らの姿勢は、もっと前向きに評価されてもいいと思うのですが」

「そうですね」

 そんな倫子の言葉を、意外にも翔一郎は極あっさりと受け入れた。

「そのあたりは、単なる見解の相違って奴でしょう。言い過ぎました。よかったら、さっきの発言は忘れてください」

 そう倫子に告げた翔一郎は、「じゃあ」と軽く右手をあげて踵を返した。

 まるで何かに追われているかのような、何かから逃げ出すかのような、そんな素振りだった。

「あの」

 足早に作業場をあとにしようする彼の背中を、倫子が不意に呼び止めた。

 彼女は、肩越しに振り返った翔一郎に向かってためらいがちに言葉を発する。

「壬生さん。ひとつだけ、個人的な質問をしてもよろしいでしょうか?」

 そして、足を止め身体ごと倫子と向かい合うことで承諾の意を表した翔一郎に対し、彼女は、意を決したかのごとくこう問いかけたのであった。

 「あなたもしかして、『ミッドナイトウルブス』のミブローさんなのではありませんか?」と。


挿絵

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