一章:ロードレーサー
第一話:三十路男とボク娘
表紙
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「起きろ、
身体を激しく揺さぶられ、
低血圧気味なボケた頭が、今日は休暇日であることを思い出す。
伸びた右手が目覚まし時計を枕元から掴み取った。
針が指し示しているのは午前の七時三十分。
冗談ではない。
「誰だよ、こんな朝っぱらから」
不機嫌そうに寝癖頭を引っかきまわし、翔一郎はその無慈悲な襲撃者の姿を半開きの左目で睨み付けた。
最初に見えたのは、すらりと伸びた長い脚だった。
柔らかな曲線を描く、若い女性の大腿部。
まるで、瑞々しさのいっぱい詰まった取れたての野菜だ。
そのまま視点を上げていく。
チェックのスカートに白い半袖のブラウス、シンプルなワインレッドのネクタイへと行き着いた。
間違いない。
市内にある某私立高校の制服である。
「なんだ、眞琴か」
制服の主が誰であるのかを迅速に察した翔一郎は、なんとも面倒臭そうに上体を起こした。
続けざま、ぐっと大きく伸びをうつ。
ふぁー、と大きく生あくび。
デスクワークで凝り気味の肩を軽く回してから、不満げにその口先を尖らせた。
挿絵
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「おまえな。日々の労働で疲労している俺のことを少しは思いやってだな、休みの日ぐらいは昼まで寝かせといてあげよう、なんて殊勝な気は起こさんのか?」
「翔兄ぃ。まだ三十代前半なのに、疲れてるぅ~、なんてオヤジ臭いこと言わないでよね。そのうち禿げるよ」
両手を腰にあっけらかんとそう言い放ってみせたのは、壬生家の隣に住む三人家族、猿渡家のひとり娘である
来年卒業の私立高校三年生。
好奇心いっぱいの大きな瞳と人好きのする整った顔立ち。
少々跳ね返りの強い栗色の髪を、頭の後ろでポニーテールにまとめている。
衆目を集めるという点ではいささかパンチ力に欠けるが、まずまずの美形だと言っていいだろう。
少なくとも、同年代の男性が否定的見解を示す容貌ではない。
そんな娘が自分を起こしに来るという状況。
あまりにも芝居掛かっていて、羨ましがる者もそれ相応にはいるだろう。
ただし件の三十路男は、その類型に含まれてはいないようだ。
毎朝これじゃあ、たまらんな。
声には出さず、翔一郎は愚痴った。
まあ、彼氏のひとりでも出来りゃあこいつも随分変わるんだろうが、その時のためにも、一度ガチンと言ってやらなきゃいかんかもな──…
隣家の住人がそんな心配をするくらい、壬生家と猿渡家との付き合いは長い。
もう二十年近くになる。
眞琴が生まれた時、翔一郎は入学したばかりの県立高校一年生で、共働きなうえに帰宅の遅い猿渡夫妻になり代わり、随分と長い間、幼い彼女の面倒を見続けてきた。
まあ、歳こそ大分離れているが、兄妹みたいな関係だと言っても間違いはあるまい。
そんなわけだから、翔一郎が眞琴の「女性」を意識するような機会は、これまでなかったと言っていい。
いいのであるが、ここ数年、「男」のテリトリーに堂々踏み込んでくる彼女の態度に対しては、少しばかり辟易しているというのもまた事実だった。
「ほらほら。朝御飯の準備はとっくのむかしに出来てるんだから、つべこべ言わずにとっとと起きる。早くしないと、せっかくのお味噌汁が冷めちゃうでしょ。急いだ急いだ」
「わかったわかった。わかったから、そう急かすな。あと三分、いやあと五分ほど待ってくれ」
「も~。往生際が悪いぞ、翔兄ぃは」
悪あがきする三十路男を、少女がじと目で
「いつまでたってもそんなだから、いまだに彼女のひとりも出来ないんだよ。少しは真面目に自己反省してみたらどう?」
「自己反省って、おまえなァ」
「だってそうじゃない。毎朝毎朝、誰かに起こされないとベッドから離れられないなんて、まるで小学生の子供だよ。そんな
呆れたように眞琴が言った。
「だいたいさ。ボクがいないとまともな日常生活も送れないくせに、なんで翔兄ぃは、いつもそんなに偉そうなわけ? はっきり言って、自分の立場をわきまえてないとしか思えないんだけどな」
「偉そうなのは、そっちのほうだろ」
いらだち気味に頭をかきつつ、翔一郎は眞琴に言った。
「おまえ、いつから俺の保護者になったんだ?」
「翔兄ぃが骨折して入院した時からだよ」
「ハァ!?」
「おぼえてないの? もう何回も言ってると思うんだけどな」
鼻白む三十路男を前にして、少女は傲然と胸を張った。
「ほら、翔兄ぃが大学生のころ、足の骨折って入院したことあったじゃん。ボクはね、あの時に
「そんな社交辞令を真に受けたのか……」
こめかみを押さえ、その場で俯く翔一郞。
「たとえ社交辞令でも、正式な権利は正式な権利です。翔兄ぃに拒否権はありません。以上」
「ハァ……さいですかさいですか……」
「じゃあ、翔兄ぃも自分の立場を理解したことだし、ボクは先に下行ってるね。翔兄ぃは、可及的速やかに自分の義務をまっとうすること。わかった? わかったら返事!」
「イエス・マム」
足音も高らかに階下へと消えていくポニテの少女。
その背中を無言で見送り、翔一郞は深々と、そう本当に深々とため息を吐いた。
ああ、なんでこんな風になっちまったのかね──…
彼の毎日は、おおむねこんな感じでスタートするのが常だった。
このあとは、せきたてられるように顔を洗ってひげを剃り、きっかり三分間の歯磨きが終わったら、順序は逆だが朝食の時間だ。
作るのは、襲来者である眞琴の仕事。
パン屋を営む翔一郎の両親は、帰宅も早いが出勤も早い。
午前四時前には繁華街に構えた店のほうへと向かうので、仮に彼女の存在がなかったとしたら、翔一郎の毎日から暖かい朝食というものは完全に消え失せてしまっていたことだろう。
「いただきます」
畳の上に胡座をかいた翔一郎が、食卓に向かって両手を合わせる。
何かと忙しい両親の分と、ひとり暮らしに近い翔一郎の分。微妙に違うふたとおりの食生活を年中管理しているせいか、眞琴が身に付けた料理の腕前は相当のものだ。
見るからに活発そうな外見とは、完全無欠に裏腹である。
目の前に並べられた献立も、炊きたての白いご飯に豆腐の味噌汁、温泉卵に自家製の糠漬けという和風メニューの定番なのに、不思議と舌を飽きさせない。
「ごちそうさん」
「どういたしまして」
夫婦のごとき会話を最後に、朝食は終了。
なお、翔一郎が箸を口へと運んでいる間、眞琴のほうは、それを楽しげに眺めているだけだ。
大分前にそのことを疑問に感じた翔一郎が「おまえは食べないのか」と尋ねたところ、「もう済ませてきた」という明確な返答を受け取ったそうな。
「八時か」
ふと気が付けば、もうそんな時間。読んでいた朝刊を脇に置き、エプロン姿で朝食の後片付けをしている眞琴に向かって、翔一郎が声をかける。
「学校大丈夫か。いつもなら、もう出てる時間だろ」
「送ってってよ、翔兄ぃ」
振り向きざま、単刀直入に彼女は答えた。
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